静かな夜に、一人歩く足音が響きます。こつたふ、こつたふとヒール独特の二段で構成される足音。しかし、いつもの小気味よい硬い音ではなく、ややじっとり重い音です。
はぅ、とひとつ息を吐いて額の汗を拭います。ミレニアムと違い、高温なうえに多湿な環境は、既に陽が落ちているのにもかかわらず私を活力ごと腐らせてしまうような不快感で歓迎してくださります。あるいは、いつもと足音が違うように感じるのは、このまとわりつく生暖かい空気のせいかもしれませんね。
買ったばかりの本や文房具が入った紙袋に汗が滲んでしまってはいけません。抱えていた袋を手に持ち直し、夜空を見上げます。電灯に照らされるせいで、満天の星空とはいきませんが、確かに晄輪大祭前夜の暁を思い出させる輝きが目に映ります。私の中に、二つ目の太陽が現れた日。忘れるはずもありません。
少し視線を動かすと、シャーレのオフィスビルが見えます。すでに何度か訪れたその場所は、すでに遅い時間であるのにもかかわらず、煌々と明かりが灯っていました。
きっと、今日も先生は私たち生徒のために身を粉にして働いてくださっているのでしょう。体を壊さないように休んでほしい、と思う一方で、そのオーバーワークの恩恵を確実に享受している私がそう言うのも筋違いだという考えも確かに存在します。
……では、今私がすべきことは。
正確無比を自認する記憶から明日のスケジュールを引っ張り出し確認……えぇ、これなら明日は特別早く起きる必要もありませんね。それに、冷房が効いているはずのシャーレで少し涼んでいきたいという気持ちもあります。
少し、そう、汗が引くまでの間。一人で無理をしているはずの先生をそっと手伝いに行ってもいいですよね、ユウカちゃん。
心の中で彼を想う親友に弁解をして、シャーレの門をくぐります。予想どおり中は冷房が効いていて、纏わりついていた不快感が一瞬で消えていくのが心地よいのでした。そのまま慣れた足取りで彼の執務室へ向かい、扉を開けます。
「こんばんは、先生。こんな時間までお疲れ様です。少し近くを通りましたので、折角ならお手伝い、を……と……」
果たして、扉の向こうに広がっていた光景は。
「びっくりするほどユートピア!びっくりするほどユートピア!!びっくりするほどユートピ……あっ……」
深い隈を湛えて爛々と輝く目で、腰にタオル一枚纏っただけの姿でお尻を叩きながらデスクワークの左右を反復する先生の図でした。
「……………」
「……………あっ」
お互いに気づいて数秒フリーズしている中、先生の大切なところを守っていたタオルが、はらりとほどけ、落ちていきました。
──────────
「誠に申し訳ございませんでした」
目の前で土下座をしている先生に、私はなんと声をかければよいのかわからず逡巡してしまいます。
寝不足で正常な判断ができない中、タスクに追われて自棄を起こすのは、ある種当然の帰結とも言えますし、そのタスクはそもそも私たち生徒のためのものです。ですから、責める気は起きないのですが……その、私としても、殿方の陰部を見るのは初めてだった、と言いますか。忘れようにも強烈なインパクトと共に脳裏に焼き付いてどうしても頭から離れそうにない、と言いますか。いえ、嫌悪感があるわけではないのですが……。今日ほど自分の記憶能力をもどかしく思ったこともありません。
時間にして数秒にも満たない中でそんなことを考え、そして出た言葉は、やはり責めるものではありませんでした。
「顔を上げてください、先生。先生が私たちのために無理を通してくださっているのは承知していますし、見るからにお疲れのようですから、先ほどの件は悪い夢だったことにでもしちゃいましょう。ね?」
「ノア……!」
どこか崇拝対象でも見るかのような目で見上げられ、心の中でわずかに良くない感情が鎌首をもたげますが、それを封じて笑顔を作ります。
「それよりも先生、服を着ていただけませんか?この状況は、先生にとって見られたら困るものでしょうし」
「アッハイ」
