ペルソナ5 明智兄妹の事件簿   作:かっぱえびせん

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第一話 一色若葉

 窓の外の空には、薄雲のブランケットがかかっていた。

 くすんだ雲の切れ間から、淡く陽の光が差している。優しく吹く風が、キャンパスの端にあるアメフトグラウンドから、選手たちのかけ声やホイッスルの音を運んでくる。

 

 大学の研究棟、その三階の一室。

 若葉は窓際の椅子に腰かけ、静かに資料を読み進めていた。

 

 膨大なデータの海に没頭する若葉の耳に、ドアを軽やかにノックする音が届く。

 

「どうぞ」と口にするのとほとんど同時に、扉が開いて人影が部屋に飛び込んできた。

 

「あっ、やっぱり先輩、まだここにいた」

 

 懐っこい笑みを浮かべながら入ってきたのは、医学部の後輩の女の子だった。

 

「もう三時ですよ、お腹減ってるんじゃないですか」

 

 彼女はちょこんと小首を傾げる。そうすると、ふんわりとしたミルクティー色の髪が肩先で揺れた。

 

 ぱっちりとした大きな目の、アイドルみたいに可愛い子。どこへ行っても人目を惹く容姿に加えて愛想もいい。

 そんな彼女は、若葉にとって気のおけない友人だった。

 

 若葉は自然と笑みを浮かべながら、

 

「お腹減っているのはあなたじゃないの?」

「ふふっ。ばれちゃいました? もうお腹ぺこぺこで」

 

 期待するように見られて、若葉は手の中の資料を机に置いた。

 

「仕方ないわね、ご馳走してあげる」

 

 

 ピークの昼時を過ぎた食堂には、ちらほらと学生の姿があるだけだった。

 トレイの上の親子丼が冷めていくのも構わず、若葉は熱心に話していた。

 

「──結局、これが最適化の限界なの。あとはもうハードのスペックを上げるしかないけれど、現実的じゃないわ。この処理には、世界有数のスーパーコンピュータを持ってしても天文学的な時間がかかる」

 

 口の中のものを飲み込んでから、後輩は答える。

 

「理論的には正しいはずなのに、再現できないのはもどかしいですよね……。いっそ量子コンピュータが使えたらいいのに」

「もう、適当なことを言って。そんなの実用化される頃には、私たち二人とも、おばあちゃんよ」

 

 呆れたように言いながらも、若葉の声にはどこか楽しげな響きが混じっていた。

 

 目の前の彼女は、本当に賢い子だと思う。

 一を聞いて十を知ることのできる頭の回転の早さ。それに加えて、革新的な理論も否定せずに考察するだけの柔軟性がある。

 

 分野が違っていても臆せず、むしろ面白がって理解しようとする。

 医学部にいながら、極めて専門的な数学的難問の話も理解できてしまう生徒なんて、そうそういない。

 

「やだ、先輩ったら。私たちまだ二十代ですよ。もっと未来に希望を持ちましょうよ」

 

 彼女は、若葉の言葉にけらけらと笑った。

 

「そうだけど……って、あれ、もう二十歳なの?」と若葉は驚く。

 

 まだ医学部二年の彼女と博士課程にいる若葉では、年齢にそこそこ開きがある。確か六つは年が違ったはずだ。

 

「はい……といっても、つい先月になったばかりですけど」

「そうだったの、おめでとう。ごめんね、ちゃんとお祝いしてあげられなくて」

「いつも先輩にご馳走になってるのに、そんなこと気にされちゃうと、こっちが申し訳なくなっちゃいますよ」

 

 おどけるように笑ってから、彼女はふいに目を伏せた。

 

「成人したと思うと、感慨深いんですけど……でも、具体的に何かが変わったって感じは、あんまりないんですよね」

「気持ちはわかるわ。私なんて、ずーっと大学で学生をやってるのよ? ここ数年、誕生日なんて、気づいたら研究室の中で過ぎてて、『あっ、また一つ年取ったんだ』って感じ」

「あはは、私も同じようなものですよ。高校の時は受験勉強、入学してからも勉強とアルバイトで、なあんにも変わり映えないんですよね」

 

