人生でもっとも幸せだった時のこと、母がそばにいた時のことは、できるだけ思い出さないようにしていた。繰り返し頭の中で再生するうちに、段々と細部が抜け落ちていくのを自覚するのが怖かったからだ。
ハニーブラウンの長い髪のシャンプーの香り、抱きしめられて頬ずりされた柔らかな感触、お金がなくて買えない誕生日ケーキの代わりに作ってくれた蒸しパンの味──もうどれも思い出せない。母が死んでから、急速に記憶は色褪せていった。
母がいた日々を思い出す度、完璧だった写真に次々と穴が開いていくのを呆然と見ているしかないような、そんな途方にくれた気持ちにさせられた。
昼の仕事も夜の仕事も持つ彼女と過ごせる時間は少なかったが、幸せに満ちていた。売春している親がいると学校で陰口を叩かれようと、夜に一人で行った銭湯で同情の目で見られようと、帰れば母が自分を待っている。誰かが自分を必要としている、この世に居場所がある、そんな唯一絶対の安心感は誰にも奪われることのないものだ。
気がつけば、古びたアパートの玄関に立っていた。
目の前には懐かしい母の姿と、小学校低学年の時の吾郎の姿があった。
──ああ、これは夢だ、と気づいた。まだ母が生きていた頃の夢を見ている。
「ごめんね。今日はお仕事があるから、またお風呂屋さんで待ってて」
母は目線を合わせるために腰をかがめると、五百円玉を子どもの吾郎の小さな手のひらに乗せた。
「うん。いってきます」
舌ったらずな口調で吾郎がそういうと、母は快活な笑みを浮かべてウィンクした。
「吾郎ったら、いつもお利口さん。帰ってきたら、いっぱい遊ぼうね」
いつも明るくて、勝ち気で、笑顔を絶やさない。母はそんな女性だった。
「うん!」
「もう、可愛いんだから。いってらっしゃいのチュウしちゃう!」
母は吾郎に抱きつくと、頬にキスを落とした。くすぐったそうに、でも幸せそうに、子どもの自分はけらけら笑う。
夢を見るのは嫌いだ。
二度と取り戻せない日々を思い出すのは、ぬるま湯に浸るようなもので、抜け出した時には冷たさだけが残る。
だが、その甘い罠に抵抗する気力はなかった。
どんなに母のことを思い出さないようにしても、夢のなかで勝手に記憶が蘇るのを止めることはできない。言い訳するようにそう考えて、幸せな記憶に浸ることにした。
母が縫ってくれた肩掛けカバンを誇らしげに下げて、幼い吾郎は早足で歩いていく。
「──あれ、叔父さん、どうしたの?」
銭湯へ行く道すがら、よく知った顔を見つけて、吾郎は足を止めた。
「たまたま近所にいたから、遊びにきたんだよ。姉さんはまた仕事でしょ。ご飯食べに行こうか?」
どうやら、悪夢に取って代わられたらしい。早くも不快な登場人物が出てきた。
とても母より若いとも血がつながっているとも思えない姿の男は、母の従兄弟だ。誰に対しても媚びた笑みを浮かべる品性のかけらもない二十後半の男。
「うん、行く!」
子どもの吾郎は、嬉しそうに従叔父のもとへと走っていく。
確かに、あの頃の自分は従叔父が尋ねにくる度に喜んでいた。小学二年生の吾郎は、この男に会えば、母が悲しむことを薄っすらと知っていた。しかし、普段はねだることすらできない玩具やファミレスのご飯は、ひとりで過ごす銭湯の時間よりもずっと魅力的だった。
つまらないものに釣られて母に辛い思いをさせる小さい吾郎を蹴飛ばしてやりたかったが、当然、夢の世界はそんなことを許さない。記憶をなぞらえるように、淡々と出来事が流れていく。
日が沈んでからしばらく経った頃、叔父に送られて帰ってきた吾郎を見て、母は息を呑んだ。
「吾郎に近づかないでって、言ってるでしょ」
