階段の上に立つ男を、真理子は見上げた。
石段は神殿の奥へ向かって長く伸びていて、下からでは目を凝らさなければ顔立ちまでは判然としない。
だが、そこにいたのは知った顔だった。
獅童正義だ。
真理子は、息を呑む。
研究所に出入りしている以上、若葉の認知世界に姿があること自体は不自然ではない。
問題は、その服装だった。
宝石のはめ込まれた金の襟飾りと、装飾の施された腰帯を身に着けている。左手には金の腕輪。右手には、王笏らしき杖。
ファラオ。
この神殿において、神妻をも凌駕する権力を持った存在。
この男にはそれだけの影響力があると、若葉は認識しているのだ。
「それとも、金に困って、ついに託児所でも始めたのか?」
なんて癇に障る物言いだろう、と真理子は眉を寄せた。
もしかして、若葉の知っている獅童の本性は、こんなものなのだろうか。
誇示するように晒された筋骨隆々の上半身を見て、真理子は気分が悪くなった。
嫌なもので目を汚してしまったものだ。不快感が、胸の奥にじわりと広がる。
こんな態度を取られて黙っている道理はないが、認知存在を相手に無礼を咎めるのも馬鹿らしい。
真理子は、階段の上から獅童のシャドウがいなくなるのを待った。
だが、獅童は動かなかった。
てっきり捨て台詞を吐いて歩き出すのかと思っていた。
しかし、虫けらを検分するような目で真理子たちを見下ろしている。
やがて、その目がわずかに見開かれた。
「待て、その顔……。あの女の産んだ子か」
──あの女の産んだ子?
真理子の母親は、獅童にとって、息子のクラスメイトの保護者だ。挨拶ぐらいなら交わしたことがあるかもしれない。
しかし、それだけでこんな反応をする理由はない。
いや、そもそも、ここは若葉の認知世界。
これは実際に自分たちを見た獅童の反応ではなく、あくまで若葉が思い描く「獅童なら言いそうな台詞」にすぎない。
そう考えると、なおさら意味が分からなかった。
若葉からすれば、獅童と真理子たちは面識のない他人同士のはずなのだから。
「なにを……」
聞き返そうとして、真理子は言葉を止めた。
気づいたのだ。
隣に立つ吾郎が、息を詰めている。
彼は一心に、獅童の方を見ていた。
肩を震わせ、ぎりぎりと音が聞こえそうなほど強く、拳を握りしめている。爪が手のひらに食い込んでいるのではないかと思うほどに。
そうしなければ、いまにも爆発しそうな憎悪を押し留められないかのようだった。
こんな顔の吾郎は、見たことがない。
真理子は思わずびくりと震えた。
「生活に困って、私に会いに来たというわけか」
獅童はそういうと、背を向ける。
そして、重い石が擦れる音が響いた。
階段の最上部に、巨大な扉が降り始めていた。
「いいだろう。ついてくるといい。息子が路上で野垂れ死んだとあっては、私も寝覚めが悪い」
そう言うと、黄金の装飾を揺らしながら、奥へと歩いていく。
息子?
