ペルソナ5 明智兄妹の事件簿   作:かっぱえびせん

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第十話 いつか下る罰

 深海のような青の部屋を、天井のステンドグラスからこぼれる光が静かに照らす。

 

「ふむ、三体のペルソナを集めてきたようだな。これでようやく、編曲ができるというわけか」

 

 銀髪の少女が、満足げな笑みを浮かべた。

 どうやら、またあの夢と現実の狭間の空間に呼び出されたようだ。

 

 吾郎はため息をつく。

 

 メメントスでシャドウの勧誘に成功して以来、ここへ呼び出されるのを待っていた。が、今日ばかりは勝手が違った。獅童のことがあったせいで、特別に虫の居どころが悪い。

 

「ああ、君か。姿を見せないから、てっきりもういなくなったのかと思っていたよ」

「なっ!」

 

 銀太は、まん丸に目を見開いてショックを表現する。

 

「もう眠くて……だめです」

 

 吾郎の隣で、真理子が小さく呟いた。眠たげな瞳で、目の焦点が合っていない。

 

「ま、待て、起きてくれ! キミが完全に眠りに落ちたら、お客人と話す時間が終わってしまうっ。やっと接触できたっていうのに」

 

 銀太の必死な声も、もはや彼女には届いていないようだった。

 背筋だけは律儀に伸ばしているけれど、首が静かに傾いていく。いまにも、夢の底へ沈みそうだった。

 

 真理子は深く眠るタイプだ。対して吾郎は、常に眠りが浅く、そもそも夜通し起きている日も珍しくない。

 そんな二人のレム睡眠が重なった瞬間という条件は、想像以上に厳しいようだ。

 

「……仕方ない。この短い邂逅を、大切に使わせてもらおう」

 

 諦めがついたのか、銀太はがっくりと肩を落とす。そして、おもむろに左手を上げた。

 掌の上に、黒革に包まれた一冊の譜面が音もなく現れる。

 

「まずは採譜といこう。君は新たに二体のペルソナを手に入れたのだろう? ここに記しておけば、いつでも呼び出せるようになる」

 

 言葉を選ぶ暇も惜しむように、銀太は早口で説明を続ける。

 この空間では、彼に頼むことで今の状態のペルソナを“採譜”し、記録として残すことができる。そして、対価さえ払えば、そのペルソナを再び呼び出すことも可能だ。

 

 一体につき、楽譜は一枚限り。

 すでに記録されたペルソナをもう一度採譜する場合は、新しい状態で上書きされる。それが、ここのルールだという。

 

「知ってると思うけれど、戦闘経験を重ねるうち、ペルソナが新しい技を会得することもあるだろう。その時は、またボクに採譜を頼んでくれればいいというわけさ。……さて、ここまでで、疑問はないかな?」

 

「理解したよ。それより、新しいペルソナを作るっていうのを試したい」

 

「……ああ、編曲だな。任せてくれ」

 

 銀太は一転、神妙な面持ちになると、グランドピアノの前へとぎこちなく歩を進めた。

 椅子に腰を下ろし、手にした楽譜を譜面台にそっと置く。開かれたのは、まだ何も書かれていない白紙の五線譜。

 

 小さな手を鍵盤の上に乗せると、ふぅ、ふぅと深い呼吸を繰り返す。

 

「ひょっとして、緊張してる?」

 

 こんな姿を見せられては、聞かずにはいられない。

 

「そっ、そんなことはない。ボクはキミを導く案内人──緊張など、無縁のものさ。ボクに任せれば間違いはない」

 

 明らかに虚勢だが、茶々をいれている暇はなさそうだ。

 隣で真理子はいまだにうつらうつらしていて、もう限界が近いように見える。

 

「じゃあ、頼んだよ」

 

 そう言って頷くと、銀太の顔がパッと明るくなった。

 

「ひとまず、ボクにペルソナを預けてくれ。そうだな、ロビンフッドと」

「──いや、ロビンフッドはやめよう」

 