 そう物憂げにそう言ってから、彼女は小さく微笑んだ。

 

「そういえば今日の夜、サークルの飲み会があるって聞いてて。全然顔出せていなかったけど、久しぶりにいいかなって。やっとお酒も飲める年になったわけだし」

「うん、いつも頑張っているもの。息抜きも大事にしなきゃ」

「あれっ、先輩がそれ言っちゃうんですか?」

 

 彼女はいたずらっぽく首をかしげた。

 返す言葉もない若葉は、苦笑するしかない。

 

「最低限の睡眠と栄養はちゃんと取ってます」

 

 そんな言い訳を口にしながら、若葉はスプーンを手に取って、すっかり冷めた親子丼をすくいあげた。

 

 

 

 ──だけど、その日を境に、後輩は大学から姿を消した。

 

 最初のうちは体調不良かと思ったけれど、一週間、二週間と経っても戻ってこない。心配になって何度か連絡をしたが、返ってくるのは決まって「ありがとうございます。すぐに帰ってくるので、心配しないでください」という短いメッセージだけ。

 

 結局、彼女と次に会えたのは一ヶ月も経ってからだった。

 

 もうとっくに講義も終わり、廊下に人影もない静かな夕方。

 人目を避けるような時間に、彼女は若葉を訪ねて研究室に来た。

 

「お久しぶりです、若葉先輩」

 

 きちんと施されたナチュラルメイク、明るい表情、いつもと同じアイドルみたいな雰囲気。

 でも、どこか薄皮一枚で覆われたような違和感がある。

 

 気遣わしげにする若葉を見て、彼女は申し訳なさそうに笑った。

 

「いきなり休んじゃったから、みんなに迷惑かけちゃったみたいで、ごめんなさい」

「いいのよ、そんなこと気にしなくて。具合はもうよくなったの?」

「はい、ちょっと体調を崩しただけです。これぞ医者の不養生……って、これを言うのはさすがに気が早いですね」

 

 そうやって冗談を言いながら、彼女はいつもと変わらない様子で話し続けた。

 講義の話、教授の面白い癖、サークルのこと──けれど、そのひとつひとつが浮ついたように軽くて、落ち着きがなくて、まるで沈黙が怖いみたいだった。

 

 何かよくないことがあったのだと、若葉は確信した。

 今の彼女は、まるで日常を再現することで必死に何かを取り戻そうとしているかのようだった。

 

 ふと話が切れて、沈黙が降り立つ。

 彼女がなにか口にする前に、若葉は小さく息を吸ってから、静かに問いかけた。

 

「──ねえ、何かあったのよね?」

 

 彼女の赤い瞳が、かすかに揺れた。

 それが、助けてという無意識のサインに思えた。彼女はきっと、若葉に異常に気づいて欲しくてここにきたのだ。

 

「先輩……」

 

 彼女のくちびるがわずかに開いた。なにか言いかける。だけどその時、

 

「──う、くッ……!」

 

 突然、胸を押さえ、その場にうずくまった。

 

 若葉は慌てて駆け寄って、崩れ落ちた体を支える。

 そして、指から伝わってくる震えが治るまで、彼女の背中をさすった。

 

 呼吸がやっと落ち着いた後、彼女は即座に立ち上がった。

 

「ごめんなさい……やっぱりまだちょっと具合が悪いみたいです。もう帰ります」

 

 逃げるように扉へ向かう背中に、引き留める隙はない。

 だけど最後に、若葉は切実な声をかけた。

 

「私にできることがあったら、なんでもいいの。必ず言ってね」

 

 振り返った彼女は、まぶしそうにこちらを見たあと、微笑んだ。

 

「はい……先輩、ありがとうございます」

 

 その時、心のどこかで、若葉は気づいてしまった。

 この先、彼女と会うことはないのかもしれない、と。

 

 元の人生を選ぶべきか、吹っ切るべきか、きっとそういう決断をするために彼女はここに来た。そして、賽は投げられたのだ。

 

