なんてこと言うのマーちゃん……!

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フライトさんはとんでもない面食いオバケさんですので

 

 いやまあ確かに、初めて会った時からちょっと変な人だなとは思っていたけど。

 自らの担当トレーナーに対する認識を改めるべく、ノースフライトは今一度、彼との思い出をはじめから振り返ってみたところ、そんな言葉に辿り着いた。

 

 何の変哲もない、という言葉すら陳腐に感じるような日だった気がする。

 知り合いの店を訪れたあとの帰り道だった。思っていたよりも予定がずいぶんと早く済んでしまい、さてこの持て余した時間をどう潰そうと考えていた矢先、服屋の目の前で難しい顔をしている彼に出会った。

 いや、難しいというよりはボケっとだらしなくしている方が正しいのかもしれない――彼は考えるというよりは何かが降ってくるのを待つタイプなのだということは、この数年でようやく理解できた――が、つまるところ何か思案していることは、当時のノースフライトにも分かった。

 

「もしかして、何かお困りごとですか?」

 

 声をかけると、彼は一瞬だけきょとんとしたかと思うと、自分の胸元につけたトレーナーバッジを見て、ああ、と納得してから、

 

「ウチの生徒さん?」

「はい。急にお声がけして申し訳ありません。わたし、ノースフライトって言います」

「へー……」

 

 当時は、何を考えているかわからない顔だった。

 しかし数年の付き合いがあった今なら、彼が何を考えていたか理解できる。

 あれは「意外とこういう子ほどチョロかったりするんだよなあ」とかナントカ考えてた顔だ。

 なんたる失礼極まりなさか。意外と、ってなんだ。意外と、って。

 

「わたし、ファッションには少しだけ詳しくって。トレーナーさんがもし何かお困りでしたら、力になれるかもしれません。よろしければお力になりますよ?」

「いいの? じゃ、ちょっと相談乗ってもらっちゃおうかな」

「もちろんです!」

 

 しかしそんなことなど知る由もない当時のノースフライトは、まんまと自分から罠にかかりにいってしまった。

 

「困りごとっていうか、スーツ新しいの買っちゃおうかな、って思ってて。普段使ってるヤツ、一着ダメにしちゃってさあ。せっかくなら、似合う感じの探してみたかったんだけど……」

「どう探せばいいのか分からない、といった感じですか?」

「そうそう。僕、そういうのからっきしでさあ。誰か連れて来ようかなっても考えたんけど、みんな忙しそうだし。だから一人で来てみたはいいものの、結局分かんないなー、ってなっちゃって」

「なるほど。よくあるお悩みですね」

「やっぱり?」

 

 そこまではよかった。今思い返しても別にこれといった違和感はない。

 ただ、ここからが問題だった。

 

「こういったお悩みは、その服を着た自分がどう見られたいか、何か具体的なイメージがあると考えが纏まりやすいですよ。スーツとなると仕事場だから……そうですね、どんなトレーナーとして見てもらいたい、とか。そういったイメージはありますか?」

「んー、イメージって言われてもなあ……パッとは思い浮かばないかも。ああでも、逆に言えば自然体な感じかなあ。特に生徒さんの前でなんか取り繕ったりとか、マジメな顔しよう、みたいなことは考えてないし」

「つまり、スーツを着てもいつも通りの雰囲気がいい、という感じですか?」

「そうかもね。で、生徒さんも僕の前で気を張らないようにしてくれればいいかな、って」

 

 ユルそうな雰囲気の人だな、というがここまでの彼に対する印象だった。

 別にそれは覆るどころか、むしろ超えるくらいのものだったが。

 

「いいと思います! そうした親しみやすいトレーナーさんがいてくれると、わたしたちも一息つけますから」

「あはは、確かに。それくらいユルい感じが一番だよね」

「それなら、まずはトレーナーさんの普段の雰囲気を知らないとですね。トレーナーさんは、普段どんな服を着られるんですか?」

「あー……まあ、なんか、適当に? あるヤツ着回してるよ」

「適当にあるヤツって……それじゃあ何も分かりませんよ。写真とかありませんか?」

「あるよ。ほら、これ」

 

 そうして彼が差し出した携帯を見て、ノースフライトは一言。

 

「ち……ちぐはぐですね……?」

「そう?」

「ごめんなさい、そうとしか……。だって方向性が見えない……いや、方向性は見えるんですよね。でもお互いに引っ張り合ってるっていうか……綱引きしてるみたいな、ええ……?」

「食べ物で言うとどんな感じ?」

「お蕎麦とピザを一緒に食べて合間にカフェオレを飲んでる感じです」

「最悪じゃん」

「最悪ですよ」

 

 そうやって顔を見合わせたものの、ノースフライトはもう一度携帯を覗き込んで。

 

「でも、なぜか画にはなってますね……? え、かっこいいですね、トレーナーさん」

「え、嬉しい。ありがと」

「こんな方向性めちゃくちゃなファッションでも一応は似合うの、普通に考えたらおかしいんですけどね……。というかトレーナーさん、これどこで買われたんですか? わたしの記憶だと、上も下も結構いいお値段するブランドのものだと思うんですけど」

「いや、それ僕が買ったヤツじゃないから分かんないんだよね」

「……ああ、もしかして過去にモデルとかやってて、これはその時のものだったり?」

「いや、そんな仕事したことないって。普段着だよ、普段着。この前男友達とゲーセン遊びに行った時のやつ。友達がふざけて撮って、LANEで共有してきたの」

「ますます意味が分からないんですけど……」

 

