市議会議員 戌亥とこの戦争 : Page of Lambda C   作:芝三十郎

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3BK_IF、Page of Lambdaの二次創作。 リゼたち三人は転移門を抜けて地獄を訪れた。ヘルエスタとはまるで違う、魔物たちの社会。リゼは人と魔物の隔たりを実感するのだった。


2つの世界の出会い

 地獄の門を抜けると、そこは花畑だった。門の入口は海中にあったのに、出口を抜けると彼女たち三人は丘の上にいた。

 

 なだらかに下る緑の地面に広々と、白や紫の野花が咲き誇っている。花に囲まれるように点々と立っている四角い白の大理石は、墓標なのだろうか。花畑の向こうで地面はさらに下り、丘の周囲に広がる白い街につながっている。

 

 その街の様子は、リゼがかつて目にしたことのあるどの街とも違う鮮やかない色をしていた。家々の壁は真っ白。屋根は赤茶色。ところどころに見える青の色は、扉や窓枠だ。白いキャンパスに赤と青の刺し色を入れたようだ。

 

 これほど目に鮮やかな街がこの世界にあろうとは思いもよらなかった―――いや、ここは現に別の世界なのだ。地獄と呼ばれるこの場所は、人間たちがそうと信じている想像上の冥府の国ではない。魔物たちが住まう異世界なのである。

 

 白く煌めく街並みのはるか向こうには、明るい青色の海が見える。涼やかな海風が街を越えて丘まで吹きあげ、彼女の周囲で薄紫の花びらを散らした。

 

「綺麗なところ。確かに地獄なんて言っちゃ悪いね」

 

 風にひるがえる銀髪を手で押さえながら、リゼはそう言った。やや陰りかけた陽光を浴び、その髪は不思議と水色がかった輝きを返している。彼女はともに門を抜け、今は隣に立つ赤髪の友人を見た。

 

 しかし、友人は素晴らしい景観に背を向けている。いま抜けてきたばかりの四角い石づくりの建物、その壁に手をあて、撫でまわしている。

 

「アンジュ?」

 

 声をかけると、我にかえったような声で、赤髪の女アンジュは言った。

 

「凄いよ、リゼ。本当に転移した。この技術、錬金術じゃない。こんなもんが古代には作れたんだ。本当に…凄いよ」

 

 彼女は錬金術師。五大元素を操作し、世界を改造する理論体系を修めている。その彼女の博学をもってしても、世界を渡るという技術は理解を越えたものなのだろう。しかし知的な興奮よりも、リゼは自分の驚きを友に共有してほしかった。

 

「門も凄いけど、街!」

 

 促されて、アンジュは丘の下を見下ろした。友人の表情が素直な憧れに変わったのを見て、リゼは満足し、言葉を続けた。

 

「ぜんぜん違う、知らない街。ううん、知らない世界だもの。何でも見てみたい」

 

「行ってみよう!」

 

 興奮して今にも丘を駆け下ろうとする二人は、後ろからたしなめられた。

 

「嬉しいけど、ちょっと待ってや」

 

 そう言ったのは、狼のような耳と尾をもつ獣人の娘、戌亥とこである。彼女はこの地獄で生まれ育った。そして人間界へ調査のため赴き、そこで得た友人二人を伴って、いま帰還したのだ。両世界を知る獣人の娘は言った。

 

「人間をよく思わん魔物もおるし、そうでなくても珍しがられるわ。とりあえず、あたしが働いとるお店に行って、今夜は泊まろう。下りて、すぐやから」

 

 そういうと、戌亥は先頭にたって二人を案内し始めた。ローブの下の尾が盛んに動いて裾を跳ね上げているのが、彼女の興奮のあらわれだった。

 

 頭には、リゼとアンジュから贈られた大き目のベレー帽を被っている。狼の耳はその中に収まって、見えない。人間界では魔物の素性を隠す必要があったからだ。

 

 しかし戌亥は地獄に帰還した今も、その帽子を敢えて脱ごうとはしないようだった。

 

 後を追いながら、アンジュが二人に聞こえるように言った。

 

「それ、私に任して。ちょっと考えがあっから」

 