つまり、この言葉は吾郎に向けられたものだ。
だがそうなると、獅童は、吾郎を自分の息子と見間違えていることになる。
真理子の記憶の中のマサキと吾郎は、似ても似つかないのに……。
「──ふざけるなァッ!」
吾郎の叫び声が、真理子の思考を切り裂いた。
憎悪に満ちた声をあげると同時に、彼は前へと走り出していた。
「吾郎くん!」
止めるために、真理子も階段を駆け上がる。
けれど、この足ではとても追いつけない。
何度も声をかけたが、吾郎が振り向くことはなかった。
背中が、みるみるうちに遠ざかっていく。
「うっ……!」
石段に足を取られ、真理子は転んだ。
ついた手のひらに硬い痛みが走る。膝も打った。息が詰まり、視界が揺れる。
上の方で、吾郎が足を止めた音がした。
「君は外に出ろ」
硬いものが石段に置かれる音。そしてすぐにまた、吾郎は駆け出してしまう。
「待って……」
再び立ち上がったとき、吾郎はすでに階段を登り終えていた。
追いつく間もなく、重い石の扉が降りていく。みるみるうちに狭まる隙間の向こうへ、吾郎の背中が消えていく。
「先に行っては駄目、戻ってきて!」
真理子が叫んだのと同時に、鈍い地響きとともに扉は完全に閉ざされた。
完全に、分断されてしまったのだ。
駄目だ。
あの扉を上げることはできない。
扉の周囲に仕掛けがないか、一通り調べた。近くにいる認知存在の職員たちにも聞いてみた。思いつく限りの方法を試した。
それでも、石の扉はびくともしなかった。
幸い、今のところ、真理子の服は変わっていない。敵シャドウも出現していなかった。
ただし、吾郎も同じ状況にあるとは限らない。侵入を許されていない奥へ進んでしまえば、排除すべき敵とみなされるかもしれないのだ。
しかも、吾郎は「帰れ」と言って、ケータイを置いていった。あの先で何があっても、逃げることすらできないのだ。
自分の知る彼らしくない、浅慮な行動だ。
それも当然かもしれない。
獅童が「息子」と口にした瞬間、吾郎は尋常ではないほど怒り狂っていた。冷静さを完全に失っていたのだ。
──あの二人が親子?
それが真実だとはどうしても思えない。
でも、だからといって、まったく無関係の他人とも考えにくかった。
そもそも、現実世界で獅童を見た時からそうだった。
吾郎はおかしいと思うくらい、あの男の存在を意識していた。
もしかしたら、吾郎は初めから獅童のシャドウを探して、このパレスを探索したのかもしれない。
政治家に近づこうとする理由。
獅童を目にしたときの異常なまでの警戒した態度。
違和感はずっとあった。口論になることを恐れず、踏み込んで聞き出しておくべきだった。
そうしていれば、今の状況にはならなかったかもしれないのに……。
そこまで考えて、首を振る。
後悔している暇はない。
一刻も早く、吾郎を連れて脱出する必要があった。この神殿のなかに入ると決めた責任の半分は、真理子にあるのだ。
真理子は周囲を見回す。
階段の下には、いくつもの小部屋へ通じる通路があった。先ほどは扉を開けることばかり考えていたせいで、詳しく確かめていない。
もしこの神殿が研究所と対応しているなら、奥へ続く道は一つではないかもしれない。
現実の建物にも、階段や廊下、職員用の通路はいくつもある。正面から行けないなら、別の道を探すしかなかった。
そして慎重に、最も近い小部屋へ足を踏み入れた。
そこは、書庫だった。
天井まで届く棚が、部屋の四方を隙間なく埋め尽くしている。
木の棚に収められているのは、本ではない。巻かれたパピルス、薄い石板、革紐で束ねられた書簡。それらが整然と並べられ、ところどころに金色の札が下げられていた。
古い紙と乾いた草の匂いが、ひんやりとした空気に染みついている。
奥の壁には小さな窓があったが、外は砂の色に霞んでいて、光はほとんど入ってこない。
机の上に、一冊だけ開かれた記録があった。
黒い革に似た表紙には、金の文字でこう記されている。
──供物の記録。
もしかしたら、扉を開く方法が書かれているかもしれない。
そっとページをめくる。
そこに書かれていたのは、淡々とした記録だった。
何年、何月、何日。
提出した論文の題名。解析したデータの量。観測に成功した波形。失敗した実験の回数。次に必要な検証。
