ゴジラ70周年(勝手に)記念作品。知人と話した与太話から書き始めましたが、なんとか間に合いました。

1 / 1
 

「『ゴジラの名前の由来になった島』なんてさあ、ほんとに誰か興味持つかぁ?」

 

 最近ネット配信に切り替わったマイナー番組『デジタルQ』。その制作であるカドクラ部長が椅子にもたれかかり、軽く顎をしゃくってみせる。

 

「『怪獣黙示録』も一区切りしてさぁ、ゴジラが日本に現われなくなって何年経つと思う? 今さらゴジラなんて、誰も興味ないんじゃあないのお? そこら辺、ユリちゃん自身はどう思うわけよ?」

 

 ……カドクラ部長の反応は予想通りだ。だけどそれでもこうしてあからさまに疑われる態度を取られると、自分の力不足を思い知らされたような気がして内心で悔しさが込み上げてくる。

 わたし∶タチバナ=ユリは負けじと言い返した。

 

「確かにここしばらく姿を見せていないゴジラですけど、だからこそです。ゴジラの脅威が忘れられつつある今こそ、この呉爾羅(ごじら)伝説の真実を掘り起こす価値があると思うんです!」

 

 わたしは、自然と声に力がこもるのを感じた。

 誰もが知っている怪獣ゴジラ、その名の由来となったのは、小笠原諸島にある小さな島にある伝説だという。

 ゴジラの名前に込められた“本当の意味”。テレビマンとしてのわたしが心から求めるのは、ただのエンタメじゃなく「本物」に迫ること、そしてそれを世間に届けることだ。

 

「ふーん、価値、ねえ……?」

 

 そんなわたしに対しカドクラ部長は、やれやれとばかりに肩をすくめて笑ってみせるのだった。

 

「でもさあ~、ユリちゃん。今どきの視聴者がさ、こんなよくわかんない伝説なんてのに食いつくかねぇ?」

 

 カドクラ部長は相変わらず冗談交じりの口ぶりだが、その目は本気でわたしのことを「分かっていない」と語っているようだった。でも、わたしにはもう何度も頭の中で繰り返してきた言葉があった。

 

「きちんと取材すれば“本物”に出来ますよ! ネット配信全盛のご時世、お遊びの中にも真実を伝えることが重要でしょう? ゴジラがいなくなった今、だからこそ、だからこそ! そのルーツに目を向けるべきだと思うんです!」

 

 気が付くと、わたしはまっすぐカドクラ部長を見据えたまま熱弁を振るってしまっていた。言葉に込めた熱が、わたしの中で静かに燃え上がっていた。

 そんなわたしを見ながら、カドクラ部長はその不自然なほど長い髪――部長本人は頑なに否定していたが、局内では『ヅラ』だと(もっぱ)らの噂だった――を弄りつつしばらく考え込んでいたが、やがて口を開く。

 

「……で、オカルト作家のタケダさんだっけ? 彼、連れていくんだろ? ま、彼がいるなら話もそれっぽくなるかもね」

「ってことは、つまり……?」

「分かったよ、分かった。そこまで言うなら好きにやってみなよ。まあ、うちみたいな弱小制作会社のマイナーチャンネル、予算はあんまり出せないけどさ」

 

 ありがとうございます、部長!

 わたしはカドクラ部長に頭を下げながら、心の中ではすでに次のステップに気持ちが向かっていた。知人のオカルト作家……もといサイエンスライターのタケダくん、彼の視点があれば、伝説をただの神話として流すのではなく、深く掘り下げて意味を見出せるはずだ。タケダくんならあの島の伝説がどこまで現実とリンクしているのか、わたし一人では気づけないところにまで目を向けてくれるかもしれない。

 

 ……心の奥に確かに感じる高揚。部長の許可を得たとき目の前に広がったのは、わたしの想像の中の島の風景だ。荒々しい波に囲まれ、謎に包まれたその島には、単なる観光地とは違う「何か」が潜んでいるはず。

 わたしはそれを、この目で確かめるために行くのだ。オフィスを後にしながら、わたしは自身に気合を込めた。

 

「……おーし、やるぞう! オーッ!」

 

 

 件の島、大戸島(おおどじま)は小笠原諸島のひとつだ。人口は3,000人程度、かつては遠洋漁業の補給中継拠点として細々と漁業を営むだけの、小さな島に過ぎなかった。

 それがにわかに注目されるようになったのは、西暦1954年。島の台風災害を調査しに訪れた学者のチームが、大戸島にて身長50メートルの“怪物”と遭遇。その怪物は島の伝説になぞらえて〈ゴジラ〉と呼ばれるようになった。

 以降、その呼称が広まるとともに、大戸島はゴジラのルーツとして語られるようになったという。

 

 

 

 

 大戸島行きのフェリーに乗り込んでしばらくすると、海の景色が徐々に白い霧に包まれ始めた。

 ……少し、寒いな。少し肌寒い潮風が頬に当たり、わたしは無意識に腕をさする。

 

「冷えるなあ……」

 

 タケダくんはというと反対側の席でノート端末を開き、何かの資料に熱中していた。タケダくんはこういう長距離の移動には慣れているようで、移動時間も無駄にすることなくすっかり作業モードに入っていた。

 

 一方でわたしは、頭の中がずっと落ち着かないままだった。

 フェリーに乗る前、何度も読み返した大戸島の資料が次々と頭に浮かんでくる。あの島の観光パンフレットには「神秘と伝説の島」と謳われているが、その実態がどこまで「本物」なのかは、まだ未知数だ。

