プログラムがすべて終了し、客席は割れんばかりの拍手とともにスタンディングオーベーションを捧げた。カーテンコールは鳴りやまず、明智真理子は何度もアンコールを弾きに戻ってきて、その度にさらに客席たちを沸かせていく。
三回目のアンコールを、真理子が弾き終える。
観客たちは惜しむように拍手を続けるが、さすがに、ピアノリサイタルはこれで終わりだろう。
お礼の言葉を口にした後、真理子は深くお辞儀をして、顔を上げた。
最前列に座る吾郎は、ふと、彼女と目が合ったような錯覚を覚えた。
といっても、これだけのスポットライトで客席が見えるわけがない。勘違いだな、とすぐに片付ける。
なにか眩しいものを見るように彼女は目を細めた後、ステージから去って行った。
「なんか、最後、こっちの方見ていなかったか?」
不思議そうにする良太を見て、岡倉は苦笑いを浮かべた。
「客席からは、そういう風に感じるものだよ。……さ、あいさつに伺わないとね。吾郎くん、花束を渡すのは君に頼めるかな?」
手渡された花束の小ささを改めて見て、眉をひそめないようにするのに苦労した。
ショボい花を三輪、折り紙で巻いた花束。萎れかけの赤チューリップは、家の庭で育てているものだ。こういう大げさなくらいの倹しさも、岡倉の演出の一環なのだろう。
事前の打ち合わせで、それぞれの施設の代表が花を手渡す算段になっているらしい。
挨拶のためにロビーに出てきた明智真理子の周りには、既に多くの子どもが集まっていた。
真理子は花束を受け取ると、隣の男性に渡していく。たぶん、彼女の父親の明智啓次だ。整えられた濃い茶髪と、穏やかそうな顔立ちは、写真で見たのと同じ。娘のソロコンサートの付き添いの仕事をするなんて、校長という職業は存外暇なのかもしれない。
啓次が長机の上に丁寧に並べていく花束の数を見ると、花を渡すのがバカらしくなってくる。ロビーにずらりと並ぶ立派なスタンド花の数々と違って、全部、すぐに処分されるに決まっている。
中でも、吾郎が手に持つ花はずば抜けて貧相だ。これならもはや渡さないほうがマシだと、ちょっとでも良識のある人間は普通思うレベルである。
しかし、拒否権はない。岡倉にこれを渡せと言われてしまっている。どうにか、この子供騙しにもならない花束で好印象を残すしかないか。
小さなため息をそっとつくと、真理子を取り囲む輪の中に向かった。
「あの……今日は招待してもらったけど、将来頑張って、絶対また真理子さんの演奏を聴きにきます!」
すっかりファンになった特別招待客の子どもが、興奮気味に感動の言葉を口にしていた。他の子どもも、同感だというように頷いている。
現実的に考えて、この少年少女の輪の中で、真理子のソロコンサートのチケット代を捻出できるほど出世できるのはごく少数だろうなと、吾郎は冷めた気持ちで聞いていた。
それと同じくらい無感動な顔で、真理子は自分に向けられる賛辞を聞き流していく。
「真理子さん、さっきの演奏、本当に本当に素敵でした。学校で嫌なことがあっても、明日からも頑張ろうって思いました」
「ありがとうございます」
涙ぐんで感動を口にする小さな女の子が相手でも、関係ない。真理子は機械的にお礼の言葉を口にして花を受け取った。
口元に落ち着いた微笑を用意しながら、吾郎は内心困っていた。
さて、どう話しかけたものか。下手な美辞麗句でこの少女の心が捕まえられるとも思えない。
だけど、このチャンスを逃したら接触の機会はない。政治家へのコネクションなんて、吾郎のような中学生には、もう二度と巡ってこないチャンスだ。
そんな心配は、しかし杞憂に終わった。
真理子は他の子どもの影にいる吾郎を見つけると、自分から近づいてきたのだ。
「ねえ、それって、私のための花?」
話しかけているのが自分だと咄嗟にわからず、虚をつかれた。でもすぐに平静を取り戻し、吾郎は花束を彼女に差し出す。
