ペルソナ5 明智兄妹の事件簿   作:かっぱえびせん

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第十一話 歪み

 駅のホームの壁を、血管のような赤い線が脈打つように走っていた。

 厚い鋼鉄の扉は微動だにせず、重い存在感を放っている。若葉は足を止め、振り返った。

 

 後ろにいるのは、仮装パーティに出てもおかしくないような華美な衣装に身を包んだ、二人の子どもだった。

 

「オディール、また扉の前に立ってもらえるかしら?」

 

 これまでにも、メメントスのエリアを区切る扉を二度ほど越えてきた。

 固く沈黙する扉が開いたのは、真理子が前に立った時だけだった。そしてその先には、必ず下層へ続くエスカレーターがあった。

 

 扉が開くかどうかには、世間での認知度が関わっている。

 

 真理子にだけこの扉が開くという事実と、観測したデータをもとに、若葉はそう推論を立てていた。

 

 若葉の隣に、真理子が並ぶ。

 けれど、依然として扉は沈黙を保っている。そのまま十秒数えたところで、若葉は見切りをつけた。

 

「ダメね。ここが、オディールの知名度の限界点なのかもしれないわ」

 

 そろそろだろうと予測はしていた。

 この先を探索できないのは、非常に残念だ。けれど一方で、どこか安心する気持ちもあった。

 

 頬にまだ丸みが残る、あどけない子どもが二人。そんな子どもたちの背に隠れ、階を下るごとに劣勢になっていく戦闘を見るのは、あまりに心臓に悪い。これ以上危険な領域に進まない言い訳ができたことに、ほっとしてしまうのも本音だった。

 

「何か試せることはありますか?」

 

 言いながら、吾郎は白い手袋に包まれた手で、コツコツと扉を叩く。焦っているのだろう。彼にしては珍しく、感情が表に出てしまっていた。

 

「難しいと思うわ。集合的無意識に影響を与えるには、物理的な手段ではどうにもならないでしょうし、不確定要素の大きい方法を試すのは危険すぎる」

 

 そう諭しても、吾郎はまだ諦めきれないらしい。顎に手を当てて、ひとり思考に耽っている。

 

 一方で真理子の方は、さして興味のない様子で扉を見ていた。

 

 彼女は、父を救うための研究の進捗には強い興味を示している。だが、メメントスの深部へ到達することや、ペルソナを強くすること──認知世界そのものには、さしたる関心はないのだろう。

 

 対照的な反応を見せる二人。その姿を見て、若葉の胸にはまた同じ疑問がよぎる。

 

 この二人は、本当に同じ家庭で育った兄妹なのだろうか?

 

 表面的なところだけ見れば、この子たちは非常によく似ている。

 年齢にそぐわない落ち着いた所作、教養を感じさせる言葉遣い、人目を引く美しい容姿。誰が見ても、優等生の兄妹だと言うだろう。若葉自身、はじめは疑いもしなかった。

 

 そんな若葉が小さな違和感を抱いたのは、検査の日だった。

 ラベルのないペットボトルを渡し、これは安定剤だから飲んでほしいと頼んだ時。あの時、二人は真逆の反応を見せた。

 

 種明かしをすれば、あれの中身はただの水。被験者に対して毎回行っている、簡単な心理検査だった。

 

 正体不明の飲み物を口にすることに、多かれ少なかれ人間は抵抗を感じる。けれど、その度合いは人によって大きく違う。被験者の仕草を観察し、どれだけ心理的な壁があるかを見極め、最終的な検査機器の出力を決める参考にしていた。

 

 あの時、真理子はまったく疑うことなく口をつけた。

 一方、吾郎は躊躇っていた──ように若葉には見えた。

 

 躊躇するのは、ごく一般的な反応だ。これまでにも、中身が何か聞いてくる被験者はいた。その場合、ただの水だから飲まなくてもいいと若葉は正直に教えていた。

 

 だけど吾郎は、警戒していることすら悟らせまいとした。そして最終的には、素知らぬ顔で飲むことを決めたのだ。

 

 若葉が深く観察していなければ、その疑念自体をうまく隠し通せていたかもしれない。

 

