本当に嬉しいです!
「今週の土曜日に、ピアノのチャリティコンサートがあって、チケットが三枚あるんだ。それで、君たちが一緒にきてくれたら嬉しいって思ってたんだ。ピアノを演奏する明智真理子ちゃんっていう子は、みんなと同い年くらいの子なんだよ」
人好きのする笑みを浮かべながら、岡倉健悟は言った。彼はこども・若者支援のボランティア団体「慈愛の翼」の会長で、吾郎にとっては現在の保護者だ。といっても、この男に引き取られたのはわずか三、四ヶ月前。まだ岡倉吾郎という新しい名前に、吾郎はまったく慣れていなかった。
岡倉とこうして顔を合わせて話すのもこれで十回目といったところか。なにせこの男は多忙で、ほとんど家にいない。ここに住むほとんどの子どもは、息子の輝幸とその妻の陽菜としか話したことがないほどだ。
そんな岡倉が、久しぶりに戻って来たかと思えば、挨拶もそこそこに吾郎と他二人の子どもを自分の仕事部屋に呼びつけた。チャリティコンサートとやらは、よほど大事な用事なのだろう。
一生戻ってこなけりゃいいのに。大好きな金勘定でもずっとしてればいい。
内心でそう毒づきながらも、あくまで綺麗な笑みを吾郎は浮かべる。愛想よく笑っていれば、いまはそれなりの扱いを受けることができる。
もう路上で夜を明かしたあの頃とは違う。この家に引き取られてから、見てくれだけはずいぶんとマシになった。
痣だらけだった肌も治ったし、栄養失調で痩せこけていた身体にも肉がつき、壊滅していた歯も金をかけて治療した。今は愛想よくさえしていれば、それなりの扱いを大人から受けることができる。
そのための大金を出したのは、岡倉だ。
「すべての子どもに愛を教える」というスローガンの通り、岡倉一家は家出中の少年少女の炊き出しや相談窓口だけじゃなく、吾郎のような虐待歴のある子どもの里親も積極的にしていた。
それに加え、うまく人に取り入る術をコイツから習ったのも確かだ。
といっても、岡倉のような男に感謝する気はさらさらないが。
「めったにないチャンスだし、みんな、どうかな?」
岡倉は、草食動物のような細い黒い目で、顔色を伺うように吾郎たちを見る。
白髪交じりの黒髪とふくよかな顔に、中肉中背の体躯。質素な仕事部屋の安っぽい椅子に腰かけている岡倉からは、どことなくわびしさが漂う。
「クラシック音楽ですか、素敵ですね。昔から興味があったんです」
純粋な少年らしい声で、吾郎は答えた。
「さすが吾郎くんだ、そうこなくっちゃ。良太と里奈はどうかな?」
岡倉は、吾郎の両隣の子どもに交互に目を走らせた。
左隣で、深いため息の音がする。
ポケットに手を入れて、背筋を曲げて立つ少年──良太のついたものだ。
寝ぐせのついた焦げ茶色の短髪に、鋭い三白眼、引き結んだ口。良太は、いかにも非行少年といった見た目をしている。
特徴は、こめかみの辺りにある、根性焼きの跡。本人が言うには、度胸試しでつけた勲章らしい。
もっとも、吾郎はその話を信じていない。
良太とは岡倉に引き取られる前にいた養護施設からの腐れ縁で、もともと吾郎のルームメイトだった。同じ部屋で生活を始めて、良太が見た目のわりに度胸がないこと、痛みには敏感な性質であることはすぐにわかった。岡倉家に来てからも、施設に帰りたいとホームシックで毎晩メソメソしているような意気地なしだ。
自分でタバコの火をこめかみに押し付けるなんて真似、まずコイツにできっこない。
「別に、どうせ強制だろ」
良太は反抗的な態度を少しも隠しもせずにそう呟いた。
一方で、右隣でビクビクしている少女、里奈は黙りこくったまま。床をじっと見つめる顔は不安一色だった。