 三人は街まで下り、わざと裏路地を通った。大通りに面した店に、敢えて裏口から入った。

 

 戌亥は自分が働いているというそこを「『喫茶店』っていうんや」と説明した。しかし、そのような種類の店はヘルエスタにもオヴィクスにもない。リゼとアンジュは小首をかしげ、戌亥も説明に困っているようだった。

 

 ひとまずは椅子に座って机に向かい、小休止をとった。戌亥が手早く切ったパンとチーズを夕食に取りながら、アンジュが戌亥に尋ねた。

 

「ここ、食堂とは違うの? お茶だけ飲む店?」

 

「うーん、軽いもんは出すけどね。でもお茶を飲むっていうか、お客さんはお喋りしたり、新聞読みにきたりやな」

 

「新聞って?」

 

「説明は難しいな。これなんやけど」

 

 戌亥はその紙束を棚から取り、アンジュに手渡した。リゼも横から覗き込む。地獄の文字はヘルエスタの古語に近い。アンジュならば恐らく判読できるだろう。

 

 リゼも勇者伝説の古文書を愛読しているくらいだから、大まかな意味はとることができた。

 

「法律とか…政治の話?」

 

「そうや。もっと下世話な話題もあるけどね。最近、世の中であったことと、それの説明とか、意見とかが書いてあるんや。お客さんは、これを読んでみんなでお喋りっていうか、議論したりするんよ」

 

「お客さんって貴族――は、いないんだっけ。大臣や役人なの?」

 

「いんや。普通の魔物よ。そういう執政府の役職はクジ引きで決めて交代交代にやるから、お客さんがいきなり役人になることはあるけどね」

 

「普通の人、じゃない、魔物が。なんでこんな話を知ったり、議論したりするの?」

 

 戌亥から話を聞けば聞くほど、リゼの疑問は増すばかりだった。そもそも貴族なしで政治が可能であるということが、自身も皇族である彼女には不思議そのものだった。

 

「センキョがあるからね。新聞でも読んでないと、ギインを選ぶのに困るから――ってのは建前で、世間話というか、楽しみの一種やよ。たいていのお客さんにとって」

 

「センキョ? ギイン?」

 

 リゼが戸惑ったそれらは、ヘルエスタには存在しない語彙である。戌亥はそれに気づいて補足した。

 

「ああ、ええと、選挙っていうのは入れ札やな。議員を選ぶための。議員っていうのは……あー、ヘルエスタには似たものがないんやけど。王様の顧問とか貴族会に近いかな? 何百人もおるんやけど。入れ札で選ばれた議員が話し合って、法律を作ったり、裁判をしたり、執政府――これはヘルエスタでいえば王様の宮廷と官衙やな――に、指示を出したりするんよ」

 

「入れ札でそんな仕事を…平民が…」

 

 地獄社会のあり方はリゼの想像を超えていた。

 

 黙々と新聞を読み込んでいたアンジュが顔を上げて言った。

 

「外海のずっと向こうにある小国にちょっと似た制度があるよ。法律を作るところと、実際にまつりごとを行う部署を分けてるんでしょ? そんで誰が法律を作るかは入れ札で決める。クジ引きで役人を決めるってのは初めて聞いたけどね」

 

 アンジュの理解の速さに、戌亥は驚きながらも首肯した。

 

「そう、それや。このブレイズ市も、ヘルエスタ王国と比べたら大きい街みたいなもんやと思う。地獄の中では一番大きくって、国みたいな立場なんやけどね」

 

「都市で、国ってわけか」

 

 テンポよく理解を深めているアンジュと異なり、リゼはまだ考え込んでいた。分かったのは、この場所が彼女の信じる国の形とは全く異質であるということだった。

 

そんな話をしながら食事を終えた時には、もう日が暮れていた。地獄の門までに経た船旅の疲れが出て、三人は二階の居室で床に就いた。

 

 

 

 翌朝。喫茶店なる奇妙な店の一室で、リゼはアンジュの厳しい声を浴びていた。

 

「人族と魔物が共存できる世界のために、地獄を調査する…リゼが言い出したことだろ?」

 

「そう…だけど…」

 