 ファッションに深刻なレベルで疎いことは、ここまでの話で理解できた。

 ただ、それなのにこんなブランド物をいくつも持っているのはどうもおかしい。

 それこそノースフライトのような学生では流石に手は出せないかと諦めたものを、こうも粗雑に扱われて若干の怒りを覚えるレベルには、そこそこの高級品が揃っていた。

 この人は何かおかしい、とそこで初めてノースフライトがようやく気づく。

 

「トレーナーさんは……どうやって服を買ったり、選んだりされてるんですか?」

「どうって……いや、そもそも僕、自分で服とか買ったことないんだよね」

「……というと?」

「だって今まで付き合った子たちがぜんぶ買ってくれたもん」

 

 うわっ……。

 

「そ……それは、か、彼女さんが……ええと……優しい人ばかりだったんですね」

「うん。服もそうだし、ご飯とかタバコとかのお金、全部出してくれてさ。いや、別に僕も甘えてばっかりのつもりはなかったんだけど、みんな『私が払うから!』って聞かなくって」

「……今もそうなんですか?」

「あ、いや、今はフリー。ついこの間までは付き合ってる子がいたんだけどね。仕事から帰ったらちょっとケンカになっちゃってさあ。さすがにカレーぶっかけられちゃったのはびっくりしちゃったかな。スーツ一着ダメにしちゃったのも、そういうこと」

「カレーって、いったい何したんですか……」

「聞きたい?」

「遠慮しておきますね」

 

 聞いたところで何も得ないどころか、気が滅入りそうだった。

 ともかくとして、彼がどういう事情でここにいるのかは理解できた。ただ、それと同時にノースフライトは今の自分が、どれだけ危険な状況に置かれているかようやく気が付いた。

 これは、アレだ。ちょっと危ないというか、関わったらダメなタイプの人だ。

 おそらくこのまま会話を続けていると、ロクでもないことになりかねない。それこそたった今、五分ほど会話しただけでもこの有様である。ノースフライト、というか女としての本能がとにかくここを離れろと、うるさいくらいに警鐘を鳴らし続けているのがわかる。

 しかし、それを理解していてもなお、ノースフライトは退かなかった。

 もしかすると、退けなかったと表すのが正しいかもしれない。

 

 いや、だって、ねえ?

 こんな何を着ても似合うような、スタイルも顔も抜群の人が目の前にいるのに。

 トレセン学園のオシャレ番長ことフーちゃんとして、何もせずにサヨナラするのは、ちょっと。

 

「……行きましょうか、トレーナーさん」

「え、もういいの? 普段の雰囲気を掴むみたいな話は……」

「はい、もう充分です。というか充分すぎます。たくさんです。今のお話でトレーナーさんがどんな人なのか、それに合うファッションがどういうものなのか、ぜんぶ分かっちゃいました」

「へー……ちなみにだけど、それってどんな感じ?」

「それは見てからのお楽しみです!」 

 

 かくして、彼を連れて勇み足のままスーツ選びに赴いた結果。

 退店する頃には、「はい。私は女を食い物にして毎日生きていますよ。」と言わんばかりの風貌の、ほぼ半分くらいホストみたいなトレーナーが出来上がってしまい。

 

「違うの……」

「え、違うの? けっこう似合うの選んで貰ったと思うんだけど」

「いや、そうじゃないんです。わたし、そんなつもりじゃ……いや、ホントに違うんですよ」

「何が?」

 

 満足そうな表情をする彼とは対照的に、ノースフライトは頭を抱えていた。

 とにかく、最初からこんな風にするつもりではなかったのは確かだった。

 それこそ最初は角が立たない、彼には落ち着いた雰囲気のものを見繕うつもりだった。というか、そのままの彼をお出ししてしまうとトレセン学園の風紀が乱れに乱れまくる可能性があったので、それを隠せるようなコーディネートを見繕うつもりだった。

 しかしながらノースフライトにとって彼はまな板の鯛でしかなく、いやさすがにこっちの方がいいかな、これくらいはやっちゃってもいいかも、などと結構な頻度で魔が差してしまい、最終的に学園の風紀を守るどころか風紀を乱す刺客のような風体のトレーナーを生み出してしまった。

 ノースフライトが自分の才能とセンスを呪ったのは、これが初めてだった。

 いやでもこんな何着ても似合うようなツラしてるのがよくないとは思う。

 

「今日はありがとね、フライトちゃん。助かったよ」

「いえ、お気になさらず……」

「いやいや、お礼くらいさせてよ。あ、そうだ。今後もし、学園のこととか、レースのこととか、何か困ったころがあったら僕が相談乗ってあげる。これでも一応、中央所属のトレーナーだしね」

「……そうですね。機会があれば、その時はよろしくお願いします」

「うん。それじゃあまた、学園でね」

 

 後日。

 やはりというか、当然というべきか、彼は学園の中で噂になっていた。

 いや、それだけならまだマシだったかもしれない。実際、『あのトレーナーさんかっこよくない?』『女子高にいちゃいけない顔してるよね』みたいな会話がノースフライトの耳に届いても、顔を青ざめさせるくらいで済んだのだから。

 日が経つにつれて、彼の周りには噂を聞きつけた生徒が集まるようになった。それどころか、生徒の一部はお遊びでデートをねだってみたり、あるいは本気の顔つきで積極的にアタックを仕掛けたり、挙句の果てには追っかけみたいなことをし始める連中も出て来る始末である。

 既に乱れまくってるじゃないですか風紀がとノースフライトは悪態を吐きたくなったが、それよりも今はこれ以上事態が深刻化するのを防ぐのが先だった。このまま放置すると、彼に見繕ったちょっとお高めのブレスレットがいつのまにか手錠に代わってしまうかもしれない。

