「今の真理子は人見知りだから、家族以外の人がうちにくると怒ってしまってね。お手伝いさんがくるときは、うまく外に連れ出してあげてほしいんだ」
「参ったな、真理子、ちゃんとご飯食べていないみたいだ。残さず食事しているか見ておいてあげてくれないか」
「ごめん、また出張が入ってしまってね。今週末も家にいられなさそうだ。吾郎くん、真理子が暴れ出したら、自分を傷つけないようにうまく押さえてくれないかな?」
「吾郎くんが説得しても、リハビリは嫌がるか……。まずいな、これ以上時間が空くと、骨が固定され始めてしまうらしいんだ。どうにか真理子をリハビリに連れて行けないかな?」
「僕が何か気に障ることを言ったのか、真理子を怒らせてしまってね。パパが謝っていたって伝えてくれない? たまにしか一緒にいられないのに、無視されてちゃ悲しいから」
「今の真理子って、どのくらい勉強ができるんだろうね。記憶も抜け落ちてるみたいだし、心配だ……。そうだ、吾郎くんが見ておいてあげてくれないかな?」
明智家に引き取られてから三ヶ月経ち、啓次からの「お願い」は日に日に積み重なっていった。
その辺の中学生を引き取ってきて、学校にも行かせず、娘の面倒を休みなしで丸々押しつけるなんてずいぶんな父親である。
機嫌を損ねればすぐに暴れ回る、でも、少しでも手荒なことをすれば大怪我してしまう女の子。そんな子を上手になだめながら、リハビリや勉強や食事を毎日規則正しくさせる。はっきり言って、こんな無理難題に音を上げない中学生は吾郎くらいのものだ。
それでも、明智家での生活は、今までの保護者と比べると破格の待遇と言っていい。衣食住が保証され、求められていることは明確。どうすれば高得点の子どもになれるのか、これ以上ないほどハッキリしたルールがある。近所の人間に嘘を広められたり、母のことを侮辱されることもないし、機嫌次第で暴行を加えられたりもしない。必要なものがあれば、二つ返事で買い与えられる。
このままこの家で生活していくことに異論はなかった。
もちろん、油断は禁物だ。いくら吾郎の方に異論がなかったとしても、今の立場は、あくまで啓次の要望に応えた結果である。言い渡された「お願い」をクリアできなかったら、あっという間に岡倉の元へ送り返される。少し間違えればいつ捨てられてもおかしくはない、いわば背水の陣だ。
一つの失敗も許されない。そう覚悟を決めて、吾郎はヤングケアラーの仕事を完璧にやり遂げていた。
真理子の世話をするのは、簡単なことではなかった。啓次がお手上げだと押しつけてきたのも納得してしまうくらいに。
なにせ今の彼女は聞き分けのない子どもそのもの。知的で落ち着きはらった、大人をもたじろがせる特別な魅力を持っていたあの明智真理子とは、まるで別人。
再会した時は、あまりの落差に度肝を抜かれたものだ。演技なんていくらでもできる吾郎でも、あの変貌っぷりには衝撃が顔に出そうになった。
でも、それももうさすがに慣れた。三ヶ月の間、寝る時以外は文字通り片時も離れず真理子と一緒にいるのだ。元々の彼女と過ごした時間なんて比べるべくもない。もはや、子どもっぽくわがままで感情的なこの少女の方こそ明智真理子なのだと頭の中で上書きされつつあった。
初めは、真理子に同情していたのだと思う。補助なしでは歩けなくなるほどの怪我を負って、かつての人格すら失った彼女を、可哀想に思わない方が難しい。
だが四六時中行動をともにして、ひとりで外出することすらできず彼女の面倒を見るうち、そんな安易な同情はすぐに疲弊や閉塞感で埋もれて見えなくなっていった。
思慮が浅く、傲慢で、直情的──今の真理子は、自分の嫌いなものをそっくり模ったような子だ。日増しに彼女のことが嫌いになっていくのを、自分でも止めようがない。
「ねーえ、やっぱ帰ろうよ」
真理子は病院の待合室のソファに座りながら、不機嫌を露わに、自由に動く左足をぶらぶらと遊ばせた。