 すかさず、吾郎が口を挟んだ。

 どんなペルソナが生まれるかも分からないのだ。他と合わせた結果、失敗して消えてしまったり、メメントスにいたカボチャや壺のような姿に変わってしまったら、後悔してもしきれない。

 吾郎は、ロビンフッドのデザインをけっこう──いや、かなり気に入っていた。

 

「承知した。なら、カハクとエンジェルだな」

 

 吾郎は頷き返した。

 

 初めて手に入れたシャドウはピクシーだったが、彼女はすでに手放している。メメントスの奥へ進むにつれ、もっと強いシャドウがいたからだ。

 無尽蔵に新しいシャドウを手札に加えられれば便利なのだが、そうもいかない。吾郎にとって許容の限界はたった二体、それ以上はどうしても持てなかった。

 

 銀太は、指を軽く動かし始めた。譜面を奏でる前の準備運動のように、丁寧に。

 

「……始めるぞ」

 

 指が鍵盤に触れ、音が零れた。

 

 二つの旋律が重なり合いながら、一つの楽曲に昇華されていく。

 

 真理子のシャドウが元になっているからか、銀太の演奏もまた、気高く情感的だ。

 

 音の粒が部屋の隅々まで満たしていく。それと同時に、淡い光が視界を満たした。

 

「私はアメノウズメ」

 

 光の中から、ふわりと人影が立ち現れた。

 

 笠をかぶった着物姿の女性。優雅な所作で、彼女は一礼する。

 

「新たな仮面となり、共に舞いましょう。力呼ぶ調べで……」

 

 編曲は成功した。

 

 新しい力。彼女が持っている技が、初めから備わっていた能力のように理解できた。

 

 疾風、電撃、カハクから受け継いだ火炎。この三属性に加えて、回復まで持っている。

 

 この力があれば、岡倉のパレスの先へ進むことだって不可能じゃない。

 ペルソナを二体犠牲にするだけの価値は、十全にあったといえる。

 

 銀太に褒め言葉の一つでもかけようと思った時、

 

「──すぅ……」

 

 隣からすこやかな寝息が聞こえてきた。真理子がついに眠気に敗北したようだ。

 

 意識が青い部屋から弾き飛ばされ、急速に遠ざかっていく。

 

 

 

 新しいペルソナを編曲した翌日、二人は岡倉のパレスを訪れていた。

 メメントスで戦闘経験を積んだ成果か、ロビンフッドもエポニーヌも順調に力をつけている。慎重に動いている限り、このパレスでも命を落とすような危険はないはずだった。

 

 外にいた従業員シャドウを倒し、奪ったカードキーでエレベーターを起動させるまでは、順調に事が運んだ。

 

 毒々しい極彩色で彩られたショッピングモール。

 真理子の言った通り、トイショップの最上階は商品売り場になっていた。

 

 エレベーターを降りた吾郎は、点在するガラス張りのショーケースや、天井から吊り下げられた壊れかけのおもちゃを見て、眉をひそめた。

 

「僕が地下室に転がっていた間、君はこんなところを彷徨っていたとはね」

 

 けっこうな冒険を、一人でしていたわけだ。

 

 後ろからついてきた真理子は、ヴェールの奥で神妙な面持ちを浮かべていた。

 

「あのときは四面楚歌で、気が気じゃありませんでした。この辺りには子どもの姿をしたシャドウが溢れていたんです」

 

 今は、誰かの気配ひとつない。

 ショーケースの周囲には赤いテープが巡らされ、「おもちゃには手を触れないでください」と書かれた掲示が掲げられている。テーマパークのようにごちゃごちゃとした装飾とは裏腹に、フロアには不気味な静寂が支配していた。

 

 真理子によると、ここには顧客の情報が記録された「貸し出し記録」があったらしい。

 まずはあの男の犯罪の協力者を特定するために、二人はここに来たのだ。

 

