市議会議員 戌亥とこの戦争 : Page of Lambda C 作:芝三十郎
地獄行きの船を求めて
街を歩いていると、被ったフードがずれてくる。右に左に、店や人を見回すからだ。フードの端を引っ張り、額の近くまで覆う。耳を見られてはならない。
私は誇り高いケルベロスなのに。
何もかも彩り鮮やかな夏の港町で、彼女の気持ちだけが灰色だった。
しかし、彼女の少し先を歩く二人は、まるでとんちゃくしないようだ。
「とこちゃん、見てみて! あのお店」
少女――ではもはやあるまい。娘が踊るように振り返ると、白銀の髪が舞った。夏の日差しが反射し、水色がかって見える。地味な平民の旅装束は、彼女の気品と輝きを隠せていない。彼女はここヘルエスタ王国の姫君。第二皇女リゼ・ヘルエスタだ。もう十七歳。今では腰の細剣が丁度いい長さに見える。
「外海の品やって。さすが港町やな!」
リゼの隣ではしゃいでいる赤髪の娘は、錬金術師アンジュ・カトリーナだ。何が入っているのか、背中より大きいバックパックを背負っている。五年前からの変化と言えば、以前は伸ばして束ねていた赤毛が、肩にかからぬ短さになったくらいだ。もう二十台半ばのはずだから、人間社会の常識ではとうに結婚し、子がいて当然の年だ。しかし彼女は初めて会った時と変わらない娘の姿と心のまま、軽やかにはしゃぎ歩いている。どころか、以前に比べると不自然なほど明るくなったようで、何かといえば冗談ばかり飛ばしている。
そんな二人の様子に、戌亥の表情が和らぐ。
彼女らは共に旅をしている。三人が出会ったのは五年前のことだ。
地獄とよばれる世界の市議会議員、戌亥とこは調査官として人間界に赴いた。彼女はそこでヘルエスタの皇女リゼと、その友人の錬金術師アンジュと出会った。三人は人と魔物の違いを超えた友人となった。
ほんの一夜の冒険の後、三人はそれぞれの日々を過ごした。
戌亥は議会で活動しながら、閉会時期のたびに人間界に赴いて調査を続けた。ヘルエスタ王国にも何度か赴いたが、二人と出会うことはなかった。リゼは基本的に王城から出られない修行身の上だし、アンジュは学院、そこを出奔してからは小屋に引きこもっていたからだ。
しかし彼女たちは互いを忘れることはなかった。
リゼとアンジュは身分の差がありながらも親交を続け、友人関係を育んだ。そして時折、勇者のように強く、しかし誰よりも寂しそうだった獣人の友のことを話した。
戌亥はといえば、フードで耳と尾を隠して人間の街を歩くとき、若い人間の娘が二人で連れ立って歩いているのを見かけては、いつもそちらを振り返る日々だった。
そして――つい先日、彼女たちは意外な場所で再会した。ヘルエスタ王国ではない。その隣国、オヴィクス帝国の処刑場である。
かつて戌亥が持ち帰った謎の鞭には、古代オヴィクスの神聖文字がびっしりと刻まれていた。地獄の学者たちが数年がかりで解読できたのは『獣の鞭』という言葉と、それを修飾する無数の成句だった。鞭は何らかの呪術具だと思われた。オヴィクス帝国の神官団は、古王国時代から伝わる呪術を用いるという。彼らはその力で生き物の意志を奪って操り、さらには意志なき死体すら使役するといわれている。
ヘルエスタ王国で魔物に麻薬をばらまき、暴走させていた事件の裏にいるのは、オヴィクスの神官団ではないか。
そう考えてオヴィクスに潜入した戌亥は、その地でも魔物が自分の意志に反して凶悪化して暴れ、次々に捕らえられていることを知った。彼女は城の宝物庫に侵入し、獣の鞭の効果を打ち消す鎮静の呪術具「獣の笛」を盗み出した。
そして無実の罪で処刑される魔物を救出すべく、彼女は公開処刑場に突入。そこでリゼとアンジュに再会した。城を飛び出したリゼと、研究に行き詰ったアンジュは二人で旅に出ていたのだ。三人は魔物を虐殺しようとするオヴィクスの預言者エレギアと戦って敗れ、辛くも逃げ延びた。
