市議会議員 戌亥とこの戦争 : Page of Lambda C 作:芝三十郎
つよつよケルベロス、選挙に出馬する。
ここは地獄と呼ばれる世界で最大の街。その一丁目の喫茶店で、女はテーブルの上の書類を凝視している。彼女は、その名を戌亥とこという獣人である。女の頭には狼のような耳があり、座った椅子の後ろからふさふさとした黒い尾が垂れている。
尾は左右に忙しく振れ、彼女の苛立ちを表していた。テーブルにはカップもあり、紅茶が湯気を立てているが、戌井は口をつけていない。それどころではないのだ。人生の一大事なのである。
書類から顔を上げると、対面に座る中年男をにらみつけ、厳しい声で言った。
「あたし、何も憶えてへんで。なんやこれは…」
スーツの男は笑い、黒の三つ揃えで包んでもそれと分かる太鼓腹を揺らした。店内だというのにサングラスをかけている。口から出たその声は、しわがれているが不思議と聞きやすい低音である。
「憶えてへん、とはずいぶんな話やないか。よう見いや。ここ。ここや」
男は書類の一番下、署名欄を指さした。この土地の文字で『戌井とこ』の署名がある。向きは斜めだし、雄々しい墨痕が欄から盛大にはみ出しているが。中年男は迫力のある声音でつづけた。
「まさか、『あたしじゃ、ありまへーん』なんて言うつもりやないやろうな」
「あたしの字や…」
戌亥は不承不承に認めた。日頃はもっときれいな字だ、と主張したいが、いま言うべきはそこではない。この場をどう逃れるべきかを考えねばならない。さもなくば、この男に自分を好きなようにされてしまう。
男はトマトジュースのグラスを口から離すと、口から鋭い牙を覗かせた。男は吸血鬼である。この町の、いやこの世界の主な住民は魔物なのだ。地獄と吹聴される所以である。
吸血鬼は手を叩き、人間が想像する地獄の住人に相応しい口ぶりで言った。
「なんや、わかっとるがな! この書類に間違いはないと、そういうことっちゃ」
今度は戌亥が口からほとんど牙というべき犬歯を覗かせ、猛然と言い返した。ここで引き下がるわけにはいかない。
「ざけんな。どうせ、昨日の打ち上げで酔っ払ったときに、うまいこと言ってサインさせたんやろが!?」
戌亥は頭角を現しつつある歌手であり、昨夜は何度目かのライブが成功した夜だった。関係者で行った打ち上げの席で、この男から花束を受け取り、皆で乾杯したところは憶えていた。問題はその後、今朝寝床で起きるまでの記憶がすっかり欠けていることだ。
「何を言うとるんか、わからんなぁ。そんなん、通りまへんでぇ? どう見ても正式な書類やがな」
すっかり優位にたって、吸血鬼は獣人の人生をその手に握ったも同然だった。劣勢な戌井はなおも抗おうとする。この話は前々からあったとはいえ、彼女は最初はにべもなく、その後はあの手この手で断りつづけてきた件である。
「こ、こんなもん、認めんぞ。あたしをどうするつもりや」
「書いてあるがなー、ここや。ほれ。その通りのこと、確かにやって貰いまっせ。逃げも隠れもでけへんでぇ」
凄んで見せた男の態度が、ついに戌井の逆鱗にふれた。
「ふっざけんなぁ!」
バン、と机をたたき、戌井は椅子から立ち上がった。そして書類の最上段を指さし、店中どころか表の道にまで響く声で怒鳴る。
「なんであたしが、選挙になんか出なあかんねん!」
書類の冒頭には <ブレイズ市議会 第243次改選 立候補届> と書いてあった。右上に押されているのは「受理」の朱印である。
スーツの中年は犯罪組織の関係者ではなく、現職の市議会議員である。それもなかなかの有力者として知られている。名を風間ニコラオスという。また彼は、戌亥のファンクラブ(複数ある)のうち一つの会長でもあった。その特殊な地位から、昨夜の打ち上げにも特に招かれていたのだった。
風間は胸ポの内ポケットからシガーパイプを出して指に挟んだ。左手でズボンのポケットをまさぐり、マッチ箱を取り出す。
「うちは禁煙や」
すかさず戌井が言うと、風間は実に情けなさそうな顔をしてパイプをしまった。しかしマッチ箱はそのまま机の上に置き、気を取り直して話し始める。
「ええ候補者の条件は何やと思う?」
「さあ」
戌亥は冷たく流そうとしたが、風間は黙って答えを待つ。そこで彼女は嫌みの一つも言ってみることにした。
「紙一枚とおしゃべりで人を騙くらかせることやな」
