市議会議員 戌亥とこの戦争 : Page of Lambda C 作:芝三十郎
その朝、ミュリーネが目を覚ました寝台に、クレオンはもういなかった。隣の炊事場から音がする。夫は彼女のために朝食の干し肉を炙っているのだ。
以前は、それほど殊勝な夫ではなかった。昔からの寝坊癖が治ったのは、彼女が妊娠してからである。魔物はなかなか子を授からない分、出生への期待が大きいのだ。以来、夫は工房に出勤するまえに、何かと家のことを片付けていくようになった。悪阻時期を終えた彼女がまた
横向きに寝ていた身体を起こし、彼女は身支度を始めた。腹が膨れだしてからというもの、着るものは締め付けができるだけ少ない服に限る。寝間着を脱ぎ、ゆったりとした亜麻の貫頭衣に身体を通すと、頭の上で二つの狐耳がぴょこんと動く。手を腰にまわし、衣に開いた穴から尾を通して完了だ。
棚からブラシを取り出し、少しばかり毛並みを整えようとしたところで、ドンドンと扉を叩く音がした。朝も早くから来客とは迷惑なことだ。何か急な用事の心当たりでもあったかと思いながら、ブラシを諦めて玄関に向かう。
玄関の外から「こんにちは、こんにちは」と聞こえる。戸を叩く音はまだ続いている。
「はいはい、ただいま」
後ろから「俺が出るよ」と夫の声がするが、火の番を放っておかせるのはまずい。だいたい、もう毎日働きにもでているというのに、夫は構いつけ過ぎるのだと、そうミュリーネは思った彼女は扉の内錠を外し、ぎい、と開ける。はいはい、お待たせを――その言葉は喉の奥で止まった。
鉄の塊があった。人型をしている。金属の質感に似合わない生物的な曲線。足先から頭まで銀色だ。目鼻はない。目や口があるべき部分に横一線の切れ目があるのみだ。その奥から声がした。
「こんにちは」
舌がまわらない。自分が何を見ているのか、彼女にはまるで分からなかった。しかし身体の知覚に従って、彼女は自分の腹を見下ろした。白い亜麻の衣、そのふくらんだあたりからナイフの柄が生えている。その生え際から衣が赤く滲み、急速に白い布地を染めていった。
石造りの市議会議場、その二階の一室に外交委員会はある。早朝からそこに詰めているのは委員長と副委員長の二人だと、いつでも相場が決まっていた。同じ資料に同じだけ目を通さないでは気のすまない二人なのだ。仲が良いから、ではない。
少しずらしたサングラスの脇から書類を眺めていた吸血鬼が、彼の年下の上司に言った。
「こう見るとヘルエスタ王国ってのは妙な国やな。前に住んどったときは気付きもせんかったが」
応じる外交委員長は青い肌をもつ鬼族である。部下とはいえ議員としては先達、年齢でもずっと上の副委員長を相手に、彼は丁寧に問い返した。
「妙と言われると?」
「国の中に国がある。それぞれに別の方向をむいとる。諸侯に揃って反対されると王家もごり押しはできん。その力が無い」
「数百の近衛兵はいても、軍を招集すれば諸侯の方が強いと」
事情を分析して、ビアデス委員長はいつでも冷静だった。声にも態度にも礼節はあっても親しみはない。副委員長は彼の最大の政敵でもあるからだ。
遠回しに挑まれた政策論争を、副委員長の風間は大げさな背伸びの動作で応じる。
「王様はそのために魔物との共存を目指しとる。工場にも、鉄道にも、先立つもんがいるからな。やけど、王家が強くなったら困る諸侯は誰も彼も反対、と。これではなあ」
「イチジクの助けですね。友好関係が結べるとは、とても」
イチジクの枝は柔らかく、建材にはならない。頼りにならぬ、という意味の慣用句だった。ビアデスは元来、人間界との断交が持論なのだ。そう主張する党派の旗手でもある。
「というて、痩せた土で実るんはイチジクくらいのもんや」
