天井なき慈愛の、尽きる日。
クラシック登録の第1次締切が迫っている。
「ここは1つ目の分水嶺だよ」
ぼくは言った。ジンジャークッキーを口にしていた彼女は、おもむろにナプキンで口を拭う。
続きを促されているのだと判断し、ぼくは言葉を続けた。
「クラシックレースの大半は旧八大競走*1に連なる格の高いレースとされている。格が高いから登録制となっている」
とどのつまり、知名度を利用したちょっとしたビジネス。つまらない話だけれど、そうやってURAはクラシック競走の広報や運営費を捻出している。
まあ、理事長が全部ポケットマネーで解決するよりは健全、というか持続可能制のあるシステムといえる。
「なんにせよ、クラシック登録にはお金が絡む。ぼくの一存では決められない」
「はい」
頷くスティルインラブ。そして彼女の性格からして、少しでも登録費を払ってしまえばクラシック競走を走ろうとすることだろう。
そのため、クラシック登録を行うことは分水嶺どころか
「現在の
「それは……」
言い淀むスティル。いまさら遠慮することもないだろうに、彼女は申し訳なくもと断りをいれて続けた。
「単なる問題の先送り、ですよね」
ふむ。単純に先送りをしているつもりではないけれど、一面の真実ではある。否定しても仕方がないので、ぼくは首を縦に振った。
「そうだね。いま決断しなくても次の決断の時はすぐにやってくる……けれど、最後の追加登録期限が過ぎれば、きみがクラシックレースに出場する必要はなくなる」
「……」
つまり、妙な話にはなるけれど。
「きみはギリギリまで『出走しない自由』
レースに出ない。それは悪い選択肢ではない。実際、あまりにも競走能力に見込みがないからとレースへの出場を認めない家の存在は真しやかに囁かれている。
とはいえ、スティルインラブに関しては事情が違う。
「ですが、トレーナーさんはもしここで私が『走りたくない』と宣言しても、登録締切の度にこのお話をするのですよね?」
「うん。そうなるね」
何度でも言うけれど、ぼくはスティルインラブに走ってほしい。彼女の言う悪夢に、夢をみたから。
「ずるい方。あなたは、さも選択肢があるかのようにおっしゃいますけれど、実際にはないではありませんか」
「そうかな? そうかもね」
でも、だとしたらそれは。きみがレースを望んでいる何よりの証左なのではないだろうか。
「スティル」
ぼくは応接セットの、机の向こう側にいる彼女との距離をつめる。
もちろんそのためには、机の向こう側に行かなくてはならない。机の向こう、スティルが腰をおろすソファのそばに膝をついて、彼女の膝の上、所在なさげに待機している両の手を取る。
「ぼくは、きみの走りを世界に認めさせるつもりだ」
世界が、あくまで常識に拘ろうとしても。証拠やら論拠やらで固めた固定観念を並べ立てようとも。
「きみの走りには、それだけの価値がある」
太陽を覆い隠すことが出来ないように、その光で全て焼いてしまえばいい。
「……あなたは」
スティルの手が震える。その瞳の奥に宿るのは、仄かな憤り。え? 憤り? なんで?
「…………いえ。なんでもございません」
ぼくの困惑が伝わったのか、その怒りの色が霧散する。代わりに現れたのは呆れというか、諦めというか。
「ひとつ、お願いしたいことが」
「なにかな」
その表情には、なにかしらの決意が浮かんでいた。
「勝負服のデザインを、手伝って頂きたいのです」
勝負服。
それは、
「(そのデザインを手伝って欲しい、か)」
もちろん、それ自体は嬉しい。ぼくはスティルに走ってほしい。それはつまり、クラシック登録をして、クラシックの大舞台……つまりG1へと挑むことを意味している。
それなら、G1の檜舞台で着用する勝負服を準備するというのは、彼女が走ることを決めてくれたということに等しい、はず。
けれど、どうしたことか。
ぼくはとてもとても、喜ばしい気持ちになれたものではなかった。
『なんでもございません』
なんでもないはずが、ない。
ヒントはある。先ほどの会話から垣間見えた感情の起伏に、そしてなにより。
「問題の先送り、か」
スティルインラブの成長曲線は、当初の想定よりも低い線を描いていた。
スティルインラブの両親に会うのは、はじめてではない。なぜなら、ぼくが彼女のトレーナーであるから。
トレーナーとはウマ娘にトレーニングを施しレースに出場させる存在。要は大切なお子さんの身体
とはいえ、それはスティルインラブの生家を訪れた経験があることとイコールではない。
「娘のことを教えろと言われて、はいそうですかと教える親はいないと思うがね」