私としては見つかってしまってもいいかもしれません、という冗談は流石に飲み込んで。コクコクと彼が頷くのを見て、私は一度部屋を後にします。人の着替えを覗く趣味はありませんからね。それに、先ほどその体のすべてを……。
…………。
はっ!いけませんいけません、これではまるで私が先生の裸に興味津々の、はしたない女性のようではありませんか。自分を清廉潔白で無垢な人間だとは思いませんが、しかし顔を顰められるような人間になるつもりもありません。先ほどのことは、もう考えないようにしましょう。……それにしても、ここは暑いですね。冷房の温度設定が高めなのでしょうか。
少しして部屋の中からもういいよ、と声がかかります。開けて入ってみれば今度はしっかりと普段の服装に身を包んだ先生が立っていました。
「さっきはごめんね、見苦しいところを見せちゃって」
「いえ、別に……」
気にしていませんよ、と言おうとして一度口を閉じます。私ばかり意識するのも悔しいですし、すこしの仕返しは許していただけるでしょう。
「そうですね。少しの間でも、見てしまったからには。年頃の少女に決して忘れられない『初めて』を植え付けた先生は、どう責任を取ってくださいますか?」
「言い方!」
あえて背を向けるようにして視線を流しながら問うてみれば、わずかに上擦った声で慌てて突っ込まれてしまいます。困りますね、質問にはきちんと答えていただかないと。
もう少し追撃しようかとも思いましたが、先生が疲れたように息を吐くのでやめることにします。事実、疲労困憊であることに違いはないでしょうから。それでもくすくすと笑い声が漏れてしまうのは、それはもう不可抗力というものでしょう。
「まったく……。ところで、ノアは何か用事?もう結構遅い時間だけど、何か急ぎの用かな?」
「いえ、特に用事があるわけではありません。たまたま近くを通ったものですから、涼ませていただく代わりにお手伝いでもしようかと思いまして」
「いやいやそんな。これは私の仕事だし、当番で来てもらってる時ならともかく、こんな時間に生徒に業務を押し付けるわけにはいかないよ。涼むのは自由にしてもらっていいからさ」
ぽりぽりと頭を掻きながら遠慮がちに微笑む先生。
基本的に優しく寛容な彼は、しかし信念に関してはかなり頑なであることは短い付き合いの中でも十分に伝わっています。少しくらい手が届かないことがあっても、誰も責めることなんてしないというのに。
仕方ありませんね。
「それでは私の気が済まない、ということで。先生は、私に仕事を押し付けたのではなく、私に仕事を盗られたのです」
「うーん、でも」
「それに、もしこのまま涼むだけ涼んで帰った場合、私のシャーレに立ち寄った際の記録は先生ご自慢のヌードを見せつけられ、その後『ご休憩』して帰った、ということになりますが」
「わかった、お願いすることにするよ」
煮え切らない態度の先生が、一瞬で手のひらを返しました。まったく、最初から素直に甘えてくださればいいのに。
「ノアにはかなわないなぁ。そこまでして私の手伝いなんてしなくていいと思うんだけど」
「まぁ、頑固者をなだめるのは私の立場上慣れていますし。それに、一人だったらさらに無理を重ねていたでしょうし。もう何日も寝ていない……違いますか?」
苦笑しながらまだ言う先生にニッコリと笑顔を作って向けてみれば、痛いところをつかれたと言わんばかりにそっと視線を外されてしまいます。
私だって、心配しているんですから。
そう口には出さず、手荷物を置いて作業用のスペースを確保します。そしてそのまま、先生から半ば取り上げるように書類を受け取り、腰を落ち着けました。
さて、最初の内容は……。
──────────
紙にペンを走らせる、何よりも馴染み深い音が微かに部屋の空気を震わせます。気が付けば、渡された書類の大半は片付き、残りはわずかに数枚のみとなっていました。
先生は、と思って視線を泳がせますが、そこには普段通り黙々と業務を片付けていく姿があるだけです。ですが、それこそが見たかったのでしょうか。胸の内に暖かい感情が浮かび、自然と表情が緩むのがわかります。