 しかもゴジラの猛威が忘れられかけて、久しい昨今。子ども向けの土産品のデザインにまで「ゴジラ」が採用されていると知ったときは、正直少し複雑な気持ちになったものだった。

 

 ……それにしても、この「呉爾羅」という名前には妙に引っかかるものがあった。

 ゴジラのルーツとして一度名前が伝わってからにわかに有名になった大戸島だが、ネットで調べてみても肝心の基になった『呉爾羅伝説』自体は、具体的な形や姿についての記述はほとんど見当たらない。まるでゴジラには興味があっても、呉爾羅伝説には誰も興味を持っていないかのようだ。

 

「……ユリちゃん、さっきから随分と深刻そうだね」

 

 見ると、タケダくんがわたしの顔を見上げて軽く笑っていた。どうやらタケダくんも、わたしの気持ちが落ち着かない様子を察してくれていたようだ。

 

「あ、いや、ちょっと考えていただけ。呉爾羅が何者なのか、何かにたどり着けるんじゃないかって」

「ま、そこは島に着いてからのお楽しみってことで。俺もいろいろ見てきたけど、大戸島はまた違うみたいだからさ」

 

 タケダくんがパソコンを閉じ、少し体をほぐすようにストレッチをした。彼の軽いスタンスに、わたしの少しだけ緊張がほぐれる気がする。

 フェリーはまだ霧の中を進んでいる。次第に近づいてくる大戸島を前にして、わたしは覚悟を改める。大戸島の呉爾羅伝説、その裏に潜む真実をわたしは絶対に見つけてやるんだから。

 

 フェリーが港に着くと、まず目に飛び込んできたのは波止場に並ぶ木造の古びた建物と、緑が生い茂る島の山々だった。小さな漁船がいくつも停泊し、かすかに磯の香りが漂ってくる。潮の湿気がまとわりつくようで、わたしは一歩ずつ足を踏み出すたび、知らずに背筋を伸ばしていた。

 

「タチバナさんとタケダさん……ですよね?」

 

 柔らかい声に振り向くと、波止場に二人の少女が立っていた。年は10歳か、せいぜい12歳くらいだろうか。白い巫女装束を着て、生糸のような綺麗な髪を肩で揃えた双子の少女たちだ。その顔は瓜二つで、二人の澄んだ瞳がこちらをじっと見つめている。その静かな眼差しには、不思議と大人びた印象があった。

 

「わたしはミアナ」

「わたしはマイナ」

「「今日はわたしたちが案内役を務めます」」

 

 小柄な少女たちが一歩前に出て、神妙な表情で声を揃えてそう告げる。

 

「タチバナ=ユリです。よろしくお願いしますね」

「僕はタケダ=ミツアキ、作家です。よろしくね」

 

 わたしたちもまた挨拶すると、二人の少女は小さく微笑んだ。二人とも口元に柔らかな笑みを浮かべているが、どこか遠慮がちな気配があるのが気になった。

 

呉爾羅(ごじら)伝説については、少しだけ詳しいです」

「じゃあ、本物の呉爾羅には?」

 

 わたしが訊ねると、二人は互いに顔を見合わせてから困ったように首を振った。

 

「……いいえ」

「わたしたちも本物の呉爾羅を見たことはないんですよ」

 

 ……そっか。そうだよね。

 わたしの中で、ほんの少し落胆が走る。さっそくの島民との邂逅。伝説に触れてきた人々に出会えると期待していたが、実際はそうでもないらしい。

 

 

 ミアナとマイナの案内で、まずわたしたちは「ゴジラ出現の碑」に向かった。

 道すがら、左右に民家が並んでいるのが見えたが、どの家もどこか色褪せた古さがある。たまに観光客らしき人々が道を歩いていて、島の雰囲気に合わないカメラを構えては、パシャパシャとシャッターを切っているのが目に入る。

 

「ここが、ゴジラ出現の碑です」

 

 ミアナが示した先には、巨大な石碑がそびえていた。見上げると、そこには『ゴジラ伝説、此の地に始まる』と彫られている。石碑の周囲には、フェンスが張られ、観光客向けのパンフレットが置かれた小さな案内所もある。何から何まで「観光名所」として整備されているのが一目で分かる。

 タケダくんがぼそりと耳打ちした。

 

「これがあの怪獣ゴジラのルーツだって言っても、あまりピンとこないよな」

「……そうね」

 

 たしかにタケダくんのいうとおり、この石碑には、呉爾羅の神秘性も恐ろしさも感じられない。案内板には『呉爾羅伝説とゴジラの関係についての逸話』などがつらつらと書かれているが、そこには本来の重みや畏怖が薄れてしまっている。まるでゴジラの名前が、ただのマーケティングツールに成り下がったかのようだった。

 

「こういうの、島の人たちはどう思ってるの?」

 

 わたしが尋ねてみると、ミアナとマイナは少し困ったように視線を泳がせた。

 

「……観光客の人には喜んでもらえるから」

「……あんまり気にしていないみたいです」

 

 苦笑いで答える二人の声は小さく、最後の方はほとんど聞こえなかった。観光地化した島の呉爾羅像は、当の住人たちにとっても微妙な存在なのだろうか。商業的な顔を持ちながらも、本来の意味を失った伝説の姿に、わたしは少しの皮肉を感じずにはいられなかった。

 

 