叔父の手から吾郎を引きはがすと、自分の背に庇った。いつもは優しげな柳眉を精一杯つり上げて、叔父を威嚇するように睨む。
「やだなあ、姉さん。自分の甥っ子に会いに来て、なにが悪いんです?」
「私はとっくに勘当されて、あなた達はみんな縁もゆかりもない他人のはずだけど。次来たら、警察を呼ぶから」
「ええ、いいんですかあ?」
下卑た薄ら笑いを叔父は浮かべる。
「逮捕されるの、姉さんのほうだと思うけど。子どもを夜遅くまで外に放り出して、自分は男の人と楽しんでお金稼いでるって、違法だし、保護者失格じゃん」
悔しそうに桜色のくちびるを噛んで、母は押し黙った。
「吾郎くんも可哀そうだよ。まともに勉強道具も買ってもらえないみたいだし、学校でも近所でも、姉さんの仕事のことで色々言われてるんだってね。無責任に妊娠したせいで卒業もできなかった大学の奨学金、返すの大変なんでしょ? 他にも借金もあるって聞いたよ。前から言ってるみたいに、返済終わるまで、僕に吾郎くんを預からせてよ。ほら、助け合いってやつだよ。家族なんだしさ?」
「あなたなんかに渡すくらいなら、一緒に入水自殺するわ」
毅然とした声で母は言った。
「ええー、ひっどいなあ。ねえ、今の聞いた? 吾郎くん。お母さん、君のこと殺すつもりなんだって」
「いい加減に……!」
怒りで身を震わせる母を庇おうと、吾郎は前に出て両手を広げた。
「帰ってください」
こんな小さな子どもが大の男を睨みつけても、なんの威嚇にもならない。母を守れる気でいる自分は滑稽だった。
まったく同じ事を思ったのだろう。叔父はへらへらと笑った。
「そんな目で見られると、おじさん怖いよ〜。冷たいな、さっき優しくしてあげたのに」
「頂いた物は返します。だから帰ってください!」
吾郎の剣幕に、叔父は「分かった、分かったよ」とおどけて手を挙げた。
「今日のところは帰るけど、姉さん、さっきの話考えといてよね」
「誰が!」
母は玄関のドアを勢いよく閉めたあと、脱力して床にへたり込んだ。
「母さん……」
心配そうに近づいてきた吾郎を、ルビーのように美しい瞳が見上げる。そして、張り詰めた空気を崩すみたいに、母はへにゃっと困ったような笑みを浮かべた。
「ありがとうね、吾郎」
優しい声に、叔父についていった吾郎を責める色はない。
「母さん、ごめんなさ……わっ」
怒られると思って不安そうにしていた吾郎の腕を引くと、母はその小さな頭を抱え込むように抱きしめた。
「いつも吾郎は私を守ってくれるね。近所の人に仕事のことで怒られた時も、学校で他の子のお母さんに意地悪言われた時も、いつも」
自分と同じ色の吾郎の頭を愛おしげに撫でた後、そこに口付けを落とす。
「吾郎は私の小さなヒーローで、王子様。あなたがそばにいてくれれば、いつだって私は大丈夫だから」
そんなの嘘だ。母の人生は自分が出来たことによって壊れた。あと少しで難関大学の医学部を卒業というところで妊娠して、中退することになった。それまで彼女を褒め称えていた家族に手のひら返しで捨てられ、人生を共にすると決めていた男にも手酷く捨てられた。後に残ったのは母の時間と金を食い潰す赤子一人と、奨学金返済の義務だけだ。昼は清掃の仕事、夜は身体を売って、身体も心も疲弊しきっていった。
だがそんな事情など知らない幼い吾郎は、母の言葉に瞳を輝かせると、誇らしげな笑顔を浮かべた。
「うん。母さんのことは、僕が守るから!」
「ふふっ、あなたは本当に私の宝物。いつも誰より頑張ってて、頭もよくて、他の子たちに馬鹿にされることなんて一つもない……」
感極まったように、母は吾郎を抱く腕にぎゅうっと力を込めた。
