吾郎はケータイを左手に、若葉に電話をかけた。
「あら、吾郎君。さっきぶりね」
数コールもしないうちに、彼女は電話に出た。
通話の音声に、ホームに滑り込む電車の音と、アナウンスが混じっている。どうやら、まだ移動中のようだ。
吾郎は、手短に用件を伝える。
十二月一日の夜、家にいたのは自分と妹だけだったこと。そして、二人とも健診を受ける意思があるということ。
「よかったわ。なんなら、健診は今からでもいいのだけれど」
若葉はさらりと言ったが、吾郎としてはもう少し情報を整理しておきたかった。
「今日は時間が空いてなくて……明日の朝に伺ってもいいですか?」
「ええ、もちろん」
話はすぐにまとまった。
彼女の一存でここまで決められるということは、若葉は研究所では上の立場にいるのだろう。
別れの挨拶をして通話を切った後、吾郎はケータイをじっと見つめる。
今のところ、という注釈を加えれば、若葉は至ってまともな人間のようだ。
異世界ナビで反応が出るかどうか、さきほど念の為に試したが、一色若葉という名前はヒットを返さなかった。
だが、人は誰でも必要な面だけを見せて生きている。
どんな“裏側”があってもいいように、覚悟しておかなければいけない。明日は、決して気の抜けない一日だ。
画面を閉じようとして、ふと通知欄に目が留まった。
非通知の番号から、ずらりと並ぶ不在着信。
時刻を見ると、一昨日の夜──ちょうど啓次のパレスにいた間に、二十件以上も連続でかかってきている。
一体なんだ? と疑問に思っていたその時。
「あっ……! このティーセット、使っちゃったんですか?」
不意に背後から飛んできた声に、思考を断ち切られる。
振り返ると、オープンキッチンに立った真理子が、シンクに置かれたカップを憮然とした顔で見ていた。
「さっき一色さんが来た時に使わせてもらったけど、ダメだった?」
「これはコレクション。使うためにあるものじゃないんです」
真理子は両手でそっとティーカップを持ち上げて、小さくため息をついた。
吾郎は、食器棚に目を向ける。
ガラス戸の向こうに、色とりどりのカップが丁寧に並べられている。
上段から下段まで、整然と並んだティーカップの数々。金縁のもの、花柄のもの、細工の入った磁器──どれも、真理子が海外で買い集めてきたものだ。
「じゃあ、どれを使えばいいのかな?」と、吾郎はわざとらしいほど優しい声音で聞く。
ただ見せびらかすためにあるなら、そんなものキッチンの近くの棚に入れるな。そう言外に文句を言うも、真理子はどこ吹く風だ。
「あれは全部、観賞用です。どれも使っちゃダメ」
そう堂々と言った後、ふと躊躇うように視線を落とした。
「あの……そういえば、話したかったのはこんなことじゃなくて」
「なに?」
「昨日、夢を見ましたか?」
そう問われて脳裏によぎるのは──青い部屋と、真理子のシャドウの姿をした自称案内人。
実のところ、起きてからずっとあの夢のことが気になっていた。
真理子も覚えているのか確かめたかったが、唐突にそんな話を切り出すのもためらわれて、黙っていた。
「……見たよ」
「そう。どんな?」
「深海みたいな雰囲気の、青い音楽部屋にいる夢を見た」
真理子はパッと顔を上げた。
「もしかして、銀太と名乗る子どもがいませんでした?」
「いた。──いや、銀太は君がつけた名前だよね」
「そういえばそうでした。……でもよかった、あなたも覚えているんですね。私一人で、変な夢を見ていたわけじゃない」
ほっとしたのは、こちらも同じだ。
ここ最近立て続けにおかしなことがあったとはいえ、ペルソナだの案内人だの、あそこまで作り込まれた妄想が自分の脳内から出てきたとは思いたくなかった。
