市議会議員 戌亥とこの戦争 : Page of Lambda C   作:芝三十郎

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3BK_IF、Page of Lambdaの二次創作。
リゼ、アンジュ、戌亥の三人は麻薬の栽培拠点を襲い、魔物たちを捕らえた。
しかし、黒幕の人間は切り札を残していた。戌亥は二人を守るため、自身の魔物としての力をやむなく解放するが・・・。


みつぼしの誓い! 魔物と人間のはざまで

 リゼの作戦は図に当たった。戌亥とリゼが囮となって、目に映る限りの魔物を引き寄せた。彼らをアンジュの錬金術で一網打尽にした以上、もう薬で操られた魔物は残っていないか、いてもごく少数だと戌亥たちは踏んでいた。

 

 案の定、暗闇から現れたのは人間のようだ。片手にランタンを持ち、反対の手には鞭。ゆったりとした寝間着のローブに描かれた金糸、銀糸の刺繍が星明かりを反射する。樹海の中に拓かれた畑には全く場違いな貴族の装束だが、畑の土で汚れ、くたびれて見える。

 

 男の顔が月光に照らされた。壮年の人品卑しからぬ風貌。戌亥に分かったのはそれだけだったが、リゼには驚いた声で言った。

 

「ジェヴォーダン公爵!?」

 

 男の表情が変わる。

 

「まさか――リゼ皇女か。相変わらず跳ね返りの娘よ」

 

 リゼは男を問い詰めた。

 

「魔物達に薬をばらまいて、おかしくしたのも貴方か。懲りもせずに、またこんなことを…!」

 

 男は肩をすくめ、あっさりと認めた。

 

「もうそこまで知っていたか」

 

 戌亥が険しい声で割って入る。

 

「お姫様、この男は?」

 

 リゼは表情を曇らせた。自国の恥を戌亥に伝えるのを躊躇したようだったが、彼女は答えた。

 

「ジェヴォーダン公爵。いや、もと公爵。大領主だったけど、父上の命令に背いて、爵位も領土も没収になった悪いやつよ」

 

 戌亥は公爵と呼ばれた男が軽蔑の表情を浮かべるのを見た。

 

「お前も魔物に魅入られていたか。血は争えんな。我らを軽んじる悪王の娘」

 

 リゼは猛然と反論する。彼女に火をつけたのは、彼女自身への悪罵ではないようだった。

 

「父上を侮辱するな! あなたが父上に背いて領民を――魔物を虐待したせいでしょう」

 

 男は静かに笑みを浮かべ、皇女を見下げるように答えた。

 

「何が寛容令だ。我ら貴族から領土を取り上げ、王家のみ肥える方便だと、みな承知しておる。領地を食い荒らす獣を退治して何が悪いか」

 

「獣やと」

 

 戌亥が冷たい声で言った。その目は怒りで満ちている。

 

「そうだ」

 

 もと公爵は気色ばみ、憎悪をあらわにした。あたかも彼の全てを奪ったのが戌亥その人であるかのようだった。

 

「お前のような奴らが、我らの領土に勝手に住みつき、世を乱しておる。わしだけではないぞ。爵位を保っている貴族たちにも不満は渦巻いておると知れ。暴君の世は長くは続かんぞ」

 

 リゼは一歩前に踏み出し、毅然とした声で反論した。

 

「ヘルエスタは人と魔物が共存できる国だ!」

 

 それは皇女が信じる国の理想だ。しかしその現実がどのようなものか、彼女はこの日に初めて知ったといってよかった。語気の激しさは、言葉の裏付けの弱さのあらわれかもしれなかった。

 

 戌亥には憎悪を露わにした元公爵だが、リゼには憐れむように言った。

 

「建国の昔には魔物などおらなんだわ。それを取り戻そうというのだ。害をなす獣には毒餌がよく効く。盗まれた金を取り戻して、奴らの数も減る――」

 

 男が 酔心花(ダジュラ)のことを言っているのは明らかだった。リゼは再び反論する。

 

「なんてことを。魔物も王国の民だ!」

 