 昔から、若葉は嫌になるくらい人の感情が読めてしまった。

 だから今も、これ以上何を言っても無駄なのだと分かってしまう。何か言いかけたあの時が、最後のチャンスだったのだ。そして、あの瞬間はもう戻ってこない。

 

 その予想は当たった。翌日、彼女からこんなメールが送られてきた。

 

『ここ一ヶ月悩んでいたのですが、大学を辞めることにしました。若葉先輩、今まで本当にありがとうございました。いっぱい心配をかけて、ごめんなさい。でも、私はやりたいことを見つけたから、大丈夫。私、幸せになります』

 

 ──私、幸せになります。

 そのメッセージを最後に、彼女は姿を消した。大学の人間とはすべて連絡を断って、どこか遠くへ引っ越したのだと風の噂で聞いた。

 

 それ以来、もう、彼女と二度と会うことはなかった。

 

 

 人の記憶とは、本当に不思議なものだと若葉は思った。

 長い間、心の奥の棚で埃をかぶっていた記憶が、ほんの些細なきっかけで、何の前触れもなく飛び出してくる。

 まるで古い写真が風に舞い上がって、目の前にひらひらと落ちてきたかのように。

 

「あの……?」

 

 少年の声に、若葉ははっと我に返った。

 

 立派な石造りの門前で、彼はどこか戸惑ったような目をして、若葉をまっすぐに見ていた。

 

 赤みがかった瞳と、艶を帯びたやわらかな茶髪。

 その幼い輪郭の中に、若葉は知った顔を見つけたのだ。目鼻立ちや細かな表情の作り方──そのひとつひとつが、まるであの子の影をなぞるかのようだった。

 

 他人の空似。そう割り切ればいいのに、どこか落ち着かない気持ちになる。

 でも、今ここに来た目的を見失うわけにはいかない。

 

「朝早くにごめんなさい。この家のお子さんかしら?」

「はい。失礼ですが、あなたは……?」

 

 若葉は名刺を出そうと手を伸ばして、ポケットが空なのに気づいた。研究所を慌てて出てきたのだから、仕方がない。

 

「私は一色若葉といいます。精神医学の臨床研究をしていて……その関係で、少しお話を伺いに来たの」

 

 目の前の少年は、いまいちピンと来ていない顔をしている。小中学生からすると、「精神医学の臨床研究」なんて、馴染みのない言葉なのだから当たり前かもしれない。

 

 だけど、それだけじゃない。赤色の瞳の奥には、こちらを見定めるような慎重さが見え隠れしていた。

 

「単刀直入に聞きます。十一月三十日の午後四時ごろ。それか、一昨日の十二月一日、午後八時四十分ごろ。この時間に、おうちにいた人がいるか分かる?」

 

 一瞬だけ、間があった。けれどすぐに彼は返事をする。

 

「えっと……すみません、何のための確認なのか、お聞きしても?」

 

 眉を下げて、困ったように笑ってみせる。計算された、自然な困惑。

 この子にはなんの心当たりもないのだと、誰もが納得させられてしまうような所作だった。

 

 ──だけど、違う。

 二つの時間を口にしたその瞬間、彼の身体はほんのわずかに前のめりになった。この子は、明らかにこの時刻に心当たりがある。

 誤魔化されたのは、どうしてだろう? 怪しい人間だと思われてしまったのだろうか。

 

「ちゃんと理由を話すには、少し時間がかかるのだけれど……」

「でしたら、立ち話もなんですから、中で話しませんか?」

 

 意外なことに、話を聞くのには乗り気らしい。彼はそう言うと、家の方を見た。

 

「その方が助かるけど、おうちの人は大丈夫なの?」

「はい。今日は父は留守にしていますし、妹は寝ているだけなので」

「それなら、お邪魔させてもらうわ」

 

 二人は庭のレンガ道を歩いて、玄関まで向かう。

 その中の会話で、この男の子は明智吾郎という名前だと知った。そして研究所で話に出た真理子という少女は、彼の妹らしい。

 

「どうぞ」

 

