春が三度めぐり、エーリッヒは十三歳になった。
ヤークトの裏庭では、朝のうちから木剣が空気を切る音が続いていた。
エーリッヒは汗を光らせながら素振りをくり返し、ヤークトはその隣で腕を組んで見ていた。
ヤークトは七十才を超えていたが、稽古や指南する際の動きは今も若者を圧倒した。
稽古で一歩踏み込んで木剣を弾いてみせるたびに、エーリッヒは歯を食いしばって構え直した。
メレとエルネストは縁側に腰かけてそれを見ていた。
木剣の打ち合い。動き。息遣い。
無我夢中で激しいが未熟なエーリッヒの剣と、静かな動きで受け流し、冷静に返し刀を入れるヤークトの剣。
メレは村に拾われた頃よりずいぶん肉がついた。
頬に丸みが出て、腕も脚も華奢で細いながら折れそうではなくなった。
身長も少しだけ伸び、七つか八つほどに見える。
だがここ一年ほど、その外見や身長はぴたりと止まっていた。
ヤークトはそれを見ながら、魔力の薄い魔族はそういうものなのだろうか、あるいは魔族は年の取り方が違うのかと思ったが、口には出さなかった。
止まった時間の中で、メレの傷一つないしなやかな純白の髪と肌、金色に輝く大きく美しい瞳だけが以前より鮮やかに美しく見えた。
拾われた頃の幼児的な姿から美しい少女性のはじまりが差し込み、都の職人が丁寧に作った人形に、誰かが息を吹き込んだようだった。
エーリッヒの木剣が弾きとばされ、稽古が一区切りついた時、メレはぽつりと声をかけた。
「メレも、やりたい」
ある朝、メレはそう言った。
「メレも……剣、やりたい」
ヤークトは眉をわずかにひそめ、白い少女を見下ろした。エーリッヒは「え?」と目を丸くする。
「……お前がか」
「うん。剣つかえたら、メレも「狩り」できる?……メレ、お腹すく。弱いから、すぐ死んじゃう。剣つかったら、勝てる?」
ヤークトはしばし無言だった。
その横で、エーリッヒとエルンストが目を合わせる。
ヤークトはため息をついて、一番軽い木剣を倉から出してきた。
柄を持たせると、メレの体がすうっと傾いた。
剣の重さに引っ張られるように、そのまま前のめりになる。
両手で握り直しても同じだった。剣がメレを振り回した。
「……おもい」
「一番軽いのを持ってきたんだがな」
ヤークトは少しだけ肩をすくめた。
「力がないと、剣は振れん。無理しても怪我するだけだ」
「……むり?」
「今のお前には、だ」
メレは唇をきゅっと結んだ。
諦めきれない顔で、今度はヤークトが普段狩りで使っていた弓に視線を向ける。
「じゃあ、弓」
「メレ、それはもっと――」
エーリッヒの制止も聞かず、メレは弓に手を伸ばした。
細い指で弦をつまみ、矢を番えようとするが、弦はぴんと固く張りつめ、メレの力ではびくともしない。
「……」
「引けないだろう」
ヤークトの言葉は淡々としていた。
メレは何度も何度も試したが、指は震え、弦は少しも下がらない。
最後には、真っ白な指先が真っ赤になってしまった。
「メレ、もういいよ」
エーリッヒがそっと弓を取り上げる。
「狩りなんて、メレがしなくたっていいじゃん。俺がやるし、ヤークトさんもいるし。村のみんなもいる」
「そうですよ」
エルネストも、少しだけ困ったように笑顔を向けた。
「メレは村で一番の子供たちの遊び相手です。祈りも癒しの魔法も上手い。無理して剣なんか振らなくても良いんですよ」
メレは二人の言葉を聞きながら、じっと自分の手を見つめていた。
青白い、細く小さな手。
指を動かしてみる。握ってみる。
力を込めても、何も変わらない。
ただ、胸の奥の「弱いから死ぬかもしれない」という感覚だけが、じわりと広がっていく。
「……いや」
小さく、しかしはっきりと、メレは首を横に振った。
「メレ、狩りしたい。弱いまま、いや」
その言葉に、ヤークトは思案げに目を細めた。
しばらく沈黙したあと、ぽつりと言った。
「……力がなくても、時間をかければできる“狩り”はある」
メレの耳がぴくりと動く。
金色の瞳が、真っ直ぐにヤークトを見上げた。
「罠だ」
