ペルソナ5 明智兄妹の事件簿   作:かっぱえびせん

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第四話 操り人形

『明智真理子、体調不良で無期限活動休止へ』

『ピアニスト・明智真理子のコンサートがすべてキャンセルに!』

『明智真理子さん、休養のために公演中止に。復帰の目処は?』

 

 ニュースやネット記事は一斉に同じことを報道していた。

 

 一緒に出かけてから十日間、真理子からの連絡はパタリと止まっていた。だからなにかあったんじゃないかとは思っていたが、まさか急病とは。最後に会った時の彼女の様子を思うと、とても信じられなかった。

 

 真理子からメールの返信も来ない以上、吾郎にできることといえばニュースを毎日確かめることくらいだ。

 どういう病状なのか、回復の見込みはあるのか、そういう意味のある情報はどこの報道局も持ってないようだった。とにかく残念だとコメンテーターが発言するばかり。ネット記事も、眉唾ものの噂しか拡散しない。

 

 しかし、そんなニュースも十日ほど経てばなくなった。活動休止の衝撃が過ぎ去ると、すっかり世間の熱は冷めたようだ。

 どこを見ても、もう誰も明智真理子の名を挙げたりしない。若き天才ピアニストの失墜にあれだけ大騒ぎしていたくせに、彼女がその後どうなったかには、ほとんどの人間が興味ないらしい。

 

 なんの音沙汰もないまま、ただひたすら気を揉んでいるうちに時は過ぎ去った。

 事情を知っていそうな宛ては、もう岡倉だけだった。顔を合わせたら必ず真理子について聞こうと思っていたが、肝心の岡倉はなかなか帰宅してこない。

 

 何週間もの間、無為に時間を過ごした後、ようやく岡倉の姿を家の廊下で見つけることができた。

 

「真理子ちゃんのこと? そんなに大した病状じゃないらしいから、待ってたら、そのうちまた返事が来ると思うよ」

 

 呼び止めて話を聞くと、訳知り顔でそう返された。

 

「ごめん。用事があるから、もう行くね。息子のことは頼んだよ」

 

 これで終わりとばかりに岡倉は手を振ると、軽い足取りで歩いて行った。

 妙だ。真理子のことを話す時、岡倉はなぜか上機嫌だった。経験上、コイツが笑っている時、ろくなことは起こらない。

 

 なにか彼女の身にあったのだろうか?

 

 手がかりがないか毎日調べてはいるが、めぼしい成果はなかった。

 真理子と会ったのは九月、二人でオペラ公演に出かけたのは十月、それから彼女と一度も連絡の取れないまま、もう十二月に差しかかっていた。

 

 季節が変わり、吐き出す息が白くなってきた頃。

 冬休みが近づいてきて浮き足立つ生徒の波の中、このままじゃ埒が明かないと、落ち着かない気持ちで吾郎は一人下校していた。

 

 岡倉の自宅に近づき、周りにいる生徒の数もまばらになってきた時、後ろから黒のクラシックカーが近づいてきた。この辺りではなかなか見ないデザインの車だが、吾郎には見覚えがあった。

 

 車はそのまま吾郎の隣に並んで、減速した。運転席の窓が開く。

 

「こんにちは、吾郎くん。いきなりごめんね」

 

 話しかけてきたのは啓次だ。思った通り、真理子の家の車だったらしい。

 ほっとした。このまま二度と明智家と関わることがないかもしれないと覚悟していたが、そうならずに済みそうだ。

 

「明智さん、お久しぶりです」

「今日、時間あるかな? うちの真理子のことで話がしたいんだ。もう岡倉さんには連絡してあるから、大丈夫」

 

 吾郎は頷くと、助手席に乗った。

 しかし、ただ話すだけなら岡倉家で待っていればいい話だ。わざわざ車で話しかけにくるなんて、人目を避けたい理由があるのかもしれない。

 

 

「ここ、天ぷらが美味しいんだ。真理子も気に入っているところでね」

 

 連れてこられたのは、いかにも一見さんお断りという雰囲気の料亭。店員は啓次の顔を見ると何も聞かず、二人を一番奥の個室に案内する。

 思った通り、密談のようだ。

 

「学校の後だし、お腹空いてるよね。なにか食べたいものとか、あるかな?」

 