 続いてわたしたちは、島の山の方にある「呉爾羅神社」へと足を運んだ。

 山の中は島の他の場所とは異なり、観光客の喧騒が届かず、古い木々が生い茂っている。その空気はひんやりとしていて、神社へと続く小道には苔が厚く敷かれている。案内板もなく、観光地然とした(ふもと)の雰囲気とは対照的だった。

 

「ここが呉爾羅神社です」

 

 境内に入ると、苔むした石の鳥居と、小さな(やしろ)が見えた。風に揺れる木の葉がざわざわと音を立て、まるで神社そのものが息づいているかのようだった。この場所には、ただの「観光名所」とは違う何かがある。心の奥で小さなざわめきを感じる。

 マイナとミアナが神社を案内してくれる中、タケダくんが口を挟んだ。

 

「もっと詳しく見られないかな。たとえば御堂の中とか、御神体とか……」

 

 踏み込んだ質問に対し、マイナが首を振るう。

 

「ごめんなさい、島の外の人は見られません。決まりなんです」

「そっか……それじゃあ、何が祀ってあるの?」

「ごめんなさい、わたしたちも見たことはないんです。ただ……」

「ただ?」

 

 タケダくんの追及に、マイナが小さな声で教えてくれた。

 

「『呉爾羅の一部』だと聞いたことがあります。一部といっても、牡蠣殻みたいな大きな形をしているとか…」

「牡蠣殻、ねえ……」

 

 その説明でわたしの頭に浮かんだのは、あの怪獣ゴジラの背に生えた特徴的な“背鰭”だ。

 わたしも記録写真でしか見たことは無いが、言われてみればゴジラの背鰭は、層を成して何十年も生きながらえた牡蠣の貝殻を思わせる気がする。まさかゴジラの背鰭そのものではないだろうが、それと似たものがこの島の御神体として祀られているのだろうか……?

 そんな益体も無いことを、ふと考えた。

 

 

 

「この度は遠いところまで、ようこそお越しくださいました」

 

 続いて村役場に足を踏み入れると、にこやかに頭を下げている中年の男性が目に入った。背は高く、丸みを帯びた体型に深い日焼けをした顔。その柔らかい口調と丁寧な姿勢から、この人が大戸島の村長であるとすぐに分かった。

 

「デジタルQの方ですね。私はこの島で村長を務めているイナダと申します。今日はどうぞよろしくお願いします」

「ど、どうも」

「ご丁寧に……」

 

 丁重な歓迎に、わたしたちも頭を下げ返した。

 村長は両手を胸の前で合わせ、どこか遠慮がちな笑みを浮かべている。その姿から、島の「顔」として観光客に接する立場への誠実さが感じられる。とはいえ、目の奥には何か複雑なものが潜んでいるようで、わたしは無意識に彼の顔をじっと見つめてしまった。

 村長は話を続けた。

 

「ありがたいことに、例の『伝説』のおかげで島には多くの観光客がいらっしゃいます。それで島の商売も潤いますし、村の人々の生活も支えられている部分が大きいのです」

「ははあ、なるほど……」

 

 村長の語り口には、島のためを心から思っている責任感が感じられた。観光資源として呉爾羅伝説を活用することが村を守る手段であり、彼はそれを誠実に実行しようとしているのだろう。だがその話しぶりから、村長が呉爾羅伝説をただの「物語」として、実体のないものとして捉えていることも伝わってきた。

 

「お二人も、この呉爾羅伝説にはご興味がおありでしょう? もし何か聞きたいことがあれば遠慮なく仰ってくださいね……とはいえ、実際には呉爾羅なんてものを見た者もいませんし、何か証拠が残っているわけでもありませんので、あくまで『昔話』として受け取っていただければ、ですが」

 

 その言葉には、観光地化の裏にある村長の本音が透けて見えるようだった。大戸島村長は呉爾羅伝説を観光名所として祀り上げる立場にいる。しかし当の本人は、伝説の「現実性」にはむしろ懐疑的なのだろう。

 

「…………。」「…………。」

 

 村長が話し終えた時、ミアナとマイナが村長の横に立ち、じっとこちらを見ていた。二人の瞳には、村長が語らない部分を補うかのような静かな光が宿っている。その様子から、彼女たちが呉爾羅を「単なる物語」として捉えていないことが伝わってきた。

 わたしは村長に向き直り、少し迷いながらも質問を口にした。

 

「でもイナダさん、ここまで大きな伝説が伝わっているということは、やはり何か根拠があるんじゃないでしょうか?」

「そうですねぇ……」

 

 村長はその言葉に少し驚いたような顔をしたが、すぐに笑みを浮かべて答えた。

 

「でも、私の役目は島の生活を支え、島の皆さんに安心してここで暮らしてもらうことですからね。それができるなら、伝説も観光もどちらも大切にしたいんです」

 

 その穏やかな笑顔には、観光のために伝説を利用しながらも、島民の暮らしを守るという村長の誠意が滲んでいるようだった。

 しかし、そのことが逆に皮肉に感じられた。村長にとって呉爾羅は現実の神ではなく、あくまで島を成り立たせるための「お話」であり、それ以上のものではないのだ。

 村長は呉爾羅を「祀り上げる」立場にはいながら、実際には信じていない――その矛盾が生んでいるのであろう微妙な距離感に、わたしは複雑な思いを抱かずにいられなかった。

 

 

 村長との会話を終え、わたしたちはミアナとマイナに案内される形で、島の奥まった古い家へと向かっていた。

 

