ヤークトは寡黙な女狩人だった。
六十後半になり、髪に白いものが増えた。鏡を見るたびに内心気になっているらしい、という噂が村にはあったが、当人は口に出さなかった。出す相手もいなかった。
村はずれの家で一人暮らし、それで十分だと思っていた。
武器は弓だった。剣もこなせたが、弓がヤークトにとっての仕事だった。
森に入り、山に入り、獣を狩り、魔物を狩り、肉と皮を村に持ち帰る。それが生活の全てだった。
若い頃は大陸を放浪し、金が尽きると傭兵をした時期もあったらしい。
その頃のヤークトは信じられないほど強く、傭兵をやればその卓越した弓と剣で名だたる戦士を討ちとり、更にバケモノみたいな魔族をたった一人、弓一本で狩ったらしい。
らしい、というのは全て噂で、ヤークトが自分から話したことは一度もなかった。
村の揉め事には興味がなかった。やり方にも口を出さなかった。
ただ、困り事は最終的にヤークトに届いた。他に頼める人間がいなかったからだ。
今回もそうだった。
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森の奥に、人影がある。
村の子供たちが森で遊んでいて、奥の方に入り込み、見つけた。呼びかけたが返事をせず、逃げたらしい。
周辺の村からの迷い子なら生きているうちに助けなければならない。
魔族が森を根城にしているなら、被害が出る前に狩らなければならない。
どちらにせよ、動ける者はヤークトしかいなかった。
森や山の獣を狩るぐらいならともかく、魔族とやりあえそうな武力など、この村にはヤークトぐらいしかいない。
ヤークトは了承した。
正義感というより、義務感だった。
自分の狩り場にイレギュラーがあれば困る。
それだけのことだった。
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準備に数日かけた。
矢を毒液に浸した。しばらく使っていなかった軽装の鎧を引っ張り出した。
狩りではなく戦闘になる可能性があった。この村で揃えられる装備を全て整えて、出発した。
森はヤークトにとって庭のようなものだったが、奥は別だった。
聖なる大樹がある。この地に女神教が広まる以前から、主神として祀られていた大樹だ。
女神教が入ってからは「女神様とともに村を守る精霊様が宿る聖なる大樹」ということになり、相変わらず祀られている。
入ってはいけない、というのが暗黙の了解だった。
ヤークトは信心深くはなかった。しかし村の掟をわざわざ破って顰蹙を買うほど変わり者でもない。
山に入れば獣はいくらでもいた。奥まで入る必要がなかった、それだけの事だった。
雪を踏んで、木を掻き分けて、進んだ。
普段人が入らない森の奥は、獣と木々の天国だった。空気が違った。音が少なかった。
雪だけが静かに積もっていた。
大樹が見えた。
そしてその根元に、何かが倒れていた。
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最初、人形かと思った。
雪の中に、白いものが沈んでいた。近づいて、息を呑んだ。
幼い子供だった。四つか五つほどに見えた。
白い肌。白い髪。目も鼻も、まつ毛の一本に至るまで、都の人形職人が丹精込めて作ったような端正さだった。可憐というより美しかった。この年でそうなのだから、成長すればどうなるのか。
ヤークトはそこまで考えて、思考を止めた。
額に、小さな白い角があった。
一本。細く、まだ短い。しかし間違えようがなかった。魔族の証だった。
ヤークトは動かなかった。
弓を持ったまま、しばらく立っていた。
かつてヤークトは魔族を仕留めたことがある。事実だ。しかし一人でやり遂げたわけではなかった。数と計略で追い詰めた。相手は人外然とした、化け物に近いものだった。
目の前に倒れているのは違った。
角以外は、どこからどう見ても人間の子供だった。死臭がなかった。魔力はあるが、あまりにも薄かった。拾えばこぼれ落ちてしまいそうなほど、弱い魔力だった。
もしかしたら魔族ではないのかもしれない、とヤークトは思った。角を奇形として生まれ、魔的だと忌み嫌われて捨てられた、ただの人間の子供なのかもしれない。思わずそう思ってしまうほど、無力な存在だった。