「うん。君の演奏のおかげで、夢みたいな時間を過ごせた。少しでもお礼になったら良いんだけど」
あれだけの力強い演奏をしていたとは思えない華奢な指が、安っぽいラッピングの折り紙にかかる。
「ありがとう、嬉しいです。可愛い花ですね」
言葉とは裏腹に、表情も声音もあくまで淡白だ。
でも、まるきり嘘で嬉しいと言ったわけでもないらしい。さきほどまでと違って、隣の啓次に渡すことはせずに、花束を胸元に持っていって眺めている。
こっちを見ていない隙に、背筋を伸ばして、少しだけつま先に力を入れた。近づいて初めて気がついたことだが、真理子は自分よりも五センチ以上は背丈がある。見上げているような印象になりたくなかった。
「あなたは、どの曲が好きでしたか?」
意外なことに、真理子はまだ会話を続けるつもりのようだった。
彼女が気まぐれで自分にだけ話しかけてきたとは思えない。何か求められていることがあるはず……。そう思っても、目の前にいるのは、まったく感情の読めない相手だ。どう返事すれば正解かなんて、見当もつかない。
他の人と同じように誉め殺しをしても彼女は喜ばないはずだ。
逡巡して、ともすれば失礼と捉えられてもおかしくない正直な感想を口にする。
「プログラムの曲も全部良かったけど、アンコールで弾いていた亡き王女のためのパヴァーヌが一番印象に残ったかな。なんていうか……その曲が、一番君が素直に弾いているように思えて」
一番好感を抱かれると計算した微笑を浮かべて、真理子の瞳を見つめて、少し首を傾げる。
そうすると、期待した通りに、真理子は照れたように長い睫毛を伏せた。
「確かにそうかもしれない。あの曲を弾くと落ち着くから、よく弾いているの」
そう言って、じぃっと目を合わせてきた。
なんだ、けっこう普通の女の子だな。ニコニコと愛想よく微笑みかけていれば、どうにかなりそうだ。
ようは彼女の理想の王子様像に、自分が当てはまっていただけというだけか。それは好都合だが、神童と持ち上げられる少女もそんなものかと、落胆する気持ちがないと言えば嘘になる。……そこまで考えて、僕もずいぶんと勝手なものだと、内心苦笑した。
「ねえ、あなたの名前を──」
真理子の言葉は、後ろから歩み寄ってきた岡倉に遮られた。
「やあ! 子どもたち二人、仲良くしているみたいで嬉しいよ」
ポン、と吾郎の頭の上に手を乗せた後、岡倉は真理子の隣にいる父親に軽く頭を下げた。
「ご無沙汰しています、明智先生。今日はご招待いただきありがとうございました」
すると、啓次もお辞儀を返して、親しげな笑みを浮かべた。
「先生、お久しぶりです! こちらこそ来ていただけて嬉しいです。そうか、この子、岡倉先生のところの子でしたか。流石、しっかりしている」
「ええ。うちの自慢の、よくできた子です。それから、先生はよしてくださいよ。もうとっくに教職はやめたんですから」
そのまま世間話にもつれこみ、お互いの近況を報告し合う。二人は中学校の教員だったころの同僚らしいということが、会話からわかった。
周りの花束をまだ渡せていない子どもは、どうすればいいかわからず待ちぼうけだ。
「はぁ……」
ため息をついたのは、真理子だ。
真理子は、勝手に盛り上がる二人を実につまらなさそうに眺めた後、こっちを見た。そして、大人たちだけでつまんない話を続けられて困っちゃう、という風に悪戯っぽく目を細める。
共感を示すために吾郎が苦笑いを浮かべると、彼女も口角を小さく上げた。
「おっと、あんまり僕たちが話し込んでちゃ子どもたちに悪いね。それじゃあこの後、一緒にディナーということで」
そんな自分たちの様子に目ざとく気づいた岡倉が、話を切り上げた。
「さ、行こうか」
岡倉に促され、人集りを後にする。去り際に振り返ると、真理子が小さく手を振ってきた。
「また後で、ね」
「うん、また後で」