先生と出会って、先生と時を重ねて、気が付けば先生は、私の中でこんなにも大きな存在になっていました。ユウカちゃんに向けるそれとはまたどこか異なる、大切な感情。それ自体が大いに興味を惹くこの謎の想いは、しかし解析することを拒むかのように記録したくないと叫びます。
一体いつからあったのか。一体ユウカちゃんへのそれとどう違うのか。一体なぜ、私の本懐である記録を阻害するのか。
一体、私はどうしてこんなにもこの感情に振り回されているのか。
そうです、私は振り回されています。思い返せば、今日ここへ足を運んだのも、先生のことを考えてでした。先生が激務に追われているから手伝おうというのも、自分自身どこか空々しく感じてしまいます。私は、先生に逢いたいがためだけに、言い訳を考えはしませんでしたか。
それ以上踏み込んではいけませんと警告する自分がどこかにいるのを感じながらも、思考を巡らせるのをやめることはできません。遠くで醒めた自分が、あなたもミレニアム生ですね、と無表情で呟いたような気がしました。
これまで先生と過ごした記録を、記憶を振り返ります。
いつ、いつから。なぜ、どうして、どのように。
考えても考えても、答えは出ません。帰納法が効果を発揮するのに十分なデータはすべてそろっているはずです。でも、出ない。
何か一つ、不可欠なピースが抜け落ちているような感覚。その一つさえあれば答えにたどり着くような、ともすればその欠片自体が答えであるような予感すらあります。ひどく気持ち悪く、もどかしく、そして愉しい感覚。
ふと気が付けば、手元の書類がすべて消えていました。考えに没頭しながらも、慣れた書類仕事はこなせるものなのですね。先生……は、まだ終わっていないようです。
折角ですし、先生を観察することにします。一挙手一投足、そのすべてを見逃さないように注意深く。先生に会えていなかった、11日間と20時間8分36秒間を埋め合わせるように。
真剣そのもの、というよりは単に霧散していく集中力を無理矢理繋ぎとめようとしているといった感じでしょうか。時折視線が宙を舞い、私のところで止まっては頭を振って書類へと向き直ります。しかし数分後にはまた頭を抱えて視線が私の下へと漂ってきます。
あぁ、なんて可愛らしい。
何度目とも知れない視線の浮遊に折角だから、と微笑んで見せれば、面食らったように目を見開いては慌てたように視線を手元へと落としていきました。しかし、わずかに赤くなった頬は、この角度では隠せません。しっかりと記録しておきましょう。
あぁ、なんて愛おしい。
ほぅ、と溜息が聞こえて、驚いたように先生が顔を跳ね上げました。
「あっ、ごめんねノア!せっかく手伝ってもらってるのにまだ終わらなくって!別にいつでも帰ってもらって大丈夫だから!私のことは気にしなくていいよ、もともと手伝ってもらってるわけだし、うん!えっと、それで……怒ってる?」
焦ったようにまくし立てる先生を見て、はじめて自分がため息をついていたことに気が付きました。……そんなつもりは、なかったのですが。
「びっくりさせてしまってごめんなさい先生。そういうわけではないんです。ただ……」
「ただ?」
ただ。ただ、なんでしょうか。私は何を言おうとしたのでしょう。
不思議です。先生といると、こんなことばかり起きます。自分がわからなくなるような、まるで暴走するもう一人の自分が内にいるかのような感覚。しかし、決して不快ではありません。
「……いえ、秘密です。ところで先生、ずいぶんお疲れのようですが、肩が凝ってはいませんか?あまり根を詰めすぎても効率が落ちるばかりですし、よろしければマッサージしてあげます」
「ねえ心読むのやめて?」
「ふふっ。では失礼しますね、先生。」
よくわからない先生の返事を肯定と受け取り、彼の後ろへ回ります。時折言われる、思考を読んでいるのではないか疑惑については、確かに先生は考えていることが顔に出やすい人ではありますが、それでも心が読めるはずもありません。