 考えに考え抜いた結果、ノースフライトが半ば諦めながら決断を下す。

 

 そして、ある日。

 ノースフライトに担当トレーナーがついた。

 

 

「マーちゃん、戻りま……ん? え、何してるんですかフライトさん」

「後悔……いや、どちらかというと自己嫌悪……?」

 

 おそらく浴場から帰ってきたのであろう、同室のアストンマーチャンから投げかけられた疑問に、ノースフライトは枕に顔を埋めたまま、くぐもった声で答えた。

 

「トレーナーさんのことですか?」

「よく分かったね、マーちゃん……」

「フライトさんがそういう顔するのって、大体トレーナーさんのこと考えてる時ですから」

「えっ? わたし、そんなに分かりやすい?」

「バレバレです」

 

 というよりかは、一癖も二癖もあるトレセン学園の生徒の中でも、相当マトモな側のノースフライトがこんな意味のわからん行動をしてしまう原因は、という意味合いでアストンマーチャンは言ったつもりだったが、彼女にとってはその一言がトドメになってしまったらしい。

 観念したように、ノースフライトがベッドから身体を起こす。

 

「マーちゃん、今から話すのは独り言です」

「はい?」

「あの、ホントに独り言だから、適当に聞き流しておけば大丈夫だから」

「はあ……」

 

 困惑するアストンマーチャンをよそに、ノースフライトは話し始めた。

 

「いや、でもねっ、悪い人じゃないの。確かに遅刻とか忘れ物はよくするし、だらしないところは多いけど、別にあの人も悪気があってやってるわけじゃないし。ただ、普通の人より抜けてるっていうか、愛嬌があるって言い方もできるかもしれないけど、とにかく悪い人じゃないから……」

「(言い訳から始まった……)」

 

 独り言だというのに弁明から始まった時点で、既にアストンマーチャンは憐れみの感情を抱いていた。

 

「あのね、ホントはちゃんとした人なの。そうじゃない時との差が激しいだけで。女の人に手当たり次第声かけにいったり、そんなことばっかりしてるせいでトラブルによく巻き込まれたり、この前なんか元カノさんと揉め事になって危うくレース出走取り消しになりかけたけど……!」

「マーちゃん、それ初耳なのですが」

「でもね、わたしのことを大切にしてくれる人なのは事実だから。わたしの脚のことも、それでも走りたいっていうワガママもぜんぶ聞いてくれた上で、この三年間ずっとわたしのことを支えてきてくれたんだもん。だから……うん。悪い人じゃないの。ちょっと、多少危ない人なだけで」

「ちょっとどころか……」

「独り言だから!!」

「はい」

 

 それは叱責というより嘆きにも近い叫びだったが、とにかくこの状態のノースフライトに関わってもロクな目に遭わないということを、アストンマーチャンは過去の経験から理解していた。

 しかし、彼女の言いたいこともまあ、分かる。

 過去にアストンマーチャン自身も何度か彼と話をしたことはあるが、確かにノースフライトの言う通り、少なくとも悪い人ではないのだと思う。こと正確に言えば、子供の頃に植え付けられた価値観のせいでああいう生き方しかできなくなった人、と表すべきか。

 要するに、かわいそうな人なのだ。それこそ、”みんなはああ言ってるけど私は知ってる、この人は本当は悪い人じゃない”と周囲の人間を思い込ませるくらいには。ノースフライトの言う通り彼は悪い人ではないが、どうしようもない人間であるのもまた事実であった。

 二言三言の断片的な会話をしただけで、そういったヤバめの雰囲気をうっすらと感じ取ったアストンマーチャンは、彼と意図的に距離を置くことで面倒な事態を回避していた。

 では仮に、アストンマーチャンが距離を置かず、むしろ彼に担当契約を迫り、そのままずるずると彼の雰囲気に三年間もずっと当てられ、がぶ飲み状態になっていたらどうなっていたか。

 答えは目の前のノースフライトが教えてくれた。

 

「悪い人じゃない……悪い人じゃないの……」

「(末恐ろしいですね)」

 

 なんて鳴き声を上げながら、ベッドの上でイモムシみたいに毛布にくるまるノースフライトは、やがてぴたりと動きを止めたかと思うと。

 

「…………」

「…………」

「……独り言は……これで、終わりです……」

「はい、おつかれさまでした」

 

 戦いに敬意を表して、アストンマーチャンが一礼。

 

「……飲み物、淹れましょうか?」

「お願いします……」

 

 ほどなくして、二人の部屋に紅茶の香りが漂い始めた。

 

「とにかく、トレーナーさんにはマトモな人間になってほしいの」

「そうですね」

 

 やがて落ち着きを取り戻したノースフライトが、そんなほぼ悪口のような発言を放ったが、別に今更なのでアストンマーチャンも軽く受け流す。

 

「わたしはいいの。あんな人が担当について、みたいなことを言われても何も気にならないから。でもね、トレーナーさんがあのままだと、この先もずっとトラブルに巻き込まれると思うんだ」

「むしろ自分から巻き込まれに行っているところもありますからね」

「でも正直なところ、そこを否定するつもりはないの。女の子が大好きで、事あるごとに手を出そうとする遊び人みたいな人だけど、言っちゃえばそれも個性だからね。それに、あの歳になると結婚とか将来のことも考えなきゃいけないから。だからって、あの人は別にそういうの何一つ考えてないと思うけど……でも、そうやって考えれば納得はなんとか、できるから」

