真理子は研究所の外に立っていた。
吐き出す息が白いほど、外の空気はしんと冷えている。
早く吾郎が来ないかなと、辺りに目を走らせる。けれど、冬季休暇に入った大学にはまったく人影がなかった。
寒いのは好きだ。だから冬空の下にいるのは苦じゃないのだけれど、手に持っている紙袋がずしりと重かった。
中に入っているすき焼きセットは、若葉への差し入れにしようと思って取り寄せたものだった。
ただでさえ多忙な若葉に、今は父の検査までお願いしている。
なにかお礼をしたかったけれど、子どもから金品の類を渡されても固辞するだろう。だから時々、こうして消え物を差し入れとして持っていくようにしていた。
だけど今日は都合が悪かったらしい。研究所の職員たちと一緒に、外部の重要な人と食事へ行くという。
「相手の予定がずっと合わなかったんだけど、今晩ならどうにかなりそうって朝連絡をもらえたの。せっかく持ってきてくれたのにごめんね。よかったら、それは双葉と一緒に食べてあげてくれない?」
若葉にそう言われて、せっかくだからと真理子はそうすることにした。
これまで、度々双葉のところを訪ねていた。
最近はかなり打ち解けていて、元気いっぱいの弾けるような笑みを見せてくれることもある。
つつきたくなるようなふっくらとした頬や、膝を抱えて小さく座る仕草。いままで年下の友達がいなかった真理子からすると、双葉は可愛くて仕方がなかった。
それに彼女はとても博識で、真理子の知らない分野にとくに詳しい。前に会った時は、吾郎の言っていた”RPG”というものを教えてくれると約束していた。
すき焼きも喜んでくれるかなと考えていたその時、ふと視線を感じて、真理子は顔を上げた。
一直線にこちらに歩いてくる、仕立てのいい黒スーツを着た中年の男性。
眼光鋭い目と、視線がぶつかった。それでも逸らさずに目を合わせてくるということは、真理子に用があるのだろう。
誰だろう? と真理子は少し警戒する。
相手の年は四十代くらいに見えた。見なりはしっかりしているけれど、色付きのサングラスや立ち姿からは、落ち着きのなさを感じた。財布を尻ポケットに入れて歩いていそうだ。
やっぱり、知り合いなのかどうか、思い出せない。
真理子は人の顔を記憶するのが得意な方だと自負している。こんなふうに頭を悩ませるなんて、滅多にないことだ。もしかしたら不審者なのかもしれない。
「久しぶりだな。こんなところで清水先生のところのお嬢さんに会うとは思わなかった」
けれど次の瞬間、印象的な声を聞いて、真理子は警戒を解いた。
そうか、やっと分かった。この人は、元同級生の獅童
すぐに誰か分からなかった理由は、身体的特徴に大きな変化があったせいだ。
真理子の知るマサキの父親は、体格のいい、茶褐色の髪の男性だった。が、それがなくなっていた。
つまるところ、毛髪が完全に抜け落ちて、スキンヘッドになっていたのだ。
それだけでここまで印象が違って見えるものとは、驚きだ。
だからといって、似合っていない──というわけではない。むしろ似合いすぎている。
以前は精悍なビジネスマンと言った感じだったが、今は裏社会を制する極道のよう。様にはなっているが、とかくクリーンさが求められがちな政治家としてはいかがなものか。
などと勝手に評論していることは悟られないよう、真理子はいつもの澄まし顔を顔にのせていた。
「マサキくんのお父さん、お久しぶりです」
「活動休止だと聞いた時は驚いたけれど、元気そうで安心したよ」
と、獅童は口角を上げた。その笑顔もどこか悪人らしさがある。
「ありがとうございます。世間をお騒がせするほどのことではなかったのですが、少し無理を重ねていたので休養を取ることにしていたんです」
……ということにしようと、今決めた。実際のところなにがあって一年間以上音沙汰がなかったかなんて、説明できるものではない。
こんな話しづらい話題は変えてしまうに限る。
「マサキくんは、スイスに留学中でしたよね」
息子の話は誰だって話したいだろうと思って、風の噂程度に聞いたマサキの留学話に水を向けてみる。