三人はともに旅することになった。戌亥を庇ったため、リゼは呪いの傷を負っていた。彼女を治療するには錬金術師の里ラキミーを目指す必要があったのだ。三人はそこで試練を乗り越えて絆を深めた。アンジュがラキミーで製造した霊薬エリクシールで、何とかリゼを回復させることができた。
三人の次なる目的地は戌亥の故郷、地獄だった。オヴィクスの現状について市議会に報告せねばならない。戌亥がそう告げると、リゼとアンジュは是非にと同行したがったのだ。
リゼは人間と魔物の共存の道を探るべく、地獄の社会を見ることを望んだ。アンジュはといえば、リゼの行くところなら何処にでも行く気でいるようだった。それに、書物にもほとんど記されていない地獄社会の在り様に、この錬金術師は興味津々の様子だった。
こういうわけで彼女たち三人がいま訪れているのが、ヘルエスタ王国の西部にある港町、シュケムである。王国の南に広がるフジの海に面し、沿岸航路の中継地として栄えている。近年では外海との貿易船がちらほらと増えつつある。かつては王国に属さない自由都市で、今でも商人たちによる自治が認められた港街だ。その商人たちすら殆ど意識しないが、そこは地獄に最も近い港町でもある。
商人が治めるだけあって、王国に編入された今でも自由闊達、活気にあふれ、猥雑ともいえる街である。大通りには店がびっしりと軒を連ねている。彩り豊かな産物は店内に収まりきらないようだ。この地で水揚げされた海産はもとより、各地の産物や珍品が路上にまで並んでいる。商人たちはそれらを手に取って見せ、面白おかしい文句でもって盛んに客を引いている。
しかし、彼女たち三人の目指す店は、中心街にはない。もっと港に近い、船乗りの専門街に行かねばならない。とはいえ、こうも色彩豊かな商店が並んでいては、若い彼女たちが素通りできるはずもなかった。
リゼは貝殻で作られた子ども向けの首飾りを手に取って歓声をあげ、アンジュは舶来の瑪瑙や緑宝石の輝きに息を呑んだ。驢馬を引いて売り歩く商人から橙の果汁を買って飲んだとき、二人はその甘さに飛び跳ねて喜んだ。
戌亥はそんな二人の様子に目を細めながらも、油断なく周囲を伺っている。この町は各地からの船乗りや旅客がいる。行き交う人々の肌の色や顔かたちは実に多様だ。それにも関わらず、魔物の姿がないのだ。
昔は、こうやなかった。いや、ちょっと前までは違った――
ヘルエスタの社会が確実に変化しつつある。人も物も流れが活発なこの町は、その変化を先取りしているのかもしれないと、戌亥は思う。後で、信頼できる友人に聞いてみなければならない。
ローブで隠した耳と尾を、誰かに見られてはいないだろうか。魔物だと気づかれれば、面倒なことになるかもしれない。自分だけならいい。しかし、あの二人を巻き込むわけにはいかない。そう思うと、彼女はまたフードの端を少し引っ張り、心持ち猫背気味になった。
「ねえ、こんどはあそこに行ってみよう!」
リゼの声はいつも澄んでいて、よく通る。透明な水晶のような声だ、と戌亥は思う。この皇女の内心が声にあらわれているようだ。皇女なんてさせておくのはもったいない。歌手なればいいのに、と冗談で言ったことさえ、彼女にはあった。
リゼが二人を手招いたのは服屋だった。
「旅の服はもうあるやろ? あんまり荷物、増やしても仕方ないで」
戌亥は言ったが、皇女は目を輝かせて言い返した。
「見るだけ、見るだけだから。アンジュの鞄、まだ空いてそうだし」
「買う気満々じゃん」
突っ込むアンジュも嬉しそうに、吊るしの服をあれこれと手にとっている。
「これ、とこちゃんに似合うんじゃない?」
