最後の細胞が繋がり、魔力の淡い光が霧散するように消えていく。シオの手のひらの下で、複雑に再構成された肋骨が正しい位置に収まり、潰れていたはずの胸郭が静かに上下するリズムを取り戻していた。膝から下、無から再生された脚は滑らかな皮膚に覆われ、まるで最初からそこにあったかのように横たわっている。右の眼窩は痛々しい傷跡こそ残すものの、血は完全に止まり、もはや虚ろな穴ではなく、閉じられた瞼の下に新たな組織が満ちるのを感じさせた。視力の回復までは望めないだろうが、少なくとも外見上の欠損は、ほとんど消え去っていた。
まるで一度完全に砕け散った命が、静かに、しかし確実に新たな形を得てそこにあるかのようだ。
(……これで、戦える身体になった……)
シオは自らの施した治療の結果を冷静に観察する。彼の治癒魔術は、寸断された神経を繋ぎ、失われた肉体を編み上げ、この男を再び戦場に立てるだけの状態にまで回復させた。
(もう一度……この人は、剣を握れる……)
その事実に、シオ自身の指先が微かに震えた。自分が再生させたこの命が、これから誰かの命を奪うかもしれない。復讐という名の、血塗られた道を進むかもしれない。その可能性を、この手で作り出してしまったのだという重みが、ずしりと肩にのしかかる。
数時間が経過しただろうか。薬の効果と再生の疲労からか、剣闘士は眠るように静かだったが、やがてその唯一残った左目がゆっくりと開かれた。まだ意識は完全に覚醒しきっていないようで、焦点が定まらず、わずかに天井を見つめている。だが、シオが近くにいる気配には気づいたようだった。
シオは無言のまま、近くにあった水差しから杯に水を注ぎ、男の口元へそっと差し出す。男は一瞬だけシオの顔を見たが、すぐに視線を逸らし、差し出された水を僅かに一口だけ含んだ。乾いた喉が、ゴクリと小さな音を立てる。そして、掠れた、空気の漏れるような声で呟いた。
「……なんで、助けた……」
その問いは、あまりにも直接的で、しかし感情の色を一切含まない、純粋な疑問のように響いた。シオは、答えられなかった。言葉が見つからない、というよりも、言葉にすべき感情そのものが、自分の中にまだ形を成していなかった。ただ、男の手から空になった杯を受け取り、元の場所に戻すことしかできない。なぜ助けたのか。義務だから? アリア様の命令だから? それとも、あの記憶に触れてしまったから? 答えは、彼自身の中にもまだなかった。
剣闘士は、なおも天井を見つめたまま、ゆっくりと、軋むような音を立てて上半身を起こそうとした。その動きはまだ鈍く、再生したばかりの筋肉が悲鳴を上げているのが分かる。シオは思わず手を伸ばし、その巨大な背中を支えようとした。
だが、その手は、払いのけられた。
力強い拒絶ではなかった。ただ、触れられることを良しとしない、静かで、しかし明確な意思表示。シオの手は空中で止まり、彼はわずかに目を見開いた。
剣闘士は、苦労しながらも自力で半身を起こすと、壁に背をもたせかけ、深く息をついた。そして、ようやくその左目を真っ直ぐにシオへと向けた。虚ろさは消え、そこには底なしの闇のような、静かな、しかし揺るぎない光が宿っている。
「……お前に、俺の痛みが分かるのか?」
怒りでもなく、嘲りでもない。非難でも、試すような響きでもない。ただ、ひたすらに純粋な、核心を突く問い。静かで重い響きが、施療室の空気を震わせた。
この男は感じ取っていたのかもしれない。治療の間、シオの手のひらに宿っていた、恐れとも憐憫ともつかない、しかし確かに存在した痛みに近い優しさを。そして、治療を終えたシオの瞳に浮かんでいた、達成感とは程遠い、苦悩の色を。
シオは、その問いに答える言葉を持たなかった。俯き、視線を床に落とす。
記憶を見た。焼け落ちた村。連れ去られる妹。恐怖と絶望。それは確かに見た。けれど、それがこの男の痛みの全てなのか? 生涯をかけて刻まれた傷の深さを、ほんの断片を垣間見ただけの自分が分かるなどと言っていいのだろうか。
(分かるなんて……言えない)
心の内で呟く。
(だって僕は、最後まで見ていない。あなたの絶望が、どうやって今のあなたを形作ったのか……その全てを知らない。僕の痛みと、あなたの痛みは、きっと違う……)
だから、シオは黙った。沈黙。それが、この問いに対する唯一可能な、誠実な答えだと信じて。安易な共感も、無責任な否定も、この男に対しては冒涜になる気がした。
剣闘士は、シオの長い沈黙を、じっと見つめていた。やがて、何かを納得したかのように、ふっと息を吐き、視線を窓の外へと逸らす。
「……悪い。今のは……ちょっとした、確認だった」
その声には、先ほどの問い詰めるような響きはなかった。まるで、探し物が見つかったかのような、あるいは、探し物が存在しないことを受け入れたかのような、不思議な静けさがあった。
「……いいえ」
シオは、顔を上げずに、それだけを小さく呟いた。
空気が、ほんの少しだけ和らいだように感じられた。その時、剣闘士が寝台から降ろそうとしていた手が、シーツの上に置かれていたシオの手の甲に、ほんの一瞬だけ、触れた。温もりはなく、力もない、ただ皮膚と皮膚が偶然触れ合っただけのような、軽い接触。
それが謝意なのか、シオの沈黙に対する無言の共感なのか、それとも単なる偶然か、シオには判別がつかなかった。だが、その微かな接触が、二人の間に言葉にならない何かを通わせたような気がした。剣闘士は何も言わず、すぐに手を引っ込めた。彼もまた、この接触の意味を量りかねているのかもしれない。
「シオ君、交代の時間よー」
扉の外から、クリムの声が聞こえた。シオははっとして立ち上がる。
「……失礼します」
剣闘士に背を向け、施療室の扉に向かって歩き出す。もう振り返るつもりはなかった。
その時、背後から、ぽつりとした呟きが聞こえた。
「お前みたいな手に……初めて、触れたよ」
その声はあまりにも静かで、独り言のようだった。シオの足が、一瞬だけ止まる。だが、彼は振り返らなかった。ただ、軽く一礼すると、そのまま静かに部屋を後にした。
薄暗い通路を一人歩く。先ほどの剣闘士の声が、耳の奥で微かに反響している。シオは自分の手のひらを見つめた。いつも通り、傷一つない、治癒士の手。だが、今はほんの少しだけ、震えているようにも見えた。
(癒すことで、癒されるわけじゃない……)
それは、もう痛いほど分かっている。ミストリアに来てから、嫌というほど思い知らされた。
(それは分かってる、つもりだ。でも……)
通路の冷たい石壁に、そっと手を触れる。
(誰かの痛みを知ることは……。もしかしたら、僕自身の痛みと向き合うための……ほんの、一歩には、なるのかもしれない……)
その一歩がどこへ続くのか、シオにはまだ分からなかった。