血のついた服のまま、メレは教会の椅子に座っていた。
蜜蝋の灯りが揺れていた。いつもと同じ灯りだった。
いつもと同じ匂いがした。でも、いつもと違った。
エーリッヒは教会の外に出されていた。
エルネストが望んだ事だった。
エルネストが向かいに座っていた。
クッキーを出さなかった。
手を組んで、メレを見ていた。
その顔をメレは知らなかった。
何年も何年も毎朝会ってきた顔だったが、この顔は知らなかった。
「メレ」
声が低かった。
「ヤークトの家で、何をしていたか。話しなさい」
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メレは正直に話した。
ヤークトが死んだこと。死んだから食べたこと。
エルネストは顔を変えなかった。
変えないようにしていた。
「なぜ食べたのですか」
「死んだから」
「死んだら、食べるのですか」
「うん」
メレは少し考えてから言った。
「ヤークトは大事だったから、キレイに食べた。一つになる方がいい。腐らせるのもったいないよ?」
エルネストは目を閉じた。それから開けた。
「ヤークトを……狩ったのですか」
「うん。ずっとそばにいた。背中さすったり、魔法で苦しいのやわらげたり。死ぬまでずっと。弱くなって、ヤークト死んで、メレが勝った。だから食べた」
エルネストの手が、膝の上でわずかに動いた。
「ヤークトは……あなたを育ててくれた人でしょう。ご飯をくれて、住む場所をくれて、一緒のベッドで寝た。それでも……狩りの対象だったのですか」
メレはきょとんとして、エルンストを見た。
「うん。ヤークトはあたたかかった。メレをベッドで抱きしめてくれた。スープ、おいしかった。罠のつくりかたも教えてくれた……だから、キレイに食べた。大事に食べた」
沈黙があった。
エルネストには言葉がなかった。
怒る言葉も、許す言葉も、どちらも出てこなかった。
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「人間は、死んだ人を食べません」
しばらくして、エルネストは言った。
静かな声だった。
「なんで」
「女神様が……」エルネストは一度止まった。
「女神様の教えでは、人の体は土に還すものです。魂が女神様のもとへ行けるように。食べることは、その道を塞ぐことになります」
「魂って、食べたら出てくるの」
「……食べても出てきません」
「じゃあ、関係ない」
「メレ」
エルネストの声が少し変わった。硬くなった。
「それは……関係あるのです。人の体には、尊厳があります。食べ物ではありません」
「森のけもの、狩ったら、みんなでキレイに食べるよ。骨まで出汁にして、残さない。それをヤークトが教えてくれた。残さずキレイに食べるのが、大事にすること、って。なんで人間は違うの?」
エルネストは答えなかった。
メレは続けた。ただ、本当にわからなかった。村に来たばかりの頃、なんにでも「これはなに?」と聞いて回ってたころのメレと一緒だった。
「エーリッヒが狩りから帰ると、鹿や兎をみんなで食べる。全部食べる。なのに人間が死んだら土に埋めて腐らせる。なんで? 腐ったら、もったいないよ?」
「もったいない……」エルネストは低く繰り返した。「人を……もったいない、と」
「ちがうの?」
エルネストは長い間、何も言わなかった。
答えを持っていなかった。
「女神様がそう定めているから」という言葉は出てきた。
しかしメレに向けて言える言葉ではなかった。
メレはずっと祈りを唱えてきた。女神教の言葉を、誰より真剣に繰り返してきた。
だが、恐らく。認めたくないことだが。
メレは言葉を本当の意味では理解していない。
そんな魔族の子に「女神様がそう言っているから」とだけ言うことが、エルネストにはできなかった。
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「メレ」
エルネストは再び口を開いた。今度は声が違った。
低く、静かで、問い詰める声だった。
「あなたは……本当に、女神様の教えを理解しているのですか」
メレはエルネストを見た。
「女神さまって……クッキーと違うの?」
エルンストの顔が止まった。
メレは構わず続けた。
「エルネスト、毎朝クッキーくれた。おいのりしたら、クッキーくれた。女神さまも……祈ったら、何かくれるの?
