教会の鐘が鳴ると、メレは家を出た。
毎朝のことだった。ヤークトはまだ暖炉の前で茶を飲んでいた。
メレが扉を開けると、「気をつけろ」とだけ言った。
メレは振り返らずに頷いた。
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教会は村の中心にあった。石造りで、入り口の脇に苔が生えていた。
中に入ると蜜蝋の匂いがした。朝の光が窓から斜めに差し込んで、埃がゆっくりと落ちていた。
老人たちが集まっていた。
膝の悪い人、腰の曲がった人、手の震えている人。
みんなメレより何十年も長く生きていた。
メレは自分の席に座った。
いつも同じ場所だった。二列目、右から三番目。
隣に、グレーテが座った。
白い髪を丁寧に結い上げた小柄な老婆だった。
顔に深い皺が刻まれていたが、目が穏やかだった。
メレが来るといつも少し体をずらして場所を作ってくれた。今朝もそうした。
エルネストの短い説教のあと、祈りが始まった。
エルネストが前に立って言葉を唱えた。
老人たちが続いた。メレも口を動かした。
意味はわからなかった。音を真似た。
長い言葉も短い言葉も、全部音として覚えていた。
祈りが終わると、エルネストがクッキーを配った。
メレは両手で受け取った。
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グレーテを狩ろうと決めたのは、ある朝のことだった。
ヤークトが言っていた。狩りの秘訣は待つことだ。粘ることだ。逃げないように、じっくりと近づくことだ。
メレは教会の帰り道、グレーテの隣を歩きながらそれを思い出した。
グレーテは足が遅かった。メレは合わせて歩いた。
グレーテが立ち止まると、メレも立ち止まった。
途中でグレーテが「今日は冷えるねえ」と言った。
メレは頷いた。神妙な顔で「そうですか」と言った。
グレーテは笑った。「神父様に教わったの? 丁寧な言葉遣い」
メレは何も言わなかった。
家の前まで来ると、グレーテは「お茶でも飲む?」と言った。メレは頷いた。
それが始まりだった。
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グレーテの家は小さかった。
夫は何年も前に死んで、娘は隣の村に嫁に行き、息子たちは遠くの町に出ていった。
兵士となり戦に駆り出され死んだ息子もいたし、ここ数十年連絡も取れずに行方知れずの息子もいた。
家の中はきれいに片付き、整然としていた。何十年もの間使ってきた古いテーブルや椅子、古い家の匂いが、 グレーテがこれまで生きてきた長い年月を表しているようだった。
グレーテは棚の奥から二人分の皿とコップを出して、菓子とお茶を用意した。
メレは出されたものを食べた。
「おいしい?」
「おいしい」
メレはうなずいた。
グレーテは嬉しそうだった。
メレは食べながら、このニンゲンは変だと思っていた。
狩られている最中なのに、こちらにご飯を与えている。
罠にかかった獲物が、罠をはった者に木の実を差し出しているようなものだった。
意味がわからなかった。
でもお茶は温かった。
お菓子も甘かった。
メレはまあいいや、と思った。
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メレは毎朝、教会の前にグレーテの家に寄るようになった。
ドアを叩くと、グレーテは必ず出てきた。
中に入れてくれた。何かを出してくれた。
それから二人で教会まで歩いた。
グレーテはよく話した。
ずっと前に死んだ、寡黙な職人だった夫のこと。
隣村に嫁に行った不器用な娘のこと。
兵士として戦争に駆り出され、結局帰ってこなかった息子のこと。
喧嘩して街に出て行って、結局行方知れずな息子のこと。
自分が年若い少女だった頃のこと。女神様のこと。
楽しそうに話すときもあれば、愚痴っぽくなっている時もあった。
年を取りすぎて、グレーテが本当に体験した事なのかそう思い込んでしまっているだけなのかがよくわからなくなっているような時もあった。
メレは半分ぐらい聞いて、半分は別のことを考えていた。
それでもグレーテは話し続けた。返事がなくても気にしていないようだった。
グレーテの膝や腰が痛むことがあった。雨の前は特に、と笑いながら言った。
メレは指先を差し出した。「魔法、かける」
グレーテは少し驚いた顔をしたが、「じゃあお願いしようかね」と膝を向けた。
メレの指先から小さな光が瞬いた。
翌日、グレーテは「不思議と楽になったよ」と言った。メレは頷いた。
それから毎日、メレはグレーテに魔法をかけるようになった。
内心では先を思い描いていた。
今は痛みを眠らせるだけだが、百年後、二百年後、千年後―あるいはもっとずっと先―には永遠に眠らせられるようになる。