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ヤークトが罠の作り方を教え始めたのは、それから数日後のことだった。
縄の結び方、枝の選び方、獣道の見つけ方。
ひとつひとつが、メレにはなかなか入らなかった。
同じことを五度言っても、次の日には半分忘れていた。
ヤークトは怒らなかった。ただ繰り返した。
繰り返すことに、この老狩人は慣れていた。
ヤークトが教えたのは待つ事と、耐える事だった。
たとえ上手くいかなくても罠を仕掛け、獲物が捕まるまで待ち続けるのが大切なのだと。
「罠は根気だ。待ち続ければ、いつか何かがかかる」
その言葉が、メレの胸に妙にすとんと落ちた。
メレは毎朝森へ出かけた。罠を確認して、直して、また仕掛けた。手が傷だらけになっても表情は変わらなかった。何週間かが過ぎた。
小さな罠に、小さなねずみが一匹かかっていた。小さく、みじめに痩せ細っていた。骨が浮いて見えるほどだった。
メレはしゃがみ込んで、じっとねずみを見た。
自分が作った罠に、獲物がかかっている。
メレの金色の瞳が、ぱあっと大きく開かれる。
胸の奥から、なにか熱いものが込み上げてきた。
「狩れた……」
掠れた声で、ゆっくりと言葉を落とす。
不思議な感覚と嬉しさがメレを突き動かした。
両手でネズミをそっと抱き上げ、くるくるとその場で回り始めた。白い髪がふわりと舞い、わずかにとがった耳が揺れる。
「メレの、狩り……できた……勝った……!」
ネズミは恐怖で暴れていた。
小さな爪でメレの手を引っかき、牙で噛みつこうとする。
メレはその頭に人差し指をちょんと触れた。
「神経を眠らせる魔法」。
淡い光が指先から零れ、ネズミの身体から力が抜けた。
ぴたりと動かなくなったそれを、メレは胸に大切に抱きしめた。
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「料理して」
ヤークトの前に差し出されたのは、おとなしく丸まったねずみだった。
小さく痩せ細った、まるで拾われた頃のメレの様なねずみ。
ヤークトは少し考えた。
「籠で飼え」
メレはねずみと、ヤークトの顔を交互に見た。
「食べない?」
「飼うんだ」
メレは理解できないという顔をしたが、ヤークトが台所から小さな籠を持ってきて藁を敷いてやると、とりあえずねずみをその中に入れた。
翌朝から、メレは籠の前に座ってねずみに魔法をかけ続けた。
指先から光をこぼして、ねずみを眠らせて、目が覚めると笑みもなく見つめた。
一日一回。気が向けば二回。
メレの中では、これは練習だった。
ヤークトが教えてくれた。
魔法は、繰り返し使えば使うほど、少しずつ強くなる、と。
森の子どもたちは、石を千回投げれば、そのうち一つは遠くへ飛ぶと言った。
メレは、その感覚をそのまま魔法に当てはめていた。
百年、二百年、もしかしたら千年かけて、「眠らせる魔法」は「永遠に眠らせる死の魔法」になる。
そうしたら自分は戦いで誰かに勝てる。ねずみはそのための練習台だと、メレは思っていた。
「だから、練習……」
ねずみは最初こそ怯えていたが、メレが餌を与え続け、優しく撫で続けるうちに、いつのまにか少女に懐いていった。
籠から出しても、逃げない。
メレの肩の上をちょろちょろと歩き、白い髪の上にちょこんと乗る。
メレが「神経を眠らせる魔法」と呟き、撫でればねずみはぴたりと目を閉じて眠る。村人たちはその光景をみて、女神様に祝福された子だと噂しあったが、メレとねずみには関係のない事だった。
ねずみはエサをやるうちに痩せ細っていた体に肉がつき、ひとまわり大きくなった。
エーリッヒが「名前つけないの」と聞いた。
メレは少し考えて、「ねずみ」と答えた。
エーリッヒは苦笑いした。
「そのままじゃないか」
季節がめぐった。秋になり、また春が来た。
ねずみはメレのそばを離れなかった。
何度めかの冬が来たとき、ねずみは動かなくなった。
「……?」
メレはいつものように木箱の前にしゃがんだ。
中を覗き込む。ネズミは、丸くなっていた。
目は閉じている。