 吾郎はさっと玄関のドアを開け、若葉が中へ入るのを待った。 大人びた──いや、背伸びした所作だ。

 

 なんとなく──この子に本当のことを話してもらうのは大変だろうな、と若葉はそう思った。

 

 


 

 

 努めて表情に出さないようにしていたが、吾郎はあらゆる神経を働かせていた。

 

 一色若葉と名乗るこの女性が口にした時刻は、真理子のシャドウが吾郎によって撃たれた時と、そして啓次のシャドウが真理子によって首を落とされた時を指している。異世界から帰還した時に確認した時刻と照らし合わせると、そうとしか考えられない。

 

 ──何者だ? 例え岡倉の寄越した人間だとしても、一度目の時間を当てることはできないはずだ。

 

 吾郎は、もう一度若葉を見た。

 

 艶やかな黒髪をまっすぐ切りそろえた、ボブカットの女性。

 遠目では若く見えるが、肌や声音からすると、年齢は四十そこそこといったところか。黒縁メガネの奥の瞳は、知的そうな印象を与えた。

 

 岡倉の仲間のようには、とてもじゃないが見えなかった。

 もし若葉が本当に研究者なのだとしたら、あの異世界は精神医学を持ってすれば観測可能な場所ということになる。

 だとしたら、啓次を廃人に置いやった犯人だと当たりをつけて、こうして鎌をかけているのか?

 

 目まぐるしく考えながらも、吾郎はあくまで穏やかな顔を保っていた。

 

「外は寒かったですよね」

 

 若葉をリビングに案内しながら、吾郎はフローリングを見て笑顔を引き攣らせた。

 

 床のあちこちに、土足で歩きまわったような黒ずみが残っている。

 救急隊が駆けつけ、警察が捜査に立ち入った後、そのままになっていた。

 

 話を聞き出すために彼女を家に上げたことを、少しだけ後悔する。近くのカフェでも話ぐらいはできた。

 

 だけど、起きた時自分がいなければ、真理子は心配するはずだ。なんとなく真理子に責任のようなものを感じて、勝手に出かける気にはなれなかった。

 

「昨日、荷物を運び出すために人を呼んでいて。すみません、片付いていなくて」

「スリッパを出してくれたから大丈夫よ、気にしないで」

 

 そんな会話をしながら、テーブルを囲う席につく。

 

 若葉はツイードジャケットを脱いで、背もたれにかけた。

 すると、彼女は下に着ていた白衣だけになる。

 

 この寒い日に、なぜそんな格好で来たのだろう? 

 かなり気になったが、初対面の相手に無粋だと思い、吾郎は黙っていた。

 

「紅茶でよければ、ありますけど」

「ええ、ありがとう。いただくわ」

 

 客相手に茶の一つも出さないわけにもいかず、キッチンへ向かう。

 だけど、実のところ、勝手がわからなかった。

 この家で、お茶を淹れたことは一度もない。手順も分からないし、どこに何があるかもあやふやだ。

 

 と、ガラスの食器棚に真理子が飾っていたティーセットが目に入った。それを取り出して、紅茶を見様見真似で淹れてみる。

 

「ありがとう、美味しいわ」

 

 結局、注いだ紅茶はずいぶん薄くなってしまったが、若葉は優しく微笑んでいた。その面倒見のいい態度から、どこか母親らしさを感じた。もしかしたら子どもがいるのかもしれない。

 

「まずは、“認知訶学”という学問について、聞いてくれる? 科学の“科”じゃなくて、摩訶不思議の“訶”って書くの」

 

 そう前置きしてから、若葉は話し始めた。

 認知訶学というまだ知られていない新しい学問のこと、その研究所が観測している精神世界の揺れ動き。

 

 若葉のことを疑いながら聞いていた吾郎も、自然とその語りぶりに引き込まれる。

 彼女の解説は、一長一短の嘘ででっちあげられるようなものじゃない。

 

 明快で、迷いがない。何度も人前でプレゼンテーションを重ね、その度にもっと分かりやすいように修正してきたような、そんな研ぎ澄まされた語り口だった。

 