 男は冷笑し、右手を掲げた。その手には鞭が握られている。

 

「あれらは害獣、いや化物よ。その証をみせてやろう」

 

 鞭が振るわれ、鋭い音を鳴らした。途端、一角に立つ粗末な小屋が震え、中から獣の吠え声がした。元公爵がもう一度鞭を鳴らすと、小屋の壁が割れ、中から黒い塊が姿をのぞかせた。

 

 狼の姿。唸り声を上げながら建物を割って現れたその体は牛よりも大きく、筋肉が異様に張り出している。その手足には鉄輪がはめられ、鎖を引きずっている。

 

「いいぞ、いいぞ。さし許す。食え」

 

 その言葉に反応し、巨大な狼は畑に生えた 酔心花(ダジュラ)に食らいついた。葉と茎を嚙みながら鼻づらを地面に突っ込み、根を咥えて地中から引きだす。肉食のはずの狼が植物を貪るさまは異様だった。

 

 根を一息に飲み込むと、巨狼は空に目をやる。月は既に傾きかけている。大きな赤い目が月を映すと、狼の全身は骨が折れるような異音を響かせ、さらに巨大化した。手足が太さを増し、鎖を付けた手枷、足枷がはじけ飛んだ。

 

 獣が二本足で立つ巨大な狼男へと姿を変えた時、その大きさはこれまで三人が戦った魔狼(ルーガ―)たちの倍ほどもあった。

 

 「この化物には勝てまい」と男はあざ笑い、もう一度鞭を鳴らした。「さあ、次は暴君の娘を食え。他の二人もだ」

 

 途端、巨大な獣人の爪が一閃し、元公爵を引き裂いた。男の首が口を開けたまま宙を飛び、地面に転がった。上半身は原型を留めぬほど裂けた。二本の脚だけが原型を留めて立ち尽くし、胴体の残りを支えている。

 

 巨大な獣人は狼の口で元公爵の胴体に噛みつき、骨を砕きながら食らった。

 

 アンジュは手で口を覆い、嘔吐の衝動を抑えているようだ。リゼも顔を青くしている。戌亥は一人で前に踏み出し、呼びかけた。

 

 「おい、私の言葉が分かるか。あんた、ここの連中の長か。私は地獄からあんた達を助けにきた――」

 

 巨大な狼男は、戌亥の言葉に応じる様子はまるでなかった。喉か乾いてたまらないというように男の血を貪っている。それでも渇きは満たされないのか、また周囲の 酔心花(ダジュラ)を鷲掴みにして次々に口にいれる。一口食べるごとに苦悶し、苦しみと怒りで荒れ狂いながらも、なお草を貪った。

 

「おい、聞こえとるか! どうしたんや。」

 

 戌亥はもう一歩近づき、声を張って再び呼びかけるが、巨獣は耳を貸す気配もない。一向に癒えない飢えに、頭を抱え、地面を殴打して怒りをぶつけている。

 

 リゼが鋭く言った。

 

「もう一度やる。アンジュ」

 

 錬金術師は目を見開いた。

 

「でも、あの大きさじゃ――」

 

「足が止まってる間に!」リゼは鋭い声で言い切った。

 

 アンジュは慌てて頷き、素早くオーブを地面に叩きつけた。触媒に手で触れて指令を送る。

 

「行け……!」

 

 青と黄の光が地面を這って文様を形作る。地面が震え始め、巨獣の足元に地割れが生じようとした。

 

 しかし、巨獣はまるで待ち構えていたかのように鋭く跳躍した。その巨体が重さを無視するように宙を舞い、リゼたちの頭上を飛び越えて後ろにまわった。

 

「しまった!」

 

 剣を構え直すリゼに、巨大な爪が迫る。剣を盾にするが、それで防げるはずもない。時間が止まったようにリゼが感じたその瞬間――凄まじい速度で跳躍してきた戌亥がリゼを突き飛ばした。

 

「どけっ!」

 

