吾郎が真理子と親交を築いたことを喜んで、岡倉はずっと上機嫌だった。
ことあるごとに吾郎のことを褒め、最新機種のスマホまで買い与えたほどだ。一人だけケータイを持つなんてと、岡倉家の子どもからの風当たりは強くなったが、今更そんなことを気にしない。
真理子は数日に一度、連絡をしてきた。
大抵は、メッセージというより手紙のような内容だった。
『うだるように暑い夜が続いて、億劫になりますね。丈夫が取り柄の私ですが、三年ぶりに味わう日本の猛暑には少し弱音を吐きたくなります。いったい留学前はどうやってこの夏を乗り越えていたのか、もう思い出せません。どうか吾郎くんも、無理をせずご自愛ください』
『まだまだ暑い日が続いて憂鬱です。そのせいか、公演の帰りに見かけた縁日のかき氷が無性に魅力的に見えました。でも、変なものを口にしてスケジュールに穴を開けるわけにもいかず、食べるのは泣く泣く断念。
思えば、私は屋台のかき氷というものを食べたことがありません。あの鮮やかな緑や青がどんな味なのか、とても不思議です。吾郎くんはご存知でしょうか』
『今日は自宅のピアノの調律の日でした。普段お願いしている方じゃなくて、新しい方に来ていただいたら、いつもと違う仕上がりでなかなか慣れず苦心しています。やはり簡単な調律くらいは、自分で覚えないといけませんね。でも、昔、父が無理をしてプレゼントしてくれた思い出のピアノなので、下手に触るのも憚られるのが難しいところです。吾郎くんは、どんな一日でしたか』
彼女からのメールはいい気晴らしだった。長いこと、こんなふうに誰かと意味のない日常会話をしていなかったからかもしれない。
しかし、一度、理解不能な文章を送られてきたこともある。
『大葉xつご。sぱtっててて晴れ’吐いた爪楊枝? トド声の肉rangeジェえー』
翌日、すぐに訂正のメールが送られてきた。
『昨日はとんだ怪文を送りつけてしまって、ごめんなさい。電子機器の類が少し苦手で、いつもはお父さんに文章を打ってもらっていたのですが、昨日は父が家にいなかったので、自分でパソコンを開いてみたんです。祖父から配達で送られてきた果肉いりのオレンジゼリーが喉越しよく美味しかったと書きたかったのですが、私にはまだ早かったようです』
中学生でここまでタイピングがおぼつかないのは、「電子機器が少し苦手」なんて甘っちょろいものじゃないだろと返信したくなったが、自制した。クラシックピアニストなだけあって、そんなところもアナログなのかもしれない。しかも、今までのやりとりは全て父親に見られていたということになる。別に彼女の親に見せられないようなことを話すつもりはないが、少し驚いた。
小動物が好きなのか、真理子からのメールには、猫やうさぎの写真が添付されていることもあった。
『夕涼みに庭で風を感じていたら、この野良の三毛猫が迷い込んで来ました。懐っこい子だったのでしょう。そっと手を伸ばして、耳の後ろのくせっ毛を撫でても、逃げなかったんです。あんまり可愛いから抱き上げたら、母に見つかって叱られてしまいました。腕の中から怯えて逃げてしまったので、もう遊びに来てくれないかも』
真理子の話に同世代の友達が出てくることは一度もなかった。家族か仕事関係の大人との付き合いばかりの、孤独な子。若くして大成すると、必然的にそうなるのかもしれない。
そうしてメールでやりとりしているうちに、あっという間に約束していたオペラ観劇の日になった。
出かける前、岡倉はしきりに吾郎の髪や服装をチェックしたあと、満足そうに頷いた。
「いつも通り、どこから見ても完璧な王子様だ」
「ありがとうございます」
吾郎は、さっと嬉しそうな表情を作った。
保護者に対してご機嫌取りの笑みを浮かべるのは、骨髄まで染みついた癖のようなものだ。
「うん、いい笑顔だ。真理子ちゃんにも見せてあげてね」
玄関から、岡倉に送り出される。
すでに迎えの車が停まっていたのを目にして、吾郎は小走りで、後部座席に乗り込んだ。
「おはようございます、吾郎くん」
「おはよう、真理子さん」
「こうして顔を合わせるのはコンサート以来ですね」
「そうだね。でも毎日話していたから、久しぶりって感じはしないかな」
後部座席に乗り込んで最初に、隣に座る真理子の服装を確認する。彼女が着ているのは、水色の、しつらえの良さそうなレース素材のアフタヌーンドレス。岡倉の予想した通り、フォーマルな服装だ。
「真理子ちゃんとのデートにはこれくらい着てかないとね」