「飲み込めてはなさそうですけど」

「……だけど、それが原因でレースに支障が出るのだけは、ちょっとどうにかしてほしいかな」

「ああ……」

 

 至極真っ当な意見であった。先程初耳だったレース出走取消未遂がだいぶ効いているらしい。

 

「本当はね、トレーナーさんとも契約を解消することも何度か考えたんだよ?」

「そうだったんですか?」

「うん。このままだと今後の活動がうまくいかないかもしれない、って思ってね。でも……」

「……でも?」

「もしわたしが担当から外れて、あの人が一人になったらどうなっちゃうんだろう、って不安で……! わたしがいないとあの人、いよいよホントのダメ人間になっちゃうから……!」

「で、結局ズルズルと三年間も引きずってしまったと」

「言わないで……」

 

 彼の人間性に絆されてしまっている自覚はなんとかあったらしい。か細い声でアストンマーチャンに反論しながら、ノースフライトはちびちびとカップに口をつけた。

 ともあれ、これでようやく問題の底が見えてきた気がした。

 要するにノースフライトは、トレーナーのことが放っておけないのだ。

 彼がいわゆる危険な人物であることは、ノースフライト本人が嫌と言うほど理解している。また、彼の行いによって自分の活動にもそれなりの支障が出ていることも自覚している。なのに、契約解消という最終手段を取れなくなってしまっているほどの情が、彼に対して沸いている。

 過去に何かしらの恩義があったわけでもなければ、共に過ごした時間の中で芽生えたものは、当然いくつかあるかもしれないが、そこに彼に対する感情に関してのものがあったわけでもない。

 むしろ彼に対する感情は、ノースフライトに最初から芽吹いていたというか。

 …………………………。

 まあ、その。

 

「前々からうっすらと思っていたことなのですが」

「うん、どうしたの?」

「フライトさんって、実はとんでもない面食いオバケさんですよね」

「んぶッほ」

 

 な……っ、な、な、なななな……!

 

「なんてこと言うのマーちゃん……!」

「わあ。自覚ある反応です」

 

 がっくりと項垂れるノースフライトに、アストンマーチャンがすかさず追い討ちをかけた。

 

「とにかく大好きなんですよね、トレーナーさんのことが」

「そ……っ、そういうわけじゃ……! ちがっ、キライってわけでもないんだけどっ!」

「もっと言えばああいう顔の人がタイプなんですよね?」

「いやっ、だからっ、そういうのじゃなくて……!」

「一目惚れだったりしますか?」

「………………はい……」

 

 撃沈。

 震えた手で空のカップを机の上に置くと、ノースフライトはいそいそと再び毛布にくるまって、

 

「悪いんですか……」 

「(いじけちゃった……)」

 

 ここまでの三年間、恨み辛み時々ノロケをさんざん聞かされたアストンマーチャンのせめてもの反撃だったが、ノースフライトの落ち込みようを見て少しやりすぎたと反省した。

 

「だって……だって、かっこいいんだもん……」

「確かに、ほかの生徒さんたちからも人気ですけど」

「スタイルも細くてシュっとしてるし、雰囲気もちょっと子供っぽくてかわいいし……でもね、実はちょっとだけツリ目ぎみなの、あの人。だから、ふとした時に見せる顔が大人っぽくてね、そういうギャップがあるから、何着てもバッチリ似合って……とにかく、かっこよくって……」

「分かりましたから」

 

 くぐもった声のままウダウダと語り始めたので、アストンマーチャンがすかさず止めに入る。

 

「でも、それとこれとは話が別だよね? わたしが仮に、万が一、トレーナーさんの顔がタイプだったとしても、あの人にマトモになってほしいっていうのは、また違う問題だよね?」

「それは……どうなのでしょう?」

「え……?」

「仮にトレーナーさんがすごく誠実な、女の子にも声をかけない、ちゃんとした人になったら……あの人、今以上に女の子に好かれちゃいますよ? それでもいいんですか?」

「それは……」

「…………………………」

「…………………………」

「トレーナーさんのこと大好きじゃないですか」

「うぅ……うぅぅぅぅぅうううう!!!」

 

 まさかここまで手遅れだとは、さすがのアストンマーチャンも予想できなかった。

 

「……マーちゃん」

「はい」

「電気、消してください……」

「わかりました」

 

 どうやら芋虫になったまま、ふて寝と洒落込むらしい。

 言われるがままに電気を消して、アストンマーチャンもベッドへ潜り込む。

 ……なんとなく察してはいたが、やはり自覚はあったらしい。

 いや、あのザマで自覚がなかったらありえないくらい拗れることになっていただろうから、本人に自覚があっただけまだマシというか、自分で白旗を上げただけでも一歩前進だろう。

 とにかく、ここから先はアストンマーチャンの出る幕ではない。

 後は野となれ山となれどうにでもなれ――とまで投げやりになるつもりはないが、二人で解決するべき問題だ。それは相応の時間が必要で、本人たちが予想している以上に前途多難な道かもしれないが、なんだかんだあの二人なら上手くやっていけるはずだ。

 そんな陰ながらの期待を込めて、アストンマーチャンは静かに瞼を閉じる。

 

「悪いんですか……」

 

 うるさいなこの人……。

 

 

 翌日。

 

「フライトさん、おはようございます!」

「お、おはよう……バクシンオーちゃん……」

 

 教室へと向かう途中で出会ったサクラバクシンオーからいつものようにいささか元気すぎる挨拶を渡されたが、しかし今のノースフライトには張り合えるほどの活力は残っていなかった。

 