里奈は、吾郎と良太の一つ上の学年の中学二年生。この家に住む六人の子どもの中で、唯一、血で結ばれた岡倉家の実子である。
黒髪のショートボブの、これといった特徴のない地味な少女だ。あえていうとすれば、顔のパーツが外寄りで額が広いので、童顔に見えるところがあるくらいか。
初めて顔を合わせたとき、「うちの子ったら無口な子で困っちゃう」と彼女の母親である陽菜から説明があったが、実のところ、里奈は同じ子どもの前だとよく喋る。逆に、大人が一人でもいると委縮して、声を出すことはおろか、話しかけられている内容の理解も難しい状態になってしまう。
なので、今もおそらく、岡倉が口にしている言葉はひとつも理解していないはずだ。
そのことを知ってか知らずか、岡倉は話を続けた。
「まあ、一緒に挨拶しに来てほしいのは本当だよ。正直に話すとね、明智さん家は去年もうちに寄付金を出してくれたんだ」
本当に、金策の得意な男だ。
話半分に聞いていた吾郎は、しかし、続いた言葉で息を呑んだ。
「それにね、歴史ある政治家のおうちでもある。真理子ちゃんのお父さんは僕の昔の後輩だから、挨拶しようとは思っているけど、お礼を君たちからも言ってもらえると嬉しいよ」
──政治家の家系、確かにいま岡倉はそう言った。
これは、待ちわびていたチャンスだ。
母が亡くなってから五年、復讐はおろか、獅童正義という男をこの目で見ることすら未だ叶ってない。だが、もし政治家とのコネクションを得ることができれば……。
駆けめぐる思考を悟らせないよう、吾郎はあくまで平静を装いながら、口を開いた。
「はい、明智さんに、必ず直接お礼を言いますね」
「頼もしいよ、吾郎くん」
岡倉は頬をほころばせた。
「今日も点数稼ぎ、お疲れさん」と、隣で良太がぼそっと言う。
どうでもいいんだよ、お前みたいな臆病者にどう思われたって。
こんなやつと口論をする価値もない。いつも通り、吾郎は聞こえていないふりをした。
そんな二人の様子を見て、岡倉は小さく苦笑した。
「みんな、吾郎くんくらいとは言えなくても、もうちょっと興味を持ってもらえると嬉しいな。身も蓋もない話だけれど、今年もできれば明智さんから支援をいただきたいって思ってるんだ。施設のお金だけじゃ、色々と厳しい。設備の削減なんてことになったら、みんな困るだろ?」
そこまで言われて、折れないわけにもいかないのだろう。良太はしぶしぶ頷く。おそらく何を聞かれたのか分かっていない里奈は、良太に合わせるように頷いた。
「二人とも、ごめんね」と、岡倉は申し訳なさそうにまた謝った。
まったく、とんだ茶番だ。はっきりと命令すればいいものを。
そう心うちでどれだけ毒付いていようと、くだらない家族ごっこに吾郎は付き合うしかなかった。
さて、明智親子と接触できるチャンスは、挨拶とともに花を渡しに向かう一度きり。その一度で、どうにか交友関係を築くしかない。
コンサートの日までのわずかな間に、吾郎は徹底的に明智家について調べることにした。
歴史ある政治家一家と岡倉が称するからには、それなりに名の知れた一族のはずだが、明智姓の政治家は一人も思いかばなかった。地方で影響力を持つ一族なのかもしれない。
そう思って、区立図書館のパソコンで軽く調べてみるも、なんの情報も出てこなかった。
驚きはない。
明智真理子は頻繁に名前を聞く演奏家で、血筋についてもニュースで聞いたことくらいはある。母親が香港人とイタリア人のハーフで、父親は中学校の若き校長先生。彼女の出自も、家族のことも、事細かにWikipediaに書かれている。もし父親が有力な政治家の出自だったら、そのことは世間に知れ渡っているはずだ。
何か理由があって、箝口令でも敷かれているのか?