あくびをしてみせながら、風間は食い下がった。彼の方は、外交を通じた人族との共存を唱える党派の首魁である。しかしその彼の目から見ても、調査官たちがかき集めてきた情報を総合すれば、明るい見通しを描くのは難しい。だが彼は希望を諦めてはいない。
「ヘルエスタ王国は…まだマシやと思うべきや。オヴィクスはえらいことになっとるやないか。まさか、国を挙げて迫害に乗り出すとはな。こら近々、来るで」
「ええ、オヴィクス中から。何万人になるか…。本市だけではとても」
風間は頷いて同意を示す。人間界から新世界への避難民。政見を異にする二人だが、避難民たちの心情は痛いほどわかるのは同じだった。二人とも二百年前、迫害に追われてブレイズ市に避難してきた身の上であるからだ。しかし今の彼らはそれを受け入れる側にいる。
風間は頭を人差し指で搔きながら答えた。
「確かにな。しんどいが、最初から植民村に行って貰うか。それか、先に開拓船を出しとくしかないのう」
「同意します。先に掴めておいて助かりました」
「調査官たちのおかげや。特に戌亥くんはようやってくれとるわ」
ビアデスは何気なく左腕、鉄製の義手の肘のあたりに右手をやり、ボタンを押して動き具合を確かめた。風間はそれを見逃さない。何か重大事を切り出すときの癖なのだと、もう分かっている。
義手にギリギリと音を立てさせながらビアデスは言った。
「例の皇女、連れてきたそうですね。我々のところにはいつ?」
「あと何日か観光してもろてからやな。ええ心証をもってもらわんと」
「信じていいものでしょうか」
「戌亥くん次第やのう。彼女ら友情がほんもんかどうかや」
「個人の関係に期待し過ぎでは?」
礼儀を守りつつも執拗なビアデスに、風間は舌打ちしたくなった。しかし彼がしたことはサングラスをちょいと直し、自分の目を相手から見えなくしただけだった。
「するしかないわ。それとも門を閉ざすべきやと?」
友好関係の樹立に向けてあくまで努力するか、あるいは転移門を破壊し、永久の断交、永久の安全を手に入れるか。後者の案は、完全に消え失せたわけではない。調査官たちを人間界に送り、十分な情報が集まったならば改めて市議会で議論すると、それが風間たちの引き出せた妥協だった。
彼が政敵のビアデスを外交委員長に担いだのは、その条件を違えるつもりはないという、断交派への証文のようなものである。
あわよくばビアデスを共存派の委員で囲い込んで懐柔しようという目論見もあったが、風間はもうその望みを捨てていた。外交委員長としてのビアデスは、その仕事ぶりでもって共存派の委員や調査官たちから信頼を勝ち得たからだ。調査官への指示は的を射て外さず、彼らの身の安全への配慮も怠りない。どちらが懐柔を試みているのやら、分かったものではなかった。
そのようでも断交への意志はあくまで堅固なのだから、風間は若き政敵に舌を巻かざるを得ない。今もビアデスは礼儀を守りつつ、断固として持論を主張した。
「私の考えは変わっていませんよ。今は、まだ早いというだけです」
「そうや。まだ早い」
「避難民の収容が終わったら」
「ヘルエスタ王家と交渉を試みてからや」
礼儀正しく話し合いつつ、時たまこの種の牽制を交わし合う。ただし道理が分かる相手だから、明確な理屈の立たないうちは行動にはでないはず。それならお互い様という、牽制は休戦状態の確認行為だった。してみると、やはり自分はこの男と互いに信頼し合っているのかもしれないと思って、風間は何とも言えない気持ちだった。
沈黙を破ったのは小さく聞こえた声。悲鳴のように聞こえる。 窓の外、転移門の丘の方からである。
二人は立ち上がり、窓のそばに寄った。そしてそれを見た。