「むむっ、元気がありませんね! どうかされたんですか!?」

「あはは……ちょっと昨日、寝つきが悪くって」

「……もしや、またトレーナーさんのことで何か問題が?」

「なんでみんなそんなに当てられるの……?」

「フライトさんは分かりやすいので!」

 

 サクラバクシンオーも、アストンマーチャンと同じくあのノースフライトがここまで悩むとなるとその原因は――という思考回路の末にはじき出した結論だったが、しかし当の本人からしてみれば今後の振舞いを今一度改めるべきかという心持になるしかなかった。

 

「それで、今回はいったい何があったんですか?」

「いや、これに関してはわたしの問題っていうか……?」

 

 ずい、と顔を覗きこんでくるサクラバクシンオーに、ノースフライトが言い淀む。

 これは完全にノースフライトの偏見だが、彼女とトレーナーは仲が良くないのではと思う。

 よく考えなくても当然だった。片や女に服も食事も見繕ってもらうようなダメ人間、片や自身を学級委員長と言い張る規律厳守の優等生である。そんな二人が相容れるはずなどあるわけがない。

 普段なら彼との諸問題を話した途端にそれはいけませんね前々から思ってはいましたがあの人にはバクシン的指導が必要ですとその場を飛び出し、いや待ってやっぱりストップです! あの人にも悪気はなかったかもしれないし! とノースフライトが後を追うのがお決まりの流れなのだが。

 今回に限っては、だいぶ話の方向性が違う。

 

「フライトさんの問題ですか! なるほど! でしたらなおのこと、このサクラバクシンオーがお力になりますよ!」

「き、気持ちは嬉しいんだけどね……? でも、これはわたしの個人的な問題だから……」

「何を仰いますか! 困っている生徒がいれば手を差し伸べる、それが学級委員長の務めです! ですからフライトさんも遠慮なさらずに! さあ、さあ!」

 

 そうやってずいずいと迫ってくるサクラバクシンオーをどう躱そうかとノースフライトが悩んでいた、その時。

 

「で、アンタたちに声がかかったわけだ。悪くない話だと思うけどね」

 

 通りがかかった廊下からそんな声が聞こえてきた。

 特に聞き覚えのある声では――いや、正確には一度くらいどこかで聞いた事があったかもしれないが、とにかく藁にも縋る思いだったノースフライトがそちらへと目を向けると、そこには。

 

「……あれ、トレーナーさん?」

「おや?」

 

 ノースフライトとサクラバクシンオー、それぞれのトレーナーと、おそらくはその先輩であろう女性トレーナーの姿が見えた。

 

「なんか急な話ですねー。こういうのって、もっと事前に何かあると思ってました」

「ま、こっちもすぐに答えが欲しいってわけじゃないさ。後日、改めて話をする場を設けるから、そこで答えてくれれば問題ないよ。色々と話さなきゃいけないことだろうしね」

「……いえ。申し訳ありませんが、自分は辞退させていただきます」

 

 先に切り出したのは、サクラバクシンオーのトレーナーだった。

 

「なんだ、意外だね。アンタは期日ギリギリまで悩むヤツだと思ったけど」

「僕はまだ彼女の走りを見ていたいんです。償わなければいけないこともある。向こうの方たちには申し訳ありませんが、そちらに構っている時間はありません」

「そうかい。ま、決断が早いのは助かるね。話をする手間も省けるし」

 

 納得したような声で答える女性トレーナーが、続けざまにノースフライトのトレーナーへ視線を向ける。

 

「で、そっちは?」

「僕はまだ決められませんねー。フライトと相談しないと」

「……アンタたち、本当に変わったね? 最初の頃とはまるで逆じゃないか」

「この三年で色々あったんですよ。お互いにね」

 

 言葉を続けたのは、サクラバクシンオーのトレーナーだった。

 

「まさか、行く気なのか?」

「んー……聞いた感じ悪くない話だし、もしかしたら受けてもいいかなって思ってるよ。だけど僕一人で決めるのもなんだか悪いし、いろいろ含めて一回フライトと相談しておきたいってだけ」

「……そうか」

「何その感じ。あ、僕がいなくなったら寂しいとか思ってる?」

「清々するな」

「ひでーなあお前」

 

 ため息を吐くサクラバクシンオーのトレーナーに対し、彼がそんな風に笑う。

 なんとなく話の全容は掴めた気がする。

 要はノースフライトとサクラバクシンオーのトレーナーに、自分たちを担当するとはまた別の仕事が舞い込んできたらしい。それに対して、サクラバクシンオーのトレーナーは断ったが、ノースフライトのトレーナーは一度話を持ち帰ろうとしていると。

 ただ、それ以上のことを考えるとなんだか不穏なことになりそうなので、ノースフライトはそこで思考を絶ち斬った。具体的には、向こうの方、とか、そちら、とか、聞きこむとダメージを受けそうな単語がちらほら聞こえてきたので。

 とりあえずここは一旦撤退し、後日トレーナーから聞いた方が受けるダメージも少ないだろう。

 そう考えたノースフライトはすぐさまその場から離れようと――

 

「トレーナーさん! おはようございます!」

 

 ちょっ。

 

「ばっ……バクシンオーちゃん!」

「あ、委員長にフライト。おはよー」

「おはよう」

 

 どうやらそこで話もひと段落したらしく、二人も律儀に挨拶を返してきてくれた。

 しかしノースフライトからすればそれどころではない。

 いくら彼女が意外と逞しいとはいえ、あそこまで素直に地雷原へ突っ込んでいけるほどの度胸は持ち合わせていなかった。

 