などと言って岡倉がわざわざ新調したタキシードは、日本でのオペラ鑑賞、まして子どもが着るものとしては畏まりすぎているように思えたが、どうやら正解だったようだ。下手にカジュアルな服では、隣に並んで不自然だったに違いない。
正装を着ていても、真理子はあくまで自然体だ。コンサートでドレスを着る機会も多く、本場ヨーロッパのオペラ劇場にも足を運んでいた真理子にとっては、これくらい、なんてことのない装いなのだろう。
「髪下ろしているのも素敵だったけど、アップにするのも似合っているね」
長い黒髪は綺麗に編み込んでセットされていた。とりあえず褒めておくと、真理子は微笑んだ。
「ありがとうございます。吾郎くんもその服、とてもお似合いです」
その表情に嘘はない。彼女が自分に抱いている幻想は、ひとまず壊さずに済んだようだ。
「真理子さん、迎えの時にまたご連絡ください」
二人を目的地で下ろした後、運転手の男はすぐに去っていった。
付き添いは不要と判断したのだろう。つい先日会ったばかりの子どもと真理子を二人きりに残していくなんてずいぶん警戒心がないものだと呆れる。
「楽しみですね」
劇場に入る前に、チケットを二枚、真理子が手渡してきた。
席番号を確認したり、道順を確認する様子はなく、こちらを見てくる。こういう時はエスコートされるのが、彼女の常識なのだろう。
めんどくさい女と心の中で文句を言いつつ、吾郎は笑顔ですっと手を差し出した。
「行こうか、真理子さん」
「セットをヨーロッパからそのまま持ってきただけあって、舞台美術は素晴らしいものでしたね」
公演後、二人は劇場下のカフェでお茶をしていた。
オペラの出来は満足のいくものだったらしく、真理子は上機嫌だ。
「うん。それに演奏もよかったね。やっぱり生のオーケストラは迫力が違う」
今日見た公演「トゥーランドット」はメジャーどころなので、あらすじや歌くらいは知っていたが、生演奏を聴くのはまったく違うのだと思い知らされた。
「そうですね。あとはもう少し音の伝わり方のいい劇場だったらよかったのに……。まあ音響は人それぞれ好みがありますが。吾郎くんはお好きな劇場とかあるんですか?」
お好きな劇場、ね。いくつもの舞台を吾郎が観劇してきた前提の質問だ。
なんとなく、吾郎はこの少女のことが解ってきた。
今まで自分に好意を示す人間は何人かいたが、施設暮らしだとか私生児だとか、そんな事情を知ったら遠巻きにすることがほとんどだった。
だが、明智真理子は違う。それは彼女が特別に道徳的だからだとか、そんな理由じゃない。
彼女は物心ついた時からの英才教育で、確かに知識量で言えばその辺の大学生も凌ぐのだろう。だけど知見はなく、自分より下の生活レベルがどういうものなのか想像力を働かせることはできない。
今日吾郎が着ている服や靴がまったくの新品であることの意味も気づかないのだろう。
オーケストラピットを興味津々に覗いたりしなくてよかったなと、苦々しく思う。
彼女の頭の中では、自分はきっと同じような暮らしぶりの子どもなのだろうから。
「今日は私ばっかり話してしまいましたね」
帰りの車の中、真理子は落ち着いた声でそう言った。
「ううん、楽しかったよ。真理子さんのことが色々知れたし。オペラやミュージカルが本当に好きなんだね。……あ、そっちもやってみたいって思ってたりするの?」
「昔はそう考えたこともありましたけど。今はもう、私にはピアノしかないって分かったから」
どこか影のある顔で真理子はそう言った。
──私にはピアノしかない、か。
聞こえだけは謙虚な言葉だが、実際はそうでもない。彼女の持つ名声のほんの一欠片でもいいから分けてほしいと切望する演奏家が、掃いて捨てるほどいるのだから。
「できることなら他のことがしたいって思ってるの? そういえば、インタビューでもあまり楽しそうにしていなかったよね」
「楽しいとか、楽しくないとか、そういうことを意識したことはあまりないですが」
無感動にそう言ってから、真理子はハッとしてこちらを見た。
「私のインタビュー映像、見たことがあるんですか?」
「この前、情熱帝国の再放送に真理子さんがいたから、気になっちゃって。あれ、ゴメン、もしかしてあまり見られたくなかった?」
「いえ……でも、見ても面白くないと思いますよ」
そう言って、思い出し笑いをするようにふと笑う。
「だって、わざとつまらないようにしてるもの」
「わざと?」
「そう。インタビューとかって、必ず何か言ってほしいことがあって、そちらに誘導しようとするものでしょう? そういう期待を裏切った方が、しつこくされないから。記事にならない、番組にならないって思われている方がいいんです」