「おじいちゃん、ちょっと話が飛ぶ時もあるけど、呉爾羅のことなら詳しいから」

 

 マイナが、小さな声でわたしに説明してくれる。どうやら古老はこの島で最も呉爾羅伝説に詳しい一人らしいが、その一方で、記憶が曖昧な部分も出てきているらしい。

 それでも、古老がどのように伝説を語るのか興味深かった。村長が語るような「商業化された呉爾羅」とはまた違う、本物の伝説に触れる機会になるかもしれない。

 

「おじいちゃん、今日はお客様がいるから……しっかりしてね」

 

 マイナが声を張り上げて家の中へと声をかける。すると、しばらくして障子の向こうから足音が近づき、やがて一人の年配の男性が現れた。

 背は少し曲がり、年老いた骨ばった手を杖にかけている。顔には深い皺が刻まれ、その瞳はかすかに曇っているが、それでも奥底には鋭い光が宿っていた。

 この方がマイナたちの言うおじいちゃん、つまり島の古老か。挨拶をし終えたあと、古老は語り出した。

 

「呉爾羅はのう、海の龍じゃ。大きく、強く、そして恐ろしいものじゃった……」

 

 そう語る口調には、呉爾羅への敬意と畏怖がにじんでいる。この人なら、呉爾羅の実物を見たことがあるかもしれない。そんな期待が脳裏をよぎる。

 

「それでは、呉爾羅を見たことが……?」

「いや、わしは見ておらぬ」

 

 だが、と古老は言う。

 

「わしのじいさま、そのまたじいさま、さらにそのまたじいさまの時代から、呉爾羅はこの島を守ってくれたのじゃ。呉爾羅が現れると、海は豊かになり、深い海の魚が波間に浮かんでくる。わしのじいさまたちは、その魚で満腹になったと言っておったよ……」

 

 そのとき、タケダくんが耳打ちした。

 

「なるほど……“えびす”だな」

「えびす? えびすって、エビスビールの?」

 

 わたしが声を潜めて聞き返すと、タケダくんは「ああ」と頷いた。

 

「“えびす”はもともとは『外からの神』、つまり海から現れる恵みの神のことだ。日本各地で漁業の神として信仰されていて、“えびす”が現れると魚が豊漁になると言われる。多くはクジラのことだと言われているが、この呉爾羅の伝説にも似たところがあるようだ」

「なるほど……」

 

 わたしが納得する傍ら、古老の語りはなおも続いた。

 

「でも、でもな……呉爾羅を決して怒らせてはならんのじゃ。呉爾羅が怒れば、波が荒れ、船は沈み、食い殺されることもある……だからこうして神社に祀ったのじゃ……」

 

 古老はそう言いながら、少し震える手で膝を握りしめた。神聖でありながら、恐ろしい祟り神としての呉爾羅像が、わたしの頭に少しずつ形を成していく。古老の語りが、単なる伝説を超えた切迫感を帯びているようで、彼の言葉が胸に響く。

 

「呉爾羅の怒りは、そりゃあ恐ろしいものじゃった。わしの祖父が言うには、戦時中、大戸島に来ていた兵隊たちも呉爾羅の怒りに触れて……みんな、皆、食い殺され、踏み潰されてしまったと……」

「戦時中に、兵隊が?」

 

 タケダくんが鋭い視線を向け、少し眉をひそめた。彼は思い当たることがあるようだ。

 

「たしかに、大戸島には旧軍の飛行場がありました。日本軍の守備隊が駐留していたと聞いてますが……」

「そう、それじゃ! わしのじいさまは、呉爾羅が怒って現れ、兵隊たちを皆、食い散らし、踏み潰していったと言っておった!」

「し、しかし……」

 

 タケダくんは何か言いたげだったが、古老の声は固く、言い切るその表情には迷いがなかった。年老いた瞳には、ある種の恐怖が未だに焼き付いているかのようだった。その言葉は、彼にとっては疑いようのない真実であり、単なる神話ではないのだ。

 場の空気が気まずくなりそうだったので、ここでわたしは話を変えた。

 

「そういえば、呉爾羅神社には御神体があると聞きました。その御神体は、この呉爾羅に関係が?」

 

 先ほどミアナとマイナに案内してもらった呉爾羅神社。その「御神体」の話が頭から離れなかったからだ。

 古老の方も、わたしの話に乗ってくれた。

 

「おお、御神体……あれは、呉爾羅の『証』じゃ」

「証?」

「うむ。わしも若い頃に一度だけ見せてもらったが、大きな貝のような……石のようなものじゃった……あれこそが呉爾羅の……ふむ、何と言えばよいか……?」

 

 古老は言葉を探すように宙を見つめ、少し迷った様子を見せた。高齢のせいなのか、あるいはその記憶がどこか曖昧なのか、説明に行き詰まってしまっている。しかし、その途切れ途切れの語りが、むしろ御神体の神秘性を引き立たせている気がした。

 ふと、隣のミアナとマイナがわたしに小さくささやいた。

 

「おじいちゃん、昔はもっとはっきり覚えてたんだけど、最近ちょっと……」

 

 ミアナとマイナの言葉から、古老の記憶が少しずつ失われつつあることが伝わってくる。要するにボケかけているのだ。古老が語る伝説が曖昧で、辻褄が合わない部分もあるのは仕方のないことかもしれない。

 それでも、この古老が自分の人生を通して呉爾羅を「畏れてきた」ことだけは確かだ。わたしにとって、それが何よりも重要に思えた。

 

「……ありがとうございました」

 