 吾郎のすべての行動には、慎重さを通り越した、もっと根深い人への不信が表れていた。

 

 同じ家庭の子どもが、これだけ明らかに違う反応を見せるのは珍しい。当時はただ、心の片隅に引っかかっていただけだった。

 

 だが、それからも二人は同じ傾向を示し続けた。

 

 他者を鋭く観察し、優しい笑みの後ろで常に警戒を解かない吾郎。

 どこか超然とし、周囲の人間に頓着することのない真理子。

 

 この二人が認知している社会には、決定的な違いがある。若葉はそう気づいてしまった。

 そしてその大きな差は、あらゆる場面で行動を通して明らかになる。

 

 そう──例えば、あの子たちが砂漠にいて、死にそうなくらい喉が渇いていたとする。

 

 そんな時、水で一杯のコップを持つ人間が目の前にいたら、きっと真理子は喉が渇いていると口にする。

「私が困っていると知れば、この人は貴重な水を譲るに違いない」と、ごく自然に思うはずだ。疑う余地もないほど、当たり前に。

 

 だけど、吾郎はけっして弱みを見せようとはしないだろう。

 むしろ普段よりさらに明るい笑みを見せて、世間話の一つでも始める。水を譲ってもらえる可能性など端から考慮せず、付け入る隙を見せれば利用されるだけだと信じているからだ。

 

 これは、どちらが正しいという話ではない。

 人の思考の癖は、それまでの経験の積み重ねで形づくられるからだ。

 

 つまり、真理子が見てきた社会には、彼女のことを優先し、慮る人間が多かった。

 吾郎の見てきた社会では、困っていると聞けば、水を譲ってくれないどころか、目の前でコップをひっくり返すような人間さえいた。

 

 それぞれの知っている環境で、最適解と言える行動を取っているだけの話だ。

 

 社会に対するスタンスの違いは、彼らの仮面にもよく表れているように見えた。

 

 ペルソナを召喚するために外す、あの仮面。

 あれを、心理学用語としてのペルソナ──社会に向ける外的側面の具現化だと考えたら。

 

 真理子のヴェールは、薄く顔を覆っているだけで、表情のすべてを明らかにしている。

 彼女の知る社会では、欲求は表に出したほうが都合がいい。必要なのは、少しばかりの秘密くらい。

 

 逆に、吾郎の仮面は顔を厚く覆い隠し、見せているのは口元だけだ。

 嘴のように尖った仮面は、シルエットすら完全に変えてしまっている。まるで、本来の自分とはまったく違う存在として見られたいかのように。

 

「ずいぶん考え込んでいる様子ですが、もしかして先へ行く方法が思いついたんですか」

 

 考え込む若葉の顔をひょいと覗き込んで、吾郎が笑顔で尋ねてきた。

 

 若葉は「残念だけど、手詰まりだわ」と首を振る。

 その間も、赤い仮面の奥で、優しげな瞳はどんな嘘も見逃さまいとこちらを探っている。

 

 まったく信頼がないなと、苦笑いしてしまいたくなる。それと同時に、ひときわ強く思った。

 

 やっぱり駄目だ。何度考えても、この二人が同じ生育環境にいたとはとても考えられない。

 

 違和感は膨れ上がり、もはや抑えようのない段階に達している。

 

 そして、この二人が違う家庭で生まれ育ったと仮定した場合。

 社会的地位の高い家で生まれ育った子どもというプロフィールに合致しているのは──疑いようもなく、真理子の方だった。

 

 事情があるなら相談してほしい、と思わずにはいられなかった。

 けれど、隠し事を責める資格が自分にないことは、よく分かっていた。

 

 若葉自身も、いまだに二人へ隠していることがあった。

 

 より正確に言えば、伝えようとしては口をつぐんでいることだった。

 

 ──廃人化した明智啓次が意識を取り戻すことは、もう二度とない。

 

 臓器は動いている。五感を刺激すれば、脳に反応が現れる。

 生物学的には、生きていると定義してもいいだろう。

 

 だけど自立した思考、感情……人を人たらしめる何もかもは永久に失われた。認知存在が死んだ時、人間としての明智啓次もまた、亡くなったのだ。

 