しかし、あの発言は裏を返せば、先生は私にマッサージをしてほしいと思っていたということになります。あくまで推論で、断定として記録すべきものではありませんが、それでも確度は高いでしょう。先生に必要とされているという事実に、なぜか飛び跳ねたいような衝動が浮かびます。
本当に、私は振り回されています。
悶々とした思いはおくびにも出さず、先生の逞しい肩にそっと触れます。そのまま、徐々に力を込めてマッサージを。ユウカちゃんにやる時とは違い厚みのある筋肉の手応えと、それでもユウカちゃんと同じくらい硬く凝った感覚が返ってきます。さらに、距離が近いので当然ですが、少し汗の混じった先生の匂いも。
この匂いを嗅ぐと、何よりも落ち着くような、それでいて醒めない興奮が襲ってくるような、不思議な感覚になります。それとも、男性の匂いというものはこういうものなのでしょうか。
次かから次へと疑問が浮かんでは上書きされて、心休まる時間を過ごしているはずなのに疲れてしまいます。先生といると毎度こうなるので、楽しい時間ではありますが、その夜はいつもより深い眠りにつくのがいつしかパターンとなっていました。
「あ~、ノアのストレッチは極楽だな~」
正体不明の感情に振り回されている私の胸の内を知る由もなく、先生は背もたれに体重を預けて脱力しています。その表情は心底幸せといった様子で緩み切っていました。一人空回っている私がバカみたいで、少しむっとした私は、ともすればこのまま寝てしまいそうな先生の頭に顎を乗せることにしました。
「くぁwせdrftgyふじこlp!?!?!?」
およそ言葉の体を成していない叫びとともに跳ね上がろうとする体は、肩に置いた手で押さえつけます。体格にどれだけ差があっても、日常的に銃撃戦をこなす私たちの力は本気にもなっていない先生が及ぶべくもありません。
この位置からでは、きっと慌てているに違いない表情を見られないのは残念ですが。
「ノ、ノアッ!?」
ほら、声が完全に上擦っています。私ばかりドキドキするのは不公平ですからね。
ですから、努めて平静に、何を驚いているのかわからないという風を装って返事をします。
「なんですか、先生?」
「何って、いやこっちのセリフだよ!なにしてるの!?」
「あら、私はいつもユウカちゃんにしているように、すこしもたれかかって休んでいるだけですよ?」
「でも、当たって……っ!」
当たって……あぁ、胸のことでしょうか。確かに、座っている先生の頭に顎を乗せる姿勢では、先生の後頭部に胸が当たってしまっています。別にまさぐられているわけでもありませんし、気にしてもいなかったのですが……普段からちらちらと胸を見ていることはありましたし、先生にとってはそうでもないのかもしれませんね。あるいは、噂に聞く通り、先生に限らず男性にとってはそういうものなのかもしれません。
少し、いじわるをしたくなってきちゃいました。
「はて、一体何が当たってるんですか?言ってくださらないとわかりませんね」
「うぇっ!?えっと、その、胸が……これセクハラにならないよね!?」
「あら、私は気にしませんよ?」
「私が気にするんだよ!!」
「気にしませんよ?……少しくらいなら触っても、先生なら、ね?」
眼下でごくり、と息を飲むのがわかります。しかし、その表情は見えません。先生は今、一体どんな顔をしているのでしょうか。とても、気になります。
……しかし、いくら先生でも、急に胸をまさぐられては困ります。あんなことを言うつもりはなかったはずなのに、少し調子に乗りすぎたでしょうか。
「なーんて。冗談ですよ、先生。目は覚めましたか?」
「じょう、だん……?」
「えぇ。怒らせてしまったお詫びに、残りの仕事の半分、もらっていきますね」
一通りマッサージは終えましたし、十分でしょう。
呆けたような先生が怒り出す前に、もう多くはない書類をざっと半分ほど持って自分の作業スペースに戻ります。先生に怒られるのは……嫌われるのは、どうしても受け容れがたいものがありますから。からかいすぎた結果が、そんなものではないと祈って。