全くもって仰るとおり。ぼくは心のなかで嘆息。
クラシック登録についての説明……という名目で押し掛けたぼくだが、それだって近くの喫茶店や、学園に呼び出して聞いてもらう形でいいのだ。
「必要なことです」
向かいのソファにはスティルの両親。面談会場となった応接室(トレセン学園に息女を送り出すだけあり、規模も品格も並み以上といえる)の壁に掛けられた巨大な掛け軸には「絆」の一文字。
「実績のない新人トレーナー。娘と契約してからは数ヶ月。そして要求は娘の個人情報ときた。申し訳ないが、信用できない」
そしてぼくを突き刺すのは猜疑心マンマンな父親の視線。
それでも、ぼくはなんとか声を絞り出す。
「平常なら、ジュニアチームやレース倶楽部にて情報を収集するのですが。お子さんは、そういった場所に所属しておりませんでしたので」
これも大義名分感がするが、事実は事実である。
中央に進学してくるウマ娘はトレセン学園入学前からトレーニングをつんでいる。つまりジュニアの専門チームや社会人走者も混ざるレース倶楽部といった場所でレースをしていたことがあり、その頃の記録もなんらかの形で残っているものである(なおコンマ単位の精度が求められるレース界隈で民間の数字は参考程度、基本的には為人のヒアリングが中心だ)。
「そんなことは知っている。私だってクラブチームの経営者だ」
「では一点だけお答えください。どうしてスティルインラブさんはお父さんのチームに入らなかったのでしょうか」
「オトウサンだと? お前に
「(えぇ……?)」
じゃあなんて呼べば良いのか。
スティルインラブとぼくの契約に同意を与える「実質的な契約相手」*2とでも呼べば良いのだろうか?
「あなた」
劣勢を通り越して理不尽になりつつあったぼくの形勢に、助け舟を出してくれたのはスティルの母親。スティルを産んだのだから当たり前だけれど、ウマ娘。
「仮にも
「私にも立場がある!」
「それなら、家を預かる私にも立場がありますわ。お得意のコーヒーでも淹れてきなさい」
そう説得(なお腕力においてヒトはウマ娘には勝てない)されて
そして残されたのは…………ぼくと、スティルの母親。
「ごめんなさいね。あの人、勘違いしているみたいで」
「あ、ええと……いえ。横紙破りなことは理解していますので」
「理解しているのなら、もう少しスマートにお願いしますね。あの子のためにも」
「……失礼しました」
おっと、これはこれでだいぶ気まずいぞ。先ほどのやりとりで家族の力関係を看破した気になって、悪い警官と良い警官の罠にはまってしまったかもしれない。
いやなに。最初から向こうはタッグでこっちはソロ、不利で元々とぼくは自分を奮い起たせる。
「それでですね。本日伺ったのは……」
「その前に。あの子は、トレーナーさんに迷惑をかけてはいませんか?」
しかし、母親は主導権を離してくれない。一見すれば家庭訪問に来たぼくの動きから娘に何かあったのではと心配する母親だけれど……。
「いえ、まさか。トレーニングの指示も素直に聞きますし、迷惑なんてことは」
表面的な会話をいなしながらぼくは考える。
この場に現れたぼくを、彼らはどうみているのだろう。そもそもスティルは彼らにぼくのことを何と伝えているのだろう。
『ぼくはきみの悪夢に夢をみたんだ。契約しよう』
唐突な契約の要求。
『やあ、奇遇だね』
ストーカー行為と見なされかねない待ち伏せ。
『民間運営のレース場でいくら野良レースをやったところで……』
実家の展開する民間レースクラブ軽視と取られかねない発言。
……うーん。良いイメージで伝えられている気がしないな!
まあ、ぼくとしては
「本当に、素晴らしい競走ウマ娘ですよ。スティルインラブさんは」
「そうでしょうね。あの子は、己を隠すのが上手い子ですから」
「!」
まさか
「やはり、ご存じなのですね」
そしてそれを見逃す母親ではない。彼女は立ち上がると、応接室の一角に置いてあった一冊のアルバムを手に取って、ぼくの目の前、飲み物の未だ置かれない机の上に置いた。
「こちらを」
見ろ、ということらしい。ぼくはそれを開く。
アルバムに収められていたのは、写真などではない。
「……これは」
赤と黒の線が、保護フィルムの向こうでのたうち回っている。
「これが、あの子の視る世界です」
そう言ってのける母親。それを聞いたぼくは、スティルの吐いた嘘に気付く。
母親がぼくのことを見る。
ああ、あの眼だ。あの日、スティルがぼくを見定めるようにした、あの眼。
「トレーナーさん。ここが分水嶺ですよ」
知ったことか、ぼくはアルバムをめくった。