「それに……あなたの偽物が出てきたのも、この場所なんです」

「アイツか。一度倒しても、現実世界で僕が生きてることを岡倉は知ってるわけだし、また出てきてもおかしくないね」

 

 覚醒したばかりの自分が一太刀で倒せるほど脆いおもちゃだったのだ。今更出てきたところで脅威にもならない。

 

 だけど、できれば目に入れたくなかった。

 命じられたままに動く、自分の顔を貼り付けた操り人形。思い出すだけで、胸の奥から嫌悪が湧き上がる。

 

「認知存在って、復活するものなんでしょうか──若葉さんだったら、答えが分かるかもしれないけど」

 

 真理子の言わんとすることはすぐに分かった。

 この件を若葉に相談すべきではないか。そう言いたいのだろう。

 

 若葉には、このパレスの存在も真理子の兄がすでに故人であることも、なにひとつ伝えていない。行動を制限されたくなかったからだった。

 

 今はひとまず大人しくしているようだが、岡倉を放置すれば、いずれこちらに牙を剥いてくる。あの男は自分たち二人に対して、あまりに多くの脅迫材料を持っていた。

 正攻法で岡倉を追い詰めることができなかった場合、シャドウの方を異世界で屠る──その選択肢を手放すつもりはなかった。

 

 だが、もしこの話を打ち明ければ、若葉はまず止めに入るはずだ。例え彼女の倫理観が奇跡的に殺人を許容したとしても、ただの協力者に過ぎない人間を、あんな穢れた男の始末に巻き込むのは気が引ける。

 

 ──この件について口をつぐんでいたのは、始めはそう考えたからだった。

 

 だが昨日、脳科学センターの外で獅童の姿を見てから、理由は変わっていた。

 

 獅童は確実に、認知訶学の研究のことを知っている。

 どういう立場か、どこまで知っているのか。それをはっきりさせるまでは、若葉にこれ以上の情報を渡すつもりはなかった。

 

 若葉は二人の話したことを口外しないと誓っていたし、事実、今までそんな素振りを見せていない。だが、所詮は口約束。こちらを利用するだけして捨てるという可能性だってある。

 

 一度疑念が芽生えると、最悪の展開に想像を働かせる。悪癖だという自覚はあったが、そのおかげで切り抜けてきた局面も多い。

 

 獅童と関わりがあると分かった以上、相手を見極めるまでは、こちらの敵だと想定するべきだ。……もっとも、異世界ナビのことを打ち明けた後だともう遅いかもしれないが。

 

「まさか、若葉さんをこんな危険なことに巻き込むつもりじゃないよね?」

 

 釘を刺すためにもっともらしい理由を言うと、あっさりと真理子は頷いた。

 

「もちろん、分かっています」

 

 岡倉は多くの権力者と結びつき、影で犯罪を重ねる狡猾な人間だ。下手に関われば、あっという間に潰される。

 だからこそ、若葉の協力を仰ぐということを、真理子も本気で提案したわけでないのだろう。

 

 獅童を調べながら、岡倉のパレスを攻略し、若葉の研究にも表向きは協力する。

 懸念すべきことは、積み重なっていくばかりのように思えた。

 

 


 

 

 異世界での戦いは、非常に疲れる──ということを真理子は最近学んだ。

 

 メメントスの調査に加えて、岡倉のパレスの探索まで日課に加わったのだ。

 ピアニストとして活動して体力勝負には慣れている真理子でも、日に日に疲労が溜まっていくのを感じる。

 

 目まぐるしいまま年が明けて、二〇一四年になった。

 

 高校受験の時期のはずだが、吾郎に焦った様子はない。勉強に関しては余裕らしい。

 

 ただ、最近は留守にしていることが多くなった。高校入学前に、済ませておきたい用事があるのだという。

 

 そんなある日、リハビリを終えて門前に戻った真理子は、小さな人影を見つけた。

 

 近づいていくと、足音に気づいて、女の子は顔を上げる。

 