 巨獣の腕が戌亥をはじき飛ばした。獣人の女は空中を回転しながら木に衝突し、凄まじい音を立てた。戌亥は辛うじて止まった。衝撃で二つに折れた木の上部が倒れる。

 

「戌亥さんっ!」

 

 叫んで駆け寄ったリゼとアンジュを手で制し、戌亥は慎重に立ち上がった。全身の骨が軋むようだったが、痛み全てを無視して巨獣を睨みつける。

 

 黒い巨体は、再び彼女たちを無視して呻き声をあげている。自分の頭を地面に打ち付けはじめた。

 

 戌亥は鋭い声でアンジュに尋ねた。

 

「あいつ、どうなっとる。あれでも正気に戻せるんか?」

 

 錬金術師は青ざめた顔を左右に振って答えた。

 

「完全にいかれてる。薬が切れると死ぬほど苦しいんだ。中毒がいくとこまでいくとそうなる。たぶん、放っといても、もう永くない。何とか逃げられれば――」

 

「わかった」

 

 戌亥は前に踏み出した。リゼたちとアンジュを背に怪物と対峙する。

 

 苦悶する巨獣の赤い双眼は濁り、焦点が定まっているかも怪しいように見えた。戌亥の瞳も片方は同じ赤色だ。彼女は怪物を見つめたまま、背後の二人に告げた。

 

「お姫様、おおきにな。魔物と人間はおんなじやって言ってくれたこと、嬉しかったよ」

 

 戌亥は着ていたローブを脱ぎ棄てた。それは獣の耳と尾を隠し、人間社会に紛れるための衣装。

 

「でも違う」

 

 あらわになった狼の尾がひるがえり、地面をしたたかに打つ。

 

「なめんなよ、おっさん」

 

 戌亥の左目が赤い輝きを増した。瞳は敵を見据えたまま。彼女の種族は月を必要としないのだ。両拳を握り、やや腰を落として全身に力を込める。そして彼女は吠えた。

 

「かああっ!」

 

 途端、ゴキゴキと音をたてて両腕が変形する。腕全体の筋肉が盛り上がり、黒い毛皮に覆われた。手は一回り大きくなり、爪は長さと厚みを増した。両足も一回り太くなって毛皮をまとう。口内では犬歯が伸び、鋭い牙と化している。

 

 「獣化現象――!」

 

 戌亥にもそれはできるのだろうと、そう予期していたアンジュが、それでも驚きと怯えを隠せぬ声で言った。魔狼(ルーガ―)たちほど大きな変化ではなく、人の形を留めてはいる。しかしその迫力、全身から発散する暴力の気配は、これまでに見たどの獣人より強烈だった。

 

 「あたしに喧嘩を売ると怖いで」

 

 やや低くなった声でそう言うと、戌亥は腰をおとし、構えをとる。全身が燃えるように熱い。日頃は冷静な彼女の心が戦いへの渇望で満ちた。我知らず、彼女は笑みを浮かべた。

 

 一瞬の後、跳躍した彼女の右足が怪物の鼻づらに殺到した。家のように大きい巨獣がふわりと浮かび、後ろに倒れかかるが、何とか踏みとどまる。

 

 獣の腕が戌亥に迫ったが、彼女は左手だけでそれを受け止めた。体格には歴然の差があるが、小揺るぎもしない。戌亥の突き上げる拳が獣の胴に命中した。打たれた骨が砕ける。さらに旋回する蹴りを顎に見舞われ、怪物は吹き飛んで横転した。

 

 その様は戌亥の心を躍らせた。楽しくてたまらない。敵を打ち、その骨を砕くことが。そのために自分が傷つくことも待ち遠しい。早く欲しい。もっと痛みを。獣欲にも似た衝動に満たされて、いま彼女は凄絶なほどに美しい。そんな自分を心から悦びながら、倒れた敵に歩み寄る。

 

 しかし彼女の視界に端に、二人の娘の顔が見えた。皇女と錬金術師は互いをかばうように身を寄せている。二人の顔は蒼白。紛れもない恐怖を浮かべている。

 

