「あー、ちょっと苦手なんですよね。私」
そんなことを早口で結華は言う。本名は相対している担当者にバレているが、一応1人称を「私」にしているだけ理性が働いていると思ってほしい。
彼女の左腕は台の上にのせられており、これから起こるであろう惨状に目を背けるため視線はそっぽを向いていた。
こういう人間を何度も対応しているのだろう。担当者は事も無げに「大丈夫ですよ」と感情を乗せずに言った。
「というか、針太くないですかね?」
「こんなものですよ。じゃあ、すぐ済みますからね」
「え、あ、ちょっと待って、まだ心の準備が終わってない、びゃあ」
早口でまくしたてる結華を無視して採血の担当者は容赦なく注射を彼女の肘の裏に突き刺した。
*
結華が健康検診を受けているのは283プロからの依頼である。
アイドルは身体が資本だから、ということで大学で行われる簡単な健康診断ではなくそのほか体の全てを計測してしまおうということらしい。
(この眼鏡……強い奴じゃなかった)
まずったな、と結華は回診表を見ながら思った。
彼女の所持している眼鏡は全部度があるが同じ強さで統一されていない。普段から強力なやつを使っていないため、一番強力なものをこういう時に忘れてしまった。
0.8だと書かれた紙を手に取りながら料金の支払いに向かう。会社が立て替えてくれるとはいえ、一時的に1万以上が吹っ飛ぶのは困った。
懐は寒いし、おまけに検診だから朝食を食べていない。
つまるところ、
(おなか、すいた……)
ちゃっちゃか支払いを済ませてしまおう。
「三峰です」
「はーい。………1万980円です」
「現金で」
「はーい、1万千円預かりました。こちらお釣りです」
十円玉2枚を受け取ると軽く会釈をして階段を下りる。2階の検診場から1階の待合室、そして出口へ。
(ちかく、近く……この近くに何か食べれるところは――おっと)
待合室にあった立て看板に思わず立ち止まる。「健診センターレストラン、開業中」との言葉とともに貼られた「けんこうランチメニュー」の文字に目を奪われた。
(レストラン併設! うれしいねぇ……おなかペコペコなんだ)
近くのファミレスの日替わりランチにでもしようか、とも考えていたがこういう場所にあるレストランなんてなかなか食べられないだろう。
よし、ここに決めてしまおう。
そう決めると彼女は文字案内に沿ってレストランへ向かった。
*
出入り口から見て階段とは反対方向の一角にそのレストランはあった。
この健診センターがそもそも新設されたのかそれとも改装されたのかは知らないが、とても清潔だが調度品のようなものもなく無機質な感じも感じ取れる。テーブルも10程度であり、必要最低限の施設しかないといった感じだ。
「いらっしゃいませ。こちらの券売機からどうぞ」
配膳役の女性に急かされながらも結華は券売機の文字を探る。
(かつ丼、そば……そして「けんこうランチ」に「日替わりランチ」か……。日替わりは――アジフライと生姜焼き……!? そんな濃い味付けのもの大丈夫なのかな……?)
思えばアジフライも生姜焼きも最近食べていない。
これにしてしまおう。値段も500円だ。
硬貨を入れて日替わりランチを押す。出てきたチケットを配膳役に渡すと自分は空いている席に座った。
しかし――周囲を見渡す。絵も吊られていなければ机も椅子も安価なものだ。食器の返却棚はメタルラックである。自治体が運営している施設とはいえこの割り切りの良さは潔いを通り越して不気味だ。
のども乾いたし、お腹もすいた。
「お待たせしました」
「あ、はい。ありがとうございます」
さて――結華はまずはガラスのコップに注がれていた水を半分まで飲んだ。
ようやく一息つけた、といった感じに大きなため息。
盆に並べられた料理を観察する。
茶碗のご飯は普通よりも少し少ないぐらい。小鉢は白和え……と言うよりも豆腐にほうれん草を和えたようなもの。みそ汁の具は青菜と豆腐。
そして大皿にはドレッシングのかかったキャベツに玉ねぎたっぷりの生姜焼き、きれいな形のアジフライにタルタルソース。ドレッシングがこんなにかかった料理を食べても良いんだろうか……。
まずはキャベツ。きちんと新鮮で歯ごたえがいい。ドレッシングは何の変哲もないフレンチソースだが、程よい酸味がキャベツの甘さを引き立てている。半額カットキャベツとは比較にならない瑞々しさだ。
生姜焼きを口に運ぶ。……久しぶりだ。醤油ベースのたれの味。なんの変哲もないが、豚の脂を吸ったクタクタの玉ねぎが非常においしい。
(ごはんが進むぞ、これは……。ほぉら、案の定)
ご飯と一緒に食べると甘辛いたれが絡んで非常においしい。ご飯が少ないことが非常に悔やまれる。
次は白和えだ。ごまと青菜で彩られた木綿豆腐。言ってしまえば乱暴で粗野な雰囲気のこの料理の懐かしさは恐らく学校給食に似た味に心惹かれているんだろう。
味噌汁。………豆腐に豆腐が被ってしまっている。おまけに味噌は大豆だ。まぁどちらも好きなんだけど。特筆することがない味噌汁だが、その安心感が安心感を生んで落ち着く。
(本当はご飯と味噌汁を合わせたいんだけど……、米の残弾に余裕があるわけじゃないしなぁ……)
それにまだ食べていないおかずがあるのだ。
アジフライ……。揚げ物はアイドルだから抑えているし、魚は高いから食べていない。最近食べた魚料理は魚肉ソーセージ。つまりは久しぶりの2乗である。
さて味は――
(――うわ、なにこれ、うまっ!)
サクサクの衣にアジの脂のうまみ。ただの業務用冷凍食品を揚げた味じゃない。
頭を抱える。これでは白ご飯が足りない。
添えられていたタルタルを乗せてもうひとかじり。……しまった、もっとご飯が欲しくなったではないか。白和えを食べると飢えは落ち着いた。
(豆腐はえらい。どんな風に調理しても、どんなふうに食べても受け止めてくれる。――このフレーズ、何の本だったっけ)
たしか国語の長文読解で読んだはず。もう覚えてないけど。
味噌汁を啜りながら想起した記憶を一旦無視して、生姜焼きのたれに漬けたキャベツを食べる。……生姜焼きとキャベツのベストマッチを考えた名もなき料理人、ありがとう。
生姜焼きのたれがついたアジフライ。豚と鯵の脂の合唱が醤油でまとまり、フライのうまさを底上げする。しかし豚肉そのもののうまさとは別のうまさだ。
メインが2品出張っている定食ではあったが、互いのうまさが絡み合って奇跡のコーラスだ。もちろんそれを指揮するのは白飯であり、裏方の豆腐が個性強めなメインを受け止めてくれる。
(――いや、やっぱり白ご飯すくないよ。くっ……さすがに健康診断直後にドカ食いできるほど三峰は道理には反していない)
空になった茶碗を思いながら結華はメイン2品をご飯なしで食べるという拷問に耐えるしかなかった。
*
健診から1週間が過ぎたころ。郵送で送られた結果は「体重少ないからもっと食え」という内容だった。
(しまった……あの時、ごはんのお代わりをすれば良かった……)
その思いはアイドルとして正解なのかどうかは、誰かに相談しなければいけないかもしれない。
卒論も終わり、引っ越し作業で泣いています。
そしてスランプです。
ちょっと前まで書いていた学マス二次創作があまりにも作者の過激思想が入っていたため制作中止にしたら、なんか疲れました。