熱孕む肉体、魂の鼓動。
夏合宿、その意義について話そう。
「『夏の上がりウマ』なんて言葉があることから、ついついハードなトレーニングを積む……そういう認識をされることが多いけれど」
この認識は、間違い。ぼくはそう思う。
……いや、というか。みんな薄々気付いているとは思うけれど。
「実際には、とにかく回復と調整につとめる。というか、
当たり前の話として、日本の夏は厳しい。
「菊花賞ウマ娘ですら熱中症で倒れる時代だ。垂れていいとは言わないけれど、ハリキリ過ぎるのは良くない」
さて。ここまで話を聞いたなら、スティルもぼくが何を言いたいかは理解したことだろう。うんうん、耳を絞るのを我慢するのは大変かな?
それにしても惚れ惚れする自制心。ぼくじゃなきゃ誤魔化されているだろうね。
なので、ぼくは気が付かないフリをして続ける。
良かったねスティル、ちゃんと不満を隠せたからぼくが
「というわけで、今回の夏合宿では追い切り*1をしません。身体に負荷をかけるのではなく、春に蓄積した歪みを修正するところから始めるよ」
「…………はい」
きっと夏合宿では周囲の目を気にせず思い切り走れると思っていたのだろう。スティルは残念そうに目を伏せる。
「ちなみに、スティルが期待するほど夏合宿は自由じゃないよ?」
「そうなのですか?」
少し意外そうな色の混ざるスティルの声に、ぼくは書類フォルダからコピー用紙を取り出す。
二人で覗き込むそこには、職員向けに記された夏合宿の概要が載っていた。
「これって、部屋の割り振りですよね。こんなに大人数で……?」
「そう、夏合宿は大部屋でたくさんのウマ娘と一緒に過ごすことになる。基本のスケジュールもトレーニングというより、ウマ娘に規則正しい生活を送らせることに重きを置いているんだ」
もちろん、基本のスケジュールはあくまで基本のものなので、担当トレーナーと相談して内容を変えることはあるだろう。
それでも、基本は適切な食生活と運動というバランスの取れた日程を組むのが基本。そもそも夏休みということで勉学に時間を取られないわけだから、ここはゆっくりと時間をかけてでも能力の底上げに徹するべきである。
「というわけで、ぼくから提案する夏のメニューはこれね」
ぼくが取り出した別の紙に食いつくスティル。そこには基礎的なトレーニングに加えて……。
「模擬レース。思い切り走れるよ、よかったね」
ぐりんと向いた首。
「トレーナーさん」
「うん」
「分かって言ってますよね?」
「主語と目的語が欲しいかな」
「あなたは私が模擬レースに出たことがないことを、分かって言ってますよね?」
「そりゃね。知ってるさ」
ぼくはきみのトレーナーだ。きみのことを把握するのが仕事だ。
競走名スティルインラブ。現役、栗東寮所属。
主な勝ち鞍はオークスに桜花賞。学内でのレース出走記録は公式・非公式ともにナシ。
「とはいえ、きみはもう『あの走り』を見せてくれた。G1の大舞台、レース界隈の人間がもれなく注目しているレースで」
「それは」
言い澱むスティル。まあ、分からないでもないよ。
「G1の舞台は
「……はい」
肩を落とすスティル。彼女が丸めた背中に、ぼくは手を添える。
「それでいいのかい?」
「……」
きみはもうG1ウマ娘。単なるG1級ではなく、旧八大競走の一角であるオークスを獲ったウマ娘。
「前から伝えているけれど、野良レースや地方での『格下狩り』に意味はないよ」
これまでは、喉を潤す程度の意味はあったのかもしれないけれど。
ぼくの言葉に、スティルは身を寄せてくる。そのまま倒れ込むように、胸に頭を押し付けた。
「……誰のせいだと、思ってるのですか」
「ぼくのせいだけど、それがどうかしたのかい?」
「~~~~!」
ぼくが上半身を支えているのをいいことに、シャツをしわくちゃにするタイプのドリル頭突きを繰り出すスティル。
ヴェールに収まらない栗毛がぶんぶん振れる。
やがて、ぽふりとスティルは膝の上に倒れ込んだ。
ヴェールでも隠しきれないくらい真っ赤になった彼女。
「……ひどいひと」
「
同意の声は返ってこない。乱れた髪を手櫛で
「……」
「あっ、ちょっ、尻尾やめっ痛!?」
「大丈夫。ちゃんと相手は選ぶし、秘密にして貰えるようお願いしてあるから」
「そういう問題では……」
「きみが『抑えた走り』で勝てば解決さ、そうだろう?」
「でも……」
「走りたくないの?」
「えっ、と……」
「いいよ。言わなくても、分かってるからね」
「…………」
スティルをいい感じに丸め込んだ(丸め込めたとは言っていない)ぼくは、話を本筋に戻す。
「これが模擬レースの予定表」
ぼくの差し出した日程表。
それを見たスティルは、驚きの顔。
「……このような方たちが、模擬レースを了承してくださったのですか?」
「そうだよ。回数は少ないし全部
信じられないといった具合のスティル。彼女はじっくりと対戦相手の一覧を見てから、ぼくの手を取った。
じっ、と。彼女の視線がぼくを貫く。
「またなにか、袖の下を?」
「おいおい、すごい信頼だな」
いくらなんでもトレーナーには通用しないよとぼくは手を振る。
……猫缶で買収される理事長は、うん。大丈夫だろうか、不安になるね。
「『非公開でならスティルと模擬レース
「…………本当に?」
「もちろん」
そういえば、
そんな
「なにせ
ぼくらは秘密主義で知られている。
他の陣営からしてみれば、スティルインラブという競走ウマ娘は
加えてぼくらが徹底的に追い切りを非公開としてきたために、どんな練習をしているのかも不明。
だから知りたくてしょうがない。
これから担当ウマ娘の
それだけ、スティルの走りは評価されている。
「また、そんなことを」
そんなこと、ね。
「謙遜はいけないよ、スティル」
それに我慢もいけない。
強い競走ウマ娘と模擬レースが出来る。願ったり叶ったりじゃないか。
「それにもうじき、隠す必要もなくなる」
トリプル・ティアラの栄光は目の前だ。
史上2人目、史上初でないのは惜しいけれど。
「だからこそ、きみは乗りこなさないと」
きみは、自分のことはよく理解しているだろう。そして気付いてもいることだろう。
抑圧と解放。その2つしかなかった選択肢に、もうひとつ、または無限の可能性が開きつつあることを。
「模擬レースで、きみは折り合いを見つけるんだ」
「……折り合い」
ヴェールの下、小さな流星を抱いた栗毛。
その奥に控える理性を湛えた眼。
きみはその最奥に控える衝動を悪夢と定義した。
でも悪夢も夢であるように、現実もまた
それはすべて、なだらかに繋がっている。
「どんなきみも、きみだ」
オークスの直線も、コーヒーに多めのミルクを淹れるきみも。
ネクタイを締めるきみも、ぼくの足に絡まるきみも、クッキーを頬張るきみも。
今こうして手を結ぶきみも。
ぼくを絞める、きみすらも。
「アレは」
「愛してる」
「……っ、反則です!」
そうとも。
だってぼくは、きみを誑かす悪いトレーナー。
「だからぼくに、ぼくの知らないきみを見せて」
「……じゃあ、模擬レースを勝ったら」
「うん」
「ご褒美をください」
「欲張りさんだね」
ぼくの言葉に、彼女は結んだ手を頬へと運ぶ。
「ええ、おかげさまで」