メレ、よくわからない。でもおいのりの言葉は全部言える。
世界を見守りくださる女神さまに、祈りを捧げます。
私たちを産み、育てて下さる空と海と大地の精霊に感謝を。
そして私たちと一体となるたべものに永遠の祝福を。
全部言えるよ」
エルネストはしばらく動かなかった。
それから、もう一度だけ聞いた。
「なぜ、ヤークトを食べてはいけないか。わかりますか」
メレは考えた。正直に、必死に、一生懸命考えた。
「……わからない」
「わかりなさい」
「わからない。本当にわからない。ヤークトを大事にしたかった。だからキレイに食べた。なんでいけないのか、わからない」
「わかりなさい、メレ」
エルネストの声がまた変わった。
静かなままだったが、その静かさが怖かった。
怒鳴る怖さではなかった。
何度答えても次の問いが来る、終わらない怖さだった。穏やかに「わかったよ」と言ってもらえない怖さだった。
メレは答えを探した。
どこにもなかった。
「エルネスト」メレは言った。「エルネスト、怖い」
「メレ——」
「いつもと違う。メレ、何度答えても、エルネスト、わかった、って言わない。言ってくれない。メレ、悪いことした? でも、なんで悪いのか、わからない。わからないのに、わかりなさいって言う。メレ、頭、パニック。わからない、わからない——」
目から涙が出てきた。
声が震えた。嗚咽が混じった。
メレは両手を膝の上に置いたまま、泣いた。
声を上げて泣いたのではなかった。ただ涙がこぼれて、止まらなかった。
エルネストは立ち上がって、メレの前にしゃがんだ。
「メレ……」
困った顔だった。叱ることも、許すことも、抱きしめることも、どれもできない顔だった。
魔族の行いをした子と、泣いている幼子が、目の前に同時にいた。
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扉が開いた。
エーリッヒが飛び込んできた。顔が青く、息が上がっていた。
「山賊が来た。村の入口、もう火が出てる」
外から叫び声が聞こえた。
エルンストが立ち上がった。振り返った。教会の奥を見た。祭壇の脇の大きな木箱。聖具を入れる箱。
「来なさい」
メレの手を引いて行った。蓋を開けた。
「入りなさい」
「エルネスト」
「いいから。静かになるまで、絶対に出ないように。何があっても」
「エルネスト——」
メレは泣いたままの真っ赤な目でエルネストを見た。
「静かになったら、来てくれる?」
「……約束する」
メレは箱に入った。膝を抱えた。蓋が閉まった。
暗くなった。
足音が遠ざかった。扉が開いて、閉まった。
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暗かった。
外の音が始まった。
叫び声。金属の音。何かが燃える音。
木が崩れる音。悲鳴が重なった。
メレは膝を抱えたまま動かなかった。
約束したから、出なかった。エルンストが「絶対に出るな」と言ったから、出なかった。
火の音が大きくなった。近くなった。また遠くなっ た。悲鳴の数が減っていった。
暗くて、狭くて、音だけがあった。
さみしかった。
森にいた頃の孤独とは違った。
洞窟で一人でいたときは、温かさを知らなかった。
今は知っている。
ヤークトの手の温かさを知っている。
エルンストのクッキーを知っている。
エーリッヒの声を知っている。
それが今、ない。
「ヤークト」
暗闇の中で呼んだ。
返事がなかった。知っていた。ヤークトはもういない。でも呼んだ。
「ヤークト……怖い……」
声が小さくなった。
「ヤークト、ヤークト——来て、ヤークト——」
泣きながら呼び続けた。外の音が続いた。やがて外の音が減った。静かになっていった。
メレは泣きながら、眠った。
夢を見た。
ヤークトが暖炉に薪をくべていた。エーリッヒが何か言って笑っていた。メレが森からカタツムリを狩ってきた時のことだった。帰り道の突然の雨に振られメレは風邪をひき、看病したヤークトに風邪がうつった。ふたりして風邪をひいて、看病しあった。なおった頃にはカタツムリはどこかに消えていた。さがしてもさがしてもどこにもいなくてメレは泣いた。泣いているメレにエーリッヒが現れた。エーリッヒは森に連れていって、一緒にカタツムリを探してくれた。新しいカタツムリを大事そうにするメレに、「変なもんに喜ぶな」と言いながら口元を緩めていた。
暖かかった。
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静寂で目が覚めた。
外の音がしなかった。
メレは蓋を押した。開いた。