 座敷の向かいに座る啓次は、憔悴しきった顔をしていた。

 

「お気づかいなく。それより、真理子さんのことで話っていうのは」

「うん……実はね、ニュースでは真理子が病気だと発表したけど、あれは嘘なんだ」

 

 啓次は、淡々と話し始めた。

 

 もう十年も前から、啓次は、彼の妻であるアリアという女性と折り合いが悪かったという。

 お互い顔を合わせるのも苦痛なほどで、夫婦関係の破綻は誰の目から見ても明らかだった。そんな時、啓次に遠方への単身赴任の話が出た。二人はこれ幸いと別居を決め、真理子は母の方が、病気がちな兄の吾郎は父の方が連れて行くことになった。

 クリスマスや年末も、子どもたちは自由に行き来させたけれど、両親が揃うことはまずない。そうやって、ほとんど別の家庭のようにして、明智家は機能してきたという。

 

「皮肉だけど、それでうまく行ってたんだ。もう知っていると思うけど、うちの吾郎は病気がちだからね。療養するなら僕と一緒に田舎に行った方がいい。アリアは旅行好きだし、教育熱心だ。真理子のマネージャーみたいなことをしながら、世界中を飛び回っていた。それでうまく行ってたんだ、僕の父親が横槍を入れてくるまではね。うちの父親は清水誠一っていう政治家なんだけど……」

 

 チラリと反応を伺われて、吾郎は驚いた顔をしてみせた。

 

「清水誠一って、自由共栄党の幹事長ですよね」

「はは、さすが吾郎くんだ。よく知ってるね。まあ、すぐに幹事長の責務はなくなると思うけど。父さんは長年、腎不全と戦っていてね。かなり具合が悪いんだ」

 

 今度は本当に驚愕した吾郎に、もちろん公表されていない話だよ、と啓次はつけ加えた。

 

「薬物療法はあまり効いていないみたいでね。これ以上悪化すると、残る選択肢は透析治療での対処療法か、移植手術だけだ。今はまだ公表してないけど、そのうち世間も知ることになる。父さんの派閥の人間も、大騒ぎだよ」

 

 啓次は、次々と家の内々の話を語っている。こんなことまで吾郎にペラペラ話すなんて、単に気が動転していてなにも考えていないだけならいいが、なにか裏の目的があるのかもしれない。

 

「うちは昔二人兄弟だったんだけど、兄は僕が子どもの時に亡くなってしまって、地盤を継げる人間はもう僕しかいない。いつかこんな日が来るとは覚悟していたけど、僕は政治家になるつもりなんてさらさらなかった。でも清水家が途絶えると困る人間は多い。誰が根回ししたのか、僕は地方での仕事から都内に転属になったんだ、いきなりね。地方の一教員が都立中学の校長だなんて、普通じゃあり得ない大出世だよ。何かの力が動いたんだろう。しかし、そうなってしまうと、さすがに同じ東京にいて別居してる夫婦なんて世間体が悪い。その頃、真理子もアメリカの音楽院からちょうど帰ってきてね。久しぶりに、家族四人での生活ってわけさ」

 

 長話を続ける啓次に、さすがに焦れてきた。

 常識的に考えて、今もっとも大切なのは、真理子は無事なのかということだ。

 

「──真理子さんは、今、どうしているんですか?」

 

 こうやって口を挟む子どもは嫌われる。分かってはいたが、もう二ヶ月も気になっていたことだ。聞かずにはいられない。

 

「心配してくれてありがとう。真理子は、今は安全なところにいる。怪我はしているけど、リハビリで治せないほどのものじゃない」

「……今は、ということは、危険な目にあったということですか?」

 

 重々しく、啓次は頷いた。

 

「アリアには、愛人がいてね。まああれだけ長いこと別居していれば無理もない話だ。でもその人は、僕がいない間、うちに出入りしていたみたいなんだ。子どもがいる時にもね。それに気がついた時、流石に耐えられなかったよ。しょっちゅうアリアと口論になって、彼女は本格的に僕に嫌気が差してきたのだろう。でも、日本で離婚裁判となると、親権が取られるかもしれない。特に、僕には家族の伝手がある。そう思い詰めた彼女は、吾郎と真理子を連れて、家から出て行ってしまったんだ。多分、彼女の生まれの国であるイタリアを目指したんだ」

 

