ペルソナ5 明智兄妹の事件簿   作:かっぱえびせん

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第五話 星のアルカナ

 どうして、パパのことを教えているの?

 

 喉元まで出かかった問いを、真理子は飲み込んだ。

 今ここで口にするわけにはいかなかった。

 

 でも、やっぱりおかしい。

 若葉に接触したのは、彼女がどこまで自分たちのことを把握しているかを探るため。

 異世界で起きた出来事も、今の父の状態も──全部、隠し通すつもりだった。

 

 それをいきなり打ち明けてしまうなんて。

 驚きが勝り、止まらなかった涙もぴたりと止まる。

 

 戸惑う真理子をよそに、吾郎は迷いのない声で続けた。

 

「父がそうなった原因は、認知世界にあります」

 

「吾郎君、何を……?」

 

「詳しいことは改めてお話しします。その前に一度、病院にいる父を診ていただけませんか」

 

 若葉は、しばしの間、言葉を失ったように二人の顔を見つめた。

 だけど、やがてゆっくりと頷く。真理子たちの表情から、今聞いていることが嘘じゃないと判断したのかもしれない。

 

「ええ、もちろん可能よ。連絡をくれたら、すぐに行くわ」

 

 

 家に帰るまでの道のり、二人はほとんど口をきかなかった。

 本当は吾郎の真意を聞きたかったけれど、街中で話すことはできない。

 それに、泣いた直後で声が掠れてしまいそうだった。これ以上情けないところを見せるのも、嫌だった。

 

 自宅でも、二人だけとは限らない。

 玄関の扉を開けると、真理子はまず靴を確認する。

 サイズの大きな革靴がないことに、ほっと胸を撫で下ろす。森岡はいま来ていないようだった。

 

 でも、一度も立ち寄らなかったわけでもなさそうだ。今朝出た時と違って、一階のフローリングは綺麗に磨かれている。

 

 土足で踏み荒らされた痕跡はもうなかった。二人が今日言い訳をして家を留守にしている間に、森岡が業者を呼んだのかもしれない。

 

 なんにせよ、今は二人きり。真理子は、ハンガーにコートをかけている吾郎の方を見て、静かに問いかける。

 

「ねえ……どうして、全部話す気になったんですか?」

 

「ずっと啓次さんのこと話したいって考えていたんだろ? 君の父親を救えるかもしれない唯一のチャンスだ。僕が止める権利はない」

 

 と、吾郎は淡々と答えた。

 

 それは、理由の一つなのかもしれない。だけど正直な答えではない。

 

 そもそも吾郎のように警戒心が強い人間が、そう易々と自分たちの持つ情報のアドバンテージを渡すだろうか。あの場で、彼の判断を変えた何か──もっと決定的なきっかけがあったはずだ。

 

「若葉さんは信頼できるって、そう思う理由がなにかあるの?」

 

 今度は、吾郎が少しだけ考え込むような間を置いた。

 たぶん、このまま、それらしい答えを返して終わらせるつもりなのだ。

 

 少し、落胆する。

 なにも隠し立てする必要なんてない。言いたくないことなら、素直に聞くなと言ってくれればいい。それすらできない信頼関係なんて、ないのと同じなのだから。

 

「……吾郎くんは私のことをすべて知っているけど、あなたは全然、自分の思っていることを話してくれないですよね」

 

 ぽつりと漏れた言葉は、本当の気持ちだった。

 真理子の過去も、現在も、吾郎はほとんどすべて知っている。それこそ、自分のパレスの中まで一緒に入ったことすらあったのだ。

 

 でも、吾郎自身のことは何も分からない。

 常にどこまで踏み込ませるべきか、慎重に線引きされているみたいだった。

 

「……僕ばかり君のことを知っているのは、確かにフェアじゃない、か」

 

 真理子を見て少し逡巡した後、吾郎はそう呟いた。

 

「やっぱり、何か理由があるの?」

 

 そう聞くと、吾郎はあっさりと認めて頷く。

 

 打算で口にしたわけじゃなかったけれど、こちらばかり知られているのは不公平だという真理子の説得が通じたらしい。

 

 もしかしたら、「あなたのことをもっと知りたい」と言っても、吾郎は譲らなかったかもしれない。理屈を通す方が、彼には響くのだろう。

 

 そう考えてから──こんな小難しいことを考えながら話さないといけないなんてと、少し真理子はおかしくなった。

 

「一応言っておくけど、隠していたつもりはないよ。話すほどのことでもなかったから、黙っていただけだ」

 

 話の続きを促すように、真理子は相槌をうつ。

 

