人を治さばベッドが二つ   作:あいいろのふとん

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第20話

エリアスによる授業を数回重ねたある日のこと。週に一日の完全休養日。

アリアが示した場所はいつもの書斎ではなかった。闘技場の喧騒とは無縁の、さらに深部。重い防音扉の先にあったのは音を吸い込むような静寂に満ちた、壁が黒曜石のように磨かれた無機質な部屋。

なぜだか自分が罪人になったような、そんな気味の悪い感覚を振り払うように首を振り、そして扉に手をかけた。

 

$$$

 

アリアからの、唐突な呼び出し。資料には名前一つ。「シオ・コーリ」。それだけだ。ミストリアという、人間の欲望と価値を天秤にかけるこの施設において、情報は時に毒となる。先入観は、正確な査定の邪魔でしかない。

 

私が待つ部屋は、闘技場の喧騒とは無縁の、音を吸い込むような静寂に満ちた場所だ。壁は磨かれた黒曜石のようで、こちらの姿を鈍く反射している。中央には、無機質な金属の机と二脚の椅子。私は既に腰を下ろし、煙草の紫煙を天井に漂わせていた。

 

やがて、重い防音扉が滑るように開く。

現れたのは、一人の少年だった。

 

なるほど。アリアが興味を持つわけだ。

群青色の制服は、彼の華奢な身体には少し大きいが、だらしなくは見えないよう巧みに着こなさせている。むしろある種の庇護欲をそそられるといってもよい。少し癖のある黒髪は結い上げられ、その立ち姿、歩き方には音を殺すための訓練の跡が見て取れる。

 

だが、そんな上辺の飾りなど、私の前では意味をなさない。

 

彼は私の正面まで来ると、指示があるまで微動だにせず立った。その視線は、私の顔ではなく、後ろの壁へと向かっている。

直接的な敵意を避け相手の感情を読み取ろうとする、被虐待者の癖だ。

 

彼の纏う空気は奇妙なまでに凪いでいる。これは平穏ではない。嵐が過ぎ去った後の、全てを失った静けさだ。その心は、諦観と、まだ乾ききっていない深い悲しみを雄弁に物語っている。

 

私はゆっくりと煙を吐き出す。

 

「座りたまえ」

 

少年は音もなく椅子を引き、腰を下ろす。その一連の動作はなるほど教育の賜物と言っても差し支えない完璧な作法に則っている。見事な操り人形だ。

 

沈黙。

 

私は彼を観察する。

 

呼吸は浅く、速い。緊張状態にある証拠だ。だが表情は完璧にコントロールされている。浮かべているのは仕込まれた「微笑み」の亜種だろう。憐れみを誘い、庇護欲を掻き立てるための計算され尽くした仮面。

 

だが、その仮面の下で、魂が悲鳴を上げている。

 

私は、灰皿に煙草を強く押し付けた。

 

「君は、誰かに『役割』を与えられることで、ようやく息をすることを許される」

 

私の言葉は問いかけではない。

 

少年の肩が、制服の下で僅かに、しかし確かに強張った。完璧に制御されていたはずの呼吸が一瞬だけ乱れる。仮面に、最初の亀裂が入った。

 

「その所作、その表情……見事な張りぼてだ。だが、その下で怯えている子供の匂いが隠しきれていない。君は、他者の望む形になることで、自分自身が傷つくことから逃げてきた。違うかね?」

 

彼の瞳が揺れる。鏡のように磨かれた仮面の奥で、狼狽の色が走ったのを私は見逃さない。彼は視線を床に落とし、唇を固く結んだ。肯定も否定もしない。それが彼の……今できる精一杯の抵抗なのだろう。

 

私は続ける。彼の存在の根幹、このミストリアが彼を買った理由そのものに、指を突き立てる。

 

「治癒士、か。実に滑稽だ。その力は誰かを救いたいという願いから生まれたものではない。あまりにも多くの破壊と喪失をその身に受けたが故に、その反動として芽生えた忌み子のような才能だ。」

 

私は彼の目の奥の、更にまた奥に深淵を覗き込む。

 

「……そうか、誰か死んだか。お前のせいで、その忌まわしい力のせいで。」

 

「っ……!」

 

少年は息を呑み、顔を上げた。その瞳には、驚愕と、僅かな怒りと、そして何よりも深い、見抜かれたことへの絶望が浮かんでいた。仮面は砕け散り、剥き出しになった傷だらけの魂がそこにあった。

 

……ああ、なるほどやはり傑作だ。

アリアは、とんでもない駒を手に入れた。

この少年は、自らの傷を燃料にして他者の心を照らし、同時に焼き尽くすことができる。その危うい光こそがこの施設の暗闇では何よりの価値を持つ。

 

私は口元に微かな笑みを浮かべ、初めて名乗ることにした。

 

「私の名は、サイラス」

 

「その壊れやすさこそが、君の最大の価値だ。ここは、君のような人間を最も効率的に『扱う』場所だからな。歓迎するよ、コーリ君」

 

私の言葉は、この空虚な空間に絶対的な宣告として響く。

少年――コーリは、もはや仮面を維持する余裕もなく、剥き出しにされた魂のままただ私を見つめている。その瞳には絶望と、そして「なぜ、そこまで」という純粋な恐怖が混じり合っていた。

 

私は身じろぎもせず、ただ彼の瞳の奥を覗き込む。そこに映る虚ろな黒い光、その揺らぎから、彼の過去の断片を一つ、また一つと手繰り寄せていく。

 

