いつか、終わる物語を見ていた。既に終わった物語を見ていた。
彼も、彼女も。もう、結末は定まっている。
調月リオの明晰な頭脳は基本的に見誤ることはない。
論理立てて、道筋を導き出す。それを並行して考えられる稀有な生徒だ。
ただ、情動という人が持つ不確定要素がその道筋を暗くする。
人は正しく生きることですら、難しい。理解っていながらも、情動で選択肢を選び取る。
それは正しくない。最短ではない、回り道だと今でもリオは思っている。
――だから、人の気持ちがわからない。
調月リオは、正しさという概念こそ、世界をよりよい方向へ向かわせると信じている。
合理性を踏まえて人は行動すれば、より良い結果を生み出せる。
けれど、世界は合理性で回る程、簡単ではなかった。
正しさだけで人々は図れない。情動というモノは人は制御しきれない。
――だから、あの時、私はあの子達に負けてしまった。
故にこそ、天童アリスの一件で、リオは踏み越えられてしまった。
情動とはそれほど強く、合理性を覆してしまうエネルギーだと理解されてしまった。
それはアトラ・ハシースの方舟の時も同じく。人は予想を超えてくる。
大事なのは結果だ。故に、あの時間違っていたのは自分だ。
世界も、アリスも。両方救ってしまった、ゲーム開発部が正しかった。
そして、その奇跡の一助を担った大人の人。あの人は正しく、救世主のように生徒達を救っていって。
「やぁ、リオ」
「あら、先生」
そうした幾つもの奇跡を生み出し、学校間の問題へと真摯に取り組み、その結果、排斥されたヒト。
居場所も奪われ、今は只人の大人。それでも、外面はへらりといつも通りを装っていて。
病的に、血の色を彷彿とさせる紅い瞳が先生へと向く。
自分を見つけた先生はひらりと手を振って、緩んだ表情を見せる。
うまい、表情の作り方だ。その裏にある虚無を欠片も出さないことには驚嘆を禁じ得ない。
あの時と変わらない笑顔に違和感を覚えてしまうのは、彼の内実を知っているからだろうか。
「PC触りながらタブレットの二刀流……株の操作?」
「私のことを何だと思っているのかしら。下手な冗談ね、先生。
ネタバラシをすると……機械による遠隔操作。この辺りの見回り――安全の確保よ」
「本格的だ。前も使ってたけど、リモートで色々できるんだよね」
「ええ。これでも、一端のエンジニアだから……もっとも、ヒマリのように天才を自称できる程ではないけれど」
薄く笑う先生に対して、リオは少し俯いた。
世界から敵として見られているには、あまりにも自然体だからだ。
綻びはある、欺瞞はある。されど、その上で普段通りを貫く彼の姿勢には嘗ての自身を思い起こさせる。
嫌悪感を完全に制御できているリオでも辛く、耐え難い日々だった、天童アリスの一件。
只管に世界を救う為に、周りを顧みず振り返らなかったのは、弱さを見せたくなかったから。
同じだ。先生と調月リオは同じ道を辿っている。
「それと、百鬼夜行への潜入ルートの構築も兼ねて、ね。
この一帯はFOX小隊にも見回りはしてもらってるし、花鳥風月部との会談には誰か同行してもらうから、余計な心配ではあるかもしれない。
それでも、何があるかわからない以上、手は抜けないわ」
「ありがとうリオ。手間を掛けるね」
「当然のことよ。これが今の私の仕事だもの」
だからこそ、結末は変えないといけない。
自分の場合は代替えができるにんげんであったから、まだいい。
けれど、先生は違う。あの後任のベアトリーチェのように、我欲と私情で世界を覆い尽くそうとする輩が現れたら、即座にキヴォトスは瓦解する。
先生という要石がなくなってしまえば、悪化は避けられない。
そこから、世界が続いていくのか、それとも滅ぶのか。