彼女の右足──動かない方の足の膝には、小さな手術痕が四箇所ある。保護された時、彼女の右足の膝は構造が壊れ、前十字靭帯も損傷していたらしい。傷跡は、右膝の再建手術を施した時についたものだ。
でも一度の手術ですべて元通りというわけには当然いかない。根気強いリハビリと合わせて初めて、真理子の運動能力は取り戻せる。
啓次のもっとも強い要望は、真理子をちゃんとリハビリに行かせることだった。
しかし、医者から言い渡されているのは、精神的に安定した大人ですら嫌気が刺すようなメニュー。その上、最初にサボっていたせいで難易度も上がってしまったという。目先の楽しさだけを求める今の真理子にとって、一秒だってやりたいものではないのだろう。
「ねえってば! 帰ろうよ」
返事がないと見ると、真理子が声を荒げた。
診療室に来ている時の彼女は飛び抜けて不機嫌だ。いつ勝手に逃げ出すか分かったものじゃない。
「約束しただろ? 今日もちゃんとリハビリ頑張るって」
「だって、めんどくさいんだもん。ねえ、ほんとは、パパに頼まれたんでしょ? 吾郎くん、真理子のことなんてどうでもいいんだ」
そう言って、じとっと睨まれた。
その辺の公園を走り回っている五歳児と同じ程度の理性しかないくせに、勘だけはいやに鋭い。とことん面倒な女だ……。そんな苛立ちも、しかし、少しでも顔に乗せれば見抜かれる。
「啓次さんに頼まれたのもあるけど、僕も真理子ちゃんのこと心配だな」
心当たりが全くない、どうしてそんなことを言うのかわからない──とばかりに、吾郎は寂しそうに眉を落として見せた。
「別に右足がちょっと動きにくいだけで、真理子、困ってないもん。移動する時は吾郎くんが自転車に乗せてくれればいいし」
「でも、せっかくピアノを頑張ってたのに、弾けなくなるなんてもったいないよ」
この言葉は、かえって真理子の神経を逆撫でしたようだ。ぴくりと形よい眉を跳ね上げ、くちびるを固くひき結ぶ。
反論される前に、すかさず吾郎は言葉を続けた。
「──僕はピアノを弾いている時の真理子ちゃんが、一番素敵だと思うから」
甘い言葉を吐く自分にヘドが出そうになるが、仕方がない。
この子に言うことを聞かせるには、疑似恋愛で釣るしかないのだ。今までの失敗から、そのことは身に沁みるほど解っていた。
「ええーっ、そうかな?」
案の定、真理子は弾かれたように顔を上げた。
本当に、ずいぶんと吾郎にご執心らしい。薔薇色に頬を染め、喜色満面にあふれた顔をする。「真理子さん」と同じ顔の造りをしていても、表情一つでここまであどけない印象になるとは。これがあの少女と同じ人間とはとても思えなかった。
「うん。だから、一緒に頑張ろう。パーティーに行った時だって、二人で踊れた方がきっと楽しいよ。もちろん、どうしても嫌だって言うなら、強制はしないけど」
真理子はうんうん唸ってしばらく迷った後、やがて躊躇いながら頷いた。
「分かった。でも、吾郎くんのためにやるんだからね。嫌になったらすぐ帰るから」
「ありがとう、真理子ちゃん」
輝かんばかりの笑顔をサービスで向けると、真理子はどこかいじわるな笑みを浮かべて、ベッタリと腕にくっついてくる。
「ね、ありがとうって思うなら、キスして」
またか。まったくうんざりさせられる。
一応、吾郎は彼女の恋人ということになっていた。
引き取られてからひと月ほど経った時に、彼女から告白されたのだ。断れば、泣いて喚いて怪我を悪化させることは分かりきっている。色々と話を逸らすよう方向転換を試みたが、最後には、こちらも馬鹿げた恋愛ごっこに付き合う以外に選択肢はなかった。
啓次にバレたら、激怒するに決まっている。あの男が自分たちに求めているのは、本当の兄妹のような関係だ。
だけど知ったことじゃない。
そもそも他人にまったく無関心な真理子が自分を気に入ったのは、恋愛感情が下地にあったからこそ。そんな相手を家に放り込んで、今日から二人は兄妹だと宣言したところで、何の意味がある?