 戌亥の酩酊した心を氷が刺した。二人は怯えている。怪物ではなく私に。私もまた、血に飢えた恐ろしい化物であるから。

 

 彼女は日頃の冷静さを幾分か取り戻した。目を細め、倒すべき巨獣の全身を観察する。巨獣は再び立ち上がり、怒りの咆哮とともに彼女に向けて突進してくる。

 

 戌亥の目は敵の胸の一点を射るように見た。右の拳を解き、手を平にして鋭い爪を揃える。そして半身に構え、迎え撃つように駆けだす。

 

「戌亥さん!」

 

 リゼが叫び、戌亥は巨獣と衝突したと見えた。くぐもるような異音とともに、巨体が静止し、両腕をだらりと垂らす。その胸には戌亥の右腕が突き立っている。巨獣が仰向けに倒れる。その胸から戌亥の腕が抜け、できた穴から噴き出した血が彼女の頬を汚した。

 

 倒れた巨体は数度大きく痙攣すると、その動きを完全に止めた。

 

 戌亥の腕と足がもとの大きさに戻る。縮むときは不思議と異音はない。敵を打ち抜いた抜き手も、ただの娘の手に戻った。しかしその爪にはまだ赤黒い肉片が付着し、かすかに湯気を立てている。

 

 リゼとアンジュはともに目を見開いて、声もない。

 

 戌亥はその様をみて、唇をゆがめた。

 

「いうたはずや。私は、あんたたちが化物と呼んだものの仲間やと」

 

 戌亥は脱ぎ捨てたローブを拾いあげて身にまとう。ローブが血に濡れることも、今は構う気はならないようだった。

 

 二人がまだ一言も言えずにいる間に、戌亥は元公爵が落とした鞭を拾いあげた。何かの手掛かりになるのではないかと思ってのことだ。彼女は鞭から土を払いながら言葉を続けた。

 

「悪かったと思っとる。ただ、あの魔物たちのこと、助けてあげてくれると嬉しい。私を、私たちを怖がるんは仕方のないことや――私らは、人間から可愛いと言われるような生き物やない。

 

 人が可愛がるのは、自分を傷つけない弱いものだけ。醜いもの、恐ろしいものは、檻に入れて見世物にするだけ」

 

 戌亥は瞑目し、檻に捕われていた二人の幼い半人狼を助け出した日のことを思った。売ったのは彼女たちの実の母親だった。恐ろしい化物。彼女たちは生まれた瞬間からそう扱われてきた。

 

 彼女は二人に言うともなく呟いた。

 

「やけどな、檻の中の化け物と、外から見る人間と、どっちが醜いって、なんで決められるんや」

 

 戌亥は血で汚れた爪を二人に見せつけ、露悪的に笑いながら、滴る血を舐めとってみせる。

 

「普段の私は可愛かったか? ごめんな。がっかりさせて」

 

 そして彼女はリゼたちに背を向けて歩き出した。

 

 しかし、その背を水晶の声が叩いた。

 

「ありがとうございます!」

 

「―――はあ?」と呟いて、戌亥は振り返る。

 

 幼い皇女が紫の双眸で彼女をしかと見据えていた。

 

「助けてくれて。その姿を見せたら怖がられるって思ってるのに、それでも助けてくれて。ありがとうございます」

 

 といって、リゼは丁寧にお辞儀をした。頭をあげると、何も答えない戌亥をまっすぐに見つめながら、彼女はつづけた。

 

「私も、あなたたちを傷つける酷い人間の仲間かもしれません。でもそうやって、あなた自身まで汚さないで」

 

「あたしが怖くないとでも?」戌亥はまだ血の滴る手を少し掲げた。

 

「私も剣をもちます。大切なもののためなら」

 

「あたしは武器はいらへん。見た通りや。化物が相手でも、殴り飛ばせして心の臓をえぐれる。あんたの細首やったら指だけで十分や――」

 

 戌亥は静かに歩み寄り、赤く濡れた指をリゼの首元に近づけた。皇女の後ろでアンジュが息をのむのが分かった。しかし当の皇女は身じろぎもせずに言葉を続けた。

 

