世界でいちばんかよわい魔族。   作:業務用きなこもち

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第7話 死

 

 冬になるたびに、ヤークトの咳は長くなった。

 

 秋の終わりから始まり、雪が積もる頃には一日中続くようになった。今年の冬は特に厳しかった。朝の空気が刃のように鋭く、息が白く凍った。

 ヤークトは八十に近くなり、肺を重く病んでいた。

 やがて起き上がれない日が少しずつ、少しずつ増えていき、ベッドの中で天井を見ている事が多くなった。

 

 メレはヤークトのそばにいつもいた。

 

 毎朝、毎昼、毎晩。

 

 ヤークトが激しく咳き込むたびに、メレは手のひらを胸に当てた。撫でた。小さな光がこぼれた。

 咳が和らいだ。ヤークトは布を口から離して、細い息をついた。

 

「昔はお前にこうしてやっていたのにな」

 

 ヤークトは笑った。老いた顔に皺が深く刻まれていたが、笑うと昔の面影があった。

 

「立場が逆転したみたいだね」

 

 メレは何も言わなかった。

 ヤークトの手を握った。骨ばった、大きな手だった。

 

---

 

 エーリッヒは毎日来た。

 

 二十歳になっていた。立派な青年と言っていい年ごろで、肩幅が広くなり、身長が伸び、顎に髭が生えていた。ヤークトの厳しい修行と稽古で剣を覚え、弓を覚え、森での立ち居振る舞いと経験を身につけて、一人前の狩人と言ってよい風格を手に入れていた。筋肉質で立派な、男らしい体つきになっていた。その一方でメレは少しも大きくならなかった。未だに7歳ぐらいの姿だった。2人が並ぶと兄妹というより、父と娘、といった方が自然にみえた。

 

 師匠が長くないことは、もうわかっていた。

 

 朝に来て薪を割り、水を汲み、スープを作った。

 昼に来て洗濯物を取り込み、夜に来て火の番をした。  

 何も言わずにやった。

 

 エルネストも時折来た。

 ヤークトの額に手を当てて祈りの言葉を唱えた。

 帰り際にエーリッヒと廊下で短く話した。声を潜めていたが、メレには聞こえた。

 長くないかもしれない、という言葉が聞こえた。

 

 二人の目には、メレの行動が別のものに映っていた。

 

 老いて病んだ親のそばを片時も離れず、魔法で苦しみを和らげ、手を握り続ける幼子。

 女神様の愛を体で示す、清らかな子。

 エルネストはそう見ていた。エーリッヒもそう思っていた。

 

 メレはヤークトのそばにいた。

 狩りの秘訣は待つことだ、とヤークトは言っていた。

 粘ることだ。逃げないように、そばにいることだ。

 

 メレはその教えの通りにしていた。

 

---

 

 ある朝、穏やかな日が来た。

 

 風がなかった。空が青く澄んでいた。

 雪は積もっていたが、陽が出ていた。

 厳しい寒さが一時的に凪いだ、静かな日だった。

 

 ヤークトは珍しく自分で起き上がり、窓の外を見た。

 

「あの大樹に、行きたい」

 

 エーリッヒが背負った。ヤークトは軽くなっていた。

 エーリッヒは一度目を閉じてから歩き始めた。

 メレはその隣を歩いた。

 

 森の奥へ。木々が密になるあたりへ。

 かつてメレが雪の中で倒れていた、あの大樹へ。

 

---

 

 幹に手を当てて、ヤークトは少し目を細めた。

 

「お前が倒れていたのはここだった」

 

 メレは見上げた。枝が空を分けていた。

 冬の青空が、枝の隙間から見えた。

 

 ヤークトは話した。

 