「君は、誰かに『価値』を付けられることを渇望している」

 

私は静かに、しかし確信を持って続けた。彼の呼吸が再び浅くなる。

 

「君の価値は、君自身が決めるものではない。誰かに求められることでしか、君は自分の存在を実感できない。そうだろう?」

 

彼の唇が微かに震え、何かを否定しようとしたが、音にはならなかった。その反応こそが、何より雄弁な肯定だ。

 

再び目の奥を覗き込む。既に仮面は砕け散った。これではどうぞ暴いてくださいと言っているようなものだ。

 

「だが、一度……いや、二度だな。その身に溢れんばかりの、無償の温もりを」

 

私は視線を逸らさない。

彼の瞳の奥に一瞬だけ灯った、暖かな光の欠片を見逃さなかった。

 

「君を一人の人間として扱ってくれる存在がいた。共に過ごす喜び。君はそこで初めて、『幸福』というものを知った、知ってしまった」

 

「っ……!」

 

彼の喉から、押し殺したような音が漏れた。瞳が大きく見開かれ、ついに堪えきれなくなった涙が一筋、その白い頬を伝う。図星か。

 

「だが失った。それも二度も。君の目の前で、あまりにもあっけなく。その時からだ。君が幸福そのものを恐れるようになったのは。手に入れれば、また失う。その絶望的な経験が、君に幸せになってはいけないという呪いをかけた」

 

私は彼の涙を無視し、彼の反応をさらに深く観察する。被虐待児特有の怯え。

 

だが、それだけではない。私の言葉が彼の身体に触れた時の反射的な硬直。それは単なる暴力への恐怖とは質の違う、もっと根源的で悍ましい何か。

 

……なるほど。そういうことか。

 

私はポケットから煙草の箱を取り出し、一本を唇に咥えた。火をつけ、紫煙を細く吐き出す。胸糞悪いにも程がある。

 

煙が、震える彼の顔と私の間に、薄いフィルターのように立ち上る。

 

「君は、自分の身体が汚れていると思っているな」

 

断定だった。彼の瞳が、これ以上ないほど大きく見開かれる。

 

「君の価値は、君の意思とは無関係に、他者の欲望を満たすためだけにあると教え込まれてきた。違うかね?」

 

彼の呼吸が、ヒュー、ヒューと悲鳴を上げる。過呼吸の一歩手前だ。涙が次から次へと溢れ、言葉にならない嗚咽がその小さな喉を震わせる。

 

これで確定的になった。

この少年は、ただの被虐待児ではない。肉体の尊厳そのものを、最も醜悪な形で踏みにじられてきたのだ。

 

私はもう一口、煙草を深く吸い込み、その煙をゆっくりと天井に向かって吐き出した。

 

サイラスの言葉は、最後の刃となってシオの魂を貫いた。嗚咽が止まらない。完璧に仕込まれたはずの所作も表情も、全てが崩壊し、彼はただ椅子の上で小さく体を丸め、震えることしかできなかった。生まれて初めて、他者の前で全ての仮面を剥がされ、裸にされた衝撃と恐怖。それは、かつて受けたどんな暴力よりも深く、彼の存在を根底から揺るがした。

 

震えの合間に、シオは最後の力を振り絞った。彼の尊厳の、最後の欠片を守るために。

 

「……そのことも……報告、するんですか……?」

 

死にそうなほどか細い声だった。彼が守ろうとしているものが何か、サイラスには痛いほど分かった。その最も醜悪な過去がミストリアの冷たい資料の一つになることへの必死の抵抗。

 

サイラスは一瞬だけ目を伏せ、紫煙を吐き出した。

 

「……そこまで人間を捨てたつもりは無い。私の報告は一つだ。『駒として使用可』。それ以上でも、それ以下でもない」

 

その言葉にシオの嗚咽が僅かに静まった。サイラスは完全に無防備になった彼を見下ろした。その目にあるのは同情ではなく、年長者としての憐憫。

 

「アリアは君に、嘘をつき、人を欺き、心を壊すことを命じるだろう。君は多くの場合それに従うしかない。でなければ君はここで生きていけない」

 

その声は絶望的な現実を淡々と告げていた。サイラスは続ける。

 

「だが、君自身で決めろ。たった一つでいい、『これだけはしない』という、君だけの掟を。それは君が失った誰かとの約束かもしれん。あるいは、君自身の最後の良心かもしれん。その掟が君が怪物に成り果てるのを防ぐ最後の境界線になる。いつかアリアの命令とその掟が衝突する日が来るだろう。その時こそ、君が本当に試される時だ。駒でいろ、しかし駒になりきるな」

 

絶望の底で、その言葉は一筋の光のようにシオの心に届いた。

彼は震える声で一つの記憶を手繰り寄せる。星空の下、消えゆく彼女が遺した最後の願い。

 

――人を殺さないで欲しい。

 

シオはサルサのその言葉を心の奥底に刻み込む。

 

助言を終えたサイラスは、煙草の火を灰皿に押し付け、静かに立ち上がった。

 

「私の仕事は終わった。行け。アリアが君の答えを待っている」

 

彼はもはやシオの目を見ず、ただ冷徹に仕事を完了させた。

 

シオは無言で立ち上がり、訓練室を後にする。彼の瞳には、深い絶望と、しかしそれを上回る確固たる意志が宿っていた。一人、ミストリアの冷たい廊下を歩きながら、彼は自らが定めた掟の重さを噛み締める。

 

 

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