「ちょっと、先生。何ぼんやりしているんですか!」
「…………あれ?」
知っている天井だ。重ねて、知っている天井なのに。どうしてこんなにも違和感を覚えるのだろう。
唐突に意識が戻った先生は、自分の身に起きている異変の正体がわからない。
見慣れている――毎日通い詰めた執務室をこんなにも落ち着かないと思ったことが、不思議だ。
くたびれて薄汚れたオフィスチェア。オフィスデスクに乱雑な置かれ方をしているペーパードキュメント。
視界を下げるとPCのモニタ画面に未読のメールアイコンがぱちぱちと点滅している。
そして、聞き慣れているはずの声。横でブツクサと言いながらも仕事を手伝ってくれる生徒の姿。
早瀬ユウカが、先生を更に困惑させる。
彼女が座っている席は、確かに、シャーレの業務を手伝いに来てくれる生徒が座る席だ。
そこに座っていることに何の問題があるはずもなく。
――生徒が座っていること自体が違和感なのか。
数秒間、自分が置かれている状況に追いつけず、目をパチクリとさせる。
視線は机に置かれている書類とユウカを行ったり来たり。
どうやら、自分は居眠りをしていて、その寝ぼけ眼もとい寝ぼけ頭から目覚めていないようだ。
だからふわふわとした感覚は纏わりついているし、この現状への違和感も強い。
「……ユウカ?」
「どうして疑問形なんです?」
呆れた表情と声色で溜息を突かれた。解せぬ。
まあ、こうして話すと自然と口元が緩むはずが、何故だかこわばっている。
とはいえ、鉄面皮を貫いても生徒に無用な心配をかけるだけだ。
たはは、と引きずり出した軽い笑みで誤魔化そうとするも、、ユウカの怒りは収まらないらしい。
おかしい。今月は無駄遣いも控えて、質素倹約に励んでいたというのに。
「うん、ユウカだね」
「…………」
「やめてやめて。そんな目で見ないで。体調はバッチリだから」
「救護騎士団への直通コール、いつでもできますよ」
「シャレにならないよ! ミネにそういうのは駄目だって!
問答無用で病室に叩き込まれちゃうからさ!
というか、忙しさから来る体調不良だとユウカも笑ってられないよ! 道連れだからね!?」
「……言い返せませんね。私もあの箱舟の一件の事後処理があるとはいえ、休み返上のデスマーチは良くないと思ってるので」
火急の事態であった為、事務作業ができていなかったツケが今回ってきている。
他学園の人間――ナギサやヒナ辺りは今頃同じ気持ちを味わっているはずだ。
承認の判子を押すだけの作業であっても、大量ともなると、気が滅入る。
「忙しいならシャーレの仕事を手伝う必要なんてないのに……あっ、叩かないで痛い痛い」
「次言ったら救護騎士団ですよ」
「それは本当に止めてね。でもさ、実際業務的な意味だと、ミレニアムにはリオがいるから平気だよね」
「………………やっぱり救護騎士団に連れて行く必要がありますね。会長はずっと失踪していて、戻ってきません」
「――――――あれ?」
それはない。リオは自分達と共に戦って、確か、たしか――?
やっぱり、何かが欠けている。自身の中で抑えきれぬ違和感が叫びたがっている。
思い出せ、と。忘れることは赦されない、と。
まるで、今の世界はできの悪い悪夢だと苛むようで。
「ごめん、ユウカ。ちょっと散歩してくる。確かにユウカの言う通り、リフレッシュしないとかも」
「ええっ、ちょっと先生!? 大丈夫ですか!?」
「何か緊急の要件があったら、遠慮なく私に繋げていいから!」
先生はコートを羽織って、逃げるように執務室から立ち去った。
鼓動が激しい。どくりと響く恐怖と浮遊感が抑えられない。
言葉にできない、答えすらままならないモノが拭えない。
瞬きを数度。世界は変わらず、平穏だ。
そう、ほんの少しだけ、視界が灰色に切り替わっただけで、何の問題もない。
ふらりとへたり込みそうになる身体に喝を入れて、先生はゆっくりとシャーレ内を見て回った。
出会う生徒達は皆いい子で心地いい挨拶を返してくれる。
あの箱舟を踏まえても尚、彼女達はとても自分に対して好意的だ。
生徒達へと曖昧に返事を返しすつ、シャーレを出る。
自動ドアを出た瞬間、照りつける太陽光が仄かな暖かさを叩きつける。
ちょうど正午の時間帯であった為、燦々とした太陽が眩しい。
「先生」
「ヒナか。珍しいね、いつもはゲヘナにいるのに」
「私がシャーレを訪ねてきたらおかしい?」
「まさか。直接顔が見れて嬉しいさ」
ある意味ちょうどいいタイミングだった。
どうやらヒナも、気晴らしも兼ねて、と。シャーレで行われるミーティングに参加するべく、アコに無理やり追い出される形で来たらしい。
ミーティングが気晴らしというのもどうかと思うが、ゲヘナで仕事をするよりはマシだと判断されたのだろう。
「今日のゲヘナは落ち着いていたから。それに、先生の顔も見たかった」
ここ最近は、アトラ・ハシースの異変からそんなに日も経っていない為、ゲヘナも沈静化しているようだ。
いつもは暴れ回ったり、自由気ままな振る舞いをしている面々が大人しい。色々とあって疲れているのか、手間がかからないのはいいことだ。
とはいえ、何時までも静かなままだとは思えない。普段通りになった時のヒナ達の胃腸は推して知るべし。
「先生は今から出張?」
「いや。ちょっと気晴らしに散歩でもね。ずっと机と向き合っていたから、身体も凝っちゃって」
「それじゃあ、私も一緒に、いい?」
ヒナらしい、控えめなお誘い。
特に断る理由もなく、二人でゆっくりと近くの公園まで散歩する。
最近のゲヘナの治安とか、アコとイオリがやらかしたとか、チナツの仕事が増えてきたとか。
とりとめのない話をして、時折頬を緩めているヒナを見て、コミュニケーションがうまく行えていることを悟る。
とはいえ、仕事と休みの話ばかりになるのはいただけ ない。どうもヒナとの会話は互いにワーカホリックの気があるから、こういった業務内容が多くなってしまう。
「ヒナは忙しそうだけど、最近は大丈夫? ちゃんと休めている?