時間がなかった。
このまま雪の中に置いておけば、夜までに死ぬ。
ヤークトは弓を背負った。
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家に連れて帰った。
濡れた服を脱がせ、体を拭き、ベッドに寝かせた。
子供は長く眠った。その間ヤークトはスープを作った。獣の肉と、干した野菜と、塩。それだけの、いつも自分が食べているものと同じスープだった。
目が覚めた子供は、ベッドの中でしばらく一人で毛布をいじっていた。泣かなかった。
何かを訴えることもなかった。ただ、ぼんやりと天井を見ていた。
ヤークトは椅子を引いて向かいに座り、スープを差し出した。
子供は受け取って、飲んだ。
両手で器を持って、一口飲んで、止まった。それから無我夢中で飲み始めた。
木の実や果実しか食べてこなかった者が初めて肉のスープを飲んでいる、とヤークトにはわかった。
夢中になって飲むその様子を眺めながら、ヤークトは名乗った。
「ヤークトという。狩人だ」
子供は飲みながら見上げた。
「なんで森にいたんだ」
「……わからない。気づいたらいた」
「親は」
子供は首をかしげた。
「おかあさんと、おとうさん」とヤークトは言い換えた。
「……おかあさんとおとうさんって、なに」
ヤークトは少し黙った。
「名前はあるか」
「なまえって、なに」
「魔族か」
「まぞくって、なに」
ヤークトはからっぽになったスープの器を見た。
それからもう一度、子供を見た。
半分諦めた。
何も知らない。どこから来たかもわからない。自分が何者かもわからない。名前もない。
言葉は話せるが、それ以外は何も持っていない。
捨てられたのか、迷い込んだのか、最初からここにいたのか、何もわからない。
わからないが、わかることが一つあった。
魔族にしろ、奇形を持ったただの人間にしろ、これはどうしようもなく無知な子供だということだ。
きちんと育てれば、まっとうに育つかもしれない。
ヤークトはそう思った。思った理由を、深く考えなかった。
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「名前をつけてやる」
ヤークトは言った。「メレだ」
子供はきょとんとして、繰り返した。「メレ」
「そうだ」
数十年前のことだった。大陸を放浪していた若い頃、うらぶれた酒場で三流の吟遊詩人が歌っていた。
御伽噺の歌だった。遠く温かな、楽園のような国の、 「祈りの歌」という意味の言葉。
なぜその言葉が出てきたのか、ヤークト自身にもわからなかった。
「ご飯と寝る場所はやる。その代わり、私の言う事を聞け」
メレはしばらくヤークトを見た。それから頷いた。
わかった、ということらしかった。
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暖炉の火がパチパチと鳴った。
メレはスープの残りを飲みながら、ヤークトをぼんやり見ていた。
この「ニンゲン」というケモノは変だ、とメレは思っていた。森の獣たちはすぐ逃げるか、逆に食べようとしてくるかのどちらかだった。それなのにこの獣は、言う事を聞くだけでご飯をくれて寝る場所もくれるらしい。なんでなんだろう。
理由はよくわからなかった。
でもまあいいか、とメレは思った。
ご飯をくれるなら。雨風をしのげるなら。寒くないなら。それで十分だった。
難しいことはわからなかったし、考える必要も感じなかった。メレはそういう頭の作りだった。
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この夜から、十年が始まった。
ヤークトが重い病に侵されて死ぬまでの十年間。奇妙な母と子の関係になり、狩りの師匠と呆れるほど不出来な弟子の関係にもなり、言葉にならない親愛で結ばれた十年間。
この夜メレが飲んだスープは、メレが初めて食べた肉だった。
そしてヤークトは、メレが初めて食べた人間になった。
しかしそれはまだ、十年先の話だった。