世界でいちばんかよわい魔族。   作:業務用きなこもち

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閑話その1 カタツムリと風邪

 

 夏の終わりの、蒸し暑い午後だった。

 

 メレは森の中を歩いていた。

 本人は狩りのつもりだった。

 

 ヤークトに教わった罠の結び方はまだ上手くできなかった。

 剣は体ごと振り回される。弓の弦は指が赤くなっても引けなかった。

 でもメレは「狩り」というものを、何かを見つけて勝つことだと思っていた。

 だから今日も木の根元を覗き、葉の裏を確かめ、獲物を探して歩いた。

 

 リスがいた。

 

 木の幹できのみを食べている小さなリスだった。メレは目を輝かせて、指先を伸ばした。

 

「神経を眠らせる——」

 

 リスは木の陰に消えた。

 

 次は木陰で休んでいる小鳥を見つけた。

 メレは両手を広げて近づいた。鳥は空へ飛んだ。

 

「むー……」

 

 その時、足元に小さな影を見つけた。

 カタツムリだった。

 ゆっくりと、ゆっくりと、地面を這っていた。

 殻の模様が夏の光を受けて、薄く透けていた。

 メレはしゃがみ込んで、じっと見つめた。

 逃げなかった。逃げる気配すらなかった。

 

「これなら……狩れる」

 

 指先を伸ばした。カタツムリの殻にそっと触れた。

 

「神経を眠らせる魔法」。

 

 小さな光がこぼれた。

 カタツムリがぴたりと止まった。

 

「やった」

 

 メレは両手でカタツムリを掌に乗せた。動かなかった。

 完全に止まっていた。メレは満足して立ち上がった。

 今日の狩りはこれでいい。胸を張って家に向かった。

 

---

 

 帰り道の途中で、空が暗くなった。

 ぽつ、と音がした。それからぽつぽつ、になって、あっという間にざあざあ降りになった。

 土砂降り、と言ってもよかった。

 メレはカタツムリを胸に抱いて走った。

 でも走っても雨は追いかけてきた。

白い髪が額に張り付いた。服が重くなった。角の先から水滴がぽたぽたと落ちた。

 

「うう……おなかすいた……」

 

 家にたどり着いたとき、全身がびしょ濡れで、歯がかちかちと鳴っていた。

 

---

 

 暖炉の前で薪をくべていたヤークトは、扉が開いた瞬間に立ち上がった。

 

 水を滴らせて震えているメレを見て、ため息をついた。

 何も言わずにメレの前にしゃがんで、濡れた服を脱がせ始めた。

 冷たい布が剥がれるたびに、メレは小さく震えた。

 

「さむい……」

「わかってる。じっとしてろ」

 

 乾いた布でメレの体を拭いた。

 毛布を何枚も重ねて、暖炉のすぐそばに座らせた。

 メレはぼんやりと火を見ていた。

 頭がぼうっとしていた。

 ずぶ濡れの寒さと暖炉の熱が同時に来て、うまく考えられなかった。

 

「狩り……できたよ……」

「そうか」

 

 ヤークトはそれだけ言って、スープを温め始めた。

 メレはカタツムリのことを思い出さなかった。頭がぼんやりしたまま、差し出されたスープを両手で受け取った。ふうふうと冷まして、飲んだ。

 温かさが喉を通って、腹に落ちていった。

 

「あったかい……」

 

 目が細くなった。

 

---

 

 夜、ヤークトはメレに乾いた服を着せてベッドに入れた。

 メレはヤークトの胸に頭を預けた。そのまま、すぐに寝息を立て始めた。

 

---

 

 翌朝、メレは起き上がれなかった。

 顔が赤かった。目がうるうるしていた。鼻水が流れた。咳が出た。

 布団の中で丸くなったまま、弱々しく呻いた。

 

「うう……あたま……いたい……」

 

 ヤークトはすぐに動いた。

 濡れた布で額を冷やした。薬草を煎じて飲ませた。

 スープを温め直した。冷めるとまた温めた。

 何度も温めた。

 

 翌日、ヤークト自身が熱を出した。

 

 咳き込みながら、それでもメレの額を拭いた。

 

「……お前、風邪うつすなよ」

「うつさない……」

「うつしてるだろうが」

 

 二人はベッドで並んで寝込んだ。

 時々どちらかが手を伸ばして、相手の額に触れた。

 

「まだ熱いな」

「……うん」

「お前もか」

「……うん」

 

 村の子供たちが遊びに来たが、ヤークトが「今はダメだ」と追い返した。

 扉を閉めて、またベッドに戻った。

 

---

 

 数日後、二人は回復した。

 

 ヤークトがベッドの隅に這う小さな影を見つけたのは、メレが初めて起き上がってぼんやり窓の外を見ていたときだった。

 カタツムリだった。

 

「どこから来たんだ、お前」

 

 どこから入り込んだのかわからなかった。

 ヤークトはそっと手に取って、庭の石の陰に移した。

 メレはその後しばらくして、ようやく思い出した。

 

「あ……カタツムリ……」

 

 ベッドから立ち上がって、家の中を探し始めた。

 棚の下、暖炉の隅、布団の下。

 

「カタツムリ……どこ……」

「庭に出したぞ」とヤークトが台所から答えた。

 

 メレは庭に飛び出した。

 石の陰、草の間、土の隙間。

 

「いない……いない……」

 

 しゃがみ込んで、ぽろぽろと泣き始めた。

 

「狩ったのに……どこ……」

 

---

 

 そこへ、エーリッヒが顔を出した。

 

「メレ、どうしたんだよ」

「カタツムリ……いなくなった……」

 

 エーリッヒは少し笑った。

 

「じゃあ、新しいの探しに行こうぜ。森にいっぱいいるだろ」

 

 メレの手を引いた。メレはまだ鼻をすすりながら、エーリッヒの後ろについて歩き始めた。

 

---

 

 庭の石の陰で、カタツムリはゆっくりと殻を閉じていた。

 

 雨上がりの空が、青く澄んでいた。

 

 

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