事情はわからないが、調べ方を変える他なさそうだ。
過去の新聞や書籍を検索できる公共データベースから記事をあさってみる。まず、家族構成を把握した。明智家は、両親とその子どもの兄妹の四人家族だ。
父親の名前は、明智啓次。中学校校長という仕事柄のせいか、何度か地方新聞の取材を受けたことがあるようだ。その一つで、実家は東京都世田谷区と発言している。年齢から逆算して、生まれ年は昭和四十五年か四十六年。
ここまで分かれば上々だ。検索ボックスに啓次という名前を加えて、地域を指定し、その上で記事の年代を啓次が小学生から高校生の頃に絞り込む。
すると、清水啓次という少年について、いくつかの新聞記事や弁論大会での入賞歴などがヒットした。
その内容はどうでもいい。まず年齢が一致することを確認した後、顔写真を見て、間違いなく真理子の父親の明智啓次本人だと断定した。
そこから調べていくうちに、明智啓次の父親が清水誠一であることが分かった。
──清水誠一、現与党である自由共栄党の幹事長だ。
自分が予想していたよりも遥かに大物の名前が出て、さすがに目を疑った。
岡倉の言っていた「有力な政治家一族」なんてものじゃない。上流階級の中でも、上澄みのなかの上澄み。代々自由共栄党の国会議員を輩出する、超名門の政治家一族だ。
なぜ明智真理子が国会議員の孫娘だと知られていないのか、なおさら謎である。啓次がわざわざ明智姓の方を名乗るからには、それなりの遺恨があるのかもしれない。
その理由を調べても、どうせ当てずっぽうの推理にしかならないだろう。ともかく、真理子が清水家の人間であることの裏は取れた。
続いて、真理子本人について調べる。
これだけの名門一家だが、ネットでのヒット数は、彼女が一番多かった。
華々しい未来を約束された天才ピアノ少女で、最初にテレビ出演を果たしたのは若干三歳の時。世界最年少でのクラシックCDデビューに、出場したコンクールは軒並み優勝、作曲や編曲でも類まれなる才能を見せているらしい。
「平成のモーツァルト」「人間国宝」などなど、彼女はとにかく大袈裟なほど誉め言葉で称えられていた。どうやら音楽界では世界的な知名度があるらしく、様々な言語で記事や動画が上がっている。
その膨大な動画の一つである、彼女が小学生のときに出演した情熱帝国の動画を再生してみる。
番組は、取り澄ました顔で八歳の少女がピアノを弾いている姿を映していた。
見てて面白いものじゃない。公立図書館で音を鳴らすわけにもいかず、無音で再生したから、肝心の音楽がなにも聞こえないのだ。
番組そのものよりも吾郎の興味を引いたのは、コメント欄の、熱烈なファンからの応援だった。
「辛いとき、苦しいとき、いつもここにきて真理子ちゃんの演奏を聞いています。あなたのピアノは私の人生の支えです」
「この才能は神様から人類への贈り物」
「この国に生まれることを選んでくれてありがとう。同じ日本人として誇らしい。あなたは日本の宝です」
人生は公平じゃない。
誰しもが生まれてきたことを祝福し感謝する子どももいれば、誰しもが目を背けなぜ生まれてきたのだと蔑む子どももいる。
──どんな気持ちなんだ? 世界中の人間から特別だと認められ、必要とされるのは。
酷くつまらなさそうな顔でピアノを弾く動画のなかの少女にそう問いかけても、当然、返事はなかった。
チャリティーコンサート当日、開催場所の音楽ホールには、大勢の人間が詰めかけていた。
そのほとんどは、高いチケット代を払って明智真理子の演奏を聴きにきた観客たちだ。興奮した様子の彼らは、見るからに仕立ての良い服に身を包んでいた。
一方、吾郎たちは公立中学の着古した制服。周囲の観客たちは、明らかに住む世界が違う吾郎たちを奇異の目で見ては、このコンサートのそもそもの目的が寄付金募りであることを思い出して、「ああ、チケットを施設に配ったのか」「クラシックなんて聞いて理解できるのかしら」と聞こえよがしに囁いた。
いちいち言われなくたって、場違いなことくらい分かっている。
苛立ちを抑えて、吾郎は穏やかな表情を浮かべていた。