「僕たちがこの家で夢を見た夜に干渉できるって彼は言っていたから、もしかしたら今晩にでもまたあそこに引きずり込まれるかもね」
「はい。それに、ペルソナを集めて、とも銀太さんは言ってました。具体的な方法は、全然教えてくれなかったけど」
真理子が肩をすくめる。
「ペルソナを集める方法」──吾郎も考えてみたのだが、あまりいい案が浮かばなかった。
虫取り網で捕まえるとか、ボールを投げつけてゲットするとか、まさかそんな風にできるものでもあるまい。そもそもどこで”ペルソナ”を見つければいいものなのか、パレスに出てくる敵は”ペルソナ”に該当するのか、そのことも次に会った時聞かなければいけない。
しかし、そのこととは関係なしに、また異世界には行きたいと思っていた。
ちょうどいいタイミングだと、吾郎は切り出すことにする。
「……そのことだけど、実は今日、岡倉のパレスを偵察しに行こうと思ってる」
「今日?」と、真理子は驚いて聞き返す。
「あの世界のことももう少し把握したいし、何より、あいつの様子も探っておきたい」
そしてあわよくば、何か岡倉のシャドウが情報を漏らすことも期待していた。うまく事が運べば、いなくなった真理子の兄の遺体の行方について、手がかりが得られるかもしれない。
「君がついてくる必要はないけど……」
「でも、あなたのペルソナ、回復できないでしょう? 一人じゃ危険です」
半ばこうなると予想していたとはいえ、真理子はついてくると言う。
彼女がいた方が、戦闘が楽なのは事実だ。
しかし、あんなことがあったばかりである。昨日の今日で異世界へ行くのは負担なんじゃないかと思ったが、彼女は頑として譲るつもりはないらしい。
吾郎としても、意固地になって拒否する理由はない。
結局、今から二人でパレスの様子を見に行くということになった。
慈愛の翼の最寄りの駅から異世界ナビを起動して、無人の閑静な住宅街を抜けていく。
幸い、おもちゃ屋に着くまで、敵と遭遇することはなかった。
「……相変わらず、悪趣味な場所」
おもちゃ屋の前で、真理子が眉を顰める。
「ああ、見てるだけで反吐が出るよ」
吾郎も同意しながら、巨塔を見上げた。
壁一面にらくがきみたいなグラフィティが投影され、中央に埋め込まれたぐにゃりと曲がった大時計がカチカチと時を刻んでいる。
塔の頂に乗っているのは、岡倉のシャドウを模した醜いピエロの模型。ニンマリと笑い、両手の中に壊れかけのロボットを抱えていた。
……改めて見ても、嫌悪感はまったく薄れない。
むしろ、あんなクズにいいように操られていた時のことを思い出して、何か破壊したいような凶暴な気分になる。
「正面玄関は敵だらけだ。どこか裏口を探したほうがいいね」
苛々する感情を抑え、吾郎は感知能力を研ぎ澄ましながらそう言う。
異世界に入った瞬間に、吾郎の服装は純白の礼服に変化した。この装いに変わるのも四度目、さすがにもう驚きはない。
真理子の方も、華美な喪服らしき衣装に変わっていた。
ただ一つ以前と違うのは、剣を携えていないこと。この世界に足を踏み入れて格好が変化した時、朱色のフィンガーレスグローブに包まれた彼女の手は何も握っていなかった。
その理由は、真理子にも分からないとのことだった。
だが、思えば当然のことかもしれない。
この力が心の在り方に左右されるのなら、父親の首を落とした処刑剣が消えるのは当然だ。
異世界でシャドウを傷つけることに、真理子は激しい忌避感を抱いている。だから武器を必要としていない、というわけだろう。
吾郎自身、前よりも慎重になるべきだと考えていた。
岡倉ならともかく、下手を打って自分や他の人間に被害が出るのは避けたい。力に覚醒した時、吾郎は自分と同じ姿形の人形を躊躇いなく斬り捨てた。あの時は無事だったが、次はどうなるか保証はない。
