空に昇るは望月、仰ぐのは大地。
得難いルームメイトであることは、もちろん理解しているつもりです。
「スティルインラブ、楽しそう、してるね」
ネオユニヴァースさん。常にわたくしたちよりも高い次元を見つめている方……わたくしと違って、この世界の、泥濘のような常識に囚われない方。
その方から、普段わたくしのことを気にも掛けていないような方からそのようなお言葉を頂いたものですから、わたくしは言葉に詰まってしまいました。
「え、ええと」
「見つけたんだね。トレーナー、を」
ネオユニヴァースさんが、単に契約相手のトレーナーを見つけたことに言及している訳ではないことは私にも分かります。この方にとっての「トレーナー」とは教え導く者である以上に、共に世界に向き合う者のこと。
「……そう、ですね。そうであると、いいと思います」
だからこそ、なおのこと。
わたくしの肯定は、弱々しいものとなってしまうのでした。
ほとんど沈みかけの太陽に照らされて、彼女のヴェールが金色に輝いている。
今日の集合時間は日没の時刻。そしてスティルインラブは、日没の15分前ぴったりにやって来た。
もちろんぼくはそれを見越しているので、彼女が現れるタイミングきっかりに準備を終えるようにしている。ここで肝心なのは、準備が「ちょうど終わった」ことを彼女に見せることだ。
「やあ、今日もいいタイミングに来たね」
もしぼくが時間をもて余していると知れば、彼女は今よりも早い時間に集合場所に来ようとするだろう。するとぼくも彼女の時間を無駄にするまいと準備を繰り上げることになる。
だから、ぼくらの準備は遅くても、早くてもいけない。
「はい。……トレーナーさん、こちらは?」
「うん? みての通り、幕だけれど」
スティルインラブはぼくの足元に置かれた巨大な布を見て首を傾げる。その布は適当な間隔でポールなどに引っ掛けられる結びがつけられていて、ちょうど人の背丈ほどになる簡易な壁を作ることができる。
そしてスティルインラブの疑問はもちろん、その壁をいかなる目的で使うのか、ということ。
「それじゃ、日が沈むまで少し待とうか」
ぼくはそれには敢えて答えず、トレーニングコースへと続く階段に腰を下ろす。坂路も備える学園のトレーニング場、つまり芝ダートにウッドチップや小運動場を複数備える巨大な訓練施設が視界いっぱいに広がる。
「あの、トレーナーさん?」
そして、
「どうして、他の方が誰もいらっしゃらないのでしょうか……?」
「予約が入っているからだね」
当たり前の話ではあるが、こういったトレーニング施設は予約制だ。いくら広大なトレセン学園とはいえ、数千人を数えるウマ娘が同時に使える施設などは存在しないのだから。
「…………待ってください。まさか、すべてのコースに予約を入れたんですか?」
「そうだけど」
ぼくの返事を聞いたスティルインラブの顔が疑問のそれから衝撃のそれに変わる。
「な、なんてことを……」
うん。極めて常識的な反応だ。
巨大なトレーニング場の全エリアを予約して、それをたったひとりのウマ娘が使う。周囲への配慮など微塵もあったものじゃない。それは「普通の学園生活」を望むスティルインラブにとっては言語道断の行為である。
「大丈夫だよ、スティル」
だからぼくは彼女を安心させるように、努めて穏やかな声と表情を作る。
「全エリア、それぞれ別名義で予約しているから。君が悪目立ちすることはない」
「なにをやっているのですか!?」
いや、だからスティルインラブが目立つことのないように全てのトレーニング施設を別名義で予約したのだけれど……。
「そのようなこと……許される訳がありません」
「理事長に許可はとったよ? 猫缶がダース単位で必要だったけれど」
「そ、それは賄賂というものでは……?」
「ちがうちがう、ぼくは猫がいる場所で高級猫缶を開けた。たまたま理事長がその場に居ただけで、収賄にはあたらない」
まあ屁理屈だけれど、理屈はある。もちろん理事長からは感謝感激、スティルインラブの事情も話してキチンと「ご理解」を頂いている。
「まあ、いいんだ。スティル、きみが気にすることじゃない」
「……あなたというヒトは、本当に」
呆れた表情でこちらを見下ろしてくるスティルインラブ。しかしぼくの表情が真剣そのものなので、やがて小さく息を吐いた。
それからハンカチを取り出して、ぼくの隣にふわりと敷いてから座る。お上品だね。
「すべて、私が自由に走るために。ですか?」
「そうとも。きみは最高の環境でトレーニングをするべきだ」