ねずみで練習してきたし、結局ねずみは魔法を重ね続けて殺せた。グレーテも同じだ。
その日まであせらずに待ちつづけよう。
それが狩りだとメレは思っていた。
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冬が来て、また春が来た。
グレーテはメレのことを大切な孫のように扱っていた。もしかしたら孫以上かもしれなかった。
エルネストがある日の祈りの後でメレを呼んで、「グレーテおばあさんと仲良くしてくれてありがとう」と言った。「あのひとはずっとひとりぼっちだったから、メレが来てくれて喜んでいるよ」
メレは少し考えてから聞いた。「クッキーは」
エルネストはしばらく間を置いてから、クッキーを一枚渡した。「はいどうぞ」
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ある朝、グレーテの家のドアを叩いても返事がなかった。
メレはドアを押した。鍵がかかっていなかった。
中に入った。蜜蝋の古い匂いと、もう一つ別の匂いがした。
寝室に行くと、グレーテがベッドに横たわっていた。
顔は穏やかだった。目が閉じていた。
胸が動いていなかった。
メレはベッドの横に立って、グレーテを見た。
指先を伸ばした。魔法をかけようとして、止まった。
もうかける必要がないとわかった。
ようやく、とメレは思った。
ずっと時間をかけた。毎朝来た。
魔法をかけ続けた。
お茶やお菓子を一緒に食べた。
時にはスープを一緒に作った。
とりとめもなく続く話を聞いた。
メレなりにちゃんと聞いている時もあれば、何か別の事をぼんやりと考えてる時もあった。
ただ待ち続けた。その狩りが、今朝終わった。
目から涙が出た。
嬉しいのか、それ以外の何かなのか、馬鹿なメレにはわからなかった。
ただ涙が出た。
メレはグレーテの冷たい手を一度だけ握った。
それから女神様への祈りの言葉を静かに唱えた。
食べようかと思った。
そのとき、教会の鐘が鳴った。
朝の祈りの時間だった。
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メレはグレーテの手を置いた。立ち上がった。
お祈りが終わってからでも食べられる、と思った。
でもクッキーはお祈りの後にしかもらえなかった。
メレは家を出た。
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席に着いた。二列目、右から三番目。隣が空いていた。
エルネストのいつもの説教が終わり、祈りが始まった。
メレは口を動かした。音を真似た。
窓から朝の光が差し込んでいた。埃がゆっくりと落ちていた。
祈りが終わった。エルネストがクッキーを配った。メレは両手で受け取った。
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「グレーテおばあさんは今日は来なかったね。どうかしたの?」
エルネストがメレの前にしゃがんで聞いた。
メレはクッキーを見た。
エルンストはいつも言っていた。
嘘はいけません。正直に答えましょう。
正直者には飴をあげますよ。
メレはエルンストを見た。
「死んでた」
エルンストの顔が変わった。
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その日の午後のうちに、村の人たちがグレーテの家に集まった。
エルネストが祈りを捧げた。グレーテはきれいに整えられて、棺に入れられた。
村人たちによる祈りが続いた。
日が傾いた頃、棺は土の中に下ろされた。
土がかぶせられた。花が置かれた。
メレはその一部始終を見ていた。
土が平らになるのを見ていた。
せっかく仕留めたのに、と思った。
何年もかけて、毎朝通って、待ち続けて、ようやく終わった狩りだったのに。穴の中に入れて土をかぶせた。
腐らせてしまう。
もう食べられない。
目から涙が出た。今度は理由がわかった。悲しかった。
獲物を取られた悲しさだった。
十六歳になっていたエーリッヒが隣に来て肩に手を置いた。
「泣くなよ……ちゃんとお別れできたんだから」
メレは何も言わなかった。
村の人たちはみな、メレがグレーテの事を思いやり、悲しくて泣いていると思っていた。
そう思いながら、メレの頭を撫でたり、肩を叩いたりして帰っていった。隣村から急いで呼び出された娘とその夫と子供たち―娘もその夫もかなりの年配になっていたし、子供たちはみな成人していた―はひとりひとりメレを抱きしめて、母の最後をみてくれてありがとうとか、とても良い子だね。本当に感謝してるよというような言葉をメレに与えた。
メレは最後まで残った。
盛り土をしばらく見た。
それから踵を返して、ヤークトの家へ歩いた。
夕暮れが村を橙に染めていた。教会の鐘が一度鳴った。