「若葉さんの家に写真立てがあったの、覚えてる?」

「覚えています。双葉さんと一緒に見ていましたよね」

「あそこに映っていたの……若い頃の若葉さんと、僕の母親だったんだ」

 

 まったく予想していなかったことを言われて、真理子は目を少しだけ大きくさせた。

 

 でもそういえばあの時、吾郎が一瞬だけ押し黙ったのを思い出す。そして、双葉がその様子を見て不思議そうにしていたのも。

 

「大学名までは知らないけど、母が医大を中退していたって言うのは聞いていた。滅多に昔のことを話さないひとだったけど……本当にたまに、勉強していた内容とか、面白い先輩の話とか、思い出話をしていたことがあった」

 

「若葉さんのことも、話してたんですか?」

 

「ずっと前のことだからよく覚えていないけど、そうだったんじゃないかと思う。……集合的無意識の研究の話を聞いた時、初めて聞いた話じゃない気がした。あの写真を見てようやく、思い出したよ。そんな研究をしている、よくしてくれた女性の先輩がいたって母が話していたこと」

 

 記憶力がずば抜けていい吾郎がそう言うのなら、それはきっと本当に、まだ物心がつくかつかないかの頃に聞いた話なのだろう。

 

 お母さんは亡くなってしまったのだろうか。それとも、生きているけれどもう会えないのか。

 気になったけれど、真理子はなにも言えなかった。

 

 けれど、答えはすぐに吾郎の口からぽつりと語られた。

 

「葬式には親戚しかこなかったし、その親戚とも仲が悪かったから……母の写真を飾ってる人なんて、誰もいないと思ってた」

 

 きっと吾郎にとって、母親はとても大切な存在だったのだ。

 静かな語り口からでも、それが痛いほど伝わってきた。

 

 写真たった一枚。

 それでも、もう誰も覚えていないと思っていた母親の面影を大切にしている人がいて、嬉しかったのだろう。

 

 沈黙する真理子を見てなにか誤解したのか、吾郎は嫌そうな顔をした。

 

「だから言っただろ。判断材料になるような話じゃないって」

「いいえ、聞けてよかったです。……吾郎くん、ありがとう」

 

 真理子が微笑むと、吾郎は怪訝そうな顔をする。

 

「なにが?」

「あなたのこと教えてくれたから。どうでもよくないし、たとえどうでもいい話だって聞きたいです、あなたのこと。だって私はあなたの──」

 

 言葉を口にしながら、真理子は戸惑いを覚えた。

 なんて言おうと思っているのだろう? 友達、というのは違う。他人からすれば家族なのだろうけど、そう形容するのも間違っている。

 

「──味方だから」と、気づけば自然と口にしていた。

 

 でも声に出すと、味方という表現が、とてもしっくりきた。

 

「味方?」と、吾郎が呆れ顔になる。

 

「じゃあ、他にどう言えばいいの?」

 

 真理子が問い返すと、吾郎は視線を少しそらし、言葉を探す仕草をする。けれど、すぐには答えられない。

 

「ほら、他に出てこないんでしょ。だったら私が合ってるんです」

 

 得意げに笑って見せたあと、真理子は冗談めかして続けた。

 

「今日はこのくらいで勘弁してあげるけど、これからもっと、あなたのこと聞き出していくから──覚悟しててください」

 

「……その反抗声明みたいな言い方、おかしいよ」

 

 ふっと、吾郎が口元を崩して笑う。その微かな笑みは、今までに見たどんな表情よりも自然体だった。

 

 思わず、ドキッとする。

 

 初めて出会ったときから、ずっと内側でくすぶっていた思い。

 やっぱり、私は──。

 

 そう思ったその刹那、頭の奥に声が響く。

 

 『──我は汝……汝は我……

 汝、ここに新たなる絆を得たり

 絆は即ち、宿命に抗う反逆の道を照らす光なり

 汝、”星”のペルソナの生み出せし時、

 自由へ至る、更なる力とならん……』

 

 中性的な子どもの声は、銀太のものだ。

 

「今の声って……」

「僕も聞こえた」

 

 吾郎と目を合わせてから、真理子は虚空に向かって声を上げる。

 

「銀太さん、そこにいるんですか?」

 

 だけど、返事はなかった。

 

 しんと静まり返った部屋に、もう銀太の気配はない。

 

 ……せっかくいい感じの雰囲気だったのに、台無しだ。

 真理子は無表情を保ちながらも、静かに憤慨した。

 

 

 あの声の真意を聞く機会が巡ってきたのは、その夜、眠りについたあとだった。

 