リゼが手に持ってきたのは緑色のドレスだ。花柄をあしらい、控えめなプリーツが柔らかい印象を与えている。胸元を飾る黒いボタンとリボンがアクセントだ。可愛らしくも落ち着いた印象は戌亥の好みに合致した。
服を戌亥にあてて、着た感じを見ようとするリゼ。戌亥は応じて、心持ち上を向いて胸を反らす。その様子を横からアンジュが眺めているのが分かった。
「ほら、やっぱり可愛い!」と、リゼは我が事のように喜んでいる。
しかし戌亥は、それどころでは無かった。胸を反らしたために、室内でも被っていたフードが後ろに落ち、頭部があらわになったのだ。狼の耳が周囲を伺うようにピクピクと動く。彼女はあわててフードを被りなおした。店主は別方向を向いていたから、気づかなかったようだ。
ぽかんと口を開けてその様子を眺めていたリゼは「ちょっと待ってて」というと、ドレスを吊るし棚に返し、店の端の方に歩いて行った。たちまちもどってくると、濃いグレーの布を差し出した。
「これ、どうかな」
手渡された布を開いてみると、それは大き目のベレー帽だった。ヘルエスタ王国の東部、ベアルン地方に由来する帽子だが、その簡便さから今では全土に普及している。深いグレーの色は、いま戌亥がまとっている服の色味に合わせてくれたのだろう。リゼが何を言いたいか、戌亥はすぐ分かった。
フードを被ったまま器用にベレー帽をかぶり、しっかりと耳を収めてからフードをとる。
「ええ感じや。おっきいから、ずれたり飛んだりもせんと思う」
アンジュが手鏡を持ってきてくれていた。そこに自分を映してみる。帽子の左右には赤い花の意匠が一つずつ縫い付けられ、華やかさを添えている。落ち着いたグレーの布地は、しかし良い布であるらしく、光を上品に照り返して質感が豊かである。
アンジュは鏡を持ちながらにっこりとして言った。
「あら、かわいい。いいですね、いいですね」
リゼも賛同する。
「いいですね!」
なぜ批評家のような口調になるのかと、戌亥は不思議に思ったが、それよりも自分の胸の高鳴りに戸惑っていた。ここは彼女の故郷ではない。人間の世界だ。それなのにフードを外し、心地いい帽子に替えただけで、心が軽くなったように感じた。
「ありがとう――これ、買うわ。いくらやろうか」
「ああ、私買ってくる!」
リゼがそう言って、小さなリュックサックから財布を取り出そうとすると、アンジュが慌てて止めた。
「あかん、私、私買ってくるから。リゼは金貨しか持ってへんのやから。何かと思われるわ。後で両替屋いこう」
あの、私、自分で買う――と言う暇もなく、アンジュの手でフードをかぶらされ、帽子を奪われた。リゼとアンジュは妙に気合の入った様子で店主のところに行くと、手早く会計を済ませてしまったようだ。
二人して輝くような顔で戻ってくると、また帽子を渡してくれた。戌亥は同じ要領で帽子をかぶり、フードを払った。人間の友達からプレゼントを貰う。もちろん、初めての経験だった。
「二人とも――おおきに。大事にする! もう、ずっとこれかぶるわ」
戌亥の笑顔に、二人も安心したように笑った。
それからまた二軒、三軒と服屋やら宝飾品やら、お菓子屋やらを回った。もうフードはかぶらなかったから、夏の日の光が眩しかった。
「本当は、とこちゃんが帽子もいらないヘルエスタになるといいんだけどね。ごめんね」
リゼがそういうと、戌亥は笑って首を振る。
「あたし、これ好きよ。リゼはんがくれたもん」
人間界にきて、こんなに清々しい気持ちは初めてだと、戌亥は思った。「あたしもあげたんやけどな」とアンジュがわざとらしく文句を言ったから、二人はまた笑った。
大通りから一つ奥に入り込めば、急に細くなる路地には更にさまざまな店がある。敢えて目立たぬ店構えの玄人めいた高級酒場に、占い。禁制のはずの賭博場。