 不可逆の死を迎えた父を救いたいという、真理子の願いを叶えるためには──認知世界の謎を解き明かすだけでは足りない。死んだ人間を生き返らせる方法を探す必要があった。

 

 そんなもの、全知全能の神でもない限り不可能だ。

 まだ希望があると、心から約束できたらどんなにいいか。そうは思っても、若葉は科学者だ。死からの奇跡の復活などという、あり得ないものを信じることはできない。

 

 だから、若葉が真理子に伝えられる真実は一つだけ。

 あなたの父親は死んだ。

 それだけだった。

 

 たった十三歳の少女に突きつけるには、あまりに残酷な現実だ。

 しかも真実を言えば、真理子は自分が父親を殺したのだと、そう思い詰めるのだろう。

 

「大丈夫、あなたのお父さんは必ず助かるわ。時間はかかるかもしれないけど、研究が進めば、いつかまたお父さんに会える。私を信じて」

 

 どうするべきか迷って、結局本当のことを言えず、若葉は嘘をつき続けていた。そのたび、心の底に澱が溜まっていくのを感じる。

 

 

 メメントスから出た頃には、日が沈みかけていた。

 電車の前で二人に別れを告げた後、若葉はケータイを開く。

 

 留守電が一件。着信履歴の番号を見て、目を見開いた。

 

 ここ数日、ずっと待っていた相手からの連絡だ。すぐに掛け直す。

 

 そして挨拶もそこそこに、若葉は進捗を尋ねた。

 

「ええ。調査はもうすべて終わりましたよ」

 

 すると、期待していた通りの返事がきた。

 

 こちらの依頼に、迅速に対応してくれたらしい。信頼できる興信所を人づてに探した甲斐があった。

 

 ごくりと唾を飲み、続く言葉を待つ。

 

「当時の大学側とのやり取りが見つかりました。それから、証言してくれそうな候補も何人か」

 

 証言?

 

 氷水をかけられたように、心臓が冷えた。

 求めていた結果は「何も見つからなかった。そんな事実はない」という返事だ。杞憂だったと、安心したかったのだ。

 

 証言や証拠が出てきたということはつまり、あれは根も葉もない噂ではなかったということだ。

 

「ここまでの調査報告書を請求書のメールに添付しておくので、どうするかは一色さんが判断してください。期限が短かったので今回は割高になりましたが、人員を減らして当たれば、もう少しお値下げすることも……」

 

 追加費用の説明は頭に入らない。

 適当な言葉を返して電話を切った後、若葉はメールに添付された文書を開いた。

 

 一枚一枚スクロールし、書かれていることを理解するにつれ、頭が真っ白になっていく。

 

 大学側との面談記録。当時の学生たちのやり取りのスクリーンショット。

 証拠不十分、退学を勧めた、という短い文。そして見覚えのある名前。

 

 読むたびに胃の奥が冷たく縮んでいく。

 

 気持ちが悪くなり、若葉は駅構内のトイレへと駆け込んだ。

 個室の中で何度も呼吸を整え、強く目を閉じる。

 

 考えてはいけない。

 その先まで考えれば、きっと立っていられなくなる。

 

 

 一時間ほど後、化粧を整えた若葉は研究室に着いていた。

 やらなければならないことは山積みだ。立ち止まっていられる余裕はどこにもない。

 

 通常業務を終え、職員たちがみな帰宅する時間まで待つ。

 個室に籠もってひとり残る若葉を見ても、誰も違和感を抱かない。いつものことだと思われるだけだ。

 

 メメントスで計測したデータを解析するためには、ラボの機材が必要だった。だが日中に使えば、他の職員たちに見られてしまう。真理子たちに異世界ナビのことを秘密にしておくと約束した以上、解析作業は深夜に一人で行う必要があるのだ。

 

 蛍光灯の白い光が、ひと気のない研究室を照らしている。窓の外はとうに暗く、ガラスには夜景ではなく、疲れ切った自分の顔ばかりが映っていた。

 

 膨大なデータの海に集中していれば、報告書の内容は考えないで済む。

 

 そう思っていたけれど、思考はまるで働いていなかった。

 