果たして先生は、ぱくぱくと口を開閉したのち、困ったように笑いました。
「ノアには本当に助けられてばかりだね。コーヒー淹れてこようか。あ、それともジュースとかのほうがいいかな。ノアは夜にコーヒー飲んでも大丈夫なタイプ?」
「お気遣いありがとうございます。それでは、コーヒーを一杯お願いします」
本当に助けられてばかりなのは、私の方だというのに。
私を照らす二つ目の太陽は、了解とだけ答えてキッチンへと向かっていきました。
──────────
「補習授業部、ですか……」
書類はすべて片付き、先生手ずから淹れてくださったインスタントコーヒーを飲みながら、先生のスケジュールを確認します。全生徒に手を差し伸べるという先生は、極力被ることがないようにその予定を生徒に公表しています。
「トリニティで、まあ色々あってね。詳しくは、トリニティからお願いされてる以上伝えられないんだけど」
そういう部活があることぐらいはね、と付け足す先生は、どうやらまた厄介ごとに巻き込まれているのでしょう。いえ、彼の場合、自ら渦中に飛び込んだ可能性のほうが高そうです。
過程がどうあれ、あまり大事にならなければよいのですが。トリニティほどの強豪校で大事件が起こったとなれば、ミレニアムとしても無視はできません。セミナーの仕事も増えるでしょう。ただでさえアリスちゃんとリオ会長のごたごたが収束して後始末に追われているのに、そんなことになってしまってはユウカちゃんが過労で倒れてしまいかねません。
「ま、もう終わったことだよ。今は最初みたく、追試対策の補習をしてるだけ」
「そうでしたか。杞憂でよかったです」
「杞憂?」
「気にしないでください、終わったことですから」
先生もユウカちゃんも無事ですし、気にすることはありませんね。
しかし、補習。生まれてこの方テストで苦戦したことのない私としては、新鮮な響きです。もちろん、習ってもいない範囲や、ありとあらゆるアプローチを試す必要がある難題、とりわけ数学では解けない問題もありますが、それでも好成績と言われるレベルを維持するのは私にとって難しいことではありません。
聞く人が聞けば羨むことは間違いないでしょうが、何でも記憶して忘れられないというのも相応に厄介な面を持ち合わせているものです。知らないがゆえに羨望されるのは、私からすれば贅沢にも見えてしまいます。
「ノアは補習とか無縁そうだよね。学生時代苦労した私からすればうらやましい限りだよ」
例えば、目の前でそうつぶやく先生などは。
「そういいことばかりではないですよ、忘れられないというのも」
「そうなんだろうね、きっと。でも私は、その悪い面も含めて、その感覚を知りたいな」
「それはまた、どうしてですか?」
「純粋に気になるっていうのもあるけどさ。やっぱり、知らないものは対処できないでしょ?何かノアが困っているときに、助けられないのは嫌だからさ。それと……いや、これは内緒だな」
そういってはにかみ笑いを浮かべる先生。
この人はなんてずるいのでしょう。私の感情をこんなにも揺さぶって、自分はけろりとしているのですから。これだけ私を弄ぶ、その力の正体すら明かさずに。
「では先生。困っている私を助けてください」
気づけば、そんな言葉を発していました。何に困っているわけでもないのに、先生が助けてくれると思った時にはすでに。
「もちろん、任せて。ノアの助けになれるならなんだってするよ。何に困っているんだい?」
それでも先生は、いつも通りに。いえ、いつも以上に飄々と、快諾してくださいます。まるでそれが、疑う余地もない当然のことであるように。
……困りました。私は、困ってなどいないからです。
しかし、言ってしまった以上は止められません。ならば。
「困っていること、それは……」
「それは?」
おかしいです、言葉が出ません。私は確かに、先生に私の感情を揺さぶる力の正体を問うつもりでいました。しかし、いざ先生に聞こうとした途端、まるでそれが口に出してはいけない禁忌であるかのように、強烈な焦燥が駆け抜けたのです。