 古老が語り終えたとき、わたしは深く息をつき、頭を下げて礼を述べた。古老の目にはどこか遠い昔を見つめるような光が宿っていて、その姿はまるでこの島の長い歴史の一部のように感じられた。

 

 

 旧軍の飛行場跡に足を踏み入れた瞬間、わたしは言いようのない冷たさを感じた。

 

 風が吹き抜けると、草がさわさわと揺れて、あたりは静寂に包まれている。この場所がかつて兵隊たちが命を懸けて守った場所だなんて、今となっては信じられないほど荒れ果てていた。コンクリートが崩れ、雑草がその隙間を覆っている。飛行場の施設も風雨にさらされて朽ち果て、すっかり自然に還りつつあるようだった。

 一方、隣ではタケダくんがため息をついていた。

 

「何も残っていないな……やっぱり単なる噂じゃないか? 大戸島に特攻の不時着場があったのは事実だけど、米軍との戦闘で玉砕したって記録もあるし、あの話は何か別のものと混じっちゃったんじゃあないか?」

 

 タケダくんの言葉はもっともだ。ゴジラが大戸島に現れたのは戦後の話。呉爾羅が本当に兵隊たちを噛み殺し、踏み潰したなんて信じられない話だった。

 それでも、あの古老の真剣な眼差しが頭に焼きついて離れなかった。わたしは反駁した。

 

「でも、単なる妄想とは思えないよ。なんか“本物”って感じがするっていうか……」

「とはいえ、戦争中の情報なんていくらでも曖昧になりがちだからなぁ。もし本当に呉爾羅が絡んでいるとしたら、何か証拠が残っていてもいいはずだろ? でも、ここには何もない。痕跡も、手がかりも」

「う、うん……」

 

 タケダくんの指摘にわたしはうなずきながらも、心の中には奇妙な不安が残り続けている。まるで、見えない何かが背後からじっと見ているかのような感覚だった。

 

 風が少し強くなり、枯れ草がざわめいた。その音がまるで何かのささやきのようで、一瞬背筋がぞくりとした。

 ……もし本当にここへ呉爾羅が現れたのだとしたら、そのとき不時着場の兵隊たちは何を目にし、何を感じたのだろう? ただの怪物ではなく、信仰と恐怖が混じり合う祟り神。その存在を否応なく感じさせられたのではないか――そんな想像がわたしの頭の中に浮かび上がってきた。

 

「……まぁ、信じるか信じないかは別として、」

 

 タケダくんは、ノート端末をパタンと閉じてわたしのほうを見た。

 

「俺たちにできるのは記録を集めて、事実を確かめることだけだな」

 

 タケダくんはどこか割り切った表情を見せたが、わたしにはそれがどこか空虚に映った。目に見えるものが真実とは限らない、そんな感覚がわたしを包んでいる。

 

「……そうだね」

 

 わたしは目の前に広がる荒れ果てた飛行場跡を見つめながら、言葉を飲み込んだ。過去にここで起きたこと、そのすべてが伝説という名で隠されているのだとしたら、わたしたちが今見ているのは何もかも表面だけのものにすぎないのかもしれない。

 わたしは胸の奥に言いようのない不安を感じつつ、次の場所に足を向けた。この島の伝説と史実が入り混じる中で、真実に迫ることができるのか。それが少しずつわからなくなってきた気がした。

 

 

 

 夕方、宿に戻ると、少し肌寒い夜の空気が部屋に漂っていた。

 大戸島にとった宿は木造の古い造りで、床板が微かに軋み、古びた畳の香りが鼻をくすぐる。窓の外からは遠く波の音が聞こえてくるが、民宿のあたりはどこか静まり返っていて、まるでわたしたちがこの島に取り残されたような感覚があった。

 

「まあ、まずは記録の検証だな」

 

 そう言ってタケダくんが荷物から日記の写しを取り出し、小さな卓袱台の上に置いた。卓上の明かりを頼りに、その薄い冊子をそっと広げると、時折かすれるような筆跡で綴られた文字が並んでいた。

 ……これは? わたしが訊ねると、タケダくんは得意気に答えた。

 

「大戸島守備隊の日誌の写しだよ。知り合いの古書店の店主が、こういう戦時中の資料を専門に扱っててね。この島の軍記録の断片が、ある民間のコレクターを通じて流れてきたらしいんだ。で、これがその戦時中、大戸島に駐留していた守備隊の整備兵が個人的に残した日記の写しってわけ」

 

 タケダくんは目を細めながら日記を撫でるように眺め、続けた。

 

「当時は軍事機密に触れる可能性があるから、こういう個人の日記が残っているのは珍しいんだ。整備兵の一人がこっそり書き留めていたのか、あるいは遺書か何かとして親しい誰かに届けるつもりだったのかもしれないね」

「なるほど……」

 

 わたしは息をのんで、タケダくんと並んでそのページに目を落とした。

 ……この日記には、戦時中の兵隊のありふれた日々が書かれている。最初は軍の規律や、時折の苦しい心情が無造作に記されていて、どこか他人事のように読み進めていた。

 だがやがて玉砕の日が近づくにつれ、筆致がどこか切羽詰まったものに変わっていく。深夜の恐怖や、仲間との会話、曖昧な記憶が断片的に綴られている。その内容に目を走らせるうち、ふととある記述が目に留まった。

 

『村人からの差し入れで、魚介を煮た鍋をたらふく食べた。深海魚の()()()が大量に上がったらしい。久しぶりのご馳走だった……』

 