少し頭が回れば分かりそうなところだが、明智啓次の脳に論理的帰結という機能は備わっていないらしい。
一緒に住み始めて、表面上は紳士的な父親である啓次の欠点が嫌なほど分かった。あの男には、現実的な問題解決能力が欠けている。妻に夜逃げされたのも当然だ。啓次は、いざという時の物事の考え方が酷く稚拙で、自分の希望的観測を真実だと信じてこんでしまうような心の弱さがあった。
一番の問題は、母親に連れて行かれたという本物の明智吾郎を心配していないこと。
一緒に連れて行かれた真理子は大怪我した状態で見つかったのだ。未だ母と共に行方不明の兄の方に至っては死んでいたとしても、なにも不思議ではない。
入院を繰り返すほど病弱だったという本物の明智吾郎の行く末をまったく心配していないのは異常だ。何か裏があるんじゃないかと、最初は勘繰っていた。だが啓次のことを知るうち、ただ単純にそのおめでたい頭のせいで最悪の可能性に至らないのだろうなと呆れるようになった。
考えごとをする吾郎の肩を、真理子がつついた。
「ねえ、キスしないのー?」
「……ごめんね、人前じゃできないよ。僕たちは兄妹ってことになってるんだから」
残念そうな顔をして、真理子の頭をなでる。
無理だと言われるのは分かっていたのだろう。すねた顔をしながらも、真理子は頷いた。
「じゃあほっぺにぐらい、いいでしょ。ね?」
これ以上断ったら、怒って帰りそうだ。
周囲に人目はないことを確認すると、吾郎は頷いた。
そして、真理子のあごをすくって持ち上げる。
人と接触するのは大嫌いだ。相手が誰でも同じ、吐息がかかる距離に近づいた瞬間、吐き気が込み上げる。彼女のなめらかな頬の感触と体温がくちびるに伝わり、ぞわりと鳥肌が立った。喉が閉まり、えずきそうになるのを、持てる意思全てで押し留める。
狂おしいほどの嫌悪感の代わりに、照れくさそうな表情をうまく顔に乗せて、真理子を熱っぽく見つめた。
──そうだ、このまま仮面を被って嘘をつき通せと、自分に強く命じる。
啓次には、自分が真理子を支える献身的な兄だと思わせればいい。
真理子には、自分はとつぜん現れた理想の王子様だと思わせればいい。
求められる物になれなければ、すぐに捨てられる。その掟が変わることは絶対にないのだから。
明智家に引き取られてから四ヶ月経ち、四月七日の夜を迎えた。
その日は、真理子の兄である明智吾郎の誕生日だ。
「ねえねえ、吾郎くんのホントの誕生日って、いつなの?」
『15歳の誕生日、おめでとう、吾郎』と書かれたケーキを不思議そうに眺めながら、真理子は訪ねてきた。
リビングのテーブルの上に並ぶ豪華な料理の数々は、啓次が近所のレストランからケータリングしたものだった。一緒にこの料理を食べるはずだった啓次は、しかし、留守にしている。急きょ予定が入ったと言って、一時間ほど前に忙しなく家を後にしていた。
どういう風の吹き回しか、以前とは打って変わって政界参戦へ乗り気になっている啓次は、今年の年度末に退職した。それ以来多忙を極めていて、今日顔を合わせたのですら二週間ぶりである。
娘の面倒を任せっきりにできるほど信頼されているのは、まあ、いいことなのだろう。
だけど、「明智吾郎の誕生日」を祝いたがっていた唯一の人間がいなくなったことで、場は白けていた。吾郎からすれば他人の誕生日だし、真理子からすれば肝心の兄がいない。なんとも珍妙な誕生日会になった。
「だって今日はお兄ちゃんの誕生日で、吾郎くんの誕生日じゃないでしょ?」
真理子が兄のことを口に出すのは、初めてだ。てっきり兄や母の記憶は封じ込めているのかと思っていたが、あっさりと彼女は明智吾郎の存在を口にした。
──なにがあったのか、思い出しそうなのか?
吾郎は少し身を乗り出して、真理子の表情を観察した。彼女の口から出る言葉に興味を抱くのは、実に半年ぶりである。
「君の言うとおり、今日は真理子ちゃんのお兄さんの誕生日なのに、一緒に祝えなくて残念だね」
今まで、本物の明智吾郎のことは極力触れないようにしていた。トラウマを思い出したらどうなるか、未知数だったからだ。ここは話を流すのが正解なのだろうけど、彼女の考えていることが知りたかった。意味のない恋愛ごっこに、いい加減飽きていたというのもある。
「うん、誕生日なのにお兄ちゃんいないね」
真理子はこくりと頷いた。
「お兄さんに会えなくて、寂しいんじゃない?」
「そうだねえー。でもお兄ちゃんとはまたすぐ会えるから、大丈夫」
まるで動揺を見せない。そのことにほっとしたような残念なような、妙な気分になる。
「ねえねえ、それより、吾郎くんの誕生日はいつなの?」
頬杖をつき、ニコニコと笑いながら、真理子はしつこく尋ねてくる。
「……六月二日だよ」
嘘をついた。六月二日は母の命日であって、自分の誕生日ではない。
だが、母が死んだのは、自分が生まれてきたせいだ。なら、母の命日が自分の誕生日だとしても、何もおかしいことはない。
生まれた日を祝われたいなんて、母が亡くなってから考えたことはなかった。
「じゃあ、二ヶ月後はたっくさんお祝いしないとね。吾郎くんの誕生日!」
真理子はそんな吾郎の内心など露知らず、無邪気な声で笑った。