言葉を止めた私を不思議そうに先生が見ています。
なにか。なにか、言わなくては。
書記として培った、周囲の情報を広く集める方法で状況を打破する一手を探します。この沈黙を破壊してくれる一手を。
そこで目についたのは、先ほど見ていたスケジュール、そこに書かれた補習授業部の文字でした。
「そうです。私、補習というものをやってみたいんです」
「補習を?ノアが?」
言葉に詰まってことにではなく、発言の内容自体がわからないというように首をかしげる先生。基本的に、補習というものは嬉しくないと聞きますから、当然と言えば当然です。
しかし。
「先ほど先生がおっしゃったとおり、私は補習というものとは無縁の人生でしたから。それがどんなものなのか、皆さんがそんなに嫌がるものなのかどうか。私、気になるんです」
「あぁ、そういうことか……。うーん……」
「ダメ、ですか……?」
「いやいや、ダメなんてことはないよ!自信満々に任せてって言っちゃったしね。ただ……」
「ただ?」
「ミレニアムの中でもトップクラスの成績のノアに、私が教えられることがあるかなぁ、と……」
そう言って照れくさそうに笑う先生に、私はそっと胸をなでおろします。先生がすぐに引き受けてくださらなかった瞬間、それだけで、足元が崩れていくような感覚に襲われていましたから。冷静になれば、最初に内容も聞かず二つ返事で引き受けてくださったのですから、何とも滑稽な話です。
「では、そうですね。先生の故郷のことを教えてください。歴史でも、文化でも、科学でも、何でも構いません。それなら、大丈夫ですよね?」
「確かに、それなら教えられるね。よーし、最高の授業をしてあげるから楽しみに待っててね!」
「ふふ、楽しみにしています。ですが、あまり無理はなさらないでくださいね。今日はまず、ゆっくりお休みください」
子供の様に顔を明るくする先生に、つられて笑顔が浮かびます。本当に、先生といると幸せな暖かい感情に満たされていくのです。
再びスケジュール帳に視線をやります。先生が補習をしてくださるのは、早くて6日後。6日後に、先生と二人きりの時間が再び待っています。
そこで、スケジュール帳の奥にある窓が目に映りました。外はすっかり暗くなって、見えるのは反射している自分の顔。その表情は、ユウカちゃんが先生といる時にしているのと同じものでした。
言い換えれば、恋する乙女、そのもの。
つまり、ずっと私の感情を揺さぶって止まない力の正体は。いつしか先生と会えない時間を数えるようになっていたその理由は。先生といて不思議な感覚と疑問に度々襲われるのは。
私は、先生の、ことが────
「でも本当に、今日はノアが来てくれて助かったよ。おかげで全部仕事も終わったし、久しぶりにゆっくり寝られそうだ。ありがとう!」
「……はい」
朗らかに何か言っている先生の言葉は、全く理解できませんでした。記憶はできても、その意味が分からない。ただ、俯いて蚊の鳴くような声で返事をするだけです。
「……ノア?大丈夫?体調が悪くなった?もう遅いし、必要なら家まで送って……」
「きょ、今日はここで失礼します!」
心配そうに手を差し伸べてくださる先生を直視できず、私はほとんど逃げ出すように駆けだしました。ぐるぐるとまわって何も考えのまとまらない脳は既に茹で上がる寸前、部屋に置いてきた本や文房具の類を思い出すこともできずに、外へと。
「……なんかやらかしたかな」
去り際に聞こえた先生のつぶやきに対しては、あとで補習楽しみにしている旨をモモトークで送ろうと心に決めます。
どうか6日後までには、この混乱が、熱が、収まっていますように。
お久しぶりですくもたろーです。
ノアPVにリスキルされながら書こうと思っていたらノアASMRが発表されてしまいました。構想が変わってももったいないのでASMR発表から急いで書いたSSになります。よし、これでASMR聞きに行ける……!