 国際結婚した夫婦で、片方が無断で子どもを連れて逃げてしまうケースは少なくない。国の外まで出られたら、たとえ正規の手順を踏んでいなかったとしても、残された親にできることは限りなく少ないからだ。

 しかし、それなら、もうすでに三人はイタリアにいるはずだ。

 

「でも、よほど焦っていたんだろうね。アリアは、真理子のパスポートを家に置いて行ってたんだ。あの子のパスポートはよく使うから一つだけ保管場所が違う。そのことを忘れてたみたいだ。……僕は悩んだけど、警察へ行かなかった。忘れていったパスポートも見つかりやすいようにリビングに置いて、取りに来るのを待っていた。真理子はもともと、アリアが育てたようなものだ。出ていくのも、彼女についていくのも、仕方がないってその時は思ったんだ」

 

 沈痛な面持ちで、啓次はうつむいた。そして、血が出そうなほど強く、くちびるを噛み締めた。

 

「だけど、本当は違った。一刻も早く、探し出すべきだったんだ。三人が出て行ってから二ヶ月経って、真理子が警察に保護された。二ヶ月の間、何があったかは分からない。でも、発見された時には真理子はたった一人で、栄養失調状態で、酷い怪我をしていて、足も歩けないほどに壊れていた」

「それは……」

 

 口を開きかけて、またつぐんだ。

 

 どこで見つかったのか、暴力の跡があったのか。

 聞きたいことはいくらでもあるが、どれも言葉にすべきことではない。

 

 それに、どこか実感がなかった。

 あの生まれながらにして何もかもを持っているような少女の身に、そんな不幸が降りかかるなんて。

 しゃくりあげるように呼吸し、ついには涙まで流し始めた啓次の姿ですら、何かの悪い嘘のように見える。

 

「本当は、リハビリすれば、ちゃんと元の運動能力を取り戻せるはずなんだ。でも体よりも深刻なのは精神状態の方でね。ここ一年くらいの記憶がないし、精神的にはもっと退行してしまった。まるで五歳くらいの子どもだよ。リハビリも嫌がって、全然行ってくれないんだ。家に来てもらってるカウンセラーさんにも癇癪を起こして、帰ってもらうことしかできない」

 

 嗚咽を漏らしながら、啓次は吾郎の手を取った。

 いきなり触れられて怖気が立つが、吾郎はあくまで同情するような顔を保った。

 

「情けない話だけど、どうすればいいか、本当に分からないんだ、吾郎くん」

 

 よほど追い詰められているのだろう。握られた手から、啓次の大きな震えが伝わってくる。

 その感情的な姿を見て、かえって吾郎は冷静になった。

 

 ──最初に浮かぶのは、啓次の言っていることは本当だろうか、という疑問。

 

 今聞いたのは、あくまでほとんどが啓次の推察だ。事の真偽は分からない。

 大人はいつだって子どもを言いくるめることなんて簡単だと舐めきっていて、信じられないような嘘やでまかせを吐く。

 だが一方で、真理子の足が折れたことや幼児退行したなんて嘘をつく意味がないのも確かだ。娘に降りかかった不幸を嘆く啓次の姿にも、不自然な点はない。

 

 いったい真理子の身になにがあったのか。

 いま出揃った情報だけでは、推察のしようがなかった。

 

「信じられないです、そんなことになってしまったなんて。僕に、何か少しでも力になれることがあったらいいのですが……」

 

 あくまで「優等生なお友達」の仮面を被ったまま、吾郎は悲痛な表情で答える。

 

 すると、その言葉を待っていたとでもいうように、啓次の目が見開かれた。

 

「吾郎くんのいうことなら、きっと真理子も聞いてくれると思うんだ」

 

 そう言いながら、自分で自分に賛同するように、啓次は何度も力強く頷いた。

 

「あの子は、本当に気難しい子でね。それに他の子より背伸びしているからか、君以外に同い年の友達がいたことなんてなかったんだ。今の真理子は君のことも覚えていないみたいだけど、でも、君がそばにいてくれれば何か変わる。そんな気がする」

 

 溺れるものは藁をも掴むというが、まさにそれだ。今の啓次は、まるで目の前に人生の問題の全てを解決する鍵があるとでも言いたげな顔をしている。

 

「──率直に言う。真理子の兄に、うちの子になってほしいんだ」

 