そして、その横に小さく、供物の内容が添えられている。
六月二十三日。
幼稚園の親子遠足。同行できず、参加を見送ることに。
供物というよりも、日記のような内容だった。
膨大な記録を、真理子はパラパラとめくる。
五月二十六日。
アニメ映画鑑賞の約束。
開始二十分で睡眠不足から寝落ち。
起床時、肩に毛布がかけられている。双葉は一人でエンドロールを見ていた。
十月九日。
運動会。弁当は冷凍食品中心。栄養バランスが炭水化物に大きく傾いている。
他の家は手作り弁当が多い。
七月二十五日。
全てのテストで満点。ゲームをプレゼント。
一緒に遊ぶ時間を確保できず。
双葉は一人で攻略本を読んでいた。
七月十九日。発熱。三十八度二分。
午前、受診。感染症の疑いなし。解熱剤処方。
午後、研究所へ戻る。
夕方、傍にいられず、電話で体調を確認。
感情のない文体だった。ただ事実だけが几帳面に並んでいる。
だというのに、読み進めるほど、若葉の感情が伝わってくる。
これは、研究の成果を記録したものではない。
若葉が研究のために差し出してきた、供物──後悔している出来事の記録だ。
娘の運動会。寝かしつけの時間。一緒に食べるはずだった夕飯。
学校であったことを、もっとゆっくり聞いてあげたかった夜。
冷凍じゃなくて、本当は手作りにしたかったお弁当。
双葉が泣いていたときに、傍にいられなかったと後から気づいた瞬間。
きっと、普通の家庭でも、こんな瞬間は何度でもある。
何度も失敗して、それでも別の日に笑い合って、楽しい記憶の中に少しずつ溶かしていくことができるのだろう。
だけど若葉は違う。
飛び抜けた天才で、膨大な情報を扱うことに長けている。
だからこそ、忘れられないのだ。
普通なら時間とともに朧げになっていく小さな失敗も、彼女の中ではずっと鮮明なまま残り続ける。
些細な出来事が、データのように蓄積され、分類され、何度でも取り出せる形で保存されている。
その気になれば、いくらでも後悔をすることができてしまうのだろう。
真理子は、最後のページをめくった。
新しい日付の記録──先日のものだ。
双葉が鍵を忘れ、家の前で待っていた日。
そこだけ、筆跡が動揺からか、歪んでいた。
──双葉、鍵を忘れる。連絡に気づかず。約七時間、外に放置。
その文字を目にした瞬間、パピルスの上に淡い光が走った。
真理子は反射的に身構える。しかし、攻撃ではなかった。
書庫の空気が揺らぎ、目の前に映像が浮かび上がる。
マンションの廊下。深夜の青白い照明。そこに立つ、双葉の姿。
視界が揺れる。若葉が走ってきたときの記憶なのだろう。
双葉の小さな体は寒さで縮こまり、目元は痛々しいほど赤く腫れていた。手には暗くなったケータイを握りしめている。
そして、若葉を見つけた瞬間、双葉の顔がくしゃりと歪んだ。
「お母さん!」
安心した顔ではない。母親が帰ってきたことへの喜びよりも、恐怖が色濃く滲んでいた。
怒られる。嫌われる。迷惑をかけた。
そんな言葉にならない怯えが、あどけない顔いっぱいに浮かんでいる。
「鍵、忘れちゃって、ごめんなさい」
大きな目が揺れていた。若葉にしがみつきながら、怯えている。まるで、自分が見捨てられてしまうと、心の底から信じ込んでしまっているかのように。
母親の機嫌を損ねることを恐れる顔──まるで、かつての真理子のようだ。
強い拒否感から、真理子は本を閉じる。
「違う……」
誰にも聞こえていないと知りながら、そう声に出した。
知っている。絶対に、双葉はあの日こんな表情をしていなかった。
──こんな、親の機嫌に振り回されて怯える子どもの顔をしていない。むしろ、正反対の……。
そう思った瞬間だった。
身体に、ぞわりと悪寒が走った。敵に狙われているような恐怖。
それに対抗するように、燃えるように力が全身を包んだ。
エポニーヌ?
呼びかけると、心のなかで声が返ってくる。
いつでも呼んでいいと、そう言われた気がした。
真理子は自分の手元を見る。
レースの手袋に包まれた指先。視界には、薄いヴェールがかかっている。
服が変わった。つまり、若葉の認知が変化したのだ。
この神殿は、真理子たちのことを客人ではなく、排除すべき外敵として認識している。
まさか、吾郎が敵に襲われているのだろうか?
