足音なく。気配なく。
ヘラの肉体に所属する人格の一つ、ノアが用いる変化系念能力"
二つの念能力が気配と併用された結果、非常に高い隠密性を誇るヘラおよびヘライクレオスは、白霧の中に紛れながら、城内を慎重に歩き進める。人格の一人ナオが用いる念獣――念蟲ゼブブによって既にマッピングされているが、それも不完全な地図だ。
夜の霧が、離宮の中を覆っていく。ヘラと、彼女が背負うその息子を覆い隠すように。
数分後、離宮のうち三割を白霧が覆ったところだろうか。異常に気付いた見回りの兵士がサイレンを鳴らし、兵舎に駐在する精鋭の近衛隊たちが霧に覆われ始めた離宮に突入する。
「寒っ……隊長! この霧の中、気温がおそらく氷点下になっているかと!」
女性兵士の報告を受けた隊長は頷く。
彼の身体は軍服の上からでも明らかなように筋肉質であるが、しかし顔つきは厳めしく、離宮を睨みつける。
「ふむ。異常気象によるもの、ではなさそうだな――念能力者部隊のクーデター……か? いや、あの母娘かもしれない。念能力者部隊の人間に抜けがないか確認させろ! 抜けがなければ念部隊を霧の中に投入しろ!」
「抜けがあれば、どうしましょうか」
「――頼りたくはないが、
「は、自己焼却致します!」
「よろしい。では、毒とも疫病とも知れない霧の中に突入し、生存者を救出する任務に志願するものはいるか!?」
瞬時に手を挙げるものはいなかった。だが、数秒がたち、五人の兵士が手を挙げる。
「よろしい! では、私と手を挙げた者はズールー隊として再編成する!残りの隊のうち、アルファ隊とブラボー隊はそれを外部から監視しつつ待機! チャーリー隊は念能力者部隊を全員捜索せよ! デルタ隊は来賓宿舎から
神妙な顔で頷く兵士一同。
「行動開始! 突入!」
隊長と五人の隊員は離宮を覆う霧に突入し、その他の兵士も指示通り行動を開始する。
白霧の中に突入した隊長は、凍える霧の中を見えているかのように歩き進める。サーモグラフィーカメラグラスを掛けているからだ。他の兵士も同様にグラスを頭に掛けている。
「良いか、対念能力者戦闘では、大口径・遠距離からの射撃で、可能な限り不意を突く。念能力兵との演習で、それは理解しているな?」
小声で隊長は兵士らに伝える。
「ええ、もちろん――しかし、寒い上に動きにくいですね、この霧」
七三分けの兵士が身体を動かして温めようとする。
「待て、体温が一定以上になったら死ぬような効果の霧かもしれない」
丸刈りの兵士がそれを止めようとする。
「そんなことまで気にしてられん、我々は決死隊だ。即座に要救助者を救出し、即座に離脱。最後の一人が生き残って救助者を外に連れ出せば勝利だ」
隊長は丸刈りに忠告し、銃を手に索敵を進める。
「何か違和感があったらすぐに報告しろ。だが、違和感もなしに推測だけで臆するな――給仕控室だ。扉を開けろビリー」
ビリーと呼ばれた七三分けが、木製の扉をノックして声を掛ける。
「救出部隊です、何も持たずに外に出てください」
数秒の沈黙の後、声が聞こえた。
「……子供が、子供がいるんです。助け――」
隊長の判断は早かった。即座に銃の安全装置を解除、引き金を引いて扉目掛けて連射した。
「たっ、隊長、何を」
「バカ共が! 離宮にガキがいるわけない、"怪物の娘"を除けば! こいつは"多口の女怪"だ!」
銃が過熱し、一時連射を止める。隊長は脆くなった扉を蹴りで破壊し、部隊は部屋に突入した。
窓が開いていた。扉から窓には、血が点々と流れていた。
「外部の兵士に連絡! "多口の女怪"が離宮を抜け出した! 全力で捜索しろ!」
――視点は、ヘラとヘライクレオスの元に戻る。
「母さん! 大丈夫、っ!?」
銃弾から子を守ったヘラの戦闘時人格、レイは、激痛に顔をしかめながら頷く。
飛び出した窓の直下、そこから少し離れた庭の木の影だ。
銃弾の殆どは、皮膚を貫通してはいない。白霧の運動エネルギー吸収と、レイの咄嗟の"堅"による防御の賜物だ。しかし、その衝撃は身体にダメージを与え、いくつかの弾丸は脇腹をかすって血を垂れ流している。
「"
レイは、オーラのごく一部を熱した鉄のように変化させ、脇腹を灼いて止血した。
それでも血は完全には止まらず、脇腹の傷口を圧迫して傷を止める。
「母さん、すまない、僕がしっかりしていれば」
「あなたの、せいじゃ、ない」
別の口が開き、エリカだろうか、ヘライクレオスを慰める。
「だから――」
瞬間。蒼い閃光が瞬く。視界の端にそれを知覚したH.E.L.Aは、反射的にヘライクレオスを抱きしめて飛び退く。
「ぐぅぅっ!」
奔った閃光が"堅"を貫通し、ヘラの足を貫く。
二人は、閃光の発射元に視線を向ける。
そこには、三人の兵士――強烈なオーラを纏っている――がいた。
「この霧、随分と鬱陶しい、
光を放った兵士は老齢の男であった。白霧で顔は分からないが、声色とやせ細った体形から推測できる。
「ジジイ、相手は"多口の女怪"だぞ。一般の官僚からは半分以上怪談扱いされていた、ペイジン三大怪異の一人だ」
最もオーラの強大な兵士は、鍛えられた身体と優れた体格の男だ。その男の呟きに、唯一の女兵士――ポニーテールをずらした制帽から出している――が応える。
「といっても、三大怪異は全員、首都宮殿付近の施設に収容されてる念能力犯罪者、ってのがオチなんだけど。その中で一番豪奢な収容施設が、封鎖後宮・イルマタル。――そして我々が恐れていた大脱走が、今起きた、という訳。ビゼフの野郎が三大怪異に疎くて予算を削りやがったのが痛かったわね」
ぶつぶつと語りながら舌打ちをする女性兵士。老人が女の頭をはたき、忠告する。
「無駄口を叩くな。如何に弱っているとはいえ――、だ」
「わーったわよ。――さて、覚悟は良いわね。"多口の女怪"――たしか名前は、ヘラだったかしら」
立ち塞がる三人の兵士。彼らからヘライクレオスを護るように、傷を押さえてH.E.L.Aは立ち塞がる。
額に拡声器が生まれ、決議を開始するH.E.L.A。
『決議――『何を犠牲にしてでも、ヘライクレオスを生き延びさせる』――全会一致により可決されました。人格間相互協力により、この決議が達成されるまで、オーラ量および念能力強度が増幅されます。戦闘は投票により、レイを主導人格として行われます』
オーラ量が、倍以上に跳ね上がる。それは、
オーラとはすなわち生命エネルギー。それが増幅するということは、治癒力などの生命力も増えるということ。欠損部位の再生などは特殊な念能力ではないと不可能だと言われるが、創傷の類であればオーラの集中によって止血や治癒も可能である。
出血は止まり、彼女は、前を見据える。
白霧により、人影でしか見えない念能力兵を、強く睨んだ二人。
一人は、子供を守護する闘気のあらわれとして。
一人は、ただ母を傷つけた者へ唯一できる憎悪の表明として。