彼女たち三人には用がない店も多いのは、港町の常である。港から港へ物を運ぶ船員たちが、たまの上陸には一夜の楽しみを求めるからだ。まだ夕方だが、もう開いている店もある。それらが何の店かとリゼが興味を持つ前に通り過ぎてしまおうと、戌亥とアンジュは無言のうちに連携し、足どりを速めた。
通り過ぎながら、戌亥は鋭い目でそれらの店内を窓越しに伺った。魔物の姿を探したのだ。
この種の店には水辺や水中に棲む魔物、マーメイド、メロウやセイレーンが雇われていることが多い。彼女たちは種族の八割以上を女性が占めるし、人間から見れば容姿端麗と相場が決まっている。それにマーメイドやメロウは下肢の先がヒレや蛇の尾だから長く歩くのに向かず、セイレーンは腕が翼だから手作業が苦手だ。そのような身体的な都合と、もともと水場の近くでの生活を好む性質から、彼女たちが港町で需要が多い酌婦や踊り子、その他の男性相手の仕事に多くつくのは自然なことだった。最近ではその種の仕事を指して、水商売なる隠語で呼ぶこともあるほどで、魔物への偏見を強める一因ともなっている。
ところが、その種の店にちらちらと見える女性はみな人間で、やはり魔物の姿は見えなかった。戌亥はますます訝しんだ。
その一画を過ぎ、さらに港に近づくと、船乗り向けの専門店が増えた。その多くは、いわゆる船問屋である。船と船員を維持するには多くの物が必要だ。船に積み込む水、日持ちする食料。それらをいれる樽や木箱。帆や櫓櫂、網といった船具に、それらの修理具を扱っている。
船宿と呼ばれる、船乗り向けの宿も港に近づくほど増えていく。船宿は寝床と食事だけでなく、船の貸し出しや預かり、船具や食料の卸への仲介、雇われ船員の斡旋まで手広く商っている。利便のため海に面し、小さくとも桟橋まで持っている宿も多い。
彼女たち三人の目的はその一つである。戌亥は足を止めた。
「ここや。うちのダチの宿や」
海沿いの岸壁に面した木造二階建ての店である。あまり大きくはない。特徴的なのは、建屋の奥の方が海にせり出していることだ。入り口の上に掛かっている看板にはヘルエスタ語で「船具船宿 ぱしふぃこ」と大書してある。愛嬌のある素人の筆で、店名の下に波と船が描かれている。
リゼが何やら難しい顔をしているのには気づいたが、歩き疲れたのだろうと思った。戌亥は引き戸を開けた。
「おーい、おるー? 来たでー」
遠慮なく店内に入っていく戌亥に、リゼとアンジュが続く。店内には海の匂いが満ちている。室内の装飾も、海にまつわるものばかりだ。壁には周辺の海図。漁網や綱といった船具を並べている大ぶりな棚の上に、貝殻を貼り合わせて作った可愛げな船の模型が置かれている。
しかし店内は無人であるようだった。戌亥はずかずかと進み、戸を開けて店の奥へ進んだ。
そこは店の中であって、しかし既に海だった。床が部屋の半ばまでしかない。部屋の奥側は床がすっぽりと抜け落ち、その下に海面が見えた。時おり波が立ち、手前の床が海水で濡れた。途端、リゼが小さな悲鳴をあげた。
「リゼはん、さっきからどうしたんや?」
戌亥は様子がおかしい皇女に尋ねた。表情は硬く、顔色がいつの間にか失せている。皇女は小声で答えた。
「あのう、言ってなかったけど……私、水が苦手で」
「水? ああ、大丈夫よ。そこにおれば落ちたりせえへんし」
リゼは硬い表情で頷いている。戌亥は再び尋ねた。
「…もしかして、見るのも苦手?」
「想像するのも苦手」
「あちゃあ。ここ、まずかったか」
「ううん、見えなければいい。別のこと考えるようにするから…へへ…」
リゼは皇女らしからぬ青い顔と無理な笑いでごまかした。まあ、寝てしまえば関係ないだろうと戌亥は大まかに考えた。その場にしゃがむと、部屋の奥の海に向かって大声で呼びかける。
