きみの花道。ぼくらの獣道。
春のG1シーズンが始まる。
高松宮記念、大阪杯。シニア期の競走ウマ娘たちがしのぎを削る戦いが春一番を告げれば、いよいよクラシック級ティアラ路線の第一幕『桜花賞』だ。
「さて。申込期間も終わって、相手も出揃った。いよいよG1レースだね」
こくりと頷くスティル。今日は抽選枠も含めた出走ウマ娘の確認と桜花賞当日の天気予報と先週までの阪神レース場のコンディションなどの情報共有、つまりミーティングを行うことになっていた。
それと大切なことが、もうひとつ。
「トレーナーさん。手伝ってもらっても?」
「えっ、あー……」
スティルの問いかけに、ぼくはトレーナー室にいる
「こういうのは、トレーナーが手伝っても問題にならない?」
「問題ありません。手続き上の検量は当日ですから」
丁寧に説明してくれるのは
「それでは、勝負服の輸送前検量を開始します」
そう、G1レースという巨大イベントはもう始まっている。
なにせ通常のレースとは異なり、G1レースはそれぞれの競走ウマ娘が別々の勝負服に身を包む。
当然ながらパッと見ただではレースの規定を満たしているか分からないし、場合によっては勝負服が凶器となってレースを危険に晒すこともある。
だからこその検量制度と勝負服の事前輸送。出走ウマ娘の勝負服は全てレース場に集約され、一斉検査を受けることで公平性を担保している。
それで、今日はその事前検量(当日に問題が発覚しても対処できないため、保険として行う検査)とJHTへの勝負服引き渡しを行うことになっているのである。
スティルは勝負服を着用して露出規定と安全規定に問題がないかチェックしてもらい、それから梱包・封印して『桜花賞』の舞台である阪神レース場まで輸送してもらう。
つまり、これからスティルは勝負服に身を包むことになるのであるが……。
「トレーナーさん?」
「ん? ああ、うん。始めようか」
まあ、いい。
別に問題があるわけでもないのだから、やろうじゃないか。
ぼくはスティルの勝負服を鍵付きロッカーから取り出す。前回着用した後にクリーニングに出してそのままなので、それはクリーニング会社の梱包フィルムに覆われたまま。
そしてぼくがそのフィルムを解く間に、スティルはトレーナー室の一角にある着替え用カーテンを展開する。天井の一角に取り付けられたレールから吊り下げられるカーテン。それが作るのはちょうど人ひとりくらいが入れる
もちろん
だからぼくの手助けが必要だ。
「トレーナーさん」
「はい」
ぼくはカーテンの向こうにハンガーを差し込む。向こうが掴んだ感覚があって、ハンガーはカーテンの隙間に消える。
「こちらを」
「持ったよ」
そして代わりに現れるのは、ハンガーに掛かった学園の制服。高貴なる紫と白の、おそらくは温いであろうそれに触れないよう、ぼくはハンガーの掛け部を持つ。
そして素早くラックにそれを掛けると、代わりに勝負服をカーテンの中へ差し込む。この作業は可能な限り早くこなす必要がある。
「お待たせしました」
そしてさしたる時間もかからず、カーテンは解かれてひとりの競走ウマ娘が現れる。
彼女の競走名は、スティルインラブ。
「似合ってるよ、スティル」
ぼくは勝負服の裾を摘まんでお辞儀をする彼女に心よりの言葉を贈る。もちろん、それで満足する
ぼくの言葉にスティルは微笑むと、それからJHTの職員へと向き直った。
「よろしくお願いいたしますね」
「では、始めます」
ぼくはJHT職員に事前検量されるスティルの様子を眺める。白い手袋をはめた職員は、丁寧にスティルの勝負服にほつれなどの要補修箇所、突起などの危険部位がないかを確認していく。
これが男性職員ならセクハラを通り越したナニカだろうけれど、JHTはURA外郭団体の御多分に洩れず、職員は引退した重賞ウマ娘で構成されているのでそういう心配はいらない。
「あ、あの。トレーナーさん?」
ところがどうしたことか、ぼくの方にちらりと視線を寄越したスティルは困惑顔。
「どうしたんだい、スティル」
返事はない。スティルは逃げるように顔を逸らす。こらこら、言葉にしないと伝わらないよ。
そんな無言のやり取りを交わす間にも、JHT職員は淡々と事前検量を進めていく。
「はい。特に問題はありませんでした」
よかったよかった。
なにせ、このタイミングで問題が見つかったなら今から補修・改修が必要だし、場合によっては桜花賞を共通勝負服(勝負服を用意していないウマ娘向けの衣装)で走ることになりかねない。
ぼくはスティルと安堵の視線を交わすと職員にお礼。その後は先ほどのを巻き戻す要領で勝負服を脱いでもらい、梱包・封印。
「こちら預り証です」
「はい、たしかに」
そうして事務的な手続きが終われば、勝負服は桜花賞当日までしばしの別れ。
「トレーナーさん」
「どうかしたかい、ス……ティル?」
ぼくはしなだれ掛かるスティルの肩に両手を添える。そのまま重心をぼくの方へと押し付けてくる彼女を抱き留める。
「すみません。トレーナーさん」
「……いいんだよ、スティル」
ぼくはそっと、彼女の身体を冷ますように声を吹き掛ける。ヒトより高めとされるウマ娘の平熱より、気持ち多めに熱を帯びたスティル。
それは紛れもなく、勝負服のもたらした衝動だ。
「辛いことを、させてしまったみたいだね」
富嶽テレビの時とは違う。彼女の衝動は必然ではなく、勝負服を
あの日、
「ごめんよ。狩りの時間はまだなんだ」
「はい、はい。ええ、わかっております」
「次からは、断ろうか」
「それは」
「事前検量は慣例的なものだ。無視して問題になる訳じゃない」
「ですが」
きみはそう答える。そう答えるしかない。
背中から回したぼくの腕に、スティルの手が触れる。辛うじて「掴む」と表現できるくらいの力で握られる。
「トレーナーさん」
「いいんだよ」
ぼくがきみにしてあげられることなんて、これ以外にはないのだから。
ミーティングが終わった後のトレーナー室は、いつも通り静か。
「いつになったら、きみは自由になれるんだろうね」
ぼくは応接セットに腰かける。久し振りのひとり掛け側。つっけんどんな安物の合革。
机の上に広げられた資料の群れを眺めながら、スティルの前に立ちはだかるであろう相手を思う。
どうか、強くあってくれ。スティルが己を解放できるほどに。
どうか、強くあってくれ。優しいスティルが、
「世界は、そんなに酷いものじゃないんだよ。スティル」
ぼくはひとりごちる。他ならぬ、ぼくに言い聞かせるように。
今日のことだ。スティルが、ぼくを信じて身体を預けてきた時のことだ。
ぼくは彼女を抱き止めるより先に、トレーナー室よりJHTの職員が立ち去っていることを確認していた。
つまりそれは、
もちろん、それは
「ぼくらは、いつになったら、自由になれるんだろうね」
桜花賞は、もう間もなく。