 メレを見つけた日のこと。

 小さくて、雪に埋もれていて、まるで死んでしまっているようだったけど、確かに生きていたこと。

 家に連れて帰る途中に雪が降り始めたこと。

 メレが家の中をぐちゃぐちゃにした日のこと。

 罠の結び方を何度教えても次の日には忘れていたこと。

 小さなカタツムリを狩ってきたこと。

 一緒に風邪をひいたこと。

 ネズミが死んで、メレが泣いていたこと。

 年老いたひとりぼっちのグレーテのそばにいつもいたこと。

 

 エーリッヒも笑いながら話した。

 

 森でメレが木の実をあまりに普通に食べるものだから子供たちで真似してみんなおなかを壊したこと。

 女の子が作ってくれた花飾りを、メレがむしゃむしゃと食べて女の子が泣いてしまったこと。

 カタツムリをなくして泣いていたこと。

 洞窟で熊の話を聞かされたこと。

 メレに群がる羊たちを不思議な魔法でおとなしくさせたこと。

 泣きじゃくる赤ん坊を抱いて撫でて泣き止ませたけど、赤ん坊を取られて今度はメレが泣きじゃくったこと。

 剣が持てなかったこと。弓が引けなかったこと。

 けれど罠作りを身に着け、痩せたねずみを狩ってきたこと。

 なついたねずみに結局名前をつけなかったこと。

 

 木の根元に座って、三人は長い間そこにいた。

 

 陽が傾いてきた頃、ヤークトがメレの頭に手を置いた。  痩せて骨ばった手だったが、温かかった。

 

「よい子に育ってくれた」

 

 メレは黙っていた。

 

「私が死んだら、エルネストのところへ行きなさい。あの人が守ってくれる」

 

 メレはヤークトを見上げた。

 老いた目が静かで、そして穏やかだった。

 

 「わかった」とメレは言った。

 

---

 

 それから数日が過ぎた。

 朝、エーリッヒが来た。

 ヤークトの部屋に入った。

 しばらく出てこなかった。

 出てきたとき、顔が変わっていた。

 

「エルネストさんを呼んでくる」

 

 それだけ言って、出ていった。

 

---

 

 エルネストが来て、ヤークトの手を取り、目を閉じて祈りを唱えた。

 祈りが終わって、村の人たちに伝えに行こうとしたとき、メレが言った。

 

「しばらく、二人でいたい」

 

 エルンストはメレを見た。血の色もない白い顔で、静かにヤークトの部屋の入口に立っていた。

 エーリッヒとエルンストは目を合わせた。

 

「……わかった。半日、待つよ」

 

 エルンストが言った。

 エーリッヒは何か言いかけて、やめた。

 二人は家を出た。扉が静かに閉まった。

 

---

 

 部屋の中は静かだった。

 

 窓から白い光が差し込んでいた。ヤークトは目を閉じていた。顔に苦しみはなかった。皺が深く刻まれた、長く生きた顔だった。

 

 メレはベッドの横に座って、ヤークトを見た。

 手を取った。冷たかった。

 もう温かくならないことがわかった。

 ゆっくりとベッドに横になった。ヤークトの隣に。

 

 天井を見た。

 

 何年も前、ヤークトはここでメレが震えているのを毛布で包んでくれた。

 隣で寝た。朝になるとスープを作ってくれた。

 罠の結び方を何度も教えてくれた。

 怒らなかった。ただ繰り返した。

「気をつけろ」とだけ言って、毎朝送り出してくれた。

 

 目を閉じた。

 

 しばらくそうしていた。

 

---

 

 やがてメレは起き上がった。

 

 世界を見守りくださる女神さまに、祈りを捧げます。

 私たちを産み、育てて下さる空と海と大地の精霊に感謝を。

 そして私たちと一体となるヤークトに永遠の祝福を。

 

 女神への祈りの言葉を静かに言った。ヤークトの手を取りながら。

 それだけは知っていた。死んだものへの礼儀として。

 

 それから、ゆっくりと始めた。

 

 感動があった。

 

 十年もかけた。ずっとそばにいた。

 魔法をかけ続けた。ヤークトはメレの最初の、そして一番長い狩りの相手だった。

 