門の丘に続く道沿いの家々から煙があがっている。道を必死に駆け下る、幾人もの魔物たちが見える。その背後の路上に見えるのは赤い血だまりと、剣をもって歩く灰色の鎧たち。数十体はいる。
ビアデスが凍り付くような声で断定した。
「間違っていた」
鋼鉄の兵たちはまもなく広場に達しようとしている。そこには数十の露店、幾百の市民がいる。
「我々はどちらも遅すぎたのです」
その時、アンジュは羊肉の串焼きを口にしていた。リゼと戌亥も同様である。昨日までは異世界の街歩きをひどく警戒しているようだった皇女だが、今朝はずいぶん気楽になったようだった。
今日はどこに行こう。郊外に出て、海まで歩いてみるのは? それとも街の東にある連山に行こうか。運よく戌亥の旧知の飛竜族に出会えれば、背に載せてもらえるかもしれない。
そんなことを話し合っていたとき、戌亥の気配が一変した。ぎょっとして注目した彼女とリゼに、獣人の友は告げた。
「悲鳴や。丘の方から。警戒して」
そう言うや否や、悲鳴がしたというその方向に向けて歩き始める。周囲の魔物たちは変わりなく露店市での買い物を楽しんでいる。何か異変があったとすれば、戌亥はそれに気づいた最初の一体であったろう。
彼女もリゼも、周囲の平和な雰囲気よりも友人の判断を信じた。食べかけの串焼きを咥え、急いで装備を確認する。ローブの裏ポケットには各種のオーブや薬草、触媒類が入っている。リゼもローブの下に細剣を佩いているはずだ。
やがて彼女の耳にもはっきりと悲鳴が聞こえた。転移門の丘へ向かう道から、大勢の魔物達がかけてくる。幾人かの服にある赤い染みは血だ。
「何が」
彼女の疑問に答える声はなかった。悲鳴は広場に集っていた買い物客たちも伝播し始めた。そして彼女らの目にも、敵の姿が見えた。
丘からの道を下ってくる兵士たち。全身鎧をまとい、剣や槍を携えている。
あまりにも現実感がなかった。犯罪でも喧嘩でもなく、兵士たち。これでは戦だ。さらにおかしいのは兵たちの背格好だ。アンジュは確認するようにつぶやいた。
「人間…やな」
全く普通に見える。それがここでは異状なのだ。
「どうした!? 何があったんや」
逃げてきた魔物の一人を捕まえて、そう聞いたのは戌亥である。
「こ、殺される。逃げて。あいつらに」
問われた獣人の男の答えは要領を得なかったが、それで十分だった。三人の誰もが状況を理解した。不明なのは理由だけだった。戌亥は彼から手を放し、声を発した。彼女の声量は悲鳴も喧噪も圧倒し、広場全体に響いた。
「みんな、逃げろ。丘から反対へ。海の方へ。」
周囲の喧騒が増した。しかしまだ状況を理解できず、戸惑うばかりの者が半ばほどもいる。戌亥はもう一度声を発した。
「逃げるんや。人間が攻めてきた!」
その言葉が終わると同時に、戌亥の肩や腕が太さを増した。獣化。彼女が完全な戦闘態勢をとったのだとアンジュには分かった。周囲の魔物達のほとんどが走って逃げ始める。
アンジュもオーブを取り出し、戦闘用の術を思い浮かべる。きっとリゼが、すぐに指示をくれるはずだ。
しかし傍らを見れば、友人は唖然と立ち尽くしていた。皇女の身で凄腕の騎士、天性の指揮官が、だ。剣を抜いてもいない。混乱し、身動きもできずにいるように見える。かつてないことだった。
「リゼ?」
アンジュはリゼの目線の先を追い、そして皇女の混乱を理解した。
もう広場の入口に達しようとしている兵士たち。彼らの一人が掲げている旗。青地に一対の白翼を描いている。その意匠はヘルエスタ王家の紋章。旗に描けば、王国旗に他ならない。
「ヘルエスタの兵隊が」
地獄に、いやこの新世界に攻めてきている。魔物たちを殺めながら、彼女らに迫っている。
「そんなはずない」
そうリゼが呟いたが、それで現実が変わるはずもない。先頭の兵たちが広場に足を踏み入れた。