「おーい! きー、たー、でー!」
すると海面にぶくぶくと泡が立ち、そこからザブリと音を立てて人影があらわれた。
「よう、とこ。帰って来たな」
床を両手でつかみ、よいしょと上がってきたのは女だった。肌の色はふつうのヘルエスタ人と同じだが、頬のところどころに銀の色の部分がある。身体に密着するシャツとショートパンツをまとい、豊かな緑の髪を後ろで束ねている。そこから海水が流れ落ちた。
「久しぶりや。ディーナ」
「ああ? 連れが――待って、人間?」
「うん、あたしのダチや」
そう聞くと、海から上がってきた女は顔いっぱいに喜色を浮かべた。
「なんだい、嬉しいじゃないか! 二人ともいらっしゃい。あたしはディーナ。ディーナ・パシフィコってんだ。ここの主人さ。待ってな、今夜はごちそうにするよ!」
そう言うと、彼女は腰に下げた網を持ち上げて示した。大ぶりな牡蠣がいっぱいに入っていた。
日が落ちて間もなく、三人とディーナは店内でともに食卓を囲んでいた。この店は一階が船具屋と食堂、二階が宿になっているのだった。
互いに自己紹介を終えると、ディーナはリゼの素性に驚いた。しかし恐縮するのではなく、大笑いした。
「なんだい、本当にお姫さまだってのかい。たまげたねえ。うちはそんないい寝床じゃないぜ。でも、ほれ。この牡蠣料理だけはお城のコックにも負けないつもりだよ。まあ試してみな」
ディーナは持ってきた大鍋の蓋をとった。中から湯気が溢れ、煮込まれた牡蠣と野菜の匂いが室内に溢れた。
しかしリゼとアンジュの目は鍋の中身ではなく、蓋をわきにやったディーナの手を追っていた。
「ああ、これが気になるかい?」
ディーナはてらいもなく、自分の手を顔の前にやり、五本の指を開いたり閉じたりした。半ばの関節あたりまで、指の股に薄い皮が張っている。水かきである。
「便利なもんだよ」と言って、ディーナは自分の顔を撫でた。銀色に光っているのはウロコだ。彼女はマーメイドだった。しかし彼女の下肢は人と同じく二本の脚になっていると、リゼたちはもう見て知っていた。
「うちはお袋がマーメイドでね。親父は人間の漁師だった。親父の船が嵐で沈んだところを、お袋が助けたのが縁になったていう、そういう話さ」
混血の魔物。そのような例があると、リゼもアンジュも知識では知っているはずだが、驚きを隠すのは難しいようだった。戌亥はまだ、自分も同じ境遇だと二人に話す機会を得られていないのである。人と魔物の混血の子は、ただの魔物よりも一層に人間から疎まれやすいのが相場だった。だからどう反応すべきかリゼとアンジュは迷っているようだった。
ディーナは二人が困る前に、すぐ破顔して続けた。
「だからね、あたしもこれまで、五人ばかり海で助けたんだよ。でも、運がなくてね。助ける奴、助ける奴、みんな不細工でいけねえや。次こそ色男に溺れててほしいやね」
だっはっは、と自分で大笑いする。アンジュは何やら深い感銘を受けたような顔で「そんな出会い方が…! なるほど」と何度も頷いていた。
ディーナは漁師好みの強い火酒をまず戌亥、次にアンジュとリゼにも勧め始める。戌亥は望むところだったが、二人は遠慮した。
アンジュが「あんまり強いのはちょっと」と言ったので、ディーナはまたたくまにワインのお湯割りを持ってきた。リゼは「私、まだお酒は駄目で」と遠慮したので、割る前の白湯を飲むことになった。
ディーナは「おお、乾杯、乾杯」といい、皆が合わせた。女店主は盃を一口で空にすると、「さ、冷めないうちにね」と、自分でもバクバクと食べ始めた。釣られて、リゼとアンジュもフォークとスプーンを動かした。
「美味しい…!」
「うっま…! 牡蠣って初めて食べた」