「何やら重要そうなお話をしていらっしゃったようですが、一体どうされたんですか?」

「いや、何でもない。仕事を断っただけだから、君は気にしなくていい」

「そうですか! トレーナーさんがそう仰るのなら、私も気にしません!」

「ああ。それでいい」

 

 なんてあわあわとノースフライトが右往左往しているのをよそ眼に、サクラバクシンオーとそのトレーナーがいつも通りに会話を終わらせる。いやバクシンオーちゃんそれでいいの本当に? と口を挟みたくなったが、それよりも先にノースフライトのトレーナーが声をかけてきた。

 

「フライトも気になる?」

「え? あ、いや、そんなつもりじゃ……」

「えー? でも盗み聞きしてたでしょ、さっきから」

「いやっ、そういうわけじゃなくてですね! バクシンオーちゃんと歩いてたら、たまたまトレーナーさん達がお話されているところに通りがかったというか! 偶然、ホントに偶然ですから!」

「あはは、いいよ別に気にしなくて。聞かれて恥ずかしい話ってわけでもないし。ただまあ、フライトの意見も聞きながら色々と考えないとなー、とは思うけど」

「……わたしの意見、ですか?」

「うん。ああいや、そんな深刻に考えることじゃないから大丈夫。はいかいいえ程度ね。ま、詳しい話はトレーニングの前にするとして、一応ここでも言っておくんだけど……」

 

 そこでトレーナーは一つ間を置いてから、いつもみたく世間話でもするように、言った。

 

「海外で仕事してみないか、って話が来てね」

 

 

「どういうことですか!?」

「うわびっくりしたあ」

 

 授業も終わり、トレーニングの時間になったころ。

 トレーナー室に真っ先に赴いたノースフライトは、扉を開けてから開口一番、のんびりとコーヒーを嗜んでいるトレーナーにそう詰め寄った。

 

「海外……海外? えっ、海外? ついに海の向こうに島流しですか?」

「フライトの頭の中だと僕ってそこまで重罪人なの?」

 

 いや、まあ、それは、かなり。

 重ねに重ねた罪の清算がようやく行われるかと思ったが、そういうわけではないらしい。

 

「え、トレーナーさん……外国語、話せるんですか?」

「いや無理。日本語ですら怪しいもん」

「……パスポート、お持ちなんですか?」

「持ってないよ。だから発行からしないとダメなんだよね」

「どうしてそんな人に海外のお話が……?」

「ま、とりあえず落ち着いて話でも聞いてよ。あ、コーヒーいる?」

「じゃ、じゃあ……いただきます」

「砂糖とミルクは?」

「ブラックでも構いませんよ」

 

 ほどなくして、ソファーに座ったノースフライトへ湯気の立つカップが差し出された。

 

「……それで。改めて、どういうことですか?」

「何って、委員長とフライトのレースが向こうの偉い人の目に留まったらしくてさあ。そのトレーナーの二人……つまり僕とアイツに、是非ともこっちで指導して、って言われちゃって。まあ、そこまで強制するつもりは無さそうだけどね。よかったらこっち来てみない? くらいの程度かな」

「それは、えっと……おめでとうございます、でいいんですよね?」

「うん。ありがとね、フライト。ここまで評価されたのも君のお陰だよ」

 

 悩みながら渡したノースフライトの言葉に、トレーナーがそう答えた。

 確かに、トレーナーが評価されること自体はノースフライトにとっても喜ばしいことだ。しかし、今回はだいぶと訳が違う。というか何もかもの話が違いすぎて、ノースフライトは混乱した。

 詳細も経緯も省き、何も恐れずに言えば、ノースフライトがレースで戦果を挙げたせいでトレーナーが海の向こうへ島流しされることになってしまったのだ。まるで意味が分からないなぜここまで頑張ったのにトレーナーと離れ離れにならなければいけないのか。

 などと思考するノースフライトのことなど知る由もなく、トレーナーが話を進めていく。

 

「それで、アイツ……委員長のトレーナーは拒否したんだけど、僕としてはまあ受けてみるのもアリかな、って思って。フライトの担当業務もずいぶん落ち着いてきたし、何より君もそろそろ卒業するからさ。そうやって考えると、まあこのタイミングで受けてみるのもアリかな、って」

「そうですね……。トレーナーさんの今後のことを考えるなら、いいお話かもしれません」

 

 冷静に考えれば、当然の話だ。

 先に彼が言った通り、ノースフライトも近いうちに卒業する。そうなれば、次の担当する生徒を探すよりは、そちらの海外の仕事に手を付ける方が時期的にも丁度いいし、今後のキャリア的にもいい結果に繋がるだろう。そう考えれば、トレーナーが乗り気になるのも理解できた。 

 理解できてはいるが、しかしやはり受け入れがたいのも事実だ。

 具体的にはOGとしてたまにトレセン学園に顔を出してトレーナーに会いに行く、ができなくなるのはノースフライトにとってかなりの痛手であった。

 

「でもまあ、一人で勝手に決めるのもフライトに悪いかな、って思ってね」

「だから、ここでわたしの意見を聞きたいと?」

「うん。フライトはどう思う? 僕に、海外に行ってほしい?」

 

 そんな言葉を渡されて、改めてノースフライトが思考する。

 おそらく彼のことだ。素直にイヤだと言えば、「フライトがそう言うならやめとこっかな」なんて適当にその仕事を断って、卒業するまで自分の面倒を見てくれるだろう。

 でも、それはきっと彼のためにはならない。

 それこそ不出来な自分の面倒をここまで見てくれた彼が、海外でも高く評価されているのはノースフライトにとっても嬉しいことだった。もし、向こうに行ったそこでまた結果を出せば、きっと彼は世界的にも有名なトレーナーになってくれるだろう。