 集中しようとすればするほど、苛立ちや後悔が募った。数値を読んでいるはずなのに、興信所からの報告書に並んでいた文字列が、代わりに思考へ割り込んでくる。

 

 キーンと響くようなノイズが遠くで聞こえて、ずっしりと頭が重かった。

 泣いた後はこんな感覚になるのだと、久しぶりに思い出した。

 

 若葉は重いため息をつくと、カフェインタブレットを数錠手に取り、インスタントコーヒーで喉に流し込む。

 

 そして改めて、スクリーン上に出力された三次元グラフのパターンに目を凝らした。

 

 おかしい。

 

 集合的無意識に走る、誰かの思考ではない。もっと、しっかりとした輪郭がある。偶発的な揺らぎではなく、明確な意図があるような波形。

 まさか若葉たちよりも先に、完全な形で認知世界への介入を完成させた者がいるとでも言うのだろうか。

 

 何より、そもそも指向性が狂っている。

 

 あり得ない。これではまるで、現実世界の方からではなく、集合的無意識の奥底から干渉してきているかのような……。

 

「一色先生」

 

 背後からかけられた男性の声に、若葉は肩を跳ねさせた。

 反射的に指が動いて、素早くパソコンをスリープモードにする。

 

 この声は、研究所の同僚だ。

 

「北村先生、いらしていたんですね」

 

 何をしていたか聞かれる前に、若葉は言葉を継いだ。

 動揺が声に滲んでいる。自分らしくない、下手な誤魔化しだった。

 

「すみません。驚かせてしまいましたね」と北村。

 

 振り返るべきか躊躇する。

 だけどそうすれば、涙の跡に気づかれてしまう。

 

 結局、不自然だと分かっていながらも、暗転したスクリーンを見続けることしかできなかった。

 

 沈黙が降りる前に、北村が先に声を発する。

 

「あの、着信音が聞こえたんですが、大丈夫ですか?」

 

「えっ?」

 

 そうだっただろうか。

 

 若葉は机の端に置いたケータイを見る。

 画面は伏せられている。いつからそうしていたのかも覚えていない。

 

 言われてみれば、鳴っていたかもしれない。耳鳴りが酷くて、気づかなかった。

 

「はは、相変わらず凄まじい集中力だ。やっぱり世紀の発見なんて偉業を成せるのは、そのくらい俗世を捨てている人なんだと、一色先生を見ていると思いますよ」

 

 俗世を捨てている。

 いつもなら聞き流せる、言われ慣れた冗談が、今だけは妙に耳に残った。

 

「教えてくれてありがとうございます」と若葉は疲れた笑みを浮かべた。

 

 着信を確認すると、不在着信はすべて双葉からだった。

 それに加えて、時間をおいて届いた四件のメッセージ。

 

『不覚。鍵を忘れてしまった。家に入れず、ピンチщ(゚д゚щ)』

 

 最初の送信時刻は、午後八時。

 

『母よ、電話でて(´;ω;`)』

 

 午後九時半。

 

『お母さん、怒ってる?』

 

 午後十時。

 

『電話いっぱいかけてごめんなさい。大丈夫だったので気にしないで!』

 

 最後に送られてきたのが、夜の十一時。

 そして、今は朝の三時になっている。

 

 最初のメッセージから現在までの七時間、双葉は一人で外にいたのだ。あんな小さな女の子が、深夜に。

 

 理解した瞬間、血の気が引いた。

 

「すみません、娘が……帰ります!」

 

 若葉はコートをつかむと、飛び出すように研究室を出る。

 

 その背中を見て、北村はふっと嘲るように笑った。

 

「──もっとも、母親としては最低だ」

 

 底知れない嫉妬の滲んだ小さな呟きは、若葉の耳にはまるで届いていなかった。

 

 タクシーを拾って、大慌てでマンションへ向かう。

 

 車窓の外を、夜明け前の街が後ろへ流れていく。信号で車が止まるたびに、若葉は膝の上のケータイを握りしめた。

 

 迎えに行くと連絡しても、双葉からの返事はない。

 最悪の想像が頭をかけ巡る。

 

 画面はもう何度も確認している。それでも、目を離すと取り返しのつかないものまで消えてしまいそうで、何回でも同じメッセージを開いた。

 

 お母さん、怒ってる?