「惜しいけど、ちゃうな」
「投票してくれそうなファンがもとからいっぱいおること。あんたが見とるのはそこだけやろ」
「いや――」
風間は箱からマッチを一本とりだし、それを目の前に掲げた。
「一つはこれや。火や。燃えるもんを一つ、心にもっとる奴でないといかん。その火を他人に広めて動かすのが政治家や。でもそうなる前に、もっと必要なもんがある。それは物語や」
「物語?」
「市民は、政治の細かい話は知らん。候補者が伝えようとしても、ほとんどは伝わらん。当たり前や。みんな自分の仕事で、それどころやあらへん。じゃあ、市は候補者の良し悪しを何で選んどるのか。そいつが信じられるか奴どうかや。ええ候補者には物語がある。『
戌亥の目が鋭く光った。しかし吸血鬼は気圧されることなく、悠然と続けた。
「あんたが何者か話せば、この世界をどうしたいと思とるか、誰にでも――」
「売り物になる気はないぞ。あんたが喧嘩を売るってんなら買ってやるけどな」
吸血鬼は両手を軽くあげ、参ったというように首を振った。
「わかった、わかった。無理強いする気はないねん…」
「ほんとか?」
全く信じていない戌亥は半眼で言った。それに気づかぬように、風間は飄々と続ける。
「もちろん。ホンマついでに、もう一つホンマのことを教えとこうか」
風間は表情を一変させ、誠実一路というような顔になった。明るさに耐えながらサングラスを外す。苦しげな声で続けた。
「今回の選挙でわしら共存派が生き残らんと、断交派は地獄の門を壊す。人間界と一切の交流を絶つつもりや。それはあんたにとっても嫌なはずや。違うか?」
戌亥は腕を組み、横を向いて答えた。
「あたしの仕事は歌とお給仕や。世界をどうするなんて話は知らんぞ」
吸血鬼はニッと笑い、鋭い牙をむき出しにした。不思議と恐ろしげには見えない。目元には、日頃は隠されている笑い皺ができた。そうなると、どんな魔物からも好かれそうな顔になった。
「何年ファンやっとると思てんねん。あんたの歌がどこから来たか、古参組はみんな承知の上や。それでもみんな、あんたが好きなんや」
戌亥は無表情を装ったが、それで隠しおおせる相手ではなかった。吸血鬼はここぞとばかり、両手をついて額を机にこすりつけた。
「後生や。一議席でも多く必要なんや。ここで負けるわけにはいかん。世界を閉ざすなんて認めるわけにはいかん。未来に可能性を残しておかないかんのや」
可能性か、と戌井は内心でつぶやいた。夢のような可能性。魔物と人が自由に交流し、共存する未来。そんなものはあり得ないと、両世界の誰もが言うに違いない。しかし、戌亥はそれに同意するわけにはいかなかった。自身に一度は起こったことであれば、自分にも他人にも、もう一度起こらないとは言えない。その可能性がどれほど豊かなものか、彼女は身に染みて知っていた。
「――でるだけや。演説だの何だのは、ようやらんぞ」
ありがたい、と言って戌井の手を握りかけた吸血鬼の手をピシャリと叩き、しかし彼女が一歩を踏み出したのは確かだった。歌手として注目を集めつつある狼娘が、一転して選挙に出馬したのはこういう経緯だった。
そうはいっても、当選するわけがない。戌井はそう考えていた。なにせ、ろくな選挙活動をしてない。演説会には出ざるをえなかったが、十回もあった演説の機会を、彼女は合計二十秒で済ませた。毎回、言うことは同じ。
「戌井とこです! よろしくお願いします!」
挨拶はいつでも元気よくせないかん、という身に染みついた躾だけを守って、さっさと自分の席に戻る。常にそれだけ。断固として、よく知りもしないことを喋って恥をさらすつもりはなかった。
「それやのに…」
戌亥は絶望的な顔で数紙の朝刊に目を通す。
『また二秒演説。戌亥候補、当選に自信か』
『大型歌手、政治家転向の真相』
『共存派、巻き返しの情勢』
どの紙面にも彼女のことばかり書いてある。識者や友人と称するよく分からない人物の解説つきだ。
曰く、戌亥候補は実現できない公約を乱発する近年の風潮に反発しているのだ。
曰く、言動より人格をみろ、という強烈なメッセージだ。
曰く、巧みな戦略だ。失言さえなければ、有名歌手である彼女には知名度と組織票があり…。
「なんでや。なんでなんや…。これは陰謀や…」
結局、彼女はこの年のトップ当選を果たした。
(つづく)