「偉そうにしやがって、うぜえ。チケットもってんだから同じ客だろ」
だが、良太の方はそうも行かなかったらしい。我慢の限界だという風にした舌打ちに、周囲の大人たちが静まり返った。
注目を集めることが得意じゃない里奈はおろおろと周りを見て、恥ずかしそうにうつむく。
明け透けに見下されるのは不愉快だったが、こうやって多少悪目立ちしているくらいがちょうどいいのだろう。
三人は、今日物乞いしにきたのだ。岡倉の運営する「慈愛の翼」への支援の継続を、どうかみすぼらしい僕たちのためにお願いします、と。そして、礼装を着た乞食なんて、古今東西聞いたことがない。
幸い、用意された席に移動してからは、奇異の視線にさらされることもなくなった。
前方五列の席は招待された客のためと決まっているらしく、周りも養護施設やファミリーホームの子どもで埋まっていたからだ。
周りにいる子どもの中には、あからさまに興味がないらしく欠伸している奴もいれば、がちがちに緊張して身体がこわばっている奴もいた。
場違いという点では、吾郎たちと変わらない。
招待券が配られた子どもたちはみな前方の席だったが、その中でも、吾郎たちが最前列の中央だ。こんな好条件の席に座れたのは、岡倉の持ち前の社交力の賜物なのだろう。
「興味ねえー、何がチャリティだよ」
「早く帰ってゲームしてえ」
右隣で、男子高校生たちがわざと視線を集めたがっているような大声で話している。
後ろにいる大人の観客たちは不愉快そうに、それなら前方の席を譲れと言わんばかりにこちらを睨んだ。
ぴりついた雰囲気のなか、司会者が壇上に現れ、明智真理子の経歴を長々と説明した。
大人しく人の話を聞くのは性に合わないとアピールしたいのだろう。隣の高校生たちのふざけた声が追い出されてもおかしくないほど大きくなってきた時、コンサートの幕は開いた。
「音楽会の若き巨星、明智真理子さんです!」
司会者の声とともに、純白の丈の長いドレスを着た少女が壇上に姿を現した。
隣で声高に話していた高校生たちが、しんと静まり返る。
マナーを配慮したわけじゃない。単純にピアニストの少女──明智真理子が非常に美しい子だと気づいたからだろう。
ついさっきまで寝落ちしかけていた良太も、お辞儀をする真理子の姿を食い入るように見ていた。
たかだか容姿が良かった程度で態度を変える馬鹿らしさに呆れるが、まあ世の中そんなものだ。
しかし、かえって吾郎は冷めた気持ちになっていた。
あそこまで絶賛される演奏の腕はどんなものかと思ったが、存外、容姿による加点が大きいだけなんじゃないか。
そう斜に構えていた吾郎も、真理子がピアノを弾き始めると、意見を変えざるを得なかった。
ラフマニノフのピアノ・ソナタ第二番。
CDで聞いたことはあったが、真理子の演奏はそれと比べるべくもない。
一音一音が際立ってクリアに、会場を満たしていく。
客席を圧倒するように、光のように彼女の形作る音が降り注ぐ。ドラマチックで感傷的な旋律のなかには、何者にも侵されない気高さがあった。
それだけの演奏をしながら、彼女の顔には少しの迷いも緊張もない。何かに憑依されたかのような集中力。まるで違う世界を指で自由に紡ぎ出しているかのように、ピアノと向かい合っていた。
彼女の演奏に没頭し、一音も聞き逃すまいとしているうちに、いつの間にかプログラムの折り返し地点になっていた。
休憩時間になり、岡倉がトイレに行くと言って席を立った。
隣でポツリと良太がつぶやく。
「よくわかんないけど、すごかったな」
里奈は夢見るようなため息をもらした。
「うん、本当に。それに、あのドレスもすごく綺麗。違う世界のお姫様みたい。……吾郎くんは、どう思った?」
おずおずと聞いてきた里奈に、不意をつかれた。
ある事件があってから、吾郎は岡倉家の子どものほとんどから嫌われている。中でも良太と里奈の二人との怨恨は、相当のものだった。
「コイツに話しかけるなよ」
良太が舌打ちすると、里奈は唇を噛んでうつむいた。
会話に加わる気なんて、元からさらさらない。
吾郎はスポットライトに照らされた無人のステージをひたすら見つめて、休憩時間が終わるのを待った。