いつものように眠っているようにも見えた。
「おはよう」
メレは指でそっと頭を撫でた。
動かない。
「……ねてる?」
首をかしげる。
指でつつく。揺する。呼びかける。
「おきて。魔法、かける」
いつもの癖で、メレは指を伸ばした。
「神経を眠らせる魔法」。
淡い光が零れる。
しかし、何も変わらない。
ネズミは、ただ静かに横たわっている。
胸の奥で、何か大きなものが沸き上がった。
胸の奥で、何かがひり、と痛んだ。
メレは、しばらくその場に座り込んだまま動かなかった。それから泣いた。
声は出なかった。ただ、目から涙が落ちた。
細い頬を伝って、顎から垂れた。
メレは泣いていることに気づいていないような顔で、死んだねずみを見ていた。
「ようやく……」
ヤークトが部屋に入ってきたとき、メレはそう小さく呟いていた。「ようやく、できた」
ヤークトはメレが泣いているのを見た。
ねずみが死んでいるのを見た。
そういうことかと思った。
「可愛がっていたからな。悲しいんだろう」
「かなしい?」
「大事にしていたものがいなくなったんだ。人間は、そういうとき泣く。お前も、そういうところは人間と同じなんだろうな」
メレは、自分の頬に触れた。
涙で濡れている指先を見る。
「かなしいから、泣いてるの?」
「そうだ」
ヤークトは、少女の頭に大きな手を置いた。
「庭に、こいつの墓を作るか」
「はか?」
「死んだものを土に返す。人間のやり方だ」
メレは首を傾げた。
「土にかえる?」
「そうだ。土に埋めれば、やがて土になる。いつか、その土から草が生える。草を、他の獣が食う。ぐるぐる回る。それが自然だ」
「……ふうん」
メレの中には、埋葬という観念はない。
死んだものは、食べる。
食べれば、自分の一部になる。
それもまた、「ぐるぐる回る」ことのように思えた。
「メレ、森に行く」
少女はそう言って、ネズミを胸に抱いたまま立ち上がった。
「ああ、行ってこい。雪で足元が滑るから気をつけろ」
「うん」
ヤークトは止めなかった。
雪が積もっていた。
メレは森の奥へ歩いた。
木々が密になって、陽が届かなくなるあたりまで進んだ。
苔むした岩の間に、洞窟があった。
湿った空気。石の匂い。
メレはかつてここで暮らしていた。
雨をしのいで、寒さをしのいで、一人で夜を重ねていた。
クマが奥に住んでいることも知っていたし、特に気にしていなかった。
洞窟に入り、静かに膝をつき、座った。
世界を見守りくださる女神さまに、祈りを捧げます。
私たちを産み、育てて下さる空と海と大地の精霊に感謝を。
そして私たちと一体となるこのねずみの子に永遠の祝福を。
エルンストに教わった祈りの言葉を、意味も分からず、一言一言ゆっくりと口にしていく。
その声は、白い息となって、冷たい空気に溶けていった。
祈りを終えると、メレは目を開けた。金色の瞳が、もう一度ねずみを見つめる。
「いただきます」
小さな声でそう言ってから、彼女はネズミを両手で持ち上げた。
そして、そのまま口元へと運ぶ。
やわらかい毛。
小さな骨。
塩気と血の味。
メレは、噛みしめるたびに丁寧に骨を舐め、肉を残さないように食べ進めた。
墓の意味はわからなかった。
埋葬の意味もわからなかった。
死んだものは食べものだった。
それがメレの知っている死者への礼儀だった。
静かに食べ終えると、積もった雪で手と口をぬぐった。白い雪が少し赤くなって、また白くなった。
自分の手と口元を見て、メレは満足げに頷いた。
「さよなら」
洞窟に向かって、最後にもう一度呟く。
それから、くるりと踵を返し、村へ向かって歩き出した。
振り返る事はなかった。
---
「さよなら、したよ」
帰り着いたメレはそう言った。
ヤークトは頷いた。
森に埋めてきたのだと思った。
子供なりに、きちんと弔えたのだろうと思った。
「そうか。よかった」
メレは靴の雪を落として、暖炉の前に座った。
手をかざして温めた。白く美しい睫毛が、火の色に染まった。
窓の外では雪がまだ降っていた。
村の日常は、つつがなく過ぎていった。