 電話いっぱいかけてごめんなさい。大丈夫だったので気にしないで!

 

 双葉は、自分を怒らせたのではないかと心配したのだ。

 寒い廊下か、マンションの外か、どこかで一人になりながら。それでも最後には、母親を責めるのではなく、謝る言葉を選んで。

 

 ここ最近ずっと寂しそうな顔をする双葉のことを思うと、胸が押しつぶされそうだった。

 

 マンションに着くと、若葉は料金を払うのももどかしくタクシーを降りた。

 エントランスの自動ドアが開くまでの数秒さえ、耐えがたいほど長い。エレベーターの数字が一つずつ増えていく。自分の部屋の階に近づくほど、息が浅くなった。

 

 扉が開く。

 

 廊下の先、自分の部屋の前に、双葉だけでなく──真理子と吾郎の姿もあった。

 どうして二人が、と思う。

 

 けれど、足音に気づいて顔を上げた双葉と目が合って、思考はすぐに霧散した。

 

「お母さん!」

 

 パッと顔を上げた双葉の目には涙が滲んでいる。

 そして駆け寄ってくると、ぎゅうっと抱きついてきた。

 

「鍵、忘れちゃって、ごめんなさい」

 

 そんなこと、謝る必要はない。悪いのは、私なのに……。

 

 こんなことを娘に言わせてしまったと、堪えきれない遣る瀬なさが胸の奥からこみ上げる。

 それと同時に、フッと視界が歪む。

 

 愛していないから、こんなことができる。

 娘よりも研究が大事なのか?

 

 自分の声だ。次々と、声は若葉を責め立てる。

 

 他の家の子どもは、もっと幸せにしているのに。

 父親もいなくて、双葉には肩身の狭い思いばかりさせている。

 責任を持てないなら、どうして産んだの?

 母親失格。

 

 それを、若葉は振り払おうとする。

 今までも、子育てで失敗した時に自棄になりかけることはあった。そのたびに負の感情を整理して、冷静に物事を見て対処していた。

 

 これは認知科学でいうところの、オール・オア・ナッシングシンキング。よくない、危険な考え方だ。

 破局的思考。過度の一般化。そう名づければ、いつもなら距離を置けた。ラベルを貼れば、自分の感情だって観察対象にできた。

 

 だけど、今日ばかりはうまくいかない。

 

「──で、双葉ちゃんとレストランにいたんですが、若葉さんが帰ってくると聞いて」

 

 真理子が何か声をかけてくるが、うまく聞き取れない。

 

 聞き返そうとしたその瞬間、列車の通過音が耳を劈き、若葉は息を呑んだ。

 廊下のコンクリートの壁に、赤い線が走ったように見えた。血管のように脈打つ、メメントスの駅で見たあの線。

 

 違う。

 

 目の前にあるのは、見慣れたマンションの廊下だ。

 双葉の指がコートを掴む感触も、真理子の声も、現実のもの。

 

「でも、もう安心ですね。私たちは失礼します。お二人とも、どうかゆっくり休んでください」

 

 優しい真理子の声に、ふと疑問が湧く。

 

 ──そもそも、私は本当にこの子のことを思って嘘をついたのだろうか?

 

 父親を助けられないと知れば、二人との取引も終わり。メメントスでの研究は進められなくなる。

 

 だから嘘を教えているのだ。なのにそれを聞こえのいい理由で誤魔化して、満足している。

 自分の娘にすらまともに愛情を注げない人間が、他の子どもを大切に思えるはずがない。

 

 一度生まれた自責の声は止まらなかった。

 

 若葉の視界は、少しずつ歪んでいく。




前回から更新が大幅に遅れてごめんなさい。
待っていてくれた方々、優しい言葉をくれた方々、ありがとうございます。

次の展開は常に頭にあったのですが、転職活動などで忙しすぎて書かないうちに筆が止まってしまいました。毎週更新を守れている作者さんたちのことを本当に尊敬します。

久しぶりの更新なのに暗い話になってしまいましたが、明日も更新があるのでよかったら読んでください。
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