 そんな輝かしい彼の将来を、自分の些細なワガママで潰したくは、なかった。

 

 コーヒーを一杯、口に含む。

 ブラックの苦い香りが喉の奥に通り抜けていった。

 

「……いいですよ」

「あ、そう?」

「はい。だって、それが一番、トレーナーさんにとっていい選択だと思いますから」

「……そっか」

 

 しばらくの沈黙が流れる。

 やがて、トレーナーがぽつりぽつりと語り出した。

 

「たまに写真とか送るよ。なんか面白そうなのがあったら、適当に」

「はい、楽しみにしてます」

「帰ってくるのは……いつになるか正直、分かんないや。最低でも二、三年かな? でもまあ、戻ってきたらまた会いに行くよ。大丈夫、お土産とかはちゃんと用意しとくから」

「気にしなくてもいいですよ。でも、わたしのために選んでくれるなら、ちょっと期待しちゃいます」

「あとは、まあ……僕としても色々と、楽しみだなあ」

「……それなら、よかったです」

「いや、何って通訳担当の子が超かわいくてさあ。この子が向こうで三年間、つきっきりで僕のことお世話してくれるらしいの。ま、さすがに海外で仕事するならこれくらいのうま味がないとね」

 

 前言撤回。

 絶対に行かしてなるものか。

 

「トレーナーさん。やっぱりそのお仕事、お断りしませんか?」

「え、なんで?」

「なんでもです。とにかく、やめておきましょう」

「いや、でもさっき『いいですよ』って……」

「言ってません」

「写真とかお土産とかいらない?」

「いりません」

「……ホントにいらないの?」

「そもそもそんな話はしていません」

「さすがにそれは無理あるんじゃないかな」

 

 そんなことはノースフライトが一番理解している。

 だが、それでも無理を通さなければいけない時はあるのだ。

 気持ちの整理だの、トレーナーの将来だのは既に些事と化していた。

 自分のワガママで彼を縛り付けるなんて、などと泣き言を言っている場合ではない。

 むしろ縛り付けておかないと海の向こうで何が起こるか分かったモンじゃない。

 

「僕が遠くに行っちゃうのはイヤ?」

「当たり前です」

「どうして? フライトはどうして、やっぱり僕を引き留めたくなっちゃったの?」

「どうして、って……それは……」

 

 引き留めるための言葉は無数に思いつく。

 それこそ煩悩に塗れたものだったり、あるいはもっと純粋な気持ちによるものだったり。

 その全てを伝えきるためにノースフライトが選んだ言葉は、ひとく単純なものだった。

 

「だって、あなたはわたしのトレーナーじゃないですか……」

 

 縋るように渡されたその言葉に、トレーナーは。

 

「そうだね。じゃあ、やめておくよ」

「え?」

 

 ひどくあっさりとした様子で、そう答えた。

 

「じゃあ、この話はナシで。あとで先輩にもやっぱ止めときます、って言っとくね」

「……その、本当にいいんですか?」

「うん。フライトがそう言うなら」

 

 あまりにも淡泊な返事だった。それこそ、これまでの会話が他愛もない世間話に思えるほどに。

 自分の言葉に納得して、考えを変えてくれたのはノースフライトにとって嬉しいことだったが、しかしこのままではなんだか釈然としないのも事実だった。

 そんな彼女の様子を見兼ねてか、トレーナーが話し始める。

 

「フライトと初めて会った時に僕が言ったこと、覚えてる?」

 

 それならもちろん、覚えている。

 ちょうど昨日、彼との出会いを振り返った結果、自己嫌悪に陥っていたので。

 

「…………前の彼女さんとケンカして、カレーを浴びせられたことですか?」

「ごめん、そうだよね。衝撃的すぎてそのエピソードしか覚えてないよね。えっと、アレだよ。ほら。僕がどんなトレーナーになりたいか、って話」

「ああ、そっちですか……」

 

 呆れたような表情を浮かべるノースフライトに、トレーナーが続ける。

 

「別に僕ってさ、トレーナーになりたかったわけじゃないんだよね。それこそ、母親に『やってみたら?』って言われたからなっただけ。だから、トレーナーになった後の事って正直、あんまり考えてなかったんだよ。どんなトレーナーになりたい、とか、そういうのは特になかった」

「……そうだったんですね」

「昔っからこうだったんだよ、僕。自分で考えたり決めたりするのが下手……いや、フライトにはちゃんと話すね。ちょっとだけ長くなるけど、聞いてくれる?」

「もちろんです」

「ありがとう」

 

 返答を渡すと、トレーナーが一気にカップを煽る。

 そうして空になったカップをぼんやりと見つめたまま、彼が続けた。

 

「僕ね、自分で考えたり決めたりしたことは、必ず周りの人たちを悲しませたり、失敗させたりする、って思ってたんだ」

「それは……どうしてですか?」

「僕が言ったことがきっかけで、結果として親父が逃げちゃって、母さんが一人になっちゃったから。それからずっと、母さんの言うことだけに従うことにした。もう寂しい思いはさせたくなかったし……また自分のせいで、母さんにまたあんな顔をさせちゃうのは、嫌だった」

 

 カップの底を見つめる彼の瞳には、後悔の色が少しだけ混じっているような気がした。

 

「僕が女の子に優しくするのもそう。どうせロクな人生を歩めるワケないんだから、せめて女には優しくしてやれ、って言われてね。そうしたら、色んな子と付き合うことになって……ああ、そうだなあ。結局、その子たちの言うことだけ聞いてたなあ。自分から何かしたいとか、そういうのはしなかった。そうしたらまた、あの子たちにも母さんと同じ顔をさせることになるだろうから」