下らない、考えても切りがない推測だ。
「…………平気そうな顔がうまいわね」
「実際、平気さ」
「それは嘘」
「どうだろうね。案外耐えれているかもしれないかも?」
「痩せ我慢の限界は自分では気付けないものよ。本当に、あの時の私を踏襲しているわね」
「経験談?」
「どうかしら。結局、私は半ばで頓挫した、貴方達の方が強かった。もっとも、今と昔では状況が違うから一概には言えない。
それに、私よりも先生の方がずっとまっすぐに立っていられるでしょうし」
「当然だろう。生徒の前でガタガタ震えたままってのはカッコ悪いでしょ? 大人で先生、安いプライドでも抱えていたらそれっぽく見えるんだよ」
大義の為に。世界の為に。利他的な理由を振り翳し、直走る。
それが己の首を絞めるとわかっていながらも、止まれない。
止まれないからこそ、世界の行く末を憂いるし、規模も大きい。
「リオは私の正気を疑ってるようだけど、リオを踏まえた上で、白状してるんだよ。
アリスの時の君と同じだよ。演じでもしなければ――そうでもしないと、折れそうになる」
「私は平気だったわ」
「平気な子だったらとっくにミレニアムに戻ってるでしょ」
「それは言わないで」
少し、ムッとした表情でリオは言い返した。
この大人、意外と意地悪である。あえて、そのまま無言の気まずい空間のまま。
先生から顔を背けて、PCの画面へと目を向けた。数秒、リオのタイピング音だけがこだまする。
乾いた先生の笑いを、見ていられないという理由もあるけれど。
「………………どうして、人は簡単に合理性を捨てられるのかしら」
「合理性で判断しきれる人なんていないよ。皆、感情は棄てられない」
「でも、私はそれを乗り越えた。嫌悪を抱いていたとしても、合理性――これまでの成果を顧みて、貴方についたわ」
「それは嬉しいけど、ねえ。リオのように動ける生徒なんて他にいないかもしれないし」
「殆どの生徒が貴方を嫌っていて、過去の思い出すらも歪ませてしまう憎悪。奇跡は先生だけに微笑む訳では無い。
例外なく、皆の目が盲いている。そうね、立場が変わっただけで、情動の方向は変わっていない。
世界は変わらず、青春で煌めいてるのよね……」
ふと呟いた声は自分が思っているよりも、情に濡れていた。
切り離せない情動は、この世界を包み込む甘くて優しい逃げだ。
それは常日頃から己を律しているリオにしては珍しい羨望――否。
真っ赤に澄んだ瞳が少し細められる。その中に含まれるのは、諦観だった。
疲れ切った社会人のような顔で、先生へと笑いかけた。
「あの時、対峙した私達が手を組んで。それ以外は敵。
ゲーム開発部でも作りそうにないわね、こんなゲーム」
情動に溺れてしまわぬように。リオはそれでも、と言葉を並べ、正しさを追求し続ける。
他の生徒とは違い、自分は先生との接触は少なかった。誰かを間に挟んで接したのがほとんどだ。
それでも、能力と人格に対しては評価していた故に、憎悪が生まれるのだ。
こんな冷血漢の自身でさえ、歪みかねなかった事実。自己証明が容易く崩されかねない世界。
それらがとてつもなく、憎らしい。
「リオは許せないのかい? 世界が、人々が」
「ええ。明確に成果を出してきた人が、情動一つでこうなってしまう事実が、私には許せないの。
世界も、人々も、理で縛れない、動けないことが、私からすると到底理解できないから」
結局の所、子供の癇癪なのかもしれない。
正しいことが報われて、尊ばれる。そんな、潔癖症とも呼べる願いを求めた。
そういった思いもきっと先生はお見通しなのだろう。
「まあ、憎悪云々だけではなく、ベアトリス――いや、本当の名前はベアトリーチェなんだけど。
