監獄への入口、きみの鍵束。
今日は、桜花賞。
私にとってははじめてのG1、トレーナーさんが言う希望の場所。
『レースには、きっときみの居場所がある』
本当に、そうなのでしょうか。
トレーナーさんのことは疑っていません。
疑っているのは、他ならぬ
トレーナーさんが『夢』だと仰ってくださった私の
つまりそれは、悪夢は私の中に鎮座したまま。それを受け入れてくださるトレーナーさんがいるだけで、状況そのものは何も変わってはいないのです。
そして、私は。
トレーナーさんを無二の存在であると思っております。
これは文字通りの意味です。
昨日までトレーナーさんのような方は現れませんでした。従って、トレーナーさんのような方が明日以降に現れる保証はありません。
もっとも、あの方は性根が性格に些かの難がある方ですので「ぼくの替わりは利く。ただ、ぼくがきみの隣に居たいだけだ」といったようなことを考えているのでしょうけれど。
私の悪夢を
私は、わたくしは、ワタシは。
『続きまして2番人気、スティルインラブ』
パドックにスティルが現れた。
彼女はURA指定の基本動作ステップで規定通りのアピールをしたあと、軸足でない方のかかとを後ろに引いて袖を持ち上げる、いわゆる
うん、大丈夫。
入れ込んでいる様子もなく落ち着いているのがわかる。問題はなさそうだ。
「それにしても、まさか2番人気とはね」
「そうか? 当然の結果だと俺は思うがな」
ぼくの呟きに応じたのはプレスIDを首から下げた親友。お前だって月刊トゥインクルは読んだろと彼は言う。
「乙名史記者の記事で、みんな彼女のポテンシャルに気付いちまったんだ」
「……至って普通の記事だったぞ?」
ぼくは確認のために送られてきた原稿を思い出す。
先日の彼女が喫茶店で見せた
首を傾げるぼくに、分かってないなと彼は言う。
「
「……そういやお前、ここのところ頻繁に取材に来てたな? まさか」
「ご名答。お陰さまで稼がせてもらったぜ?」
ニヤリと笑う
おいおい、友情につけこんで金儲けするなんてヒドイじゃないか。
「メディア対策のコンサル料と言って欲しいものだな。それに、ここで勝てばスティルインラブさんの目的通りだろ?」
「それはそうだけれど……」
レース前にたっぷりこの世の中を嗅がされて、ぼくの胸はいっぱいいっぱいである。
現実逃避にパドックへと視線を戻せば、観客たちは大盛上がり。
当然だ、なにせ
『母は桜花賞を前に泣きました。始まることすら許されなかった三冠の物語、今代こそは紡ぎましょう。トリプル・ティアラ最初の関門、挑戦の始まりです』
1番人気。それは勝利を期待されるウマ娘。
『アドマイヤグルーヴ!』
「ジュニア級の女王が消えて、どうなることかと心配していたが杞憂だったな。彼女は強敵だぞ?」
「そうかな」
観客と対照的に冷めたぼくの声。驚いたような親友の視線。
「強敵だろ? 血統は間違いなし、名門アドマイヤ、そしてリーディングトレーナーの指導を受けてる」
「
そんな、強そうな相手を負かしてしまったら。
スティルは、
「(頼む、強くあってくれ)」
ぼくはライバルの最有力候補へと視線を送る。
怪我で桜花賞への出走を回避したジュニア級G1ウマ娘を例に挙げるまでもなく、競走ウマ娘
「お前、とんでもなく失礼なこと考えてないか?」
親友は言う。ジュニア級の女王もオークスまでには復帰する。ぼくが考えるようなスティル一強の状況にはならないと。
「そこまで
「だといいけど」
折れるのは骨だけとは限らない。
ひとつの怪我で、小さな敗北で。その綻びは途端に広がり、たちまち修復不可能になる。
1番人気を背負うアドマイヤグルーヴや復帰した後のジュニア級女王が、スティルと走ることで折れてしまったのなら。
それを、スティルはなんとするだろう。
「……それが、
「格下狩り
スティルは本気を出せない。
「(囚われないでくれ)」
常識に。枠組みに。優しさに。
きみが脚を伸ばすことすらできない世界を、どうか否定してくれ。
「とまーれー」
間延びした号令。空気展張式のパドックゲート*1がしぼみ、正装の誘導ウマ娘たちがアピールステージを瞬く間に解体する。
代わりに広げられたのは、それぞれの枠番が書かれたマット。
「スティル」
そして行儀良くその枠番マットの真ん中に立つスティルに、ぼくは出走前最後の声掛けをしにいく。
もっとも、今日に関してはするつもりもなかったのだけれど……。
「トレーナーさん」
「うん」
ああ、あの顔だ。
ぼくに見せた、彼女の隠しきれない本能。
「いいよ」
いまのきみが求めているもの。
それは理由だ。赦しだ。
「きみの全部を、ぼくに見せておくれ」
ぼくの言葉に、きゅっと脇を締めるスティル。重ねていた両の腕がさらに重なって、片方の掌は腕を、所在をなくしたもう片方は勝負服を撫でる。
ぼくは言った、ぼくを理由にしてくれていいと。
ぼくは言った、その時がくるまできみを隠すと。
そして、その時は来た。今日がその時だ。
「…………あの視線が、見えますか?」
スティルはそっとパドックの向こうへと目をやる。そこに蔓延るは品定めの視線。
「うん。良く見える。ぼくらをみているね」
「はい」
パドックは巨大な監獄だ。現地の観客、カメラの先の生中継映像の視聴者。新聞やネット記事で
その全てが、ぼくらを雁字搦めにする。
「怖いね」
「!」
「だから、彼らが怖くないと証明しておくれ。スティルインラブ」
でも、きみなら。
きみなら大丈夫だよ、スティル。
ぼくはきみを視る。
ヴェールの、流星の、その理知的な瞳の奥に宿る。煮えたぎるような本能を。
それが瞳を溶かし流星を砕きヴェールを燃え上がらせる様を。
「はい、トレーナーさん」
ああ。素敵だ。背筋が凍るくらいだ。
感情を、欲求を、剥き出しにしたきみは。
「いっておいで」
ぼくらの悪夢が開花する。
そして、
すべて、喰い荒らしておくれ。
「いってきます」