 リゼの瞳は揺れていた。第二皇女として厳しい訓練を受け、男の近衛兵を悠々と倒す彼女は、まだ十七歳の娘なのだ。何でもできるわけではない。アンジュは説得を続けた。

 

「だったら、必要なことなんだ。どんなに苦しくても」

 

「わかってる…だけど」

 

 顔をそむけるリゼに、アンジュは強く迫った。

 

「勇気を出すんだ! 勇者の末裔なんだろ? ためらってちゃ駄目だ」

 

 勇者。そう聞いて、リゼの心は決心に傾きかけた。しかし、なお揺らぎは収まりきらない。

 

「やっぱり、他にもやり方はあるんじゃないかって」

 

 最後の一押しは、友人の叱咤だった。

 

「こいよ! 日和ってんな!」

 

 ついに覚悟を決める。皇女は両手をくいと丸め、跳ねるように片足を上げる。そして彼女は言った。

 

「わ…私は、猫人族のリゼ・ヘルエスタだにゃん!」

 

 その頭には白い猫の耳型の飾りをつけたカチューシャ。腰にまいたベルトからは白い尾が垂れている。

 

大義のためには我が身を顧みないその勇姿に、アンジュはぐっと右手を握り、親指を掲げてみせた。

 

「完璧や…。やったな、リゼ」

 

 その時、扉が開き、戌亥が声とともに入ってきた。

 

「おはんよ。お茶が入ったで――おん?」

 

 妙な声とともに目を細め、リゼを凝視する。皇女の頬が紅潮した。

 

「と、とこちゃんはどう思うにゃん? 人間だってばれないかにゃん?」

 

 問われた戌亥ではなく、アンジュが力強く言った。

 

「もうばっちりやでえ! カチューシャとベルトをうまいこと隠せば、すっかり獣人族や。な、戌亥」

 

「アンジュはんがそう言うんやったら」

 

「ほんとに!? とこちゃんのアンジュへの謎の信頼、なんなの。この人、絶対、面白がってるだけだよ。だけにゃん」

 

 戌亥は少し困ったような顔をした。

 

「でも、そういう種族は確かにおるからなぁ。ああ、でも…その、にゃん、はいらんと思うで。そんなん言う奴おらん」

 

「ほら!」

 

 アンジュは勢いよく反論する。

 

「いや、でも私が持ってる文献だと、それは欠かせないって。私の専門がそこじゃないってのは認めるけど、分野の伝統ってものがね」

 

 リゼも負けてはいない。確かにアンジュは博覧強記の人で、彼女の小屋はたくさんの蔵書で埋まっている。しかし、それが必ずしも大部な研究書や古文書だけではないと、密かに知っているからである。

 

「現地のとこちゃんが、こう言ってるでしょうが!」

 

「いや、ほんと言うと、ヒゲと肉球もつけるべきだと私は思っていて」

 

「真剣な顔でわけのわからんことを…。もういい、行こう、行こう!」

 

 戌亥は我関せずという意志が明らかな態度で告げた。

 

「ほな、お茶を飲みながら、街のこと説明するわ。そんで朝ごはん、食べに行こ」

 

 

 

 

 戌亥に案内され、リゼとアンジュは賑やかな大通りに出た。リゼは白い猫耳と尾、アンジュはキツネ耳をつけている。

 

 彼女らの周りを歩く多くの住民たち、その多様さにリゼは目を見張っている。あまりキョロキョロとせぬように気をつけながらも、つい見ざるをえない。多くの魔物は二本足で歩く人型だが、明らかに人間ではない。

 

 一番多いのは、体の一部や全体が動物に似た獣人族だ。顔立ちからして犬そのものであるコボルト。豚のような顔と巨大をもつオーク。こう見ると、戌亥はかなり人間よりの姿なのだと分かった。

 

 他にも、顔立ちは人のようであっても、赤や青の顔色をし、頭に角をもつ鬼族。髭を蓄えているのに背丈はリゼよりも低い岩人や小人族。尖った耳を持つ森人族。人型ではない魔物は少数だが、特に目立っている。人形のように小さく、背中の羽でふよふよと飛んでいる妖精族。半身が人ではない、馬人や蛇人など。

 