 それに、十代そこそこの子ども相手でも情報を分かりやすく伝えようという意思があった。

 質問を挟むたびに、彼女はきちんと順序立てて教えようとする。

 相手が子どもだからといって、侮っているところがない。吾郎が今まで会ってきた大人とはどこか一線を画す態度だった。

 

「長々とごめんなさいね。ここからが、本題なの」

 

 紅茶にそっと口をつけながら、若葉はそう言った。

 

「実際にエネルギー爆発があったのは二回。一度めは、ここの住宅街付近から検出されたわ。ただ候補になる住戸は百をくだらなかったし、ピンポイントでどこで起きたのかは誰にもわからなかった。それで急遽、東京全域に張っていたセンサーをすべて、吉祥寺に限定して観測することにしたの。同じことを観測できるのは望み薄だと思っていたけれど……一昨日、二度めの爆発が起きた。さっきも言ったように、時刻は午後八時四十分。その時爆発の中心にあったのは、まさにこの家なの」

 

「……その時間は家にいましたが、特にこれといってなにか感じたりはしなかったですね」

 

「そうね。認知世界──肉眼では観測不能な場所で起きたことだし、無理もないわ」

 

 若葉は、当然だと言うふうに頷いた。

 

「だけど、本気で警告しているの。私たちはいくつかの指標をもとに、危険な精神活動を察知できる。でも、今まで一度も──いいえ、おそらく他のどの研究所でも、ここまでの異常値が観測されたことはない。だから、その日家にいた人たちには、私たちの研究所に検査を受けに来てほしい」

 

 極めて危険な精神活動──その末路がまさに、あの廃人状態だと言えるのだろう。

 

 若葉は、啓次が今どんな状態にあるのか知っているのか?

 

 いずれにしろ、このことにどう対応するかは、真理子も交えて決めることだ。それに、認知訶学や若葉自身のことについて裏どりしなければいけない。

 

「そう言われると、確かに心配です。でも……」

 

 吾郎は少し怖がっているような、それでいて信じきれないという表情を作る。

 それを見て、若葉は安心させるように大きく頷いた。

 

「いきなり見知らぬ人間が健診を受けて欲しいと言っても、難しい話なのも分かるわ。まずはご家族と話し合ってみて。私の研究所の名前は、書き留めておくから。メモ帳はあるかしら?」

 

 メモ帳を手渡すと、若葉はすらすらと連絡先を書いた。

 

「ありがとうございます。また連絡します」

 

 そんな保留めいた返事でも気を悪くせず、若葉は穏やかに頷いた。

 難しい話はこれでおしまいというふうに微笑むと、「吾郎くんは中学生なのかしら?」と聞いてきた。

 

「はい、中学三年生です」

「三年生……っていうことは、九十八年か九十九年生まれかしら?」

 

 少しの躊躇いもなく、吾郎は「九十八年です」と答える。

 こういう小さな綻びで嘘を見抜かれることがある。吾郎はしっかりと真理子の兄のプロフィールを頭に叩き込んでいた。

 

「じゃあ、来年は高校受験の年かしら?」

「そうですね。まだ願書は出していないですけど、準備はしています」

 

 カップを口に運びながら、他愛もない世間話をしばらく交わした。

 その中で、さきほど思ったとおり、若葉に娘がいるらしいということも知った。

 

「……そろそろ、お暇しなきゃね。話を聞いてくれて、ありがとう」

 

 おかわりしたお茶もなくなった頃、若葉は椅子を引いて立ち上がった。

 玄関で靴を履きながら、短く別れの挨拶を交わす。そしてドアノブに手をかけたところで、突然、「あっ」と声を上げる。

 

「聞き忘れていたのだけれど、調査記録を取りたいから、この家の周辺をもう少し調べていてもいいかしら?」

「はい、もちろん構いませんよ」

 

 吾郎は即答した。

 家の周りは公道だし、ここで断るのも角が立つ。何より、彼女の口にする認知訶学の調査が具体的にどういうものなのか、自分の目で見てみたかった。

 幸い、夜になるまで帰ってこれないと森岡から連絡がきていたし、問題にはならないだろう。

 