 

 

 啓次には当然、了承の返事をした。

 

 断る理由はない。真理子とこのまま交流を続けて、少しでも政界への足がかりができれば万々歳というところに、棚からぼたもちが落ちてきたようなものだ。

 

 しかし、気持ちが上向くことはなかった。

 啓次の考えは、いくらなんでも浅慮が過ぎる。物心ついた年頃の男子を、同年代の娘がいる親が引き取ろうだなんて。なにか外的な働きかけがなければ、自分ひとりであんな結論に至るとは思えなかった。

 

 言い知れない不安は、岡倉と話すうちに正体を見せた。

 

「いいかい、吾郎くん。君は明日から、明智吾郎になるんだ」

 

 吾郎のことをリビングで待っていた岡倉は、噛んで含めるようにそう言い聞かせてきた。

 コイツがすでに事情をすべて知っていることに驚きはない。啓次は当然、吾郎よりも先に、吾郎の”所有者”である岡倉に話を通したに決まっている。世の中、そういうものだ。

 

「明智吾郎くんは、一九九八年、四月七日生まれの、中学二年生。今までずっと自宅療養だったけれど、最近やっと具合がよくなってきた。立派な政治家のお家に生まれた一人息子だよ」

 

 耳を疑った。

 岡倉の口ぶりからすると、求められているのは、単なる養子縁組じゃない。そのままそっくり、本物の明智吾郎に成り代われと言っている。

 

 この男、正気か? 吾郎は眉根を寄せた。

 

「本気ですか? そんなの、絶対にうまくいきませんよ」

「大丈夫だよ、君はなんだってうまくできる子だ。一つ学年が上がったくらいで成績は落ちないだろうし、演技をするのは得意だろう?」

「真理子さんはどうするんです? 彼女だって、自分の兄の顔を忘れたわけじゃない。赤の他人が自分の兄のふりをするなんて、普通嫌だと思いますが」

 

 聞き分けのない子どもを見るような呆れ顔でため息をつくと、岡倉は優しく吾郎の頭に手を乗せた。

 

「吾郎くん。真理子ちゃんのお父さんが、こうしたいって言っているんだ。啓次さんみたいな立派な人には、世間体ってものがあるからね。まさか奥さんが息子を連れて夜逃げしたなんて言えないだろう?」

 

 啓次の決定は、真理子自身の意思や感情とは何も関係ない。そんな当たり前のことを口にしたところで、この男は理解しないだろう。

 ひょっとしたら、手持ちの子どもに息子の代わりを演じさせるアイディアだって、この男が吹き込んだのかもしれない。……いや、愚問だ。そうに決まっている。

 

「本物の明智吾郎が帰ってきたら、どうするんですか」

「そんなことにはならないから、大丈夫。何も怖いことはないよ。全部うまくいく。本物の明智吾郎くんの顔は、あの四人家族以外の誰も知らない。真理子ちゃんのおじいちゃんでさえね。万が一何かあったら、絶対に僕が君のことを助けるから。……それとも、僕が言うことが、信じられない?」

 

 頭の上の岡倉の手に力は入っていない。それでも重みを錯覚してふらつきそうになるのは、この「慈愛の翼」という場所の毒牙に吾郎も侵されつつあるせいだろう。ここにいる子どもは全て、岡倉の支配下にいる所有物。そういう認知がもう刷り込まれているのだ。

 

「……はい」

 

 頷いたのは、岡倉に命じられたからだけではない。

 これはまたとない機会だということを、頭では理解していたからだ。

 そもそも獅童が属しているのは、真理子の祖父である清水誠一の派閥だ。その孫という社会的地位さえあれば、獅童を潰すことなんて容易い。

 

「もともとの僕の戸籍は、どうするんです?」

「ああ。岡倉吾郎くんは先月、優しい海外の里親に引き取られたんだ。なにせ国外だからね。もう連絡はつかなくなってしまったけど、大丈夫。彼はとっても幸せな人生を歩んでいるよ」

 

 岡倉のいつもの手口だ。もうすべて、段取りは済ませてあるのだろう。

 行方不明になる子どもなんて、なにも珍しいものじゃない。特に、いなくなったところで大騒ぎするような大人がいない子どもは、日本のどこかで今日もひっそりと消えている。自分もまた、その一人に加わるというだけの話だ。こんなの、なにも大したことじゃない。