私が言える立場かと言うと厳しいんだけどね」
「先生よりは休めてるわ。万魔殿のちょっかいがない限りは」
「イロハにマコトの制御をお願いした方が良いかもしれないね」
たぶん、首を横に振られて呆れた顔で無理ですと返されるのが落ちだ。
風紀委員会が絡まなければ、マコトもまだまともなのに、と。
万魔殿の常識担当であろうイロハもよく頭を抱えて悩ませている。
「私がマコトをどうにかしたら休め…………ないわね」
「ゲヘナだもんね……」
仮に万魔殿を抑えたとしても、ゲヘナは厄介な生徒達が盛り沢山だ。
美食研究会、温泉開発部、便利屋68、などなど。
時と場合によっては、彼女達の活躍が助けになる場面もあるけれど、それはそれとしてヒナの胃痛ではある。
「私はゲヘナのことだけに注視していたらいいけれど、先生は違うでしょう?」
「まあ、疲れたり、困ったことがあったら、カヤと一緒に缶コーヒーを飲んでいるから。
FOX小隊も付いてきて、騒がしいんだ。ほら、そこのベンチでよく皆でコーヒーを飲んでいて――――?」
言葉は最後まで紡がれなかった。自身の中にある違和感が拭えず、消えてくれない。
あの所々塗装が剥がれている金属製のベンチは、風に揺られて舞い踊る木の葉の様子は、くたびれた表情で互いに話した過去の記憶は。
脳裏に刻まれてたはずの無数の光景が思い出せない。
親愛そうな顔で此方を見ているヒナを顧みる余裕すらなく、先生は愕然とした表情でベンチを見続けた。
……大切なことが頭から抜けている。
朧げに浮かんだ、愚かしくて下らない――――誰も救われず、赦されない結末を。
そんな赤点を取ってしまった世界を考える方が気分が落ち着いてしまう。
「先生!?」
「ごめん、ヒナ。私は、私は……?」
言葉が喉元までせり上がっているのに、吐き出されない。
本当はもう気づいているはずだ。ふざけた、喜劇。三文芝居の夢舞台。
舞台の底は軋み、抜けかけている。
「大丈夫、ちょっと疲れているのかも」
気を使ってくれる生徒達とそれに答える先生。
その間柄には確かな信頼関係があった。これまでと、これから。いつまでも続いていく絆を信じられた。
――だって、この世界は間違っているから。
幸せが連綿と続いているのに。正しい未来であると理解しているのに。
真綿《幸せ》で首を絞められ、徐々に見える世界は狭まっていく。
そして、それらを間違っていると認識してしまう己の手遅れさに苦笑する。
最初から。御都合主義の奇跡があの魔女へと宿った瞬間から、知っていた。
この抗いの世界線は、始発点から間違っている。
救われたものと救われないもの。道筋が外れてしまった自分達。
「…………だから、何だって言うんだ」
疾うに気づいていたはずなのに。
諦観と懊悩で色が消えた世界が正しい訳がない。自分は、青春の記録《ブルーアーカイブ》を放棄したのだから。
喪ってしまった表情を浮かべている自身を通して、こうはならなかった未来を想う。
だって、おかしいじゃないか。
彼女達を遺して、色は消えたはずなのに。
彼女達の認識する、世界の自由さを感じさせる――色覚はもうとっくに消えているはずなのに。
今の世界はこんなにも色鮮やかで青が澄んでいる。
あるべき、辿るはずだった未来の光景。選べていたはずの世界線。
気づいたからには、もう目を逸らせない。その瑞々しい自由と青春の世界を見て、気持ち悪さを抑えることができなかった。
先生はその場に蹲って胃液を吐き出した。
吐いて、首を絞めて、無理やり押し出すように。胃の中の物を吐き出して、頭を抱えて、声を殺し、ひたすらに。
奇跡により元通りになった夢を見て、嘗ての日常が今は残骸と成り果てた事実に、泣いていたのだ。
己の限界を悟り、疲れ切った顔で泣いていた。
吐き出していく程に、違和感は先生の精神を侵食していく
収まらない気持ち悪さが頭痛へと変換され、頭を強く握り込む。
幸福な夢を見た。
これは幸福だった、夢だ。自身は夢でさえも幸福を受け付けなくなってしまったのか。
ふと這い蹲った姿勢から見上げた空は、驚く程に雲一つない。快晴だった。どこまでも落ちていけるかと錯覚してしまうくらい、遠く、遠く。
生徒達の青春を象徴しているかのように、青く、眩しい。
もうその価値を正しく認識できないのに、それを尊いと感じてしまう自分は狂っているのだろう。
神へと縋るように、右手を伸ばす。歩いて、転んで、立ち上がって、それでも、と。殉教者のようにひたむきに。
青春という教義を手放さないという意味ではある意味、殉教か。
――ああ、今日は、死ぬには、いい日/陽だ。
そんな生徒達には言えない弱音を胸の内にしまいこんで、先生は嘲笑った。
視界が晴れる。何もかもが白光に染まって、煌々と輝く日/陽が消える。夢が終わる。
晴れた先には、灰色が待っている。
次回
『青が、気持ち悪い/キヴォトスは青春で満ちている』