想定よりも、ずっと話が上手い方に進んだのはよかった。
しかし、なにが彼女の琴線に触れたのだろう? と疑問に思う。
吾郎は自分の外見を磨くように努力してきたが、別に世の中、見た目のいい人間なんていくらでもいる。それだけでここまで彼女から興味を持たれると思うほど、自惚れてはいない。
きっと理由があるはずだと頭を捻っても、心当たりはなかった。
「今日はお手柄だったね、吾郎くん」
帰りの道をドライブする岡倉は上機嫌だった。
「啓次君も真理子ちゃんも、吾郎くんのことを気にいるだろうと思っていたんだよ」
満面の笑みを浮かべて、しきりにそんなことを口にする。
岡倉に相槌をうつのは、助手席に座る吾郎だけ。良太と里奈は、二人とも後部座席で狸寝入りしていた。
「時間がないからね、着替えるのは諦めよう。良太と里奈は、おうちでご飯だからここで降りて」
東京郊外の自宅まで一時間半もかけて車を運転したのは、後ろの二人を降ろすためだったらしい。四人ともどうぞと誘われていたのに、連れていく気はないのかと、少し吾郎は驚いた。普段寄付金を集める時は、できるだけ人数を連れて行くのに。
何か別の目的があるのかと、勘繰りたくなる。
その後、急いで広尾のイタリアンに向かったものの、ついた時すでに明智親子は個室で待っていた。
啓次は黒のタートルネックにベージュのジーンズ、真理子は花柄のレースのワンピース。二人ともカジュアルな服に着替えてきていたが、上品な装いに変わりはない。
「いやあ、思ったより道が混んでいて。遅れてしまってすいません」
岡倉は頭を下げながら、啓次の向かい側の席に着いた。自然と、吾郎は真理子の正面に座ることになる。
「私たちも着いたばかりですから、気にしないでください。それより、長いドライブでお疲れでしょう。なにか飲みたいものはあるかな……ええと」
啓次はドリンクメニューを吾郎に差し出そうとして、名前を聞いていなかったことに気づいたらしい。
「そういえば紹介がまだでしたね。この子は、吾郎くん。うちの家には、四ヶ月前に来てくれました」
岡倉は誇らしげな顔で、吾郎の肩に手を乗せた。
「……そうか、吾郎くんっていう名前なんですね」
そう呟く啓次の顔は少しばかり青ざめている。
奇妙な反応に、吾郎は目を細めた。
「私のお兄ちゃんも、吾郎っていう名前なんです。偶然ですね」
動揺する父を目を向けて、真理子が代わりに説明する。
「ああっ! そういえばそうでしたね、偶然だ。お兄さんはいくつなんでしたっけ。もしかして明智先生の中学校に通っているのかな?」
と、オーバーリアクション気味に岡倉が反応した。
「いえ……。学年でいえば兄は一つ上ですけど、生まれつき病気がちで、昔からホームスクーリングなんです」
どこの家にも触れたくない話題の一つや二つあるものだ。淡々と説明しながらも、真理子の声色はこわばっていた。
「うん。それに、今は入院中で、なかなか顔を見ることもできない。息子が恋しいですよ」
啓次は沈痛な面持ちでそう言ったあと、「吾郎くんは中学生だよね。学校はどう?」と、不自然なほどに明るい声音を出す。暗い話はやめだと言いたいのだろう。
「三ヶ月前に転校したばかりだから、まだまだ慣れないことは多いですけど、熱心な先生が多いですし、授業は楽しいです。前にいた養護施設と違って、岡倉さんのところだと一人部屋なので、勉強も捗りますしね」
いかにも教育者受けのよさそうなことを口にしつつ、家の環境のことも褒めておく。
隣で、岡倉が満足そうに頷いた。
「吾郎くんはすごいんですよ。なんと、こないだの全国統一模試では一位だったんです」
啓次は、「それは本当にすごいですね」と感心した顔をする。
吾郎が唯一他の人間より多く持っているものが認められて、胸がすく思いだ。