 深海魚。わたしは思わずタケダくんと顔を見合わせた。

 

「これって、まさか……?」

「まさか、だよな……?」

 

 ……昼間に古老が語っていた「呉爾羅が現れると海が豊かになり、深海魚が波間に浮かんでくる」という言葉がよみがえる。

 この日記を書いた整備兵たちは、この「豊漁」がただの偶然だと思っていたのだろうか。だが、この日記を読む限り、彼らはその豊かな海の恵みを喜んで味わっていたのだ。それが、まさか最後の食事になるとは知らずに。

 

「せ、戦時中のことだから、何か間違いもあったかもしれない。あるいは、本当にただの偶然で深海魚が大量に現れたとか……」

「…………。」

 

 タケダくんは言葉を探すように小さく呟いたが、その声に確信は感じられない。もしかしたらタケダくん自身も、この偶然が単なる偶然ではないのではないかという疑いを抱き始めているのかもしれない。

 わたしは、ふと宿の静まり返った空気を感じ、そっと背筋を伸ばした。日記の整備兵たちが、最後に食べた深海魚の鍋……それがもし「呉爾羅の訪れ」の前兆だったとしたら?ただの食事に見えたその鍋が、実は恐ろしい死の前触れだったのかもしれないと考えると、背中に冷たいものが走った。

 

「もし、呉爾羅が本当に存在したとしたら……」

 

 わたしはそう呟いて、日記を閉じた。島の古老が語った「呉爾羅の怒り」と、それを記録に残さなかった軍の公式記録。その二つの間にある「見えない真実」を想像せずにはいられなかった。

 

 

 翌日。大戸島の近海、孫ノ手島に到着した。

 

「綺麗な海ね……!」

 

 どこまでも透き通る小笠原の海、まさにボニンブルーだ。

 ここは大戸島とは異なり、どこか開放的で華やかな空気が漂っている。孫ノ手島はスキューバダイビングのポイントとしても有名らしく、観光客が数名、準備をしながら砂浜で談笑しているのが見えた。

 

「よろしくお願いします!」

 

 わたしたちは地元のインストラクターと一緒に、沈没船が眠るというダイビングスポットへと向かうことになった。わたしたちがウェットスーツを着込み、器材を装着すると、インストラクターが簡単な説明をしながら、少しだけ不穏な話を交えて笑った。

 

「昔、このあたりで何度か海難事故があったんです。島の年寄りたちは、呉爾羅の祟りだなんて言ってますけどね」

「へぇー……!」

 

 タケダくんが面白がるように目を輝かせる一方で、わたしはその言葉に少し緊張を感じていた。海の底に「呉爾羅の祟り」があるかもしれない……そんな話を聞かされたら、心がざわつくのは当然だ。

 ……だが、怯えている場合じゃない。祟りだなんて非科学的、迷信だ。そんな風に意を決し、わたしはゆっくりと海に身を沈めた。水中に入ると、世界が一変し、静寂と薄暗い青に包まれる。

 

 ……綺麗。

 

 孫ノ手島の海は驚くほど透き通っていて、どこまでも澄み渡る青が広がっていた。水中に差し込む光は、揺れる波によって優雅にゆらめき、まるで海底に繊細なレースの模様を描いていた。あまりの美しさに思わず息を呑むと、心が一瞬だけ緊張から解き放たれる。

 青い深淵に進むにつれ、わたしの周りには様々な魚が泳ぎ始める。鮮やかなオレンジや黄色の小魚が群れを成し、光の筋を追いかけるようにくるくると回っている。大きな岩には色とりどりのサンゴが張り付いていて、岩陰からは不意に小さなエビや貝が顔を覗かせる。耳には自分の呼吸音と、時折感じる水の微かな流れだけが響いていた。海の静寂がわたしの全身を包み込み、その静けさがかえって美しい青の深さを際立たせている。

 

 海の底へと近づくにつれ、足元の砂がほんのりと巻き上がり、キラキラと光を反射して漂っている。まるで星屑が宙に浮かんでいるようで、静謐なこの海の中で生まれた小さな銀河のように見える。

 タケダくんが水中カメラを手に、静かにシャッターを切る。その音が小さく響くたびに、周囲の魚が一瞬散り散りになってから、またすぐに戻ってくる。まるで、わたしたちの存在を受け入れてくれているかのようだった。周りには陽の光が届き、やわらかな金色が青い水に溶け込んでいる。その輝きは一瞬一瞬、異なる表情を見せてくれる。

 

 そして、しばらく進むと、ぼんやりとした沈没船の残骸が視界に現れた。

 

 その錆びついた船体は、どこか海の美しさとは対照的に、悲壮な物語を語っているようだった。海藻が船体に絡みつき、そこを隠れ家にした魚たちがひっそりと漂っている。周囲の美しい海とは異なる、暗い影が沈没船を覆っているように感じた。

 どこか時間が止まったかのような不思議な感覚、わたしはそれに圧倒されながらも近づいてじっと見つめた。

 ……船の残骸には、なにか無数の爪痕のような傷が残っている。専門家ではないからわからないが、たぶん座礁で出来た傷じゃないような気がする。

 あとでインストラクターに聞いたとき、「多分、岩場で擦れたんでしょうね」と言っていた。実際にそうなのかもしれないが、わたしはどうしても納得がいかなかった。まるで巨大な何かに引き裂かれたように、船体は無残に裂けている。わたしはその傷に指をかざしながら、ふと息を飲んだ。

 

(呉爾羅が、船を沈めたのだとしたら……?)