どうでもいいか、そんなこと。彼女の手筈は《反転》を抜きにしても一番厄介だからね。
かつてのアリウスで、数十年単位を経た洗脳――子供達を駒にしていた実績もある。
彼女は子供の操り方を熟知している。相手が望む言葉、態度、居心地の良い空間。
好感度というバフが掛かっているんだ、彼女を遮るどころか、追い風にもなっている。
そんな状況で自分好みの生徒に仕立て上げることなんて、造作もないだろうね」
だから、生徒達を責めないであげて、と。彼の笑顔はそう言ってるようで。
総てを喪わせられたその言葉は、空虚で、残酷に響いた。
憎悪も悲嘆も全部飲み込んだ上で、彼は言葉を投げている。
「甘いわね」
「性分だから。それに、生徒達を責めてどうにかなることではないからさ。
悪いのは、生徒達の後ろにいる大人――ベアトリーチェだ。
リオが尊ぶ合理性も私と同じ結論を導いているんじゃないの?」
「そういう誘導でごまかさないでちょうだい。先生が赦したとしても、それを見ている私は複雑よ」
「おっと、珍しい。リオからそんな感情的な言葉を引き出せるなんて」
「コントロールしているだけで、感情がないという訳では無いのよ」
ピシャリと先生の言葉を否定して、リオは迫る。
その仕方がないことだと諦め切った顔が苛立たしい。
眉間の皺は深く刻まれ、口元は鋭く歪む。上がった眉と細まった目は、怒りを膨らませる。
「実際問題、私はこの一連の事態が終わっても、問題は続くと思っているの」
「それは、そうだね……」
「先生を害した記憶が残ったままだったら? 先生への憎悪が消えなかったら?
ええ、そうね。その時は貴方は表舞台から退場するでしょうね。
名誉や立場に拘らないもの、貴方は。物語の結末は、先生一人が背負って受け止めればいい。
私が嘗て企てた方法だもの、それくらい理解るわよ」
「だったら、何の問題も……いや、それは言ってはいけないか。君と対峙して、破った私が言うべきではない台詞だね」
「ご都合主義で生徒達の嫌悪も記憶もしっかり消えたと仮定して、貴方はそれに耐えられるの?」
「耐えられるさ。それが大人として、先生としての役目だから」
即座に耐えられると答えてくれたのが、何よりの証拠だ。
嗚呼、こんなにも腹立たしいのはきっと。どうあがいても、彼が救われないからである。
ハッピーエンドの死角。差し伸べられぬ領域に彼はいるのではないか。
だから、自分達が此方側にいる。
不知火カヤ、FOX小隊、調月リオ。ゲマトリアの黒服とか言う胡散臭い奴も何故か紛れ込んでいるけれど。
「確かに。生徒達はハッピーエンド――青春を謳歌して生きていけるでしょうね。
それじゃあ、青春が終わった大人――先生は救われるのか。議題としては大いに討議するべきものではないかしら」
「……生徒達が幸せなら、それで物語はハッピーエンドだ」
「その言葉は正しくないわ。少なくとも、私は救われない。
頑張って、倒れそうになっても、頑張って。泣きそうになりながらも立ち上がって。
そんな、疲れ切った顔の貴方が救われない世界を、私は認めない。
そうでなきゃ、あの時私が間違っていた事すら、無意味になる。
私を否定して、世界を救った成果を、ちゃんと享受してもらわないと、嫌」
「随分と高評価だ。リオがそこまで私を見てくれてるなんてね」
「功績を上げた人が公平な評価をされない事実が、私は我慢ならないのよ」
ハッピーエンドを信じられない子供。
犠牲なき幸せを欠片も信じてない、この世界の異物。
故にこそ、犠牲となる人への想いは人一倍強い。
「それはお互い様だ。自身が評価――――報われることを誰よりも度外視しているのは、私も、リオも同じことだろう」
「幸せを享受できないなら、せめて評価だけでもと願ってしまうのは駄目かしら?
