幸せを今のうちに噛み締めておこう。
いつか来る絶望に壊されてしまわないように。
人の生死が日常的に起こり続けている裏路地の中で特に悪名立つ23区。その一角に建つ、何処にでもある古びたアパート。そこは他に同じく寂しさと窮屈さが蔓延っていたが、とある一室だけは確かな幸せが広がっていた。
「ブラッドは大人になったら、何をしたい?」
暖かな食卓にカチャカチャと食器が互いに擦れ合う音だけが響いていた中、ふと思った事を目の前に広がる食事にがっついている少年に問いかけた。
「ん〜〜?」
その子、ブラッドが私の声に反応して頬をパンパンに膨らませたまま顔を上げた。そして少し考える仕草をしながら咀嚼をして飲み込んだ後、口を開いた。
「カーリーみたいになりたい!!」
笑顔で言う彼の言葉は私が想像していたものとは全く違っていた。聡明で、芸術の才がある彼の事だ、いつかここを出て翼のような大企業に就職するか、巣に移住するとかだと思っていたから彼の望みに少し唖然とした。
「わ、私みたいにか……?」
疑問は晴れないまま彼にもう一度問いただした。
「うん!」
勢いよく首を振る彼に疑いの余地はもう無かった。………私としてはもう少し安全で安心出来る生活を送ってほしいものなのだが…。
「カーリーと一緒じゃないと嫌だもん……」
「ゔっ……」
落ち込んだように俯いて呟くその姿にギュっと心臓が掴まれる感覚がした。
「……カーリーは僕と一緒じゃ嫌?」
上目遣いで見つめてくる彼、その目は潤んでおり、私に情を訴えかけているように見え、さらに心臓が締め付けられた。
「ゔぅ………」
そんな瞳で見つめられたらもう何も言えないじゃないか……。
言い訳も通用しない、どうすることもできない状況に私は諦めるしかなかった。
「…嫌じゃないさ、ブラッド。私達は
慰めるように、安心させるように笑みを浮かべて彼に言うと、顔色を明るくして私の方へと向ける。
「ホントに?」
「あぁ、本当だ」
「約束だよ!」
いつもの笑顔に戻った彼は再び食事に手を付け始めた。私もそれ以上は話すことを止め、彼と同じように手を動かすことにした。
目の前に置いてあるスープをのぞき込む、ブラッドと私で作ったいつもの一品だ。薄い茶色の水面に私の顔が朧げに移った。その顔はどこか暗く、不安の影がうっすらと張り付いていた。
ずっと一緒。
自分が口に出した言葉が脳裏に繰り返すように浮かぶ。それは、儚く、脆い約束だ。残酷なこの世界でどれだけその約束を守る事ができるだろうか。
(………私らしくない……)
暗い、鬱屈とした思考を振り払うかのように鼻で笑った。それは嬉しさの笑みではなく、誤魔化しの感情から出た笑みだ。
彼を見る。優しくて、私と同じ……いや、私以上に痛みを知る彼の顔は間違いなく幸せな表情そのものだった。その顔を見てポツリと心の中で呟いた。
(あぁ、きっと守れているんだな、私は)
心の中で確かな温かさが灯りだす。そうだ、私達はこれからも一緒なのだ。今ならこのアパートの人たちだって、守れることが出来るのだ。
「ブラッド、明日は暇だから何処かに出かけようか」
気分が高ぶったまま私は彼に話しかける。嬉しそうに顔を上げた彼の表情は期待に満ちていた。
「ホントに!?何処に行くの?」
「ブラッドは本が好きなんだよな?」
「うん!」
彼と出会ってから一月以上経ったが、私がいない間はグースお姉さんやショーンおじさんの所に遊びに行っていたり、本を借りたりしているようだ。私がいる間も本にかじりつくように読んでいて、彼の本好きは相当なものだった。
「なら……図書館は知ってるか?」
「としょかん?」
初めて聞いた単語にブラッドは首を傾げる。
「あぁ、本がいっぱいある所だ。巣の方にあるらしいから、明日行ってみるか」
「やった~~!!」
両手を元気よく上げて嬉しさを露わにする彼、どうやらお気に召したようだ。
