愛舞うお菓子、女王君臨。
前年のジュニア女王の復帰。
桜花賞1600mから
言いたいことは分かるけれども。桜花賞ウマ娘に対してずいぶんな物言いだとぼくは思う。
やはり、世間はまだまだスティルの輝きには気がついていないらしい。
「トレーナーさん」
学園の制服に身を包んだスティル。背中にまで続いてゆくヴェール型のメンコ。ウマ耳を飾る赤白のリボン。
そんな彼女の、小さな流星を添えた栗毛の下に宿るのは、期待と歓喜。
世間のことなんて、きみは気にもかけない。
「私、楽しみです」
「……ああ。そうだね」
関係者エリアへの道のりは静かで、ここがG1デーの東京レース場とは思えないくらい。
4本の脚を鳴らしながら、ぼくらは控え室の扉を開ける。
控え室には、小さな花が置かれていた。
いわゆるアレンジメント。アクリル製の箱の中に、押し込められた花たちの姿。
「……」
「どうやら、きみのご両親からのようだけれど」
添えられていたメッセージカードには彼女の両親の名前が刻まれている。多忙につき招待には応じられないことへの詫びと共に。
「来てくれなかったか」
「わかっていたことです」
そうだろうか。いや、そうなのだろう。
彼女の家に広がる溝は、単なる不理解によるものではない。むしろお互いに歩み寄ろうとしたからこそ生じたモノ。
「勝負服の確認をしようか」
これ以上触れても仕方のないことだから、ぼくはスティルと一緒に勝負服の点検に入る。
……
「よし。じゃあ着用しよう」
「はい」
そしてスティルは、
ぼくは息を小さく吐いて、その学園制服に手を掛ける。
高貴な色とされる紫をベースにした制服は、もちろんその生地まで拘り抜いて作られている。気品を漂わせつつ、しかし強靭でいかなる負荷(それも本格化を迎えたウマ娘による負荷)でも決して破けず、延びもせず。
そんな、1着でどれほどの対価を求められるか分からない代物を、ぼくは丁寧にハンガーラックへと移す。
「スティル」
「はい」
スティルが答える。栗毛の向こう、細い肩があわせて上下する。
「不思議だね。今日をこんなに待ちわびたきみが、どうして緊張しているんだい?」
それは、と。小さな呟きが控え室という空間に漏れて、空調の騒音にかき消される。
ぼくは安全装具を取り付けると、軽く叩いてチェックを促す。大切な彼女の命を守る装備品だ、こればかりは本人にもやって貰わないといけない。
「トレーナーさんが」
ぼくが? 勝負服に届き掛けていた指が止まる。
つまり、ぼくの緊張が伝わってしまったと。
「緊張はするさ。もちろん」
なにせ状況が状況である。今日はオークス、スティルの二冠がかかっている。
……いや、正確には。スティルがトリプル・ティアラを手にするかどうかがかかっている。ここで負ければ、彼女は本当に「単なる桜花賞ウマ娘」に終わる。
あの首筋を絞める感覚が思い出され、思わず唇を舌で湿らせるぼく。
この緊張は、そのままトリプル・ティアラへの高揚なのだ。
「きみは?」
「胸の高鳴りが、止まりません」
「それは僥倖」
ぼくは勝負服を彼女のもとへと運ぶ。
予約済みの白、染み着いた赤、ぼくらの
それらを用いて、彼女を包む。化粧台の鏡に、未完成ながらもドレスを纏った競走ウマ娘が現れる。
ぼくの手元に残るのは、今日も今日とて留め具の感触だけ。
「うん、似合ってるよ。今日も」
スティルインラブの勝負服について、注目されがちなのはそのドレス意匠のデザインだ。フレアが広がるスカートは王道のAラインスカートを想起させ、赤の生地をまとめ上げる白のリボンは彼女の蹄跡となるべくなびく。
しかし真に彼女の走りを走りたらしめるのは、やはりその脚。
ぼくらの夢を
「それではトレーナーさん、お願いしますね」
スティルが備品のスツールへと腰を降ろす。椅子のように背もたれがないため、スカートが干渉することもない。
「では、失礼」
ぼくは一礼して、それから彼女の前に跪く。
スティルを「スティルインラブ」たらしめる2本の脚。3ハロンを30余秒で突き抜ける台風の目。
掌を踵に添え、その足首をぼくは持ち上げる。ぼくの意図を汲んだスティルがあわせてくれることで、しなやかな筋繊維に包まれた足根骨が軽々と宙に浮く。
その脚へ、ぼくは勝負服を履かせていく。競走ウマ娘の武器と言っても過言ではない蹄鉄もそうだけれど、その前にこの柔くて細い脚にまじないをかけなければ。
「……」
跪いたぼくを、スティルの瞳がじっと見下ろしているのを感じる。
利口な彼女は、ぼくに自分の脚を触らせることの意味を理解している。
その脚回りの装飾に、真っ赤な
「トレーナーさん」
「なんだい?」
リボンを脚に絡み付けてゆく。走行中に剥がれてはいけないが、彼女を締め付けることがあってはならない。