安全だという確証が得られるまでは、この世界で無闇に何か傷つけるのは避けるつもりだった。
正面玄関以外の入り口を探すのにはずいぶん手間取ったが、塔の裏手にある排気口を見つけて、そこから侵入することにした。
金属の匂いと熱気が残る狭いダクトを這うように進む。先をゆく吾郎の後ろで、真理子は何度も服を引っかけながらも、どうにか通り抜けていく。
やがて光が差すところ──あの待合室に出た。
毒々しいキノコのような形の椅子が無造作に置かれた円形の部屋。見上げると、最上階まで吹き抜けになっている。
「誰もいないみたいですね」
スカートについた埃をぱたぱたとはらいながら、真理子はつぶやいた。幾重にも重なった上質な布は、ダクトを通るのにまったく適していないようだ。
「正面玄関の方を固めたせいで、こっちは手薄みたいだ。敵の反応がない」
「それは助かるけど……あっ」
真理子は声をあげて、足元に落ちていたチラシを拾い上げる。
そこには、こう書かれていた。
トイショップ慈愛の翼 〜臨時休業のおしらせ〜
平素より当店をご愛顧いただき、誠にありがとうございます。
誠に勝手ながら、一身上の都合により当施設は一時休業とさせていただきます。
つきましては、新しい顧客の紹介、口コミ、おもちゃへの接触等はお控えくださいますようお願い申し上げます。
(なお、海外姉妹店のご紹介は常時承っております)
ご不便・ご心配をおかけいたしますこと、心よりお詫び申し上げます。
現在、より強固な安全体制を整えた上でのリニューアルオープンに向け、スタッフ一同準備を進めております。
お子さまに安心できる遊び場を提供するのは、全国最大規模のおもちゃ屋である慈愛の翼の責務でございます。
今後もご愛顧賜りますよう、お願い申し上げます。
読み終えて、吾郎はフンと鼻をならした。
「強がってたわりに、ずいぶん逃げ腰じゃないか。岡倉のやつ、相当動揺してるみたいだ」
真理子は静かに怒った顔で黙り込んだまま、拳をぎゅっと握りしめていたが、やがて口を開いた。
「そうですね。でも、一刻も早く、こんなこと止めないと」
「あいつには僕も借りがあるからね。このままにしておくつもりは──」
話していたその時、急速に近づいてくる反応を吾郎は感じた。
胸の奥で眠っている方のペルソナが、ドクンと脈打って警告を発する。
何か巨大な反応が、どこか──上から迫ってきている。
そう気づいた時には、もう目の前に巨大な影が落ちてきていた。
ドシン、と鈍い衝撃音とともに、床が揺れる。
現れたのは、五メートルはあろうかという茶色のテディベアだった。
綿が詰まったようなずんぐりした体躯。額には、大きな絆創膏。両目を逆三角に尖らせ、こちらを睨みつけている。
可愛らしささえ感じるぬいぐるみだが、指先の鋭利な金属爪は殺意を帯びて光っていた。
「グゥアアアアアアァッ!」
テディベアは咆哮とともに、両腕を振り上げた。
距離をとる間もなく、一撃目が真っ直ぐに振り下ろされる。
「──守って、エポニーヌ!」
真理子が顔からヴェールを取り外す。
それと同時に、彼女の手元に黒いフリルの大傘が現れた。
真理子は吾郎を庇うように前に出ると、傘を構えて、目の前に障壁を展開させる。
振り下ろされた爪が傘に当たった刹那──キィンと甲高い音を立てて、弾き飛ばされた。
跳ね返ってきた痛みに、ギャっと鳴き声を上げてクマが後ずさる。
吾郎もサーベルを手に取り、臨戦態勢に入っていた。
しかし、斬りつけたところでどれだけ意味があるかわからない。
目の前のテディベアの反応は強大だ。
一見しただけで、格上の強敵だと分かる。大技を一度でも当てられればお陀仏だ。
タイミングを見計らって、逃げるしかない。
神経を尖らせる吾郎に、真理子が真剣な表情でそっと耳打ちしてきた。