「貴様らッ!」
そう叫んで突進した戌亥は、勢いのままぶつかるようにして戦闘に入った。彼女の拳や蹴りを食らい、鎧で身を固めた兵士が幾人も吹き飛ぶように倒れるのが見える。獣化した戌亥の力は凄まじい。しかし全身鎧の兵たちはすぐに起き上がり、剣を掲げて戌亥を取り囲もうとしている。
「助けないと。私たちも」
アンジュが促しても、リゼはまだかぶりを振っている。逡巡。不決断。この友人にはあり得ないことだ。彼女は友人を叱咤した。
「しっかりするんだ。どこの領主のだか分からないけど、ヘルエスタの兵だ。だから何だっていうんだ」
それが彼女の料簡なのだ。平民なら誰でもそうだ。我が領主、我が国王に時として誇りや親しみを覚えることはあっても、自分達とは別種の存在だと思っている。
「王様や貴族のすることなんて分からない」
リゼはアンジュを睨みつけた。
「父上はそんなことはしない。旗なんて偽物に決まってる」
「そ、そんならいいじゃないか、それで。とにかく今は戌亥を――」
言いかけて、アンジュは見た。戌亥と対峙する兵が、肩掛けした革袋から取り出した、その黒い玉のようなものを。
戌亥は間近にそれを見た。彼女になぎ倒された兵士が取り出し、投げつけようとするそれを。黒い玉。何か分からない。それでも彼女が大きく後ろに跳んだのは、危険を確信したからだ。獣の本能。戦士の直感。何より彼女は、それに似た大きさの球体を間近に見たことがある。その恐るべき力も。
兵士は黒玉の出っ張りを引き抜いて投擲。彼女はさらに横に跳んで避けた。しかし玉の狙いは最初から地面だった。投げられた勢いのまま石畳にぶつかり、玉は割れ砕けた。
その中から爆音とともに炎が生じ、急激に広がる。十分に距離をとったつもりでいた彼女をも炎は包み込んだ。獣化した彼女は、その手足に毛皮をまとっている。剣が相手なら鎧代わりだ。火はその毛皮が燃え移り、たちまち全身に回った。たまらず漏れた悲鳴さえ、炎と爆音が掻き消した。
一瞬のうちに獣人の友が炎にまかれるのを目撃し、その焦りと混乱の中でも、アンジュの頭脳は黒玉の正体を一瞬で見抜いていた。
「オーブの擲弾…! 本当にあんなのを」
錬金技術の武器化。その最も単純な案だった。火力のオーブを思い切って簡易化したものだ。威力の調整や指向性の付与は不可能。その単純さの代わりに、栓を折って投げつけるだけで発動する。腕のいい錬金術師ほど軽蔑する思い付きである。王立学院を落第寸前で卒業した先輩、その卒業制作だった。学園中から笑いものにされた提出者は、家名の力で卒業はできても術師にはなれず、親元に帰ったらしいと噂に聞いていた。
しかし殺人用途と割り切ったなら、その威力は確かだった。たった一発で、屋台一つを包むほどの火炎が巻き起こった。その炎の中で、もがく人影がうっすらと見える。生きている。
アンジュは必死にローブの内ポケットをまさぐり、携行していた中で最大きいオーブを取り出した。その中で青い触媒が光る。
「戌亥ッ!」
友の名を叫びながら、直ちに術を編む。折った栓から触媒が宙に溶け、その空間からあらわれた大量の水が炎に向けて殺到する。稀代の術師が発動した導力は、簡易オーブの比ではない。
しかし、彼女は甘かった。素人を甘く見ていた。幾人もの兵たちがそれぞれに黒玉、擲弾と呼ばれる錬金武器を彼女に向けて投げつけたのだ。五、六発の擲弾が周囲にばらまかれる。
アンジュは即座に反応した。導力に与えた指向性を変え、リゼと自分の周囲に水の壁を生じさせたのだ。壁の周囲は一瞬で炎の海と化したが、彼女たちは無事だ。彼女たち二人は。
「とこちゃん!」
叫びながら走り出したリゼは、アンジュが作った水の防壁を抜け、そのまま燃え盛る炎の中へ飛び込んだ。
(次話「決別」に続く)