「──ああ、お母さん、もっと頑張りたいな。あなたにもっともっとたくさんのこと、してあげたい。それなのに……」
かすれた声で、祈るように母がそう囁いたところで、夢は途切れた。
体がゆさゆさと揺れる。
辺りには鳥の鳴き声が響き、まぶた越しにまばゆい光を感じる。
うっすらと目を開けると、吾郎の肩をゆすっていた手が離された。自分を起こした手の持ち主の方を向く。
「おはよう、もうおうちについたよ」
そこには、にっこりと微笑む岡倉がいた。
そうだ、明智家まで岡倉に車で送られていたのだと、ようやく思い至る。
車の助手席の窓から見えるのは、石造りの豪邸だ。鳥の鳴き声は、樹木の生い茂る広い庭からしていたのだろう。
「ねえ、寝起きのところで悪いけど、一つテストをしようか」
岡倉は冗談めかした声でそう言って、吾郎の目を覗き込んだ。
「君はだあれ?」
吾郎は体を起こすと、背筋を伸ばして、美しい笑みを作った。
「──僕の名前は明智吾郎。今から帰るあそこは、僕の家です」
「やだ、やだ、意味わかんないっ! 知らない人がうちに住むなんて、いや、いや、いやァッ!」
甲高い声をあげながら、真理子はベッドの上でじたばたと手足を振り回した。
「真理子、そんなことしたら足が痛いだろう? 落ち着いて」
ほとほと困り果てた声で父が諌めてくるが、聞く気にならない。
別に体の心配なんていらない。
怪我をしている足から、痛みなんて感じないから。
世界はずっと薄膜がかかったみたいにぼやけていて、魂はふわふわと浮いていて、身体と繋がってない。
いつから、こうなったんだっけ?
たまに、そんな疑問が浮かぶ。
昔の自分はこんなじゃなかった、と思う。
こんなブレーキの壊れた車みたく、感情のまま何かするなんてなかった。もっともっと、どこまでも奥深くまで、自分の気持ちを抑えることができた。
でも、今は違う。何かを感じた瞬間には、その気持ちを外に出してる。
そう、これはきっと夢の中。
うまく体を動かせないのも、痛みを感じないのも、頭が回らないのも、気持ちが抑えられないのも、たまに水の中に沈んでいるみたいに話しかけられたことが聞き取れなくなっちゃうのも、全部全部、夢の中にいるせい。
「真理子、もし本当に嫌だったら、帰ってもらうから。だから挨拶だけでもしに、一階に降りてきて」
「ホントにぃ〜?」
「うん、約束だ。父さん、真理子の言う通りにするから」
「ふーん、わかった」
じゃあ、いいや。すぐに嫌だと言って、出ていってもらえばいい。パパは真理子のいうことにダメなんて絶対言わないから、大丈夫。
ぐずるのをやめて、真理子は啓次に支えられながら立ち上がった。
「下でずいぶん待たせてしまっているからね。髪型と服だけ少し直したら、いこうか」
「別に、いい」
「えっ」
「どう思われたっていいもん」
寝巻き代わりの白いワンピースはぐしゃぐしゃで、髪も乱れているけど、気にしない。どうせ二度と会うことはない相手だ。
「ねっ、パパ、早く下に連れてって」
「うん」
「言っとくけど、すぐに帰ってもらうから」
どうせ、真理子の声は下に聞こえている。
向こうも歓迎されてないことくらい、わかっているのだ。だったら早めに切り上げるのがお互いのため。
──なんて考えていたのが嘘みたいに、真理子は緊張していた。
「わっ、わたし、明智真理子って言います。これからよろしくお願いします」
お辞儀し終えたあとも、真理子は目の前の少年と目を合わせることができなかった。
お人形のように綺麗だと誰もが手放しで褒める自分の顔に、急に自信がなくなった。自慢のウェーブがかった長い黒髪も、もっとちゃんとセットしておけばよかったと後悔する。
どうしよう。いま、真理子、ちゃんと可愛いかな?