 ステンドグラスから柔らかな光が差し込む、あの青い音楽室。

 中央にはグランドピアノ。変わらない光景の中に、気がつけば真理子はまた吾郎と並んで立っていた。

 

「おめでとう。新しい契りを手に入れたようだな」

 

 そう言いながら、子どもの頃の自分と瓜二つの銀髪の少女──銀太は小さく笑った。

 

「星のアルカナ、その絆の強さをボクが力に変えよう」

 

 会った矢先にアルカナだとか絆だとか言われても、まったくついていけなかった。

 

 左隣にいる吾郎に至っては、「なにを言っているんだコイツは」という顔を隠しもしない。

 

「……全然意味がわからないけど、とにかく、今日僕たちが聞いた声は君なんだよね?」

 

「ご名答」と銀太は無邪気に微笑む。

 なんだかずいぶんと嬉しそうな銀太によると、あの時吾郎は新しい絆を得たらしい。そして、人ととの絆はペルソナの力に繋がる。

 

「これからも、どんどん人と絆を結んでいくんだ。分かったね、お客人」

 

 ……この子は、これから吾郎が誰かと仲良くなるたびにアナウンスするつもりなのだろうか。しかも、会話相手にまで謎の声が聞こえるのだとしたら──みんな怖がってすぐ距離を置くに決まってる。

 そのことをやんわりと真理子が指摘すると、銀太は「違う、そんなつもりはない。またしても鍵が掛からなかったんだ」と頬をふくらませた。

 

 さっきの声は、本来は吾郎だけに向けられたもの。

 だけど銀太が仮住まいとして真理子のパレスにいる弊害で、漏れ聞こえてしまっているのだという。

 

「明智真理子相手には筒抜けになってしまうが、仕方がない。イレギュラーだらけなんだ。それくらいは許してくれ」

 

 だとしたら、たとえば離れた場所で吾郎が知り合いを増やしたら、真理子にもいきなり銀太の声が聞こえてくるのだろうか。普通に嫌だ。

 

 そう懸念する真理子をよそに、吾郎は吾郎で、もっと根本的な問題を気にしているようだった。

 

「……君には、僕の様子が見えているの?」

「ああ、無論だ。キミを見守るのがボクの役目だからな」

 

 誇らしげにする銀太に、真理子が補足してあげる。

 

「それって……たとえばお手洗いにいたり湯浴みしたり、そういう時も”見守っている”ということですか?」

 

 だとしたら、それは単なるストーカーだ。冷たい視線の意味を理解してか、銀太は焦りはじめた。

 

「そっ、そんなことはない! 四六時中監視しているわけじゃなく、たとえば新しい絆を得たり、その絆が育まれたり、運命が動いたり、そんな時にふと気配を感じる程度だ」

 

 あたふたと弁解する銀太を見て、吾郎は溜飲を下げたらしい。

 

「まあいい、話を戻そうか。星のアルカナって、タロットカードのことだよね?」

「ああ。キミと彼女の絆を象徴するのが、星のアルカナ。その絆を育むことが、対応するアルカナのペルソナに与える力につながる」

 

 ──星、か。一体誰がどんな基準で選んだのだろうと、疑問に思う。

 

 でもこれ以上話を脱線させるのも得策じゃないので、真理子は黙っていた。

 

「……で、その星のペルソナを生み出すっていうのは、いま実践できたりする?」

「残念だけど無理だな。キミが新たなペルソナを手に入れないことには」

 

 前回出した「新しいペルソナを集める」という課題がクリアできなかった以上、ダメなのだと銀太は言う。

 

 一応、努力はしたつもりだった。岡倉のパレスで出くわした巨大なテディベアに勧誘を試みたのだ。だけど結果、相手を怒らせただけで終わってしまった。

 

 その顛末を真理子が話すと、銀太は納得したように頷いた。

 

「うん、この前は時間もなかったし説明が不十分だったからな。今からボクがしかとレクチャーしよう」

 

 銀太曰く、パレスの中で徘徊している敵、あれはシャドウと呼ばれる存在だという。

 そして、吾郎には本来、「ワイルド」と呼ばれる、そのシャドウを自分のペルソナとして取り込める力があるという。

 

 どう言う手順でペルソナを入手するか一通り説明し終えた後、銀太はおもむろに指揮棒(タクト)をこちらに向ける。

 

「では、実践してみようか」

 

 と、真理子と吾郎の服がゆらりと変化した。

 

 二人の身を包むのは、それぞれの反逆の意思を象徴する衣装。今ここで練習しろというわけらしい。

 