「……怖かったんですね?」

「そうだったのかもね。で、そうやって色んな子に手を出してたら、また母さんに言われたの。それだけ女好きならトレーナーにでもなったら、って。だから、トレーナーを目指した。大変だったけど、まあ、なんとかなった。それからしばらく経ったあとに、君と出会った」

 

 そこでようやく、トレーナーがカップの底から視線を外す。

 

「実はね、あの時にフライトに『どんなトレーナーになりたいか』って聞かれて、すごく迷ったんだ。だってそんな理想なんてあるわけなかったんだから。だから結局、パッとしない言葉しか出てこなかった。でも、君はいいと思います、って言ってくれた」

 

 なんて言いながら、少し照れくさそうにトレーナーが微笑んだ。

 

「それからずっと君のことを見てた。正直、羨ましかった。だって、なりたい自分がちゃんとあるんだから。僕とは大違いだな、って思った。もしかするとこの子のトレーナーは僕じゃない方がよかったのかも、なんて考えたりもした」

「そんなことありませんよ。わたしは、あなたがトレーナーさんでよかった、って思ってます」

「うん、それは僕も同じ。君がいてくれたから、色々と考えも変えられた。今の僕は、君が言った通りノースフライトのトレーナーだ。君と一緒にいるうちにそうなりたいって思えたし、今こうして胸を張って言える自分を誇りに思ってる。なりたい自分になれた。君のおかげだよ」

 

 言葉が一度、そこで途切れる。

 それからトレーナーが一度、静かに息を吐いてから、再び口を開いた。

 

「僕の話はこれで終わり。ごめんね、長々とつまんないことばっかり」

「そんなことありませんよ。それより、むしろ……トレーナーさんのことを知れてよかったです。だってあなた、自分のことを今までほとんど話してくれなかったですもん」

「ま、そうだね。自分のことを話すのは苦手だった……というより、できなかった、かな? だけど、君とここまで一緒にいられたから、ようやく自分の話ができるようになった」

「それなら、よかったです」

 

 その言葉に、ノースフライトは少しだけ救われたような気分になった。

 

「だけど、やっぱりちょっと不安だったんだよね。君のトレーナーであることを誇りに思ってるのは、もしかすると僕だけなんじゃないか、って。そうやって考えてる時に、ちょうどさっきの話が僕のところに来てさ」

「だから、わたしに相談……というより、判断を委ねたんですか?」

「試すようなつもりはなかったんだ。ただ、フライトが引き留めるなら仕事は断るし、引き留めないなら仕事を受けてた、って、それだけ。……やっぱり昔っからの癖って抜けないね。また、他人の言う通りにしようとしてた。でも、君は『あなたはわたしのトレーナー』って言ってくれた。

 それで、ああ、僕ってこの子のトレーナーになれてるんだ、って……安心、したのかな? 自分の話をができたのも、きっとそのおかげだよ。ただイヤって言われただけじゃ、僕は何も話さずに『じゃあ、断るよ』で終わらせてたと思う。重ねてにはなるけど、嬉しかった。ありがとう」

 

 そうやって浮かべた彼の笑顔は、ノースフライトが今までに見たどれよりも優しいものだった。

 きっと、今まで色々なものをずっと一人で抱えてきたのだろう。けれど今、彼はそれらを全て吐き出して、真っ白な笑顔を浮かべてくれた。それが、どれだけ彼女によって喜ばしいことか。

 ただ、それを見てノースフライトは少しだけ後悔していた。

 今ここに手鏡さえあれば、彼自身にその素敵な笑顔を見せられるのに。

 

「とにかく、仕事の話は断るよ。君が引退するまではトレーナーも続ける。だって僕は君のトレーナーだからね。最後までちゃんと、君のそばにいるって改めて決めたから」

 

 そうやって渡された言葉に、ノースフライトがくすりとほほ笑んで。

 

「……ふふっ」

「? フライト?」

「いえ、すいません。ただ、ようやく『わたしのトレーナー』って言葉を、あなたから聞けたから……つい、嬉しくなっちゃいました」

「あー……。え、あれ? 僕って今まで言ったことなかったっけ?」

「インタビューとか、公の場では言っていたかもしれませんけど……わたしと二人の時には言ってくれませんでしたよ? でも、あなたは今、わたしと二人でいる時にその言葉を言ってくれました。だから……なりたい自分を見つけてくれたんだな、って思うと、嬉しくて」

「……そっか」

 

 どこか噛み締めるように、トレーナーが短く言葉を落とした。 

 

 ……なんだかいい雰囲気な気がする。

 もしかしなくても、今が勝負の時なのでは?

 何がとは言わないが、彼と過ごした今までの中では一番いいシチュエーションな気もする。

 そもそも、『あなたはわたしのトレーナーじゃないですか』で彼を引き留められたのなら、それはもうほぼほぼオッケーが出たようなものではないだろうか。

 いや、やるなら今しかない。ここで完全に仕留めきる。

 というかここを逃すと卒業も近いし、いよいよ後がなくなってくるので!

 

「あの、トレーナーさん……」

 

 などと覚悟を決めて、ノースフライトがトレーナーに向き合うと。

 ふと彼は、どこかぼんやりとした様子で、窓の外の景色を見つめながら。

 

「……いやでも、やっぱあの通訳の子可愛かったなあ…………」

「わたしが! わたしがいますから! ねっ!?」

 


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