「見所のない子どもだからね。国外にでも放り出せば何か学んでくるんじゃないかと思ったが、うちの愚息は相変わらずの不出来らしい」
家族のことを謙遜している、というには少々棘のありすぎる言葉に、真理子は返答に窮した。
それを感じとってか、すぐに取りなすように獅童は笑みを浮かべる。
「正月には帰国する予定だから、時間があったら会ってやってくれ。君の演奏をまた聴きたがっていたよ」
「そうですね。もう以前のようにはいかないでしょうけど……」
そうして当たり障りのない話を続けた後、獅童は腕時計に目を落とした。
「引き留めてしまってすまなかったね」
言って、こちらに視線を落とす。
ああ、と納得してから、真理子は微笑を浮かべた。
「兄が迎えにきてくれるので、ご心配には及びません」
獅童は頷いてから、立ち去るような素振りを見せた。しかし足を止めると、ついでにという風に振り返る。
「清水先生のこともあるし、君も大変だろう。なにかあったら頼ってくれていい。私が力になる」
真理子が社交辞令を返す前に、言葉が重ねられた。
「君には頼りになるお父さんもついているから、心配はないだろうが……」
探るような視線を向けられて、真理子はなんのために獅童が声をかけてきたのか察した。
何気なく口にしたという体ではあるが、本題がこちらだったのは透けて見える。
祖父──清水誠一が倒れたことは、全国で報道されている周知の事実だ。
真理子にとっては考えたくはない可能性だけど、祖父が病没となれば、あくる四月には補欠選挙になって、国会議員の席は一つ空く。そこまで行かずとも、健康不安のせいで祖父の求心力は落ちたことだろう。リーダーを失った清水派内の勢いは落ち、党内の勢力図が変わるだろうということは、想像に難くない。
いずれ持病で立ち行かなくなることを予期していたからこそ、祖父は無理にでも父──啓次を政界へ引っ張ってきたのだ。その期待通り、啓次はつい先月まで、後継者として顔を広めることに尽力していた。
祖父が病に倒れた今こそ、存在感を強めなければいけない時期なのだ。
だというのに、周りからすれば、顔を出すのは後継者の啓次ではなく秘書の森岡ばかり。いくら森岡が隠そうとしたところで、人の口に戸は立てられない。おそらくもう党内の人間は、啓次に何かあったことを察している。
年末年始の会合の多い時期にもまるっきり姿を見せないとなれば、その疑惑は決定的なものとなるだろう。
身内に不幸ばかり続いて、清水の家系は呪われているんじゃないか。そんな噂になっているのが、目に浮かぶ。
椅子取りゲームでぽっかり空いた席に、手を伸ばしている人間だっているはずだ。
獅童がその一人かどうかまでは分からない。だけど、娘の真理子を見かけて、探りを入れてやろうくらいは考えたのではないだろうか。所詮は子ども、姿を見せない父親のことを口に出せば、少しは動揺を見せると思ったのだろう。
だとしたら、おあいにく様。真理子は自分でも時々困るくらい、感情が顔に出ないのだ。
「ご厚意、感謝いたします。マサキくんと良い年をお迎えください」
落ち着き払った態度でお辞儀をする。
別れの挨拶をしたのだから、これで会話は打ち切りだ。
「……ああ、そうさせてもらうよ。君も良い年を」
獅童はそういうと、再び歩き出した。
少しホッとしたのも束の間、その大きな背中が脳科学センターの中へと消えていくのを見て、真理子は驚かされた。
まさか、若葉の研究所にくる予定のお偉方とは、獅童のことだったのだろうか?
そう考えてから、すぐに思い直す。
あの赤煉瓦の建物の中には、若葉の所属するチームだけじゃなく、様々な研究所が入っているのだ。他の用事で来ていただけ、たまたま同じタイミングだったという可能性だってある。
だけど、それならなんのために──.
「……今の人は?」
と、横からいきなり声をかけられる。
いつの間にか、吾郎が音もなく、隣にきていたのだ。
「もう、脅かさないでください」
という小言も耳に入らない様子で、吾郎は脳科学センターの入り口を見ていた。
その横顔は冷え冷えとしている。
警戒しているのだろうか?