 

 そう考えると、海の底に眠るこの残骸が、単なる事故の名残ではなく、呉爾羅の存在を示す「証拠」のように思えてくる。

 背後ではタケダくんが、少し離れた場所からその光景をカメラに収めていた。水中での撮影に興味津々の様子だったが、わたしにはその興奮に乗る気になれなかった。どこかに潜む気配を感じると、急に不安が湧き上がり、胸がざわつく。何か、見えない存在がこの場所を支配している気がしてならなかった。

 胸が高鳴り、呼吸が少し乱れる。呉爾羅の「呪い」がこの海に漂っているのだとしたら、この海の静寂は単なる静けさではなく、深く沈んだ恐怖そのものなのかもしれないと感じた。

 

「…………。」

 

 わたしたちは沈黙のまま海中を進み、残骸を離れる準備を始めた。沈没船の姿が遠ざかっていく中、わたしはその影がまるで消えることなく背後に張り付き、じっとこちらを見つめているような気がしてならなかった。

 

 

 わたしたちは取材の締めくくりとして、この島の神楽の夜祭に参加することになった。

 ミアナとマイナが「オイカリサマの祭り」と教えてくれたこの祭りは、観光客にとっても一大イベントらしく、広場には島の人々と共に外部から訪れた人々もちらほら見られる。

 

「わあ、凄い人……!」

 

 広場に着いたとき、すでに人々が集まっていて、あちこちからざわめきや笑い声が聞こえてきた。観光客用の看板には「オイカリサマ祭り」と書かれていて、イラストで描かれたオイカリサマが少しコミカルに見えた。

 なんだか夜の神聖な儀式というより、どこか気軽なイベントとして演出されているようだ。出店も並び、香ばしい匂いや子どものはしゃぐ声も混じっていて、一瞬、これが本当に「神の怒り」を鎮めるための儀式なのかと疑ってしまうほどだった。

 ミアナとマイナが近づき、祭りの説明をしてくれる。

 

「この祭りは、オイカリサマにお慰めを捧げるものです。でも最近は観光のために、たくさんの人が来るようになってしまって……」

「ふむ、そっか……」

 

 二人にとって、この祭りは神聖な儀式でありながら、観光イベントとしての側面が強まっていることに違和感を抱いているのかもしれない。

 まあ、それはさておき。

 視線を移した広場の中央には、木で組み上げられた巨大な人形が立っていた。背はわたしの背丈の二倍以上、両腕と翼を広げたようなその姿は、どこか威圧的で、見る者を圧倒する。夜の薄暗がりに照らし出されたその姿には「神聖さ」というよりも、むしろ「畏怖」を感じさせるものがあった。

 

「あの人形がオイカリサマ?」

 

 わたしが小声でミアナに尋ねると、ミアナは静かに頷いた。

 

「ええ。オイカリサマは、この島を守る神さま……皆の呪いを背負ってお清め下さる方です。だから、毎年この祭りでお慰めをします」

「わたしたちが神楽を踊って、オイカリサマのお気持ちを鎮めるんです」

 

 ミアナの声には少し緊張が混じっているように感じた。わたしがちらりと隣を見ると、マイナもオイカリサマをじっと見つめ、どこか遠くを見ているような表情をしている。

 やがて、島の若者たちが一列に並び、神楽の舞が始まった。

 

「~~♪」

 

 太鼓と笛の音が静かな夜に響き渡り、その響きが体の奥にまで伝わってくる。

 神楽の中心にいるのはミアナとマイナだ。二人とも巫女の衣装に身を包み、舞台に上がってゆっくりと踊り始めた。二人の少女を中心とした大戸島神楽の舞は、まるで風に揺れる花のように静かで繊細で、わたしの目はその動きに引き込まれた。足元がふわりと宙に浮くような優雅な動きが、夜の闇へと溶け込んでいく。

 

「~~♪」

「~~♪ ~~♪」

 

 その一方で、オイカリサマの像がじっと無表情に立っているのが、どこか不気味だった。

 オイカリサマは木で組まれた粗雑な像にもかかわらず、まるで彼が本当に神であり、今この場で島民たちの祈りを受け入れているかのようにも見える。まるで、夜の闇の中に一つの異界が生まれ、そこにオイカリサマが顕現しているようにさえ思える。

 

 

 祭りがクライマックスに近づくと、若者たちはオイカリサマの像に火を灯した。

 火が乾いた木組みの人形へ燃え広がり、オレンジ色の炎が勢いよく立ち上っていく。その炎の勢いが増すたび、わたしは言いようのない不安を覚えた。炎が高く燃え上がり、オイカリサマの像を包むにつれて、まるで彼が怒りを持って現れるのではないかという錯覚に襲われる。

 

 ごおっ……!