 それが今、終わった。

 

 涙が出た。

 嬉しさなのか、それ以外の何かなのか、どうしようもなく頭の悪いメレにはわからなかった。

 

 ただあふれてきた。頬を伝って落ちた。

 

 食べながら泣いていた。

 

 涙は止まらなかった。むしろ増えた。嗚咽になった。

 声が出た。それでもメレは止まらなかった。

 ゆっくりと、少しずつ。だけど確実に。

 

 胸の中に言葉にできない、整理もできない大量の感情があふれた。その感情と共に、ひりひりする、よくわからない痛みがあった。

 どうしようもなく頭の悪いメレには、それがなんなのかよくわからなかった。

 

 整理ができなかった。

 

 ヤークトがいなくなったということが何を意味するのかわからなかった。

 これから先、朝起きてもヤークトの声がないことがどういうことなのかわからなかった。

 棚のスープがそのまま残っていることがどういうことなのかわからなかった。

 

 わからないまま、泣き続けた。

 わからないまま、食べ続けた。

 

---

 

 扉が開いたのは、午後の陽が傾きかけた頃だった。

 

 エーリッヒが先に入った。一歩踏み込んで、止まった。

 

 部屋の中の光景を見た。

 声が出なかった。

 

エルネストがその後ろから入ってきて、同じように止まった。

 

 メレは振り返った。大量の血がついていた。顔に、手に、服に。

 目が赤く腫れていた。まだ泣いていた。嗚咽が続いていた。

 

 誰も言葉を発しなかった。

 

 エーリッヒが先に動いた。部屋を横切って、メレの腕を引いた。

 メレは抵抗しなかった。引っ張られるままにつれていかれた。嗚咽だけが続いていた。

 

 エルネストは扉の前に立ったまま動けなかった。

 それからゆっくりと目を閉じた。また開けた。外に出て、扉を閉めた。

 

「村の者には、言うな」

 

 低い声で言った。

 エーリッヒは頷いた。

 

---

 

 教会は静かだった。

 

 エーリッヒがメレを連れてきたとき、エルネストは水を持ってきた。布を持ってきた。

 何も言わずにメレの手を拭いた。顔を拭いた。

 

 メレはされるがままだった。嗚咽がいつの間にか止んでいた。ただ座っていた。

 エルネストが拭き終えて、メレの前に座り、何か言おうとして、止まった。

 

 言葉がなかった。

 

 長い間、そのままだった。窓から夕暮れの光が差し込んでいた。

 エーリッヒが壁に背を預けたまま、床を見ていた。

 

---

 

 村の外では、長い長い戦争が続いていた。

 

 魔族と人間の戦争ではなかった。

 人間同士の戦いだった。

 軍により村を燃やされ、畑を燃やされ、大切な人たちを辱められ殺された男たちが山の中に入った。

 山賊になった。平和な村を探した。かつて軍が自分たちの村にやったのと同じように村を燃やした。

 村人を殺して食料を奪った。

 よさそうな村人を略奪して人買いに売った。

 土地と畑を失った男たちにとって、そうしなければ生きていけなかった。襲われた村には焼け焦げた灰と残骸と、死体しか残らなかった。

 

 その噂は、少しずつ、村に近づいていた。

 しかしその夜、教会の中では誰もそのことを話さなかった。

 メレは蜜蝋の灯りを見ていた。炎が揺れていた。

 

 私が死んだら、エルネストのところへ行きなさい。

 ヤークトはそう言っていた。

 メレはエルネストを見た。エルネストはまだメレの目の前に座り、重く黙りこんだままだった。

 

 「ここにいる」とメレは言った。

 

 エルネストは顔を上げた。

 メレの目は赤かった。濡れていた。

 でも、もう揺れていなかった。

 

 エルネストはしばらくメレを見てから、小さく頷いた。

 

 

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