獅童には、裏街道を行く人間の雰囲気があった。もしかしたら、不審者が真理子に声をかけていると勘違いしたのかもしれない。
「今の方は、別に怪しい人じゃありませんよ」
「知ってる。自由共栄党の都議の、獅童正義でしょ」
「よくご存知で」と言いながらも、実のところ正解かは分からない。
真理子は獅童の下の名前までは知らなかった。だけど、議会中継をよく見ている吾郎がそういうのなら合っているのだろう。
「与党の都議様が、こんな寂れた場所にいったいなんの用なんだろうね」
若葉の職場を寂れた場所呼ばわりとは何事か。
注意しようかとも思ったけれど、酷く真剣な赤い目を見て、真理子は言葉を飲み込んだ。
「確証はないですが……もしかしたら、八階に用があるのかもしれませんね。外部のお世話になっている方と研究所の人たちで食事に行くと、若葉さんが言っていましたし」
「あの議員も八階に用事があるって言っていたのか?」
尋問するように鋭く見られても、確かなことなんて分からない。真理子は首を振った。
「ですから、確証はないんです。何用でここにいらしたかなんて、聞けませんよ。同じことを聞き返されたら、私の方がよほど困るんですから」
大の大人より、十三歳の子どもがひとりでキャンバス内にいる方がよほど不自然だ。
そう言っても、返事はなかった。
吾郎はこちらに視線をくれることもせず、いまだに研究センターの方を注視している。そして、やがて、口を開いた。
「ここで待って確かめよう。そのうち出てくるはずだ」
有無を言わせない口調でそう言うと、真理子の腕をひく。
腕にかけているお土産が入っている紙袋が、カサカサと音を立てた。
「ちょっと、待ってください。今から双葉さんのところへお邪魔して、鍋を三人で食べようと思っていたんです」
すき焼きセットのことは、若葉がすでに双葉に連絡してくれているのだ。双葉は、高級な牛肉と聞いて喜んでいたという。お腹を空かせて待っているだろうから、早く行ってあげないと可哀想だ。
そう言っても、吾郎は聞く耳を持たない。
「いいから」と、紙袋を真理子の手から取り上げると、建物の裏へと歩いていってしまった。
身を隠しながら、息を殺して研究センターの入り口を見つめる。
まさかずっとこのまま立ちぼうけになるのだろうかと心配したのは、杞憂だった。
五分も経たないうちに、若葉たちが入り口から出てきたのだ。
女性二人と、男性四人のグループだ。その中には獅童の姿もある。
一見しただけで、その中では獅童の立場が強いのだろうと分かった。周りの研究者たちは獅童を囲うように歩き、顔色を伺うように何か話しかけている。
そんななか、後ろを歩く二人だけは違った。若葉はあくまでマイペースに、隣の女性と談笑している。
どういう集まりなのかはわからないけれど、大学のOBなのかもしれないし、既婚者の男女二人で親密そうにしているというわけでもない。咎められるような行為をしているようには見えなかった。
「あの、吾郎くん……」
「付き合わせて悪かったね。もう十分だ」
もう行こうと真理子が切り出す前に、吾郎は硬い表情で歩き出した。
どうして若葉たちの様子を確認したかったのか、その理由を話すつもりはないみたいだ。
吾郎は普段と違って、少し先を進むように歩いていく。拒絶されている気がして、真理子はどう声をかけたものかと悩んだ。
そもそも、吾郎が政治家に近づこうとしていたことは知っている。その上でこんな反応を見せられては、何かあるのではないかと疑わずにはいられなかった。
「吾郎くんは、今の人と知り合いなんですか?」
迷った末、結局、ハッキリと聞くことにした。駆け引きめいたやりとりは苦手じゃないけれど、吾郎相手にしたくはない。
「見ず知らずの他人だよ。君みたいに政治家一家の娘ってわけならともかく、一介の中学生が議員と関わる機会なんてない」
淡々としたその言葉に、嘘はない気がした。
「そうですよね」と相槌を打ったあと、真理子は一応、訂正を入れる。
「別に私も、祖父の繋がりで知り合ったというわけではありませんよ。同級生の父親だっていうだけで」
ぴたりと吾郎は足を止めると、こちらを振り返った。
「父親……?」
「はい。息子さんが同じ学校だったんです」
仲のいい相手というわけでもなかったし、正直にいってしまえば、あまり印象に残らない子だった。最後に会ったのは、小学三年生の時だろうか。
吾郎からの返事はなく、会話はそこで途切れた。
一言も交わさずに駅を目指して歩きながら、真理子は小学校の頃のことを思い返していた。
ふと、同じクラスにいた大人しそうな男の子の顔と、先ほど見た彼の父親の顔が重なって、真理子はつぶやいた。
「しかし、マサキも可哀想に……」
「何が?」
吾郎は心ここに在らずのようだったし、何気ないつぶやきを拾われるとは思っていなかった。真理子は戸惑いながらも、口をひらく。
「えっと、さっき話した同級生のことを思い出していたんです。遺伝のことを思うと、彼も将来髪に苦労しそうだから、可哀想で」
「父親が禿げたからって、息子もそうなるって決まってるわけじゃないだろ」
「どうでしょう、厳しい気もしますが」
「脱毛に関わる遺伝子はX染色体にあるから、母親側の遺伝の影響が強い。そもそも遺伝の問題じゃなく生活習慣の問題で禿げた可能性だってあるし、その場合は……」
やけに饒舌に、科学的根拠に基づいた脱毛リスクについて吾郎は話し始める。