……結局は先生の言う通り、お互い様ってことね」
かつて、一人の少女に犠牲を強いたことがある。
それは大義の為、それは世界の為。人間の皮を被った破壊の化身を殺そうとした。
罪悪感はあった、誰も見てない所で何度も嘔吐した。
自分はもう地獄行きなんだなと思ってしまうくらい、少女は屈託なく、笑顔が輝かしい存在だった。
それら全部をゴミ箱に捨てようとした。
主要生徒の全員が反対する中、自分だけはその悪《大人》を担おうとした。
「私は、怖いのかもしれない。報われてしまえば。赦されてしまえば。私の正義は弱くなる。
あの子達は箱舟の時のように、私の手を取るのでしょうし。そのまま、済し崩しで、きっと……」
「リオは皆に裁かれたいのかい」
「それが相応の立場だからよ。不相応に願ってしまえば、誰かが苦しむ結末になる」
それが、傲慢だと知っていながら、甘えだと認識していながら。
調月リオは“戻れない”ことを望んでいる。
つまるところ、楽になりたかったのだ。自由で情動のままに生きていける世界が、自分にはあまりにも息苦しくて。
終わらせてくれることを、ただ願ってしまった。
「――――汚れ切った神輿なら皆も捨ててくれるでしょう? 今の貴方がいい例え。
神輿を捨てれるように、躊躇なく未来へと生きていけるように。誰も、私を顧みない。そうなることを私は望んでいる」
居場所なんて作れる。誰にでもその権利はある。けれど、そうして作った世界に、調月リオは必要ない。
疲れ切った思考回路は“爪弾き”を導き出した。リオは終わりを覚悟しきっている。
「皆で手を取り合って、分かち合って、許し合って。
そうできたら、良かったと思っている、それが一番の最善だということも。でも、私にはそれができそうにないみたい」
感情を無視し、冷たい決断を下せるとしても。ミレニアムの総てから強く恨まれようとも。前へと歩みを進められる。
調月リオは一つ、何かを踏み越えた生徒だ。きっと、リオは大人という嘘を張り通せてしまう子供なのだろう。
人に頼らずに、一人きりで前へと進むことができる子供だ。
「誰かと手を取り合う事もできない、賢しさを寄る辺にするしかない子供。この世界で私を理解してくれる人なんて少ない、そう思っていたけれど」
たぶん、貴方は理解してくれる少数かもしれないわね、と。
リオは薄く笑った。生きることは難しい。自らの正しさを疑う余地もない。
そこに曇りがあっては、自分はもう動けなくなってしまうから。
「ねぇ、先生。もしも、私が……私の賢しさが醜悪で見るに耐えないものになった時」
紅い瞳の中に、虚無の哀願が込められる。その双眸を、先生は真っ直ぐに見返した。
二人の頭に映る灰色の明日。それは何も救えず、犠牲だけを増やしてしまったイフの未来。
いつか、調月リオが断頭台へと上がる瞬間。救済と懊悩の果てに至った――願ってしまえば戻れない一方通行の道。
終わりの崖から見える世界はきっと――――リオが見たかった景色だ。
「――――――――――――私を殺してくれる?」
その時、自分を終わらせてくれるのは。断頭台の紐を切ってくれるのは。崖へと突き落としてくれるのは。
先生がいいなと思ってしまったから。真白の雪のように、薄い肌が、少し赤みを帯びる。
もしかすると、此方側についた理由も、正しく死ねるかもしれないという欲があったのかもしれない。
「そんなお願いを私が受け入れると思う?」
「可愛い生徒のお願いなのよ?」
「君らしくない発言だ。他でもない調月リオに似合わない台詞だ」
「私もまだ子供よ。先生が思っているよりはずっと、ね。
貴方に背負わせてしまうとわかっていながら、介錯してくれる相手は選びたいと思ったのよ」
「それじゃあ、その約束を私が果たすとして。
リオが正しく在り続けて、私はたくさん間違えたと仮定して。
もしも、私が、悪い大人になった時」
けれど、逆のパターンだってある。
何処にも往けず。何処までも沈み。深くて暗い、裏側の未来。
先生は口元を少しだけ緩ませて、儚く嗤う。
「――――――――――――リオは私を殺してくれる?」
「………………ビッグシスターの名前に誓って殺すわ」
「ありがとう。その言葉のおかげで、私はもうちょっとだけ走れるかもしれない」
殺す、と。そう約束した自分の表情ははたして。感情は抑えきれていただろうか。
生きていくしかないのだ。与えられた役割を背負って、ずっと。
次回
『彼女たちの流儀/ロシアン・ルーレット・マイ・ライフ』