 

 炎が音を立てて燃え盛り、オイカリサマが一瞬大きく揺れると、周りの人々からも息を呑む気配が感じられた。

 火の勢いに圧倒されながらも、わたしはその光景から目を離せなかった。この儀式が、ただの観光イベントではなく、島民にとって本当に神聖で重要なものだと痛感させられる。

 

「~~~~♪」

 

 そして神楽の中心人物であるミアナとマイナが手に小さなヒトガタを持ち、海の方へ歩き出した。

 ヒトガタについてはあとになってから、『呉爾羅に捧げる生贄の代わり』なのだと二人が教えてくれた。かつては神楽を舞った巫女本人を流していたが、今の御時世そんなわけにもいかないので、いつからか代わりのヒトガタを流すことにしたらしい。

 ミアナとマイナは海の際でヒトガタをそっと水面に浮かべ、神楽の舞を終える。

 

「…………。」

 

 夜の静寂の中に、火の燃え尽きる音と波の音だけが残った。わたしはその場に立ち尽くしながら、この島に漂う静かな恐怖を感じていた。

 この夜祭は単なる観光客向けイベントではない。オイカリサマ、ひいては呉爾羅に対する畏怖が、今も確かに島民の心の中に息づいている。

 そのことを教えてくれる神聖な儀式のように、わたしには思えた。

 

 

 翌朝、わたしはひとり海辺に立っていた。

 早朝の冷たい風が顔に当たり、心地よく肌を引き締める。夜の静寂がゆっくりと明けて、空がほんのりとピンク色に染まり始めていた。日の出を撮影しようとカメラを構え、波の音に耳を澄ませながら、その美しい朝焼けに目を奪われていた。

 

「でも、やっぱりちょっと寒いな……」

 

 空が少しずつ鮮やかな色に染まっていく中で、わたしは今回の取材のことを思い返していた。

 ……大戸島の呉爾羅伝説。古老の語った「海の底からやってくる龍」の話や、戦時中の整備兵たちが残した奇妙な日記、沈没船と「呪い」とも呼ばれる不気味な言い伝え……それらがすべて、ひとつの島の歴史として今もここに息づいている。観光化された側面もあるにはあったし、日々の暮らしとの狭間で複雑な思いを抱えている人たちもいたが、島には確かに神聖さと畏怖が混在し、強烈な存在感を持っていた。

 

 確信をもって言える。

 これが、わたしの欲しかった“本物”だ。

 

 わたしは息を吸い込み、澄んだ朝の空気が胸いっぱいに広がるのを感じた。心の奥底から満足感が湧き上がり、カメラを通して見つめる海が、取材の集大成のように美しく見えた。取材班としてこの地に足を踏み入れ、呉爾羅伝説の一端を垣間見た。

 テレビマンとはいえ所詮は部外者。たかだか数日の取材でこの島のすべてを理解できるほど己惚れたつもりもないが、この島に何か「本物」が残っていることは感じられた。

 

「来て良かったな……」

 

 これは良いドキュメンタリーになるだろう。タイトルはそう、『ドキュメンタリー・オブ・大戸島』なんてどうだろうか。エポックメイキングな作品にできたら良いな……!

 そんなふうに夢を膨らませていた、まさにそのときだった。

 

 

 

 

ちゃぷん。

 

 

 

 

 

 突然、海がざわめき、波間から何かが跳ねるように現れた。

 そして目の前に広がっていた光景で、わたしは驚き、息を呑んだ。

 

 波間に浮かび上がってきたのは、無数の深海魚だった。銀色の魚が次々と浮き上がり、まるで海面が魚の層に覆われたかのようだ。

 しかも魚たちは、異様な姿で死んでいた。浮袋が膨らみ、裏返ってしまったものもいる。あまりに急激な圧力の変化に耐えられなかったのか、それとも、何かに追われて命からがら海底から逃げてきたかのような……。

 古老の言葉が、頭の中でくっきりと甦る。

 

『呉爾羅が現れると海が豊かになり、深海魚が波間に浮かんでくる』

 

 わたしは体がすくみ上がるのを感じ、思わず後ずさる。

 これが古老の話していた「呉爾羅が現れると深海魚が豊漁になる」という現象なのだろうか? 言われてみればたしかにそうだ。深海魚が大量に獲れるというのはただの迷信などではなく、海の底から何かが現れたからではなかったか。深海魚たちが死に物狂いで逃げ出さずにいられないような、恐ろしい何かが。

 息が詰まるような沈黙が流れ、波音すら遠く感じられたそのとき――

 

 

どぉーん……!

 

 

 突然、重々しい音が海の向こうから響いてきて、足元がぐらりと大きく揺れた。号砲のような、地面を揺らす大轟音。それはまるで、大地そのものが脈打っているかのように、ひとつ、またひとつと近づいてくる。音は深く、重く、海の向こうで何かが動き出していることを告げていた。

 

「……っ!」

 

 次の瞬間、空気を引き裂くような咆哮が海の彼方から轟き渡った。あまりの大音響に耳が痛み、思わず耳を塞ぐ。大戸島全体がその声に応えるかのように震え上がり、鳥たちが一斉に飛び立ち、木々がざわめいている。体の奥まで震わせるようなこの雄叫びは、かつてこの島が知っていた恐怖の象徴そのものだった。

 

「ま、まさか……!?」

 

 突然沸き立った恐怖を前に、わたしは足がすくんでその場から動けなくなった。まるで海の底に眠っていた伝説そのものが目を覚まし、再び姿を現したかのような。

 その雄叫びは、わたしの心を震え上がらせるには十分だった。

 

 波間に打ち上げられた深海魚の群れを横目に、わたしはただ呆然と、海の向こうを見つめ続けるしかなかった。

 海の向こうに見える。あの特徴的な背鰭が、あの長い大蛇のような尾が、そしてあの恐るべき大怪獣が。

 

「――――――――――――ッ!!……」

 

 その咆哮が再び響き渡ったとき、わたしは自分がこの場所で、決して触れてはいけない“本物”に出会ってしまったと悟った。




大戸島周りの設定、意外と言及されないので整理してみようと思って書きました。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。