「わけもなくそんなことはしない人でしょう。さっき一撃でとどめをさしたのは、長く苦しませたくなかったから」

 

 間近で見る紫の瞳はどこまでも澄んでいた。気圧されているのは自分の方だと、戌亥は思った。

 

「…私は魔物や」

 

 戌亥は呟き、少女の瞳と声に耐えかねたように、手を引いて一歩後ずさりした。皇女はさらに歩み寄ると、その両手で戌亥の血に濡れた手を取る。

 

「さっきのあなたは勇者のようだった。なのに、そんな寂しい目をしないで」

 

 そこまで言ってから、リゼは息を整えた。正気を無くした獣人の群れにも立ち向かった少女は、その時以上の勇気を奮い起こす。幼い頃に読んだ絵本の一節を思い出していた。まずさいしょはきちんとごあいさつをするのよ。彼女は初めての言葉を口にした。

 

「私の名前はリゼ・ヘルエスタといいます。戌亥さん、私の友達になってください」

 

 戌亥の頭に、地獄の議会で聞いたビアデスの演説が木霊した。人間の世界で育ち、信じていた人間たちに裏切られて、家族の全てを殺された鬼。失った腕の代わりに、ギリギリと鳴る鋼鉄の義手の音が聞こえる。

 

 個人の感情と、種族の問題は――。

 

 人と魔物は分かり合うことができない――。

 

 もしできても、それは見せかけだけ――。

 

 違う、と彼の演説を否定したのは戌亥だった。しかし自分がいざ一歩を踏み出す立場になると、戦いには勇敢な彼女の足がすくんだ。リゼの顔を直視することもできず、眼をそらす。

 

「お姫様、変なことは考えんことや。人間と魔物でも友達や恋人になる奴がおらんわけじゃない。でも、そういうことじゃないんや」

 

 戌亥はずっと前に亡くした母の顔を思い出した。母は父と結ばれ、娘を授かったために、それ以外のすべてを失った。戌亥の口をついてでたのはビアデスの言葉だった。

 

「個人の感情と、種族の問題は違う。あんたはもう少し、世間を見た方がええ――その機会があるなら」

 

「そうします。世界は、私が知らないことだらけだって分かった。それに強くもなります。戌亥さん一人に辛い役を押し付けないで済むように」

 

 皇女の声も瞳も、どこまでも真っすぐだった。戌亥は胸の中心を射抜かれたような心地がした。恥じ入るようにかぶりをふりながら、獣人の娘は答えを返した。

 

「あたしは――あたしの名前は、とこ、っていうんや。戌亥とこ。友達は名前で呼ぶ。お城に引きこもってなきゃ、また会えるかもしれんね――リゼはん。魔物たちのこと、お願い」

 

 戌亥は後ろに振り向いて跳躍し、枝から枝へ飛んで森の闇に消えた。

 

 

 

 

 やっと緊張が解けた錬金術師の目前で、皇女は力を失ったように座り込んだ。剣を振り回して息も切らさなかった少女の憔悴ぶりに、アンジュは戸惑いながら声をかける。

 

「で、殿下? 大丈夫ですか」

 

 戦いを指揮していたときとは似ても似つかない、寄る辺ない声で皇女は答えた。

 

「つ、使い切った...」

 

「な、何を?」

 

「何かを...。あんなこと初めて言ったから。友達って、いたことないから…」

 

「はあ――」

 

 アンジュは呟き、そしてようやく理解した。なぜ高名な皇女殿下が、数度会ったきりの平民の自分にこうも懐き、信じ切ってくれるのか。彼女には他に誰もいないのだ。幾百の家臣、幾万の民草にかしずかれていても。心を許せる相手はまわりに一人もいない。学院でたった一人の平民である自分と同じように。

 

 アンジュは呆れた。まったく、現実の皇女さまというのは、こういうものなのだろうか。物語のお姫様と違いすぎる。異常なほど勇敢で、将軍のように大人びた、一人ぼっちの子ども。

 