「あれがペルソナってやつなのかもしれません。勧誘してみましょう」
「……は?」
止める間もなく、真理子は声を張り上げた。
「──待って! クマさん、よかったら、私たちの仲間になりませんか?」
「グルぅ……?」
「その丸いお耳、素敵ですよ」
「ぐっ……」
「つぶらな瞳も、とってもチャーミングだと思います」
「ぐががッ!」
褒められて、心なしかテディベアが誇らしげにしている。
しかし、こんなことをして何の意味があるというのか。
吾郎は、真理子の肩をポンと叩く。
「……真理子さん、何してるの?」
「仲間になってくれないか試してるんです」
まるでのんきな態度。
この圧倒的な戦力差が彼女のペルソナでは感知できないのだと、遅ればせながら吾郎は気づいた。
そうしているうちに、次の攻撃の準備が整ったテディベアが叫び声を上げる。
「グゥああああああ!!」
「待ってください。私たちの仲間になったら、たくさんハチミツを……」
なおも説得を試みる真理子の腰に腕を回して、敵から引き離す。
「無駄だ、逃げるぞ!」
「え? ……ぐぇっ!」
真理子の足では遅すぎる。彼女の体を米俵のように肩に抱え上げて、吾郎は全力で駆け出した。
二人とも力に覚醒してから初めて行った探索は、悲惨な敗走に終わった。
吾郎はナビを終了させて、現実の住宅街に戻る。
「ハァ、お腹痛い……内臓がまろびでるところでした」
ひと気のない小道で、真理子は顔をしかめてお腹を押さえた。目元には、うっすら涙まで浮かんでいる。
「悪かったよ。でも、君が走れない以上、ああするしかないだろ」
「それは、そうですけど。もう少し丁寧に扱ってくださいよ」
「はいはい、次は善処するよ」
「適当な返事をして……」
真理子は胡乱な目をこちらに向けたあと、ふと、からかうような笑みを浮かべた。
「以前のあなたなら、『僕が真理子ちゃんのことを守るよ』なんて言って、お姫様抱っこの一つでもしてくれそうだったのに」
「……うるさいな」
鬱陶しがる吾郎を見て、真理子はくすりと笑う。
でも、今日の彼女はどこか無理して明るく振る舞っているようにも感じられて、あまり怒る気にもなれなかった。
「とにかく、今の僕たちじゃ岡倉のパレスには歯が立たない。君のエポニーヌが初撃を弾いたのは幸いだったけど、そう何度も幸運が続くとは限らないしね」
ペルソナを集める方法を探すどころの話ではなかった。
「はい。あんな人間の方が私より強いパレスを持っているなんて癪ですが、そのようですね」
一体どこにムカついているんだと思いながらも、吾郎は頷いて流した。
岡倉のパレスを探索するには、力が圧倒的に足りない。戦闘を重ねればもっと強くなれるのだろうが、その鍛錬に使うこともできないほどにおもちゃ屋は危険だった。
「不幸中の幸いは、今のところ子どもへの被害は止まっているらしいということくらいです」
「そうだね……今は、岡倉も動けないみたいだ。いつ捜査が入ってもいいように、普通の保護者を必死に演じてるのかもしれない」
「でも、吾郎くんたちが警察に行った時は取り合ってもらえなかったんですよね?」
「あの時はそうだったけど……あいつの息がかかっているのは、あくまで警察の一部。捜査命令が本格的に下りたら、岡倉も追い詰められるってところなんだろう」
真理子は少し暗い表情になって、
「警察だったら、横槍を入れてくる父もいない今、森岡さんを通せば動かせるはずです」
「そうなったら、逆に何をしてくるか分からないけどね。たとえば被害者達を、無理に口封じしようとするかもしれない」
「……そう簡単にはいかないってことですか」
真理子は深いため息をついた。
いずれにしろ、これ以上パレスの周辺にいても意味はない。
あまり成果を出せないまま、今日のところは帰宅することになった。