 

 ──ふと、脳裏に、母の姿がよぎった。

 肩まで伸びた茶色の髪をバレッタでまとめた、笑顔が優しい女性。社会から見放されたあの人がこの世界で足掻いて生きていたという証は、もう彼女の息子である自分の存在だけだ。

 今日まで、何度も、もう死んでもいいと考えた。その度に足を踏みとどまらせたのは、彼女の存在だった。

 あの人の息子としての自分がいなくなってしまったら……。

 

 かき乱れる吾郎の心のうちを読み取ったように、岡倉はふっと笑った。

 

「本当はね。僕も君を手放したくはなかった。輝幸は君のことが大好きだし、君はうちで一番優秀だ。でも、慈善事業だってお金がいる。良太の治療費だって、里奈のお洋服代だって、全部無料じゃない。家出中の子どもたちに食べさせるご飯だってお金がかかる。そのためには、政府からの支援だって必要だ。分かるだろう?」

 

 細めた草食動物のような目には、底冷えするような冷たい色が宿っていた。

 

 吾郎は「分かっています」とだけ言うと、岡倉の手から離れた。

 

「明日の準備をしてくるので、失礼します」

 

 そう言うと、有無を言わせないよう、すぐ部屋に戻る。

 出発は明日だ。別れを惜しむ相手も、懐かしむような思い出の場所もないが、岡倉の顔を見ているよりは自分の部屋の天井のシミでも数えている方がずっとマシだった。

 

 

「吾郎くんにさよならの挨拶をしようか」と岡倉が玄関に集まった子どもたちに声をかける。

 

 小さなリュックサック一つを持って、吾郎はドアの前に立っていた。衣服はほとんど借り物だし、制服はもう必要ない。リュック一つに入るほどのものしか、自分の所有物と言えるものはなかった。

 

 見送りに来た子どもは六人。突然吾郎がいなくなると聞かされて、みな困惑した顔をしている。その中には、里奈と良太の顔もあった。

 

「あれ、みんな、何も言うことないの? 吾郎くんは海外に行くことが決まったから、もう二度と会えないんだよ」

 

 嫌われ者の吾郎に、言葉をかけるやつなんていない。

 そんなこと分かっているだろうに、さも不思議だと言わんばかりの口調で、岡倉は言った。面白がっているのかもしれない。

 

 さっさと話を切り上げるために、吾郎はとびきりの笑顔を作った。

 

「短い間だったけれど、お世話になりました。今まで僕を家族として迎え入れてくれて、ありがとうございます。ここで過ごした時間は忘れません」

 

 そう言って頭を下げた後、さっさと背中を向けて、玄関のドアに手を伸ばす。

 

 視界に影がかかった。

 背後から岡倉がドアに腕を伸ばして、覆い被さってきたのだ。大きな手をドアノブにかけると、上から吾郎を覗きこむ。柔和な笑顔の中で、黒めがちな瞳がぎらりと光った。

 

「うん。僕たちも君と一緒にいられた時間を、ずっとずっと忘れない。ここにいた子どもたちは、将来どこに羽ばたいていっても、いつまでも僕の子どもだ。そうだよね?」

 

 ああ、分かってるよ、そんなこと。

 名門一家の息子の正体が、実は岡倉があてがった赤の他人。将来、清水家にとって、これは最高の脅迫の材料になるだろう。

 

 お前は自由になるわけじゃない。ずっとずっと、首輪は俺が持っている──岡倉は、そう言いたいのだ。

 言葉巧みに言いくるめられて、こんなやつの提案に乗った明智啓次は、筋金入りのマヌケだ。その娘の真理子の将来も、これでめちゃくちゃになる。

 

 だけど、そんなの知ったことか。吾郎はヒーローじゃないし、人助けのヒーローもこの世にはいない。考えるべきなのは、助けるべきなのは、自分のことだけ。

 

 ──だから、これでいい。

 

 吾郎は、岡倉を見上げて頷くと、外に踏み出した。

 

「あっ……」

 

 閉まりゆくドアの隙間から、何か言おうと口を開いた良太の姿が見えた。

 相変わらず間の悪いやつ。

 

 ふっと笑ってから、吾郎は車に向かって歩き出した。

 

 

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