「その、トレーナーさんは。こんなことまでしてくれるのですね」
「よかった、無茶ぶりを言っている自覚はあったんだね」
ぼくの軽口に、きみは返事をしない。
いまさらだろう。着付けを手伝うくらい、さして問題になるものでもない。
「いいんだよ。きみの望んだ道だ、ぼくのせいでね」
「あなたのおかげ、です」
「それは光栄だね」
ぼくはイトを結ぶ。
彼女のユメを体現する勝負服を。
彼女の悪夢を封じ込めようとする
もう、抑えることは叶いません。
わたくしのささやかな願い。この社会の中で静かに溶けていくように過ごすこと。波風を立てず、大きな痛みも苦しみも、さしたる
『契約しよう、スティルインラブ』
目を閉じれば、あの日の囁きが聴こえます。
わたくしの穏やかな日々を粉々にしてしまったあの囁きが。
東京レース場、芝2400メートル。
G1重賞競走『オークス』。樫の女王、世代の頂点を決めるための12ハロン戦。
先頭を駆けるペースメーカーに競りかけるウマ娘はおりません。
泳がせているのか、はたまた圧をかけているつもりなのか。何も起こらない向こう正面を3コーナーへと向かっていきます。
みなさん、我慢がお上手。羨ましいくらい。
どうやったって高鳴る鼓動。勝負の最終直線なんていうけれど、勝負は最初から、最後までずっと。
……だからこそ、抑えなくてはならない。
分かっております。ええ、理解はしているのです。
「(だというのに、わたくしときたら!)」
抑えることが叶いません。たったの2、3ハロンですら惜しい。その数十秒が待てない。
だって、この脈動は、風斬りは、輝きは。
この一瞬ですら、形を留めておけない!
それをみすみす見逃せなど、どうして我慢できましょうか!
『スティル』
であるからこそ。
ワタシは勝負服を纏うのです。
トレーナーさんが、他ならぬあなたが結んでくれた勝負服を。
わたくしだけで抑えられないなら。あの人の力を借りる。出来ないことは
「(大丈夫。私はまだ、冷静です)」
脚に結われた温もりが残っている。
それは私の身体が熱で溶けていない証拠。あなたから熱を感じるわけですから。間違いではない、はず。
どこか言い聞かせている節があることは分かっています。誰に対して? 他でもないワタシに対して。
愉シイデショウ?
いいえ。
コンナニ美味シソウナノニ?
トレーナーさん曰く、私は「テーブルマナーが良い」そうで。
ナラ、喰ラワナイノ?
「(それこそ、まさか)」
素敵な
下げてもらうなんて、ありえない!
3コーナーへと差し掛かる先頭。コース取りを探る気配。内に入るか外へ持ち出すか、数多の視線が交差する。
……嗚呼、
脚を一呼吸分だけ前に。
絡み付くあなたの温もりは命綱。
ゆきましょう、あなた。一緒に。
回転が早まる。鼓動が全身に熱を送り込む。
交換の限界を向かえた肺の、血管を全速力で駆け抜ける血液が胸をいっぱいにする。
溶ける、熔ける。ワタシの熱が、
私は空へと、あなたのイトが大地に紐付けるのに任せて飛び上がる。
そしてワタシのマワリのゴチソウたちが、真っ赤に膨れ上がって、弾ける。
灼熱のレッドカーペット。粘性を纏うドレス。私をワタシたらしめる、クロ混じりのアカ。
嗚呼、こんな
『スティル』
そして紅く染まった大地の向こうに、あの人の背格好。
芝で型どられた体格、蹄鉄で編まれた
そして私の贈った、ネクタイ。
ではわたくしは? 美しいあなたに釣り合う姿なのでいるのでしょうか。
あなたは答えてくれません。ただ何時ものように、芝の隙間から赤い水を迸らせながら私を抱いてくれる。ワタシの白が染められていく。
芳ばしい
「ねぇ、あなた」
食べても、いい?
そうしてワタシは、あなたのネクタイに手を伸ばして……
…………。
「スティル」
ぽんぽん、と。腕が叩かれます。
あなたの温もり、あなたの力加減。
「……トレーナーさん」
「美味しかったかい?」
ええ、とても。
表情でだけ応えた私に、あなたは微笑みます。
いつもより、近いお顔。
つまり、私はトレーナーさんに真正面から抱き締められていたのです。
「なら、
「……あ、」
トレーナーさんの一言が、私を
赤黒い絨毯ではなく、芝が敷き詰められた本バ場。
ぬらりとした紅い蜂蜜ではなく、人々の歓声。
ここは東京レース場。
11Rは、G1オークス。
掲示板のトップを飾るのは、見覚えのある番号。
「勝ったのですか?」
私は、私を隠していてくれていたトレーナーさんに小声で聞きます。周りの皆様に気取られぬように。
「勝ったとも。さ、挨拶を」
トレーナーさんは私を
私も倣って、敬意と感謝を。
「…………ごちそうさまでした」