 

 三階の自室に戻った吾郎は、カーテンの隙間からそっと外を覗いた。

 

 家の前の歩道に立つ若葉が、道端に置かれた大きなリュックを開いている。

 中から取り出されたのは、くの字型の金属棒だった。

 一見するとダウジングロッドのようにも見えるが、手元のグリップは無骨で、先端には小さな球状のアンテナのようなものがついている。

 

 ──はっきり言って、傍目には不審者そのものだ。

 

 こんな住宅街で金属の棒を構えながら家をうろついていたら、通報されても文句は言えない。

 

 だが、若葉本人はまったく気にした様子がない。

 表情は真剣そのもの。凄まじく集中した顔をしながら、ゆっくりと家の外周を回っていく。そして立ち止まっては、棒の先端を家の壁や窓に向けていた。

 

 勝手にもっとSFじみた装置を期待していたせいで、少し期待を裏切られた気分になる。

 

 そのまましばらく調査の様子を観察していたが、同じ作業の繰り返しに飽きてきた。これ以上見ていても仕方がないと、吾郎は窓から目を離す。

 

 ……それにしても、あんな地味な作業を続けなければいけないなんて、研究者とは大変な仕事である。

 

 そんなことを思いながら机に座ると、ノートパソコンの電源を入れる。

 一色若葉と、彼女の所属する研究所について、調べる必要があった。

 

 

 吾郎は、できる限りの情報を集めては、ひとつひとつ精査していった。

 専門文献が読めるデータベースの多くは有料だったが、勝手に啓次のクレジットカードを使って突破する。今さら咎める者はいない。

 

 そろそろ調べ尽くしたか、という頃になって、部屋のドアをノックする音が響く。

 

「開けていいよ」

 

 そう声をかけると、ドアが静かに開く。

 立っているのは、パジャマ姿の真理子だ。寝起きなのか、髪が少し乱れている。

 

「吾郎くん……家の周囲に不審者がいるんです」

 

 窓辺まで真理子は歩いてきて、「ほら」と外を指差す。

 

「吉祥寺の住宅街に金脈が眠っているなんて聞きませんし、いったい何をしているのでしょう」

 

 ──まさか、まだ外にいるのか?

 

 若葉と会話してから、ゆうに一時間は経っている。

 吾郎は半信半疑のまま彼女の隣に並んで、カーテンの隙間から外を見た。

 

 そのまさかだった。さっきと同じ調査機器を両手に持ち、若葉は家の周囲を回っていた。通行人の視線も気にする様子もなく、時間をすべて研究に捧げている。

 

「警察、呼んだ方がいいですよね……?」

 

 真理子は不安そうにそう聞いてきた。

 正直、もし先ほどの会話がなければ自分も同意していただろう。

 

「……いや、その必要はないよ。身元ははっきりしている人だから」

 

 吾郎はパソコンを手元に引き寄せ、画面を真理子に向けた。

 そこに映っているのは、「精神医学の新領域・認知訶学を牽引するのは、美しき女性研究者」と見出しのついた新聞記事。

 

 紙面には、まさに今外にいる若葉の写真が載っていた。

 それと合わせて、彼女との会話の要点──異世界が崩壊した時間が完全に特定されたことを伝えると、真理子は言葉を失った。

 

「まさか、あの異世界で私たちが何をしていたか見えていたんでしょうか?」

「……さあね。それを確かめるためには、彼女の提案に乗るしかない」

 

 真理子は黙って頷いたが、その瞳にはわずかに陰りが差していた。

 若葉がどこまで知っているかによっては──啓次が廃人になったこと、そしてその原因までもが、すでに彼女の中で見当がついているかもしれない。

 

「こっちから何か情報を与える必要はない。彼女の口から、情報を引き出すんだ」

 

 不安そうな真理子の顔を見て、吾郎はつけ加える。

 

「君があの時間、家にいたことは言ってない。僕だけが健診っていう体で、彼女に接触することもできる」

 

 だけど、真理子は迷いなく首を振った。

 

「いえ、お気遣いなく。私も行きます」




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