感嘆する二人を横目に、戌亥はものも言わずにどんどんと食べている。彼女が世界一、いや二つの世界で一番旨いと信じて疑わないディーナの牡蠣鍋、その熱いところを逃す手はないのだ。リゼとアンジュも負けじとばかり、せわしなく食べ始めた。
人心地がつき、食べるより飲む方が多くなったところで、ディーナは戌亥に切り出した。
「それで、歌手はまだおやすみかい? 待ってんだけどね」
リゼとアンジュは驚いた顔になった。戌亥は少し恥ずかしそうに答えた。
「やりたいけど、今は仕事があるから」
「歌手が仕事だと思ってたよ」
「そうやけど、歌は好きでやっとることやから――調査官の仕事は公職やからな。義務や。やらなあかん」
リゼが口をはさんだ。
「とこちゃん、歌手だったの? 道理で上手だと思った!」
旅の途中で野営するとき、夜長の暇つぶしに三人で歌うことが何度かあった。その度、リゼとアンジュは戌亥の歌に感嘆し、涙を流すことさえあったものだ。
ディーナは自分のことのように得意げに語った。
「そうなんだよ。長いこと給仕の仕事やりながら頑張って、やっと芽が出たんだぜ? 市の仕事ったって、真面目にやりすぎなんじゃないかねえ。自分のためになるもんでもないのに」
戌亥はディーナにやり返した。
「あんたも一緒やろ? 地獄と行き帰りする客にはタダで船なんて貸して」
それがディーナの商売の奇特なところだった。地獄に行くには船が必要だが、すぐに引き返してくる客ばかりではない。それに地獄行きの旅は、その特殊な航路のために、船を痛めやすい。それなのにディーナは、通常の貸船とは別に、地獄との往来用の小舟を常に手元において、無料で貸しているのだった。
「そりゃ、将来への投資さ。人間界と地獄の間で、もっと往来が増えてほしいってのが、あたしのやりたいことだからね。でなきゃ――とっくによその町に行ってるよ」
戌亥が表情を変えた。リゼもコップを取って喉を潤しながら二人の会話を伺った。
「やっぱり、そんなに悪いか? 最近の雲行きは」
ディーナは頷いた。
「街を歩いて気づいたろ。あたし以外の魔物はみんな出ていったよ。今じゃ、夜中にはとても出歩けやしないね。半殺しにされる。それで済みゃ、ずいぶん運がいいさね」
「何があったんや?」
戌亥の端的な問いに、ディーナは深く息をついた。
「何も」
「何も?」
「ない。何かデカい事があったわけじゃないよ。ただ、嫌がらせがふえた。魔物だってだけで絡まれる。店をやってりゃ、窓を割られたり、落書きをされたりだ。ぐっと増えたのは、この数カ月だよ。潮が満ちてきたんだと思うね」
「潮が?」
「魔物嫌いって潮さ。今は満ち潮なんだ。きっかけがあったとすりゃ、十年前のあの法律かな。寛容令ってやつ」
リゼが明らかに動揺した顔をしたが、声を発していいものか、迷っているようだった。その法は彼女の父親、現国王がこれまでの伝統に反して発布したものだ。察して、ディーナの方から申し訳なさそうに言った。
「ああ、すまないね。王様に文句があるわけじゃないんだよ。いいこともあったさ。あたしのこの店だって、昔は法律違反だったんだからね。持ち主は人間で、あたしは雇われだって嘘つかなきゃいかなかった。そのためにムダ金を毎月支払うのさ」
寛容令以前、魔物は土地を買うことができず、住む場所にも厳しい制限があった。それでも人間の街に店を持ちたければ、名義貸しを受けるしかなかった。
「――あれが無くなったのは、本当に助かった。みんな喜んだよ。魔物だって街に住んだり、土地や店を持てるようになって。田舎で小作人をやってた連中が、みんな街に出てきた。いま考えれば、それがまずかったんだ。人間を怖がらせすぎた」
「共存するための法律なのに!」