 大通りに沿って掘られた水路では、魚人や蛇人が泳いで往来している。

 

意外にも、姿形からして人間とはまるで違う魔物はほとんどいなかった。戌亥によれば、そのような種族、例えば賢狼、大鷲、飛竜などは孤立した狩猟生活を好むため、市内にはほとんど来ないという話だった。

 

 リゼはさりげなくローブの上から左腰を撫でた。剣の感触を確かめる。周囲の魔物たちは誰も武装していない。しかしほとんどの魔物が、素手であっても人間をはるかに凌駕する怪力を有するはずだ。楽しげに談笑しながら歩いている魔物たちの姿にさえ、彼女は緊張を覚えた。

 

 そんな彼女の気を知らず、あちらこちらとくるくると見回しながら歩いているアンジュを、肘で小突く。そして小声で言った。

 

「あんまりキョロキョロしないの!」

 

「え、何で?」

 

「変に見られるでしょ」

 

「だいじょぶ、だいじょぶ。あたしが王都に初めて登った頃は毎日、こんなもんやったで? 地獄にもそういう田舎もんはおるって」

 

 気楽に笑うアンジュを、リゼは羨んだ。友人は同国人だが、自分と異なり、いくつもの社会を行き来してきたのだ。山村から王都へ。平民の出にして、貴族の子弟ばかりの王立学院へ。昔からアンジュは彼女に多くのことを教えてくれた。その中には書物では学べないことの方が多かった。

 

 戌亥が彼女たちを導いた先は、円形の広場だった。リゼがよく汗を流した練兵場ほどもある。そこに木製の屋台が多数集まっている。

 

 市場――それも、こんなに広い。

 

 リゼが感嘆したのは、その市が王都ヘルエスタのそれに匹敵するほど繁盛して見えたからだ。しかし店を巡ってみると、印象はまた変わった。店の数ほど多いが、どれも売っているものは似たり寄ったり。品数も少なかった。特に、ヘルエスタなら売っていて当然の生肉、イチゴやイチジクなどの痛みやすい果実があまり売っていない。肉類は生きたままの羊か、あるいは干し肉にしてあるものばかり。果物はそもそも種類が少なく、レモンの他は各種の干しブドウばかり。新鮮な生ものといえば魚介だけだった。野菜はというと、オリーブと小芋が多く、葉物は少なかった。

 

「錬金術がないからね。冷やして運ぶってことができないんだよ」

 

 リゼの目線だけから考えを読み取って解説したのはアンジュである。言われてから、やっと気づいた自分がリゼは恥ずかしくなった。かつて訪れたオヴィクスにも錬金術はないが、地獄の品数はあの沙漠のオアシス都市よりも貧しいように思えた。

 

「ついたで。おっちゃん、三つ頂戴な」

 

 戌亥はそう言って、馴染みらしい屋台に何かの食物を注文した。「あいよ」と元気に返事をした店員、その顔は赤い。額に二本の角を認めて、リゼはびくりとした。鬼族である。鬼族は人間界にも住んでおり、王都で言葉を交わしたこともあるのに、なぜ自分はこうも怯えているのだろうと思った。

 

 店員はショートソードほども長い包丁を用いて、縦長の肉塊を薄く切っている。切り取られた薄切り肉を、薄パンのように見えるものに何らかの緑の葉とともに挟みこんでいく。そうして料理をこしらえながら、鬼の店員は陽気な調子で戌亥に話しかけた。

 

「戌亥さん、久しぶりじゃないかい。また出張かい?」

 

「まあね。昨日の夜、帰ったとこなんや」

 

「そいじゃ、真っ先にうちに来てくれたのかい?」

 

「そりゃあね」

 

「嬉しいじゃないか。ちょいとおまけしとこう。はいよっ」

 

 薄パンに挟まれた肉に赤みがかったソースをかけ、レモンのしぼり汁をかけて、それで完成したらしい。店員はそれを戌亥、アンジュ、リゼに一つずつ渡した。

 

「あの…これ、何ていう食べ物?」

 

 リゼが尋ねた先は、小銭を払い終えた戌亥だ。

 

「んー? けばぶ。まあ食べてみ。ああ、これ羊のお肉ね」

 