 いつでもエポニーヌを呼べるよう、真理子は視界を薄く覆うヴェールに手をかけた。

 

「ボクは一時的に銃撃弱点に変えた。まずはダウンを取るんだ」

 

 そう言われても、目の前の銀太──つまり、小さな子どもの姿をした存在に向かって攻撃するのはためらわれる。

 

 それに、自画自賛になってしまうけど、銀太は精巧な陶人形のように愛らしい外見をしている。

 撃てと言われてもなかなか難しいのではないだろうか。

 そう考えながら真理子が横目で吾郎を見たそのとき、彼はあっさりと言い放った。

 

「──じゃあ、撃つよ」

 

 そして何のためらいもなく、スッと銃を構えると、銀太に向けて引き金を引いた。

 

「はぅっ……!」

 

 光線に撃ち抜かれた銀太は、その場にへたり込む。

 

 あまりの容赦のなさに、真理子は少し引いた。

 けれど銀太は気にも留めていない様子で、張りのある声を上げる。

 

「さあ、ボクを囲うんだ!」

 

 その指示に従って、真理子と吾郎は銀太を中心にぐるりと位置を取った。

 満足のいく陣形だったのか、銀太は「うん、初めてにしては上出来だよ」と頷く。

 

「さて──ここからが本番、シャドウとの交渉だ。ダウンしたシャドウは話しかけてくる。その様子から性格を見極めて、適切な返答を選ぶんだ。これは、キミが自分でやる必要がある。準備はいいかな?」

 

 銀太に問われて、吾郎は「できてるよ」と真剣な表情で言った。

 

 銀太は「うん、いい返事だ」と頷く。

 

「じゃあまずは、子どもっぽいシャドウを想定してみようか。たとえば……」

 

 少し考えてから、銀太はいっそう幼い声で、

 

「──ねえねえオニーチャン、『こども』ってどうやったらうまれるの……?」

 

 一瞬にして、場に沈黙が落ちた。

 

 この子は何を言ってるのだろうと真理子は唖然とする。

 

 しばらくして、吾郎はにこりと綺麗な笑みを浮かべると腕組みする。

 

「──ふざけているよね?」

「なっ……大まじめだ! 実際、こういう質問をするシャドウがいるんだ」

 

 疑わしそうに見られて、銀太は頬を膨らませて反論する。

 真理子はつい口を挟む。

 

「そもそもこんな脈絡のない質問、なんて答えればいいの? 素直に、本当のことを言えばいいんですか」

「それはシャドウの性格による。正直にコウノトリが運んでくると教えるのを好むシャドウもいれば、茶化した回答を好むシャドウもいる。どっちに転ぶかは、会話しながら見極めるしかない」

 

 真顔で力説する銀太の声を聞きながら、真理子は眉をひそめた。

 

 ──コウノトリが運んでくる? この子、見た目だけじゃなく、中身もお子さまなのかも。

 

「ねえ、吾郎くん……」

 

 隣に話しかけようとして顔を向けるけれど、そこにいたはずの人影が忽然と消えていた。

 

「あれ……吾郎くん?」

 

 いつの間にか青い部屋にいるのは、真理子と銀太の二人きりだ。

 

「たぶん、起きてしまったんだろう。昨晩も眠りが浅くて、全然干渉できなかったんだ」

 

「……なるほど。昨夜お会いできなかったのは、そういう理由だったんですね」

 

 夢の中で接触するには、二人の夢を見るタイミングが重ならなければならない──この条件は、思った以上に厄介だ。睡眠改善のために、マグネシウムのサプリでも買っておくべきかと真理子は本気で検討する。

 

「残念だが、交渉練習はここで終わりにしよう」

「そうですね。最後の部分は意味がわからなかったけれど、要領は掴めた気がします。ご教示ありがとうございました」

 

 真理子が丁寧に礼を述べると、銀太は急に真顔になって、じっと彼女の顔を見つめてきた。

 

「……あの、なにか?」

「いや、キミは全く感情が顔に出ないのだなと思っていただけだ」

「そうでしょうか」

「ああ。今日だってあれだけ感情に波があったのに、今は平然としている」

「……銀太さん。私たちの様子は見えないって、言ってませんでした?」

「見える訳じゃない。でも、キミのシャドウの姿を借りたからか、ここがキミの心の中だからか、ボクはある程度キミの情動と共鳴しているんだ。だから今日一日、嵐のように揺さぶられてずいぶんと戸惑ったよ」

 

 感情が伝わっているというのはかなり居心地が悪いけれど、銀太の存在をここに許可したのは他ならぬ自分。諦めて、真理子は静かに続きを聞く。

 