ついにリゼは我慢できずに口を挟んだ。ディーナはそんな皇女を宥めようとした。
「まあ、一時のことだよ、お姫様。潮だっていったろ? 満ちた後は必ず引くもんさ。そのうち、みんな慣れるよ。王様やあんたの言うような、仲良く暮らせる時代だってくるさ」
そう言うと、半マーメイドの女は、盃に残っていた火酒をぐっと空けた。そして言葉を続ける。
「でなきゃ、あたしみたいなのがこの世に生まれるもんか――みんな、一緒の船に乗ってるんだ。嵐が来て水を掻き出すときに、魔物だ、人間だなんて、誰が気にするもんかね。そう考えりゃ、誰だって一緒にやれる。海みたいに広い心をみんな持てるはずなんだよ。だから、あたしはこの街で好きにやるさ」
戌亥は火酒の瓶を取り、彼女の盃に注いだ。
「あんたはやっぱり、あたしのダチやわ」
「へへ。まあ、お前もやりたいことやりなよ。もっとね」
二人はめいめいに盃を干した。リゼはちびちびと水を飲んでいる。
その時、妙なうめき声が聞こえた。彼女ら三人はそちらの方をみた。黙々と飲み食いしていた――と思われていた、アンジュである。
赤髪の錬金術師は突如、立ち上がった。
「うおおお、ええ話や! ディーナさんっ。うぃ、うぃ!」
アンジュは水割り――されているはずの――ワインが入った盃を、ディーナの盃に押し付けるように打ち合わせた。そして左手を腰にあてる。
「ここでぇ。お酒をっ。くいっとね!」
一息に飲み干すと、聡明博学な錬金術師は笑い出した。
「へっへっへ。何がへへへなんだ。へっへっへ」
さすがに心配そうにリゼが声をかける。
「ちょっと、アンジュ。落ち着いて」
途端、アンジュは息せき切って答えた。
「いや、違うで、リゼ。落ち着いてどうする。この瞬間が愉しいやん。生き急ぐな。せやろ!? まあ待て。でも、リゼがそんなに言うなら落ち着いてやろう」
大げさに両手を広げ、深呼吸を一つ。
「ふう。顔が熱いぜ。酔ってるかもしれん。いや、酔ってないです。もう酔ってないです。見て、この凛とした目つき。なあ戌亥」
戌亥はあっさりと酔っ払いを袖にし、適当に相槌をうつ。
「はいはい。わかっとる、わかっとる」
しかしアンジュは感激の面持ちで言った。
「分かってくれたー! うおお、うちらの友情は永遠や。アンジュ! 戌亥! ヘルエスタ! アンジュ! 戌亥! ヘルエスタ! うおお…」
ドコドコドコドコ、と口太鼓を鳴らしながら彼女はさらに飲み、やがて「お疲れでした。寝る」と一方的に宣言すると、その場で倒れるように寝た。
戌亥はため息をつき、アンジュをひょいと持ち上げて寝室に運んだ。リゼもついていき、アンジュと同室で床についた。
食卓に戻ってきた戌亥はディーナとともに後片付けをした。その合間に、ディーナは彼女に言った。
「友達を大事にな。お前に人間のダチができて嬉しいよ」
戌亥は皿をまとめる手をとめた。種族は違っても自分と同じ混血の友人に言った。
「うん。ディーナ、気を付けろよ。危なかったら、ちゃんと逃げるんやで」
「誰に言ってる? 本当にやばかったら海に飛びこんで、地獄まで泳いでくよ」
マーメイドの友人はそう言い、不敵に笑ってみせた。
翌朝。アンジュは無論、起きてこなかったが、戌亥とリゼに叩き起こされた。帆のついた小舟をディーナから借りた三人は、早々に出帆した。
大騒動だった。リゼは真っ青になってアンジュに抱き着き、一瞬たりとも海を見ようとしなかった。アンジュは既に地獄にいるような悲壮な表情をしていた。起きてからずっと続いている頭痛の原因にいかに心当たりがないかについて、誰にともなく滔々と語り続けた。
使い物にならない二人には構わず、戌亥は手慣れた手つきで帆を操作した。朝の光の中を進む船に向けて、桟橋のディーナはいつまでも手を振っていた。