 見本を見せるように戌亥はそれに齧りついた。アンジュもそれに倣う。

 

「うっま! ええね、これ」

 

 リゼは少しためらわれた。野営の最中ならもとまく、食物を街の路上で食べるのには未だに抵抗を感じる彼女だった。しかし、期待するような戌亥の目をみて、羞恥心に目を瞑らせて齧りつく。

 

 よく炙られた羊肉の旨味と香りが口の中に広がった。羊に特有の臭みはソースとレモンにすっかり掻き消されている。初めて食べる紫がかった葉物はシャキシャキとした触感で、肉とソースによく似あった。薄パンも軽く炙られているようで、やや硬めなのに軽い食べ心地だった。二口目に齧りつくときには、リゼは恥ずかしさをすっかり忘れていた。

 

 鬼の店主はニコニコとしている。人でも鬼でも、客が美味しそうに食べていれば店主は嬉しいものなのだと、リゼは当たり前のことを思った。

 

(ヘルエスタで当たり前のことはここでも当たり前なんだ)

 

 警戒心が少し和らぐように感じたのは、空腹が満たされたためばかりではなかった。住民の姿形がまるで違い、街並みが真っ白でも、住民の営みには違いがないのかもしれない。自分の共存の理想は間違ってはいないのだと、この小さな店は教えているように思えた。

 

 その時、風が吹き抜けていった。顔にかかりそうになった銀髪を、リゼは指先の汚れに気を付けながら手の側面でかきあげた。そして、鬼の店主が表情を凍らせるのを見た。

 

 リゼは一瞬きょとんとしたが、すぐに気付いた。

 

 いま、髪をかきあげた――本物の耳にかかるように。店主から見ると、いま自分は頭の上に猫の耳、横には人の耳を持っている。流石にそんな魔物はいないに違いない。

 

「こ、これは――」

 

「あたしの友達や。目立つつもりはないから、お願いして飾り耳をつけてもろたんや。びっくりさせてもうた?」

 

 冗談が決まった、というような口調で、すかさず助け舟を出したのは戌亥である。リゼは助かったと思いながら、店主の反応を伺った。

 

「そうか、調査に行ってたんだもんな。はは、なに。この辺にも人間はいないことはないんだ。両替商人とかね。交易商で、こっちに居ついているような人族もいる」

 

 鬼は取り繕うように言った。しかし、リゼたちからは微妙に視線を外していた。

 

「怖がることはないよ」

 

 そう呟くように言ってから、鬼はようやくリゼと目を合わせ、口元を和らげた。

 

「うちの“けばぶ”は、どの種族のお客さんも旨いって言ってくれるからね」

 

 リゼも意識して微笑を作り、言葉を返した。

 

「とっても美味しいです」

 

 店主の顔に笑顔が戻った。リゼも、意識せずに笑顔でいられるようになった。

 

「お客さん、いい人だし、戌亥さんのお友達っていうんなら――その、一つ聞いてみたいことがあるんだが。いいかな」

 

「はい、何でも」

 

 同じ人間と会話するように何気なく言ったリゼに、店主は一息を置いてから尋ねた。

 

「赤い冬について、どう思ってる?」

 

「赤い……冬?」

 

 何か重要なことを聞かれているらしい、とリゼは察していた。しかし、思い当たる言葉は何も無かった。一生懸命に記憶を探ったが、何も思い浮かばない。店主はすぐに首を横に振って、言った。

 

「いや、いいよ。急に悪かったね。何でもないんだ。そう――」

 

 その笑顔は、ほんの一瞬前とはわずかに違うように見えた。店主と自分の間に見えないカーテンが降りたことをリゼは感じた。

 

「大したことじゃあ、ないんだ」

 

あなたは、この先に入らなくていいよ――そう言われているようだった。

 

 リゼが赤い冬について聞いたのは、その日の散策を終えて、夕方に戌亥の喫茶店に戻ってからである。

 

約二百年前に人間界で起こった大規模な魔物迫害。通称、赤い冬。オヴィクスでは千を超える魔物が殺され、それ以上が家を追われた。そこまでの規模ではないが、ヘルエスタでも虐殺や追放があった。