教会の中は元のままだった。
窓から白い光が入っていた。
灯りが消えていた。
「エルネスト」
返事がなかった。
「エーリッヒ」
返事がなかった。
教会の扉を開けた。
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村が、なかった。
家が黒く崩れていた。煙がまだ上がっていた。
人が倒れていた。いくつも。いくつも。知っている顔があった。知らない顔もあった。
子供も、大人も、若者も、老人も。区別なく倒れていた。みんな動いていなかった。
メレは歩いた。
さみしかった。急に、さみしさが来た。
村に来てから、いつも誰かがいた。今は誰もいない。
倒れた人たちは動かなかった。返事をしなかった。
目から涙が出てきた。
メレは歩きながら、倒れた人たちのそばに立ち止まった。
手を取った。冷たかった。両手を胸の上で組んだ。
祈りの姿勢に直した。それから祈りの言葉を唱えた。
意味はわからなかった。音を知っていた。
一人に唱えた。次の人に唱えた。また次の人に唱えた。
エーリッヒを呼んだ。どこにもいなかった。
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教会の前に戻ったとき、エルネストが倒れていた。
石畳の上に、うつ伏せに。服が赤くなっていた。
メレはしゃがんで、肩に触れた。
指先から光をこぼした。
エルネストが動いた。ひどい咳をした。血反吐が混じっていた。目を開けた。メレを見た。
「メレ……」
「エルネスト」
「生きていたか」
目が半分しか開かなかった。声がかすれていた。
「よかった……」
「エーリッヒがいない」
「……逃げたかもしれない。生きているかもしれない」
エルネストはまた咳をした。赤いものが混じっていた。
「ここにいてはいけない。山賊がまた来るかもしれない。逃げなさい」
「エルネストも一緒?」
「私は……」
エルネストは目を閉じた。
しばらく何も言わなかった。
それからまた目を開き、言った。
「正直に生きなさい。女神様の言う通りに。それだけでいい」
手が動いた。自分の首のネックレスを外した。
細い鎖に、小さな女神の印がついていた。メレの首にかけた。
「女神様の、祝福を」
手が落ちた。胸が動かなくなった。
メレはエルネストを見た。
さっき教会の中で怖かった。
問いが終わらなくて、怖かった。
でも今は怖くなかった。
ただ、エルンストがいなくなった。
目から涙が出た。
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村をもう一度回った。
残っていた人たち全員の手を組んで、祈りを唱えた。一人一人。顔を知っていた人も。前を知らなかった人も。ずっと前に赤ん坊として抱いた子供も。その母親と父親も。全員に。
それが終わると、エルネストの元に戻った。
世界を見守りくださる女神さまに、祈りを捧げます。
私たちを産み、育てて下さる空と海と大地の精霊に感謝を。
そして私たちと一体となるエルネストに永遠の祝福を。
祈りの言葉を唱えた。
それから、食べ始めた。
泣いていた。食べながら、泣き続けた。
嗚咽が出た。それでも手は止まらなかった。ゆっくりと、丁寧に、時間をかけた。
何が悲しいのかわからなかった。なぜずっと泣いているのかわからなかった。
エルネストがいなくなったことが悲しいのか、問いに答えられなかったことがまだ怖いのか、それとも別の何かなのか、メレにはわからなかった。
ただ涙がこぼれた。止まらなかった。
外の光が傾いて、また明るくなった。
食べ終えた。
血をで服でぬぐった。服が赤くなった。
立ち上がった。
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「エーリッヒ」
呼んだ。
返事がなかった。
村の中をくまなく歩いた。どこにもいなかった。
村の外に出た。道があった。どこかへと続いていた。
「エーリッヒ」
また呼んだ。
風が吹いた。草が揺れた。返事はなかった。
首のネックレスに触れた。冷たかった。小さかった。
メレは歩き始めた。
道の先に、死体があった。知らない人だった。
鎧を着ていた。その先にも、別の死体があった。
また別の鎧だった。
人間が人間を殺していた。食べていなかった。
なんで、とメレは思った。
食べないのに、なんでこんなに殺すの。
わからなかった。
エルネストに聞こうとして、エルネストはもういないと思い出した。
メレは歩き続けた。エーリッヒの名前を呼びながら。
荒れた道が、どこかへ向かって続いていた。