 放っておけば、何かに思い切りぶつかって、いつか砕けてしまう違いない。この子には誰かが必要だ。君主でも家臣でもない誰かが。自分を大事にしないこの子を、かわりにうんと大切にできる誰かが。

 

「まあ――そうやな。確かに、少ない方ではあるかもね。友達が二人だけってのは」

 

 皇女は驚いたように赤髪の錬金術師を見た。アンジュは視線を外して、道を探すようにあらぬ方を見ながら言った。

 

「帰ろっか、リゼ」

 

 皇女は口をぱくぱくとさせた。ずいぶん長いことそうしていたので、アンジュはいっそ平伏して許しを乞うべきかと思った。皇女がやっと出した声は、ほとんど裏返りそうだった。

 

「か、帰ろうか……アンジュ」

 

 最後は消え入りそうだった。赤い頬を隠すようにうつむいた年下の少女を、アンジュは慈しむように微笑んだ。

 

(強くなりたい――この子の傍に立っていられるように)

 

 身分も立場も都合よく忘れたことにして、赤髪の娘はそう思った。学院に戻ったら、野蛮だと嫌っていた攻撃の術を習おうと決めた。

 

 帰り道、やや遅れてついてくる小さな足音を待つとき、アンジュは空を見上げた。暗い木々の上に月が掛かっている。風が木々を揺らして吹き抜けた。彼女は促されたように振り返る。彼女を追って歩く一人の少女をこそ、月の光は照らしているように見えた。

 

(この子を守っていこう。私ができる限りは)

 

 思いは誓いになった。

 

 

 彼女は生涯、その誓いに従って生きることになる。

 

 

 

 

「―――こういうわけで、厄介な薬を作って魔物に売りつけとった輩は倒しました。おかしくなった魔物たちは王国で保護してもらえて、ちょっとずつ回復しとるみたいです」

 

 言い終えて、戌亥は椅子に背中を預けた。全身から力が抜ける。獣の耳がぺたりと折れているのは、長旅の疲れと眠気の表れだ。彼女は見るともなく、窓の外の夜空に目をやった。ここしばらく人間界の夜空を見慣れた彼女には、育った故郷の星空がかえって珍しく感じられた。

 

「ようやってくれた。ヘルエスタの皇族にツテができたんも大収穫やな」

 

「しかし、誰が糸を引いていたのかが気になる。その動機もです」

 

「その何とかいう没落貴族やろ? 食いっぱぐれて王様を恨んどったんや」

 

「それなら人間にも売ったらいいでしょう。貧しい魔物たちに限ることはない」

 

「単に魔物が嫌いなんやろ?」

 

「そうかもしれませんが、気になります。魔物を操ったという鞭の出どころも」

 

「誰か、まだ裏におるっていうんか? ほな、学者たちに鞭を調べてもらおか」

 

「お願いします。戌亥くんはどう考えるね?」

 

「そうや、どない思う? ……ん、どした?」

 

 うつらうつらとしつつ、戌亥は夜空を見ていた。地獄と人間界では夜空の星々まで違う。しかし、星の連なりに形を見出し、名をつけて星座と呼ぶ習慣はどちらの世界にもある。

 

中天にある星々を結ぶ線を思い描く。それは人間界には存在しない星座。彼女が称する伝説の種族の名、ケルベロス座と呼ばれている。その頭部を象るのは当然、連なり輝く三つの星である。

 

 自分とバンとケン、三姉妹の姿のようだと、彼女はかねて思い、妹たちをそう諭して励ましてきた。強い強いケルベロスになるんやで、と。

 

しかし今の彼女は、その三つ星にもう一つの可能性をみていた。二人の人間と共に旅をする自分の後ろ姿。人族にできた、初めての友達と歩く自分。

 

 また会うことがあるかな。いや――また会えるといい。

 

「なんや、帰ってくるなり根を詰めさせてしもたな。うん、今回はこれで終わりや。この続きは、また、今度にしようや――」

 

 戌亥はやがて来るその日を夢見た。

 

 

 

(つづく)

 

 

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