 ショートボブの大人しそうな雰囲気の少女。

 慈愛の翼にいた女の子──里奈という名前だったはずだ。

 

「あっ」

 

 彼女は声を漏らすと、ぺこりと頭を下げた。

 

「とつぜんお邪魔してごめんなさい。どうしてもお話したいことがあって……」

 

 くちびるからは血の気が引いて、震えている。

 何かに怯えているのだろうかと心配してから、真理子はふと気づく。

 

 彼女が着ているのは、部屋着のような薄手のスウェット。コートも羽織らず、靴もスリッパのようだ。慌てて飛び出してきたのだ。

 

 このまま外にいたら凍えてしまう。

 

「とりあえず、中で話しましょう?」

「あ、うん……」

 

 里奈は遠慮がちに頷き、所在なさげに後ろをついてくる。

 玄関の鍵をしっかりとかけながら、真理子は尋ねた。

 

「もしかして、誰かに追われているんですか」

 

 何か緊急事態にあって、家出してきたのかと真理子は警戒していた。だけど、里奈はぽかんとした顔で首を横に振る。

 

「ううん、違うよ。でも、勝手に出てきたから時間がないから、早く話さないとと思ってて。おじいちゃんのことで、言いたいことがあって」

 

 話す内容が整理できていない様子だった。いったん気を落ち着かせた方がいいかもしれない。

 

「立ち話も何ですし、座りましょう」

 

 そう促すと、里奈はこくんと頷いて靴を脱ぐ。

 

「おじゃまします」

 

 そして、そのまま、冷たい廊下に座り込んでしまった。

 あまりに自然な所作に、真理子はどうしたものかわからなくなってしまう。

 

「……どうしたの?」

 

 ふしぎそうに里奈はこちらを見上げてきた。そこが定位置のように、すっかり床の上に落ち着いている。

 

 迷った末、真理子も隣に腰を下ろした。しゃがんでやっと目線が揃う。

 

 彼女は背が小さく、遠心顔で幼く見える。

 だからなんとなく年下だと思っていたけれど、もしかしたら違うのかもしれないと。岡倉のパレスにあった『リナちゃん人形』の商品説明には、みんなのお姉さんなのだと書かれていたのだから。

 

 そこまで考えて、自己嫌悪に真理子は目を伏せた。

 

 言葉にできない罪悪感が胸を刺す。

 彼女の辛い経験を、勝手に知ってしまっている。本来それは、真理子には覗き見る資格なんてないものだったのに。

 

「えっとね、話したかったことなんだけど……」

 

 里奈はおずおずとした様子で話し始めた。

 

「もしかしたら、おじいちゃんがあなたたちに何かしてくるかもしれなくて」

 

 おじいちゃん……。一瞬戸惑ってから、岡倉のことだと気づく。

 真理子は息を殺して、次の言葉を待った。

 

「大切な交渉道具が箱に入ってるから心配いらないって、お母さんに言ってるのを聞いたの。それを、倉庫に隠せって」

 

 心当たりは一つしかない。地下室から忽然と消えた兄の遺体が入っていた箱だ。

 やはり父が廃人化した日、岡倉の協力者がこの家にきていたのだ。そして、地下室の箱を見つけて持ち去った。

 

 怒りが湧き上がるのと同時に、かえって頭は冷静になった。

 

 ──大丈夫、心配はいらない。

 倉庫の場所は、岡倉のシャドウから聞き出せばいい話だ。

 

「教えてくれてありがとうございます。ここまで来るのは、大変だったでしょう?」

 

「うん……でも、私もありがとう」

 

「え?」

 

「エレベーターで。止めてくれたとき」

 

 いつの話か分かった。

 パレスにいた”お客さん”と同じ顔の男に連れて行かれそうな里奈を見て、真理子が咄嗟に止めた時のことだ。

 

「そんな、結局、なにもできなかったですし」

 

「ううん、庇ってくれて、嬉しかった。……私の仕事のこと、吾郎くんが教えてくれたの?」

 