「へえ……。つまり、記者を困らせるような受け答えを、わざとしてるってこと?」
「ええ、どうやって早く取材を切り上げさせるかっていうゲームだと思えば、そう退屈でもないですしね」
「ハハ、面白い考え方だね。でも、もしかしたら逆効果かもしれないよ。メディアは、君のことを孤高の天才として売り出しているみたいだし。もしかしたらそう言う真理子さんを望んでるのかも」
「そうなんですか?」
真理子は困惑した声を出す。この様子を見るに、自分を取り上げた雑誌やテレビは一切チェックしていないのだろう。周りからどう思われているかなんて、心底興味がないって感じだ。
「ニュースで見る君は、何にも動じずに金賞を総取りする絶対王者って感じだから。あ、氷のお姫様だなんて書かれてるのも見たことある」
氷のお姫様と聞いて、真理子は少し嫌そうな顔をする。
「……言われてみれば、それこそトゥーランドットに似てるとまで大人から言われたことがありますね。そんなに私、テレビの中だと無愛想に見えるのでしょうか」
「今話している時と比べると、まあ、そうかな。失礼かもしれないけど、笑顔を見た時、ちょっと意外だなって思った。初めて会った日も、最初は全然無表情だったから」
「そうでしたっけ? 自覚はなかったのですが……」
真理子はしばらく考え込んだ後、ポツリと口を開く。
「たぶん、それ、悪い癖」
「癖?」
「気がついたら癖になっちゃったんです。笑ったり、泣いたりすると、みんな合わせて同じ顔をするから。大人の人も、みんなそう。全部私に合わせて表情を変えるの。なんだか人のそういう顔って嫌だなって思って」
面白くもない話に笑ったり、大げさに一緒に悲しんでみせたり。そうやって共鳴するのは、強者への恭順を示すためでもある。
才能がありすぎてつまらない。大人から必要とされたくないし、期待されたくない。誰もが自分を認めてひれ伏していて、それが嫌。
吾郎からすれば、彼女のいうことはおかしなことだ。両手いっぱいに宝石を持っていて、もう見飽きたと嘆いているようなもの。
まあ、彼女には彼女にしか分からない苦労があるのだろう。だが、画面越しに見た印象通り、この子は自分と違いすぎる。
話せば話すほど、合わないなと思った第一印象が深められていく。
でも、世間が思っているほど、彼女は特別な人間だろうか?
「じゃあ、何度も君の笑顔を見れたこと、僕は光栄に思わないとね」
吾郎は笑みを浮かべて、悪戯っぽく聞いた。
こうやってちょっと甘い顔をするだけで、その辺の大多数のありふれた女の子と同じように、真理子は頬を染めて目を逸らす。
ほら、こんなの全然特別じゃない。
「あなたと話していると、楽しいですから」
視線を上げると、真理子ははにかんだ笑顔でそう言った。
久しぶりに明るい気持ちで、真理子は家に帰ってきた。
父が急きょ出張になったせいで余っていたオペラのチケットが、素敵な男の子と出かけるために使えてよかった。
ステージから客席の最前列に吾郎の姿を見つけた時、初めは兄が来てくれたのかと錯覚した。ライティングで顔はよく見えなかったし、体格や髪の色が兄によく似ていたからだ。
その後話した時、名前も同じ吾郎だと知って、なんとなく運命のように感じた。
もちろん、吾郎は顔も性格も全然兄とは似ていない。二人を混同しているというわけじゃなかった。
一緒にいたいと思うのは、単純に素敵な人だと思ったから。吾郎は知性に裏打ちされた自分の意見をちゃんと口にすることができる人だから、会話していて楽しい。
家にいても息苦しいだけだ。もっともっと、吾郎くんと、こんなふうに一緒に出かけられたらいいな。
そんなことを思いながら、真理子は家のドアを開けた。
「ママ、どうしたの?」
切羽詰まった顔で玄関に立つ母の姿を見つけて、真理子は驚いた声をあげる。
「やっと帰ってきた。真理子、着替えなさい。すぐに出るから」
母の足元には、大きなボストンバッグを上に乗せたスーツケースが一つ。
状況が理解できずに瞬きする真理子を見て、焦燥感にかられたように母が声を大きくした。
「もう限界。逃げよう、真理子。あなたは、お母さんと来るよね?」
「でも」
「──あの人と私、どっちについてくるの?」
「でも、お兄ちゃんは、どうするの? 今は病院にいるのに」
「……もちろん、吾郎も連れて行くわ。三人で逃げるの。だから早く!」
真理子は頷くと、着替えるために自分の部屋へ走った。