あるいは、若葉のシャドウになにかあったのかもしれない。
駄目だ。
このままでは、取り返しのつかないことになる。
頭の中で、いくつもの最悪の想像が一斉に膨れ上がる。
それを封じ込めるように、真理子は目を閉じた。
──落ち着いて。今はなにより、打開策を見つけなければ……。
そして息を吸い込み、止めて、吐き出す。四秒ずつ、ゆっくりと繰り返した。
プロとして活動していたときにやっていた、緊張状態でパフォーマンスを発揮するための呼吸法だ。
息を吸う。止める。吐き出す。
呼吸のリズムに合わせて、胸の奥で暴れていた焦りが少しずつ解けていく。
頭がゆっくりと冷えていく。
そして、思いついた。
吾郎は自分のケータイを置いていった。「先に現実世界へ帰れ」と、そう言って。
しかし、真理子は帰還することを、初めから選択肢に入れていなかった。
ナビがなくては吾郎自身は帰れない。二人一緒に戻らない限り、どちらかは置いてけぼりになるのだ。彼らしくない浅慮な行動だと思っていた。
だけど、本当にそうだろうか?
現実世界へ、真理子だけで帰ってしまうというのも一つの手だ。
そして、現実世界の方の研究所に入ればいい。
研究所のなかを移動することは、この神殿の内部で動くことと同義なのだから。
若葉に正直に事情を話して、各部屋に入れてもらう。そこでナビを起動する。誰もいなければ帰還する。
これを繰り返せば、どこかで確実に吾郎を見つけて連れ戻すことができる。
もっとも、あそこまで冷静さを失った吾郎が、そう考えてナビを渡してきたとは思えないけれど……。
とにかく、胸騒ぎがした。
真理子はケータイを握りしめ、急いで神殿の外へ出た。
外の熱気が、肌にまとわりつく。
容赦のない太陽の光が、視界を白く焼いた。背後には巨大な神殿。前方には、どこまでも続く砂漠。
「大丈夫。これで全て、うまくいく」
自分に言い聞かせるように呟きながら、異世界ナビを開く。
帰還ボタンを押そうとして──手を止めた。
「どうして……?」
帰還ボタンは、灰色に塗りつぶされていた。
何度触れても反応しない。
画面の端に、小さな文字でメンテナンス中と表示されている。
記載されている開始時刻は、おそらく真理子たちがこのパレスに入った時刻だ。
──作為的。
そうとしか思えなかった。
初めから、真理子たちはこのパレスに閉じ込められていたのだ。
罠に嵌っていることにすら気づかず、まんまと神殿の中へ入り、分断された。
ナビが使えなくなり、パレスに閉じ込められるのは二度目だ。
一度目は、父──啓次のパレスに入ったときだった。
あの時も、意図しない形で認知世界に吸い込まれ、即座に帰還しようとした。
しかしアプリは反応せず、二人はナビを使わずに帰る方法を探すため、パレスを探索することになった。
だが、そんな方法は見つからず──真理子は啓次のシャドウを殺めることを提案した。
そうすれば現実の父が改心し、パレスが崩れると信じて。
結果はいうまでもない。
あの選択は、取り返しのつかない最悪の過ちだった。
思い出したくもない記憶。
最後の父の姿から逃れたくて、その記憶に深く触れることは今日まで避けてきた。
……それでも、今にして思えば、一つだけ目的を達成していたのだ。
血の気が引いていく。
呼吸が発作のように短くなり、息苦しい。真理子はたたらを踏んだ。
啓次のシャドウが殺されてはじめて──このナビは二人が帰ることを許した。
真理子は再び、ケータイに目を落とした。
赤と黒のおどろおどろしい目。
異世界ナビのアイコンは、じっと真理子を見つめ返していた。
その視線の向こうで、何かとてつもない悪意を持った存在が、運命の糸を手繰り寄せているような気がしてならなかった。