 

「そんなこと…私、聞いたことない。歴史の本にも何にも書いてなかった…」

 

 文武両道の姫君と称された第二皇女は、呆然と言った。自国の歴史ならば、王家の事業として編纂された国史はもちろんのこと、王立学院の史学者たちが出した本はことごとく読んでいる。しかし、その中にそのような事件の記述は全くなかった。

 

 リゼと同じく、全くの初耳であったらしいアンジュが苦々しげに言った。

 

「学院でも教えてないよ。歴史書を書いてる先生たちもみんな人間だからだと思う」

 

「人間のしたことを隠してるってこと?」

 

 かつては学院で学んでいたアンジュが、歴史書を著した史学者自身であるかのようにリゼは問い詰めた。アンジュは首を横に振って答えた。

 

「たぶん、五年前の事件のときと一緒だ。隠そうと思う前に、見えてないんだと思う。事件のこと、当時の人たちは知らなかったはずはないけど、歴史書に書いて残すべきことだって、誰も思わなかったんだろう」

 

「あの店主さんは、私が知ってて当然だと思ってた。人間がやったことだから」

 

 リゼは戌亥に向き直り、彼女がもつただ一人の魔物の友人に謝ろうとした。人として、そして青天白翼の王家の紋章をいつの日にか継ぐかもしれない第二皇女として。

 

「とこちゃん、私、いえヘルエスタは、とこちゃんたちに――」

 

 しかし謝罪の言葉は、珍しく戌亥に遮られた。

 

「リゼはん。いくらリゼはんが皇女さまでも、いつか女王様になったって、これはとても難しい、気の長い話なんや」

 

「二つの世界。こんなに離れてるって、私は思ってなかった。今日、街を歩いて、私、怖かった。社会の中で、自分だけが違うって。自分が当たり前だと思っていることが、誰にもそうじゃない。とこちゃんはずっとこんな気持ちだったの?」

 

 戌亥は寂しげに微笑みながら頷いた。

 

「怖かったよ。私も。ずっと怖かった」

 

「私たちも?」

 

「もう大丈夫。いつも支えてもらっとるから」

 

「私こそ!」

 

 リゼは店の入口近くの小さな棚をみた。彼女たちがこの店に戻ってきたときに外した衣類や鞄が、そこに置いてある。変装の道具も、である。

 

「あの猫耳も、とこちゃんの帽子も。どっちもいらない時代が早く来るといい――ううん、そうなるようにしなきゃ」

 

 戌亥はまた、微笑んだ。

 

「たった一人で二つの世界を背負うみたいには、考えん方がええよ。それに私、あのお帽子、好きよ。リゼはんがくれたもん」

 

 アンジュが調子外れなほど明るい声で割り込んだ。冗談を言う時、彼女は母親譲りの、地獄語に似た古い言葉になる。

 

「うちも似合っとると思うで! 猫耳リゼかて、かなりええ線いっとると思う」

 

 そしてアンジュは一転して真剣な表情になり、意味ありげに間を置いてから言った。

 

「――たぶん、なんだけど。眼鏡もつけると、なお、ええ」

 

「真剣な顔で訳のわからんことを言うな!」

 

 リゼは大きな声を出したが、もちろん、怒っているわけもない。それからはまた、お茶を飲みながら他愛もないおしゃべりに興じた。あの店は面白かった、この食べ物は美味しかった。次はどこに行こうか――。

 

 翌日は、戌亥は議会に報告に行かねばならなかったから、リゼとアンジュだけで街を散策することになった。そして三人は明日を楽しみに、床に就いた。

 

 

 

 その夜。

 

 ブレイズ市を見下ろす市中央の丘の上で、転移門が開いた。門は通常、ブレイズ市側からの操作がなければ開かないはずであった。それにも関わらず、門番が居ない夜中に門は静かに開いた。

 

 中から出てきたのは、全身に鎧をまとった数十人もの兵士たちである。最後に出てきた兵は旗を持っていた。門外で捧げもつと、夜風を受けて旗が棚引いた。その紋章は、青地に一対の白翼であった。

 

 

 

 

(次話「侵略! 地獄の夜」に続く)

 

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