 そう尋ねられて、スッと胸が冷えた。

 里奈からすれば、だから当然、吾郎が彼女のことを勝手に話したと思ったのだろう。

 

「違うんです。吾郎くんは、何も言ってません」

 

 言い訳を口にしながら、焦りが滲む。

 岡倉の認知世界で真理子が彼女の人形を見たなんて、説明できるはずがない。

 

 悩む真理子を見て、里奈はただ首を傾げた。

 

「そうなんだ……?」

 

 話の重さに似合わぬ、無垢な仕草だった。

 

「やっぱり、ふつうは、ああいう仕事のことって、知られたくない、恥ずかしいことなんだね。ぼーっとしているうちに終わるから、私には、よく分からなくって」

 

 嘘や誤魔化しじゃなく、本心から里奈はそう言っているのだ。

 

 ──だけど、あんなことは仕事なんかじゃない。ただの暴力だ。

 

 それに、今は平然と話しているように見えるけど、あのとき、大人の姿を前にして彼女は確かに怯えていた。それはきっと、彼女自身が気づいていないだけで、深く傷ついている証拠だ。

 

 思いはたくさんあるのに、どれも適切な言葉に変わってくれない。真理子が口にするべきことなのかも、分からなかった。

 

 沈黙が続いてしまったせいだろう。

 里奈が、申し訳なさそうに眉を下げた。

 

「あっ……ごめんね。困らせるようなこと言っちゃったかな」

 

 これだけは言わないといけないと、真理子は彼女をまっすぐにみた。

 

「あなたが恥じるようなことなんて、何ひとつありません。被害者が、自分を責める必要なんてないんです」

 

「被害者?」

 

 里奈は瞳を丸くして、聞き返した。

 

「私は他の子たちと違って、被害者ってわけじゃないよ。私は、悪いことをしてるから」

 

「悪いって、そんな……」

 

「──そんなことないって、言ってくれようとしてるの? でもね、本当に違うんだ。慈愛の翼で酷い目にあった子の中には、私が連れてきた子もたくさんいるんだから」

 

 呆然とする真理子をよそに、里奈は淡々と語り始めた。

 

「お母さんもお父さんも男の子が欲しかったから、私は家族の中でいらない子で。昔から誰も私を見てくれなかった。でも中学生になった時に、お母さんが里奈にしかできないお願いがあるって言ってくれた。夜、街に一人でいる子どもたちを、慈愛の翼に連れてきて欲しいって。大人が行っても信頼されないから、里奈にしかできないことだって言われて、すごく嬉しかった。やっと、見てもらえたんだって思った」

 

 親に脅されてやったことなのだから、彼女のせいじゃないんじゃないか。そう思う真理子の心を見透かしたように、里奈はじっとこちらを見る。

 

「みんな嫌な思いをするって知ってた。だけどずっと、喜んで続けてた。誰かを連れてくると、お母さんが『里奈、ありがとう』って言ってくれるから。明日もお母さんがそう言ってくれるなら、なにをしてもいい気がした。……夜、私についてくるのは、優しい子ばっかりだった。一人でいる私を見て、心配して声をかけてくれる子たちの手を引いて、ここにきたら安全だから一緒に行こうって嘘をついて、慈愛の翼に連れて行った」

 

「それは、今も……?」

 

 問いかける真理子に、里奈は「もうやってないよ」と首を振った。

 

「一昨年の夏にね、私が連れてきた子が慈愛の翼から逃げ出して、ビルから飛び降りて死んじゃったの。おじいちゃんは、仕方がないよ、その子は里奈に怒ってないよって言ってくれたけど、そんなわけないって分かってた。その子が落ちて死んだ道は、私がその子に最初に話しかけた場所だったから。きっと、私に言いたいこと、たくさんあったんだと思う」

 

 こんなことを吶々と話し続ける里奈が、急に怖く感じた。どこにでもいる普通の少女のように見えるのに、何を考えているのかがまるで分からない。

 

「それで、やめようって思ったんですか……?」

 