不満はすっかり消えていた。
代わりに心のなかを占めるのは、どうやったらこの少年に気に入ってもらえるかという心配ばかり。食いしん坊だと思われたくなくて、テーブルのうえの寿司にも手が伸びない。
理由は簡単。これから一緒に暮らすことになるという少年──吾郎がとても素敵な子だったからだ。
今までかっこいい男の子なんてたくさん見てきたけど、彼はどこか違う。きらきら華やかで、綺麗で可愛くて、でもどこか大人っぽい。
おとぎ話の中の王子様みたい! と胸が高鳴った。
「こちらこそよろしく、真理子さん。こんなに可愛いらしい妹ができて、僕、嬉しいです」
吾郎が笑うと、美しくそろった白い歯がのぞく。
王子様は笑うと天使みたいに可愛い、と真理子は心の中でため息をついた。
「あ、ありがとうございます……」
テーブルの上に視線を落としたまま、もごもごと真理子はそう返した。
男の子なんてみんな、何もしなくても真理子の周りにぞろぞろ集まってくるから慣れている。でも、ファンタジーの中の本物の王子様と話すのは初めてだ。
「はは、真理子ちゃんももうお年頃だから、照れちゃっているのかな?」
吾郎の左に座る、白髪交じりの初老の男性が笑い声をあげた。彼は、確か岡倉といって、たまにうちに遊びにくる人。
パパと同じ中学校の先生だったんだっけ? このおじさんに興味がなかったから、よく覚えていない。
「いやあ、子どもの成長は寂しいものですよ。吾郎くんも、もう中学二年生だなんて、あっという間です」
そうか、一つ上なのかと思って、真理子は正面に座る男の子を盗み見た。
するとちょうど目が合って、吾郎は少し首をかしげながら微笑む。
本当に綺麗な人だなあって、もう何度思ったかも分からないことをまた繰り返し思う。頬にかかるハチミツ色の柔らかな髪が、シャンデリアの光を受けてきらきら光るのがとても好き。
だって、この薄茶色の髪に赤褐色の瞳は、真理子の知っている誰かに似ているから。吾郎という名前も、そう。ずっとずっと昔から一緒にいてくれた、大好きな人。生まれた時から、真理子の一番の味方。誰だっけ?
……そうだ、お兄ちゃん。この人、真理子のお兄ちゃんにちょっとだけ似ている。
──あれ、じゃあ、お兄ちゃんはどこに行ったんだっけ?
ぼぅっと彼を見つめていても、なにも思い出せなかった。
「ハハ、真理子、ずっと吾郎くんのこと見ているね」
からかいの言葉にカッとなって、真理子は啓次を睨んだ。
「ちょっと、静かにしてよ」と小声で怒って、仕返しにわき腹を小突く。
さっきまで俯いてもじもじしていた真理子がいきなり強気になったのがよほどおかしかったのか、岡倉は思わずといったふうに噴き出していた。
しまった、お行儀の悪いところを見せてしまった。そう気づいてももう遅い。不安になってちらりと吾郎のほうも見るが、彼は優しい笑みを浮かべるばかりで、真理子の様子に驚いているということはなさそうだ。
「いやあ、きっとすぐに仲良くなりますよ。吾郎くんのこと、みんな大好きだったから、寂しくなるだろうけど……」と、岡倉は感慨深げに言う。
すぐ仲良くなれるといいな、と心のなかで真理子は思った。
真理子はすっかり一目ぼれしていたのだ。この王子様のような男の子に。
今までたくさん辛いことや悲しいことばかりだったけど、きっとこれから真理子の人生はすっごく楽しくなる。根拠もなくそんな気がした。
「本当にありがとうございます、岡倉さん。やっぱり吾郎くんがいてくれたら、真理子も大丈夫そうです」
うっと声を詰まらせて、感極まったように、啓次が涙を流す。
もう、子どもじゃないんだから、と真理子は呆れてしまった。