少年がいる。いや、
何もない虚空に独り。本来有るべき四肢は無く、それ以前に体が無い。思考のみが自身の存在を証明している。『実存は本質に先立つ』とはよく言ったものだが、その実存すらあやふやな状況では本質など見出せるべくもなかった。生憎、これらのことを考えるには、少年は些か幼すぎるが。
しかし、ひたすらな闇すらもない無のゆりかごで意識を揺蕩わせていると、進展が訪れる。
「
誰かがそう
だがよく見てみると、花々の縁は荒く、揺れ方もぎこちない。
「私が見えているかな?」
若干ノイズがかったような音が、後ろから聞こえてきた。おもむろに振り返った先には、白衣を羽織った短髪の男が立っている。
「おじさん、だれ?」
「おじ...はぁ」
白衣男は少年の発言に軽くショックを受けたようだが、一つ嘆息すると何事もなかったかのように言葉を続けた。
「私は茅場晶彦。これから君の主治医になるかもしれない者だ」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
『さあ九神くん! ついに手に入れてきたぞ!』
部屋に設置されたカメラが捉える。目の前にいくつもあるモニターに、勇み足で部屋へ入ってくる白衣の男が映し出された。奇しくも直前まで見ていた夢と似通った状況になり、不意に笑ってしまう。
『どうしたんだい? なにかいいことでもあった?』
「いえ、倉橋先生が可愛かったもので。すいません」
そういうと、どこか拗ねたような、肩透かしを食らったような顔をする男、倉橋。それを見て更に吹き出してしまい、倉橋の眉間の皺はより深くなった。
『可愛いって...まあいいよ。それよりも遂に手に入ったよ! ソードアート・オンライン!』
そう言いながら、カメラに薄いプラスチック製のものを近づける。その中には世界初のVRMMORPG、『ソードアート・オンライン』のカセットが入っている。
「ちょっとカメラに近すぎて見えませんけどありがとうございます。晶彦さんはなぜか頑なにくれませんでしたからね」
ぺりぺりとケースが開けられていく前でそう独りごちる。まあ前と言っても、現実世界に仮想世界と、ひとつ隔てられた場所にあるが。
「俺たちの仲なんだから、一万の内一個ぐらいくれてもよかったのに」
『茅場さんは真面目な人だからね。ズルが許せなかったんだろう』
「そんなこと気にする人ですかねぇ」
モニターに映る、体を覆う大きな機械に身をゆだねた
『ふふっ』
「....? どうかしましたか?」
不意に倉橋が微笑を漏らす。その意図を問いただすと
『だって九神君、すごく楽しそうな声してるよ』
慈愛の籠ったほほ笑みを浮かべ、そう返された。部屋にある鏡を見てみると、無意識に口角が上がっていた。おそらく、声も同様だろう。
「...今まで、8年間ずっとこのVR空間で生きてきました」
過去を思い起こしながら、そう口にする。
「世界初のVRMMORPG。今まで、このVRで作られたかりそめの部屋でクリアしてきたゲームとは一線を画すこのゲーム」
噛み締めるのは、憧憬か期待か。
「ある意味でのもう一つの世界。楽しみじゃないわけ、ないじゃないですか」
自分の赴くままに動き、見て、感じることができる。仮想空間に作られたこの白い部屋で8年も生きてきた自分にとって、それがどれほど得難いことか。
「―――これは、
『...そうだね』
静かに話を聞いていた倉橋は、穏やかに同意する。
『...よし! カセットは挿入できた! もうゲームスロット欄で選択可能になってると思うよ』
手を動かしスロットを開くと、一つのゲームが加わっていた。
ソードアート・オンライン
剣と人々が織りなす、鉄の世界。
俺は今、
『九神君』
「はい?」
『...楽しんできてね』
全くこの人は。少し優しすぎやしないか。
「行ってきます」
そう別れを告げ、あの言葉を口にする。未知へと飛び込む、魔法の言葉を。
「リンク、スタート」