「ううん、違うよ。ああ、あの子死んじゃったんだって思って、それだけ。お母さんに頼まれて、その日の夜も、他の子を連れてこようとした。だけど新しい子に話しかけようとした時、急に頭が真っ白になって、声が出なくなった。きっとあの子が怒ってるんだって思って、怖くなって、家に帰ったの。

 そしたら、おじいちゃんとお母さんが話している声も聞こえなくなってて、やっぱり声も出ないままで。いろいろ試しても、どうにもならなくて。魚みたいに口をパクパクさせてて、おかしいよって、お母さん言って。これじゃあ里奈にこのお仕事は任せられないねってなって……それで、おしまい」

 

 まさか死者の呪いなんてものがあるはずがない。だから、里奈自身の自責の念が彼女を止めたのだろうと、真理子は思った。

 

「きっと、これは罰なんだと思う。悪いことをしたから、こうなった。私にももっと罰が待っている。おじいちゃんにも罰が下るし、お母さんもお父さんにも罰が下る。だから安心。……でもね、やっぱり私はあの最低な家の子どもなんだと思う。だってあの子が死んじゃったことより、お母さんがまた私を見てくれなくなったことの方が、私はずっと悲しかったから」

 

 ぼぅっと虚空を見ていた里奈が、真理子の目をじっと見た。

 

「だから、次は、私のことを助けようなんてしないでね」

 

 ──たぶん、彼女はその一言を伝えるために、すべてを語ったのだ。

 

「長居しすぎちゃったね。そろそろ行かないと」

 

 そう言って、里奈は静かに立ち上がる。

 

「それじゃあ。吾郎くんにもよろしく」

 

 まるで何事もなかったかのように、里奈は小さく微笑んだ。

 またあの家に戻ろうとする彼女を前にして、真理子は「あんな家に帰る必要はない」と言おうと思った。

 

 だけど、「助けなくていい」と忠告されたばかりだ。

 何を言っても、届かないだろうという確信があった。

 

 大人びていると、真理子は人からよくそう言われる。実際、同年代の子より冷静で、達観している自覚があった。他の子を見て、子どもっぽいなと呆れることも多かった。

 

 だけど今、そのすべてが空虚な虚勢に思えた。

 

 目の前の彼女は、言い訳ひとつこぼさず自分の過去を受け入れている。だけどそれは強さというより悲しいまでの諦観で……真理子が思う「大人っぽさ」によく似た匂いがあった。

 

 

 

 里奈がいなくなった後、ほどなくして吾郎が帰ってきた。

 

 彼女の言っていた「交渉道具」のことは共有した。けれど、それ以外の話はしなかった。きっと里奈は気にしないのだろうけれど、それでも勝手に話していいことじゃないように思えたからだ。

 

 吾郎が上の階にいる隙を狙って、真理子はひとり、異世界ナビを開く。

 

「……岡倉里奈」

 

 そして、一縷の望みをかけて、そう言った。

 

 彼女は、自分を罰せられて当然の共犯者だと言ったけど、真理子にはどうしてもそうは思えなかった。もしかしたら、自分のように、間違った認知に囚われているのではないかと考えたのだ。

 

「──該当しません」

 

 ヒットはない。里奈にパレスは存在しないのだ。

 つまり、彼女の自己認識は正常だということになる。

 

 だけど、そもそも、「正しい認知」とは何なのだろう? 

 いったい誰が、どこで、その線引きをするというのだ。

 

 八つ当たりのようにそう考えてから、真理子はそっとため息をついた。

 

 里奈の言っていることに、自分はほとんど共感することができなかった。

 

 だけど──ただひとつ、確かに感じたことがある。

 

 母親に自分を見てもらう。そのためだけに、間違っていると知っていることを何度でも繰り返したと、里奈はそう言っていた。

 

 だとしたら、それはきっと、とても苦しい生き方だ。

 それだけは、はっきりと分かった。




次回は六月二日に更新します。
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