もっとも、こうして得る尊敬になんの意味もない。勉強やスポーツでいくら成果をあげようと、身売りしていた母親の産み落とした私生児と聞いた途端、誰もが顔をしかめるのだ──服にこびりついた泥を見るような顔で。
経験上、嫌というほど知っている。
腹の底で渦巻く鬱屈とした考えはおくびにも出さず、吾郎は爽やかに笑った。
「そんな、運が良かっただけですよ」
「いやいや、本当にすごいよ。うちの真理子はピアノに専念したせいでなかなか学校に通えなくてね。吾郎くんから、勉強を教えてもらえればいいのだけれど」
啓次の口ぶりがよほどプライドに障ったのか、真理子は不愉快そうに眉をひそめた。
「ちょっと、その言い方だと、私が頭悪いみたいでしょ。私、すでに大学を卒業しているんだけど。……ていうか、学校の話なんて、どうでもいい」
「あはは、ごめんごめん」
啓次は眉根を下げて、謝る。
「いやあ、娘さん、手厳しいですね」と岡倉がからかい交じりに言った。
「ハハ、困ってしまいますよ。学校では生徒たちに偉そうな話をしておきながら、家じゃあ娘には頭が上がらなくて」
「立派なお子さんを持つのも大変だ」
「いやいや、吾郎くんみたいな素直な子がいて羨ましいですよ」
ありきたりな社交辞令を交わして笑う二人を、白けた目で一瞥した後、真理子は吾郎の鞄に目を落とす。
「ねえ、岡倉くんが持っているその本って、罪と罰ですよね?」
「うん。車のなかで読もうと思って、持ってきたんだ」
「私もドストエフスキーの長編小説、好きなんです。長くてなかなか終われないから、移動時間に読むのにちょうどいいし。あんまり真面目に読むと辛いから、流し読みですが」
「ああ、分かる。ドストエフスキーの作品って話がよく脱線するから、ついつい飛ばしたくなっちゃうんだよね」
「私はもう、この章は関係ないなって思ったら、適当に読んでしまいます。あんまり長いから、本筋と関係ない話は、章題で予想できるようになっちゃいました」
「本当? そのコツ、僕にも教えてほしいな」
真理子は小さく笑った。
文学や舞台劇が好きだというプロフィールに偽りはないようだ。
それさえ分かれば、話を合わせるのは簡単だった。
古典文学やオペラの話題を選べば、真理子はテレビで見せる寡黙さが嘘のようによく話した。公演中は大人びた表情を見せていたものの、好きな作品の話で目を輝かせる彼女は年齢相応の少女に見える。
「ああ、名残惜しいけどもうこんな時間か」
腕時計に目を落として、岡倉が驚いた顔をする。
大人たちは隣で、新しい世代の子ども教育について白熱した議論をしていたから、時間の経過に気づけなかったらしい。
「ついつい話し込んでしまいましたね」
名残惜しそうにしながら、啓次は店員に声をかけた。
「お会計お願いします、まとめて」
「そんな。年上だし、僕が出しますよ」
「いいんです。僕が誘ったんですから」
形だけの遠慮をしてみせる岡倉を止めて、啓次が会計を支払った。
まあ、当然の流れだ。「資金難に苦しむNPO団体の運営者」を自称している以上、岡倉が金を出すわけがない。
「そうだ、吾郎くん」と、真理子が話しかけてくる。先程の会話で、名字ではなく名前で呼び合うようになっていた。
「来月初めの日曜日のオペラのチケットを二枚もらっているの。もし興味があったら、一緒に行きませんか?」
思わぬ誘いに驚く。真理子みたいな女の子にとって、人目につくところに吾郎と二人で出かけるのはリスクがあるはずだ。
どちらにせよ、親が止めるだろうな。そう思って啓次の顔を盗み見るが、温和な笑みを浮かべて娘を見るばかりでなにも言わない。
その能天気さに、少し呆れた。
愛想よく笑うことなんて猿でもできる。これで蓋を開けてみたらとんでもない不良っていう可能性だってあるのに、大事な娘に近づけていいのかよ。
でも、渡りに船だ。文句はない。
「もちろん、喜んで」
王子様みたいとよく誉めそやされる完璧な笑みを作ると、真理子は嬉しそうに微笑んだ。