仔細にそんなことまで知ってるとは、さすがの博識だ。けれど、別にこんな話題を長々と話す気もなかったので、真理子は「そうなんですね」と頷くにとどめた。
「──君って、その子と仲が良かったの?」と、吾郎は話し終えた後に聞いてきた。
一拍遅れて、マサキの話だと気が付く。
「いえ、幼稚園から一緒だったけど、そんなに話したことはないですね……どうしてそう思ったの?」
「君が誰かを呼び捨てにしているのって初めて聞いたから」
「言われてみれば、そうですね。でも、私が通っていたのはインターナショナルスクールなので、クラスメイトと話す時は英語だったから。ファーストネームで呼ぶのが癖になっているのかも」
「ああ、そういえばそうだったね。……幼稚園から私立に通うなんて、みんな親に期待されている子どもってわけか」
と、吾郎はどこか投げやりに言った。
あながち、間違いというわけでもない。確かに真理子の同級生には、教育熱心な家庭を持つ子どもが多かった。
真理子の通っていたインターは、単位が国際的に認められるIB認定校で、授業も英語。そのため、生徒は親の仕事の都合で日本に来ている外国人の家庭が過半数を占めている。そんな中、わざわざインターを選ぶ日本人家庭は、ゆくゆくは子どもを国際的に名高い大学に留学させて箔をつけさせようと考えていることが多かった。
「でも、期待っていうほど綺麗な思いじゃないことも多いんですよ」
どうして、先ほど獅童を見て少なからず反感を抱いたのか、真理子は思い出した。
「うちの母親もそうだけど、子どもに成功することを押し付ける親も多いですからね。それに、さっきのマサキのお父さんも、あまりいい父親ではなさそうでしたし……」
「そんなに話さない同級生なのに、よく知ってるね」
「一つだけ印象に残っていることがあるんです」
そういうと、吾郎はかすかに体をこちらに向けた。
話に興味がありそうだったので、真理子は説明することにした。
あれは、小学三年生の時のこと。
学校では運動会のようなイベントが毎年あって、時間に余裕のある保護者も参加するのが恒例だった。
昼になると、各家庭がレジャーシートを校庭に敷いて、昼食を取っていた。
和気藹々とした雰囲気だったのだが、こともあろうに酒を持ち込んできた保護者がいたのだ。それが、マサキの父親だった。そのくせアルコールに強いわけでもないらしく、周囲が気づいた時にはとっくに出来上がって、妻と息子に説教していた。
酒気を帯びた保護者に、周囲は冷ややかな視線を送った。
普通の家庭なら、こう言う時は母親が止めるものだ。だけど、マサキの母親は鎮痛な面持ちで俯くばかり。その隣で、マサキも恥ずかしそうにしながら、言葉もなく顔を伏せていた。
母子揃って嵐が過ぎ去るのを待つように首を垂れているのを見て、マサキの家族の歪な力関係のようなものを察したのを、覚えている。
「……それで、さすがに先生たちが注意しにいったんです。だけどお酒が入ると気が大きくなる手合いなのか、先生にも高圧的な態度を取るものだから、すっかり空気が凍っていましたよ。翌日、クラスメイトと先生にマサキが謝って回ったんですけど、その顔があんまり辛そうなものだから、印象に残っているのかもしれません」
「最悪の父親だな」と言ってから、ふっと吾郎は笑った。
「私も、そう思いました」
吾郎は少し肩の力を抜くと、「……人のことを愛せない人間なんだろうな」と呟いた。
吾郎の口から、愛なんていう言葉が出てくるのは意外だった。だけど、愛せない人間という形容は、どこか違っている気がした。
「いい父親ではなくても……子どもを愛していないというわけではないのかもしれませんよ。忙しくても、マサキのことを見にはきていたみたいでしたし」
そもそも子どもの行事にまるで顔を出さない親だって多かった。こうして思い返しても、顔も見たことがない同級生の父親も多い。
真理子が獅童のことを認識していたのは、獅童が息子を構っていたからこそだろう。
「ほら、好きの反対は無関心というでしょう?」
そう口にしてから、ハッとした。
よく、言い訳のように思い浮かべていた言葉だったからだ。
真理子の母親は異常なまでに教育熱心で、倒れても習い事を休ませてくれず叱りつけるほどだった。だけど、その根底には愛がまるでなかったとは考えたくなかった。だから悲しくなった時はいつも、関心を持たれないよりはマシだと自分に言い聞かせていた。
過去の自分がなぐさめに使っていた言葉が口をついて出たことに、苦々しい気分になる。
「……そうかもしれないね」
どこか寂しげにそう呟く吾郎の声を聞いて、おかしなことを口にしてしまったことを、真理子はさらに後悔した。
獅童は外面がいいタイプだとは思うのですが、原作でもしくじる場面が多かったので、けっこう日常生活でもボロを出してしまうんじゃないかなという解釈です。既婚者かどうかは原作で名言されていなかったですが、体面を気にする人間なら家庭を持つことが多いんじゃないかと思い、この作品では妻子がいるという設定です。
まさか認知されていない子どもがいるとは思わず、意図せず地雷を踏み抜きまくっている真理子でした。
更新が遅すぎて、待っていてくれた読者の方々に申し訳ないです。色々考えた結果、来週から毎週月曜日更新を目指すことにします。よろしくお願いします。
(追記:水曜になりそうです)