見送る友に手を振り返した戌亥は、船を目指す進路に向けた。地獄への船旅において、進路は日によって違う。その方角を示すのは、地獄の民だけがもっている特殊な方位磁針である。その中には地獄の海で汲んだ海水が満ちているのだ。
その針の示す方向へ、半日あまりの航海。海面にそれはあった。
白波を立てて巻く大渦である。海水が渦中に吸い込まれ、そこだけ海が窪んだようになっている。
あらかじめ聞いてはいたが、リゼとアンジュは恐怖のあまり悲鳴をあげた。それを気にもとめず、戌亥は船を渦に突っ込ませた。波の勢いのままに何度か旋回してから渦の中央に到達すると、船はほとんど真っ逆さまに海に吸い込まれた。
気づいたとき、船は地面の上にあった。
「着いたで、二人とも」
先に降りた戌亥に促されて、アンジュは震えながら船を降りた。確かに地面の感触があった。まだ真っ青な顔のリゼがおそるおそる後に続く。
「うええ、怖かったでぇ…。これ、どうなっとるんや、ほんま」
アンジュは見上げ、この場所の不思議に感じ入った。頭上に渦潮が巻いている。しかし彼女たちは呼吸できる。ここは、空気にくるまれて海中を漂流する小島なのだ。渦潮は常に小島の真上にあり、ともに漂っている。
なぜこのような空間があるのかは、地獄の学者たちも知らないそうだ。古代の預言者がそのように作ったのだと、伝承だけが残っていると聞いた。そしてその伝説の人物が遺したものの本体は、この不可思議な島自体ではない。
戌亥はそれを指さして言った。
「あれが地獄の門」
小島の中央にある巨大な石の扉である。門に歩み寄ると、アンジュはその文様に興味をひかれた。顔を近づけ、手で撫でて確かめている。
リゼもつられてそれを眺めて、言った。
「何か絵を彫ってない?」
アンジュは首を横に振る。
「東方の古代文字みたいに見える。一つの文字に読み方が何通りもあるやつ。えーっと、この場合は確か……ガン、ええと、途中は分からないな。最後はネ、ネイ…ザ、でいいのかな?」
戌亥は目を見張った。
「何でそんなもんまで読めんねん。魔物の学者でも辞書に首っ引きやで」
「まーね。我、錬金術師ぞ?」
アンジュは胸を反らしてポーズを決めた。頭痛はもう収まっている。彼女は得意げに語った。
「錬金術っていうのは、オーブの扱いだけじゃなくて、伝統的な薬草学とか呪文書の読解もやるからね。色んな古い言葉を叩き込まれるんだよ」
実のところ、アンジュは誰より得意としている実験や計算よりも、普通の学生が教師を呪いながら学ぶ言語や古典の方を好んでいるのだった。前者を実用のため、後者を楽しみのため、彼女にどちらも熱心に探究した。王国全土から貴族の秀才を集めた学院にあって、平民出の彼女が抜群の成績を示せた理由の一つは、そのような学びの姿勢にあった。
戌亥は心から感心したような声で解説した。
「何でも、最初の魔物たちを導いてくれた預言者の言葉やって。あたしらの世界の古い名前が書いとるらしいよ。今じゃ忘れられた名前やけど」
「へーえ」とアンジュは感心して見せたが、戌亥の説明は間違っているのではないか、と思っていた。彼女の知識によれば、これは親を亡くした子どもの安全を願う言葉のはずであった。
リゼが戌亥に尋ねた。
「待って、名前って、地獄っていうのが名前じゃないの?」
戌亥は扉を何事か操作しつつ、背中で答えた。
「それは外向きの呼び方や。こけおどしみたいなもんやな。本当は別の呼び方があるんや」
「なんていうの?」
ギリギリという重厚な音とともに、扉が真ん中から左右に開く。奥に一歩を踏み出すと、戌亥は尻尾を翻して振り返る。そしてリゼとアンジュに向けて片手を差し伸べながら言った。
「あたし達の『新世界』へ、ようこそ!」
(次話「地獄の夜」に続く)