そして当然、最高の環境とはこの日本ウマ娘トレーニングセンター学園だ。トゥインクル・シリーズに出場するためにはトレセン学園への在籍とURAから認可を受けたトレーナーとの契約が必須。この内厩制と呼ばれる中央集権的なシステムが世論に許容されているのは、トレセン学園にほとんど全てのトレーニング資源を集中させて、結果として素晴らしいレースが産み出されているからこそ。
「スティル」
だから、ぼくはハッキリ言っておかなくちゃいけない。
「民間や自治体運営のレース場でいくら野良レースをやったところで、きみの求めるレースにはたどり着けないよ」
「……」
押し黙るスティルインラブ。
彼女は理解している。決してコンディションが万全とはいえない場所で、さして実力のないウマ娘と競ったところで本質的に意味はないことを。
しかし一方、完璧に整備されたコースと実力のあるウマ娘は、この日本ではトレセン学園にしかいない。いや正確には、オグリキャップのように「全て中央に吸い上げられてしまう」。
それが中央集権的なトゥインクル・シリーズの持つ、ぼくを辟易とさせるもうひとつの顔。
「きみが学園における立場を守りたいのは知っている。だから、こうして誰の目にも止まらない環境を用意した。日が沈んだら幕を張ってトレーニング場の出入り口に目隠しをする。暗ければ幕も目立たないから、誰も近寄ってくることはないはずだ」
担当ウマ娘の希望を叶える。それはトレーナーとして果たすべき責務。
「あと、これは今すぐにという訳ではないけれど……そのうち、誰かと並走も出来るようになればいいと、ぼくは考えている。今は、頭の片隅に置いておいてくれればいいけれどね」
「……」
つまり、徐々に慣らしていこうという話だ。さすがに全力疾走のトレーニングをする度に猫缶を用意するのは骨が折れるし、G1レースの前となると袖の下も通用しない。
そう説明すると、スティルインラブはぼくをじっと見つめてくる。
「どうして、そこまで?」
「きみに夢を見たから」
きみの、
ぼくはそれが、いつかきみにとっても目映い輝きになって欲しいと思ってはいるけれど。
「きみが自由に、心の赴くままに走れない程度には、今のトゥインクル・シリーズは窮屈だと。ぼくは思っている」
徹底した管理によるトレーニング効率の向上、VR空間に再現できるほど精緻に数値化された競走能力。
それは「産業」としては正しいのだろう。経験則は定石に置き換えられ、やがて誰もが再現できるマニュアルになる。
「ぼくはきみのためなら、なんだってするよ」
「……あなたのことが、分かりません」
スティルインラブの口調に混ざるのは、困惑。夕陽の残滓が顔を逸らした彼女を染める。
「分からないなら、今度お茶でもするかい? お互いの
「そういうことでは、なくて」
それから彼女は、ぼくを見据える。
「あなたのお話を聞いていると、レースのことがお好きでないような気がしてくるのです」
「レースのことは、好きだよ?」
「……また、そうやって誤魔化すのですね」
「嘘は言っていない。きみもそうだろう?」
ぼくらは、常識で、法律で、善意で雁字搦めの世の中に生きている。苦しさから目を背けることは出来ても、窮屈さそのものから逃げられる訳じゃない。
「ほら、スティル。みてごらん」
けれど少しの悪知恵を働かせれば、ご覧のとおり。
目の前の広大なターフを、自分だけのものに出来る。
「自由な世界は、つくれるんだよ」
「……こんなのは、一瞬です」
「かもしれない。でも、ゼロじゃない」
きみは自由な自分を持っていていいんだ、スティル。
そして、トレーニング場備え付けの照明が稼働する。太陽が地平線の向こうに沈み、夜の帳がぼくらを隠す。
「さあ、はじめよう。きみだけの時間を」
徐に顔を出しはじめた月が、2人を照らす。
もう、やめてください。トレーナーさん。
大地を踏みしめながら、歯を食い縛りながら、わたくしはそう願います。
その願いが通じぬことを知って……知っているからこそ、願ってしまいます。
だって、だって。
もし願いが通じてしまったら、願った己を悔いてしまう。
もし願わずにいたのなら、今日までの己が決して赦さない。
その矛盾が、私の最後の理性。ピアノ線のような細くて強靭な理性を保っているのです。
なのに、あなたは。
「いい走りだね。もう1本いこうか」
月夜に照らされたトレーナーさんは笑っています。
冷たく、己の意思とは無関係に輝く――――月のように。
スティルインラブ育成実装してくれませんかね。