明日の事を思い浮かべる。………あぁ、それはきっと、いい日になるだろうな。
幸せな日常を頭の中で思い描いて、私は今度こそ本当の笑顔を浮かべた。
しかし、この世界は私が思っていたよりあまりにも残酷で、壊れていることを思い知らされたのはその直ぐ後のことだった。
ーーーーー
「~~~♪」
明日が待ちきれないないと、鼻歌を口ずさみ、心の中では期待と嬉しさであふれんばかりとなっている。
カーリーが言ってきた図書館という所。彼女が言うには本が沢山あって、その場で読んだり、借りられたりすることができるらしい。まさに天国の様な場所だ。
楽しみにしながらも、手元に置いていた傷が目立つ本を開けた。この本はショーンおじさんから借りたもので、内容としては表紙を見た感じは幼い子供向けのおとぎ話だ。
”むかしむかし、温かい木々がたくさん生えた森に、とある三羽の鳥がいました。鳥たちは森の中で幸せに暮らしていました。”
という文章から始まるこの物語は僕のお気に入りだった。三羽の鳥たちが予言で告げられた、いずれ来るであろう森を滅ぼす怪物から守るべく行動した末に、その怪物そのものになってしまい、予言の通りになってしまうという中々後味の悪い話なのだが、どこか惹かれるような、訴えかけてくるようなメッセージ性があるのだ。
……それをカーリーに熱弁した所、若干引かれちゃったのは少し悲しかったけど…。
「ブラッド、シャワー空いたぞ」
カーリーが濡れた髪をタオルで乾かしながらシャワー室から出てきた。どうやら僕の番が来たようだ。
「うん、分かった」
本を閉じて、シャワー室へと向かう。
そろそろあの本もショーンおじさんに返しに行かなくちゃな。シャワーが終わったら返しに行くとしよう。
夜のアパートの廊下はとても暗い。天井に沿って直線的に並んでいる蛍光灯があるものの、手入れが行き届いておらず、只々弱々しい光を放つだけの飾りと化していた。
その弱々しい光を頼りに歩みを進めていく、手には例の本を持っている。ショーンおじさんに返す為だ。
ショーンおじさんが住んでいる部屋の扉の前に立ち、ノックしようとした時、扉の奥から微かに複数の話声が聞こえた。
「………カーリーの……で………俺達は…………」
「本当に………………るんだよな?」
「…………大丈夫だ………子が………」
小さな声で話し合っているのか、所々途切れていて全部までは何を話しているのか分からないが、カーリーという言葉が聞こえたので彼女の事について話をしているようだ。
そういえばカーリー、前々からショーンおじさんやグースお姉さんに昔の恩を返すためにお金を分けてあげているんだっけ。長い間知り合ってきた、数少ない家族の様なものだって言ってたし…。
ホントにカーリーにとって大切な人達なんだろうな。そう感じながらノックをした。
奥から聞こえてきていた声がピタリと止んでしばらくしていると扉が開いて、もうすっかり見慣れた顔が出てきた。
「お、おぉ。ブラッドか、どうしたんだ?」
少し狼狽えた様子に疑問が浮かんだが、すぐに消え目的の物をショーンおじさんの前に差し出した。
「これ、おじさんから借りてた本。返しに来たんだ」
目の前に差し出された本を見てショーンおじさんは目を丸くしていた。
「なぁんだ。別に返す必要なんて無いのに、ブラッドは真面目だなぁ」
ヘラヘラといつもの様に笑って本を手に取った。しかし、その姿に少しばかり違和感を覚えた。
何だろう……。僕を見る目が少し違うような……?
「ん?どうしたブラッド、ボーっと見つめて」
考える僕を見て不思議がるショーンおじさんに、慌てて僕は首を横に振った。
「あ、ううん。何でもないよ、じゃあ僕はこれで」
「おぉ、お休み」
手を振って別れを告げる。扉の奥から差し込んでいた光は消え、廊下は再び暗闇に包まれた。僕はまだ拭えない違和感に戸惑いながらも、カーリーが待つ部屋へと戻った。
あの時から何かが変わってしまった気がする。