「キミの心は難しい。外の刺激にぼんやり鈍くなったかと思えば、急に底なし沼みたいに沈んだり……かと思えば、ボクのお客人のことを思ってふわふわしていたり……」

「──ちょっと! それ、吾郎くんの前で絶対に言わないでくださいよ」

 

 その手の感情を向けられるのを、吾郎が嫌っていることは知っている。しかも真理子自身、整理しきれていない思いだ。それを他人の口から暴露されるなんてあり得ない。

 

「なぜだ? キミは彼のことを好ましく思っている。そして誰かに好かれるのは嬉しいことだ」

 

 真理子は腰を屈めると、無垢な金の瞳とじぃっと目を合わせる。

 

「絶対にダメ。もし口に出したら──処刑します」

「なにっ、処刑だと……しかし、ここにギロチン器具はないぞ。どうやるんだ」

「どうもこうもありません。処刑は処刑です。分かりましたか?」

 

 真理子の圧に、銀太はぴしりと直立してこくこくと頷く。それから、小さく咳払いして、権威を取り戻すように胸を張った。

 

「ともかくだ。人の心とは、みなこういうものなのか? こんなに激しく変化していては、そのうちすり減ってしまいそうだ」

 

 そんなこと、真理子の方が聞きたい。

 今日、若葉の前でいきなり泣き出してしまったのは、不覚だった。

 

 これまでの真理子──世間の前で立っていた大人の自分だったら、こんなふうに感情をコントロールできないなんてことはなかったはず。

 

 でも、それはパレスが崩壊する時まで、自分の中の「あの子」にすべて押し付けていたからこそできていたこと。止めていた機能が急に動き出してしまった今、どう扱えばいいのか分からない──それが正直な本音だった。

 

 真理子は、ゆっくりと深く息をついた。

 

「分かりません。きっと大丈夫だって思える時もあるし……何もかも諦めたくなる時もあります」

「それは、いつか治るものなのか?」

 

 耐え難いほど辛いことがあった際、いずれ時間が解決する、とよく人は慰めに言う。

 でもその通りに痛みを手放していいのは、不可抗力で何かを失った人間の話だろう。真理子のように自分の手で傷つけてしまった場合──その喪失は、果たして乗り越えられるものなのか。いや、そもそも痛みを忘れたいと望んでいいのかすら、分からなかった。

 

 答えられずにいる真理子を見て、銀太は「エポニーヌ」とぽつりと言った。

 

「え……?」

「キミのペルソナ。あの子はまだ不完全だ。今のキミの心の状態では、完全な覚醒は望むべくもない」

 

 唐突なその言葉だけれど、思い当たる節があった。

 

 若葉のところで受けた「認知体との繋がりを探る」検査。

 イメージとして現れた鏡のなかにいたのは、大きな傘を持った少女の姿だった。その子を見て、真理子は理由もなく深い安心感を覚えた。

 彼女こそが、もう一人の自分であるエポニーヌなのだと思った。

 

 でも、真理子の知るエポニーヌは傘だけの形を取っている。

 それがもし未熟な覚醒の証だというのなら、腑に落ちる。

 

 それに加えて、いまや唯一の武器だった処刑剣さえ失ってしまった。

 

「……そうですね。あなたの言うとおりなのかもしれません。吾郎くんと違って、私の力がずいぶん不安定なのは、自覚しています」

 

 だけど完全な覚醒をするには、どうしたらいいのだろう。

 そもそも真理子には、強くなりたいと思う動機もなかった。

 

 あの異世界の存在で確かに真理子は救われたけど、同時に手に入れた力で取り返しのつかない過ちを犯してしまったのだ。

 

 この力は、祝福なのか、それとも呪いなのか──。

 いまの自分には、答えられなかった。

 

 迷いを見透かすように、銀太がこちらを見て言う。

 

「いらないと思うのなら、手放すことも、答えの一つ」

 

 そのどこか突き放すような超然としたまなざしに、この子は人じゃないのだと、初めて実感させられる。

 

「半端な力ほど、危ういものはない。こんなものないほうがよかったと気づいた時には、取り返しがつかないことだってある」

 

 そう簡単に言われたって……そう真理子が思った時には、もう意識が遠くなっていた。

 

「ボクのお客人を待ち受ける道は、過酷だ。もしキミの覚悟が足らないのなら──隣を歩き続けることはできず、どこかでふるいにかけられることになるだろう」




遅くなってごめんなさい。次の更新、来週の月曜までにしたいと思っています。
更新頻度に関してアンケートが設置されているので、もしご意見あったらお答えください。

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