市議会議員 戌亥とこの戦争 : Page of Lambda C 作:芝三十郎
炎のなかで声にならない絶叫をあげながら、戌亥は夢を見ていた。
彼女がいるのはブレイズ市の広場ではない。見知らぬ街の広場、その中央に立てられた磔台の上だ。
彼女は両手両足を柱に括りつけられ、やはり業火に巻かれている。燃えながら、しきりと頭を左右に振る。そうすれば炎が消えるかのように。
だが火は容赦なく彼女を焦がす。まず毛皮。次に肉が焼ける。自分の身体から香ばしい匂いがする。恐怖のあまり絶叫しようとするが、もう息ができない。
囃はやし、笑っているのは、火の回りを囲む人間たちだ。旨そうな匂いじゃないか、犬の肉にしては。
げらげらと笑う人垣の中に、深いフードに顔と涙を隠す女が一人いる。フードの隙間から覗くその顔は、彼女によく似ていた。
――行かないで!
そう女に叫ぼうとするが、もう声は出ない。手を伸ばそうとするが、しかし動けない。何もできない。火は、全体が毛皮に覆われた彼女の顔にまわった。このまま火と煙の中で黒く焦げ、自分は無くなるのだ。
やがて女は炎に背を向けて歩き出した。街に背を向けて。人間に背を向けて。振り返ることは二度とない。
――ああ、嫌、嫌。一人にしないで!
避けえない闇の予感が心を包んだとき、彼女の背後から誰かの両腕が伸びた。腕は燃え盛る彼女を抱きしめ、強く後ろに引っ張った。
目を覚ました時、身体に痛みはなかった。全身の皮膚にピリピリとした違和感があるだけだ。
視界にいれた自分の手は、もう獣化は解けて、人の皮膚である。焦げた跡一つもない。
「とこちゃん」
その手で自分の顔を触る。つるりとしている。痛みはなく、毛皮もない。おかしい。人間の顔をした、この私は誰?
「とこちゃん!」
それが友人の声だと分かったとき、戌亥とこは自分を取り戻した。目の前に涙ぐむリゼの顔がある。自分は彼女の膝に頭を乗せ、地面に横たわっているのだと分かった。皇女は涙をぬぐいながら彼女に言った。
「よかった…!」
まだ霧がかかった戌亥の頭に疑念が去来した。自分は炎に巻かれ、全身が焼けたのではなかったか。その衝撃、恐怖、自分の肉が焦げる匂いまで覚えがある。
「あたしは…生きとるんか」
腕を見ると、服はボロボロに焦げているのに皮膚には火傷の跡もない。疑問を晴らしたのはアンジュだった。
「正直、危なかったよ。エリクシエルが残っとって良かった」
アンジュが安堵の声で言ったのは、彼女が錬金術師の里ラキミーで生成した癒しの霊薬のことである。呪いを受けて命を失いかけていたリゼのために作ったものだが、完成した量は想定よりも何故か多かった。その残りをアンジュは持ち歩いていたのだった。
「うっすら覚えがある…助けてもろて…あれはリゼはん?」
浅く頷きながら涙をぬぐう皇女の顔を見る。いくらか煤で汚れているが、やはり火傷は無い。それどころか髪の毛も燃えていない。服が多少焦げているくらいだ。
「確か火の中で…あんま覚えとらんけど」
燃える自分をリゼが抱きしめ、助け出してくれた気がした。しかし、あれは夢だったのだろうと戌亥は思った。本当にあの業火に飛び込んだとすれば、リゼが無事で済んだはずがない。それか、リゼも霊薬の残りを飲んで回復したのかもしれない。皇女が無傷で済んだはずがない。
そこまで考えたところで、ようやく頭の霧が晴れ、彼女は飛び起きた。
「敵は!? 街はどうなったんや」
見回せば、ここは広場からほど近い路地裏のようである。
「丘の方へ退いていったみたい。街を散々に荒らしていった後に」
リゼの声には悔しさが滲んでいた。
「あいつらは」と言いかけて言葉を止めた戌亥に、リゼは首を横に振った。
「分からない。あれはヘルエスタの紋章だった。でも、でも信じられない…。確かにあいつらは丘の方から来たけど」
戌亥は顔色を変えて言った。
「そうや。丘から来た。転移門から――」
完全武装の兵士にも臆せず立ち向かった獣人の心が凍ったように冷えた。顔は恐怖で歪んでいる。
「妹二人が番小屋におったはずや」」
三人は再び広場に出て、丘への道を辿った。そこには地獄があった。
多くの家々が焼けている。ブレイズ市の家は石造りに漆喰を塗っているから火事には強いはずだが、あの錬金術の業火には敵わなかったらしい。木でできている扉や屋根、家具などが燃え尽き、窓から除く家々の中は黒焦げだった。そしてその中に、同じく黒く焦げた魔物達の死体が転がっていた。
死体は路上にもあった。家から引きずり出された住人や、路上にいて逃げ切れなかった市民だと思われた。
三人は言葉もなかった。一歩を進めるたび、路地を一つ越えるたびに新たな惨劇が目に入った。
死体は数えきれないほどあった。その中の多くが身体の一部を切り取られていた。切り落とされた首いくらも路上にあった。それを抱き、泣き喚いている遺族と思しき市民たちの姿も。
――なぜ。どうして。
戌亥の頭を覆ったのは疑問だった。あまりのことに、驚きや怒りの感覚は麻痺したようだ。だから問うた。なぜ、と。
ただ殺しただけなら、こうはならない。明らかに殺しを楽しんだ形跡があった。命を奪った後に破壊されたであろう遺体も。
ここ数十年の間に幾度も人間界を旅した彼女の経験がそう教えていた。そういうことをする人間がいるのは知っている。食い詰めた盗賊騎士やゴロツキなどがだ。獣でも、例えば猫はネズミを仕留める前にいたぶって遊ぶことがある。生き物は生き物を殺すことを楽しめるのだ。
しかし、それにしても眼前の風景は異常だった。肉を食うためでは無論ない。金品を奪うためでもないらしい。ただ命を奪うために殺め、それを楽しんでいる。
「ひっ…!」
小さな悲鳴を上げたのはアンジュだ。何かを踏んでしまったらしい。足を止めて視線の端でみれば、彼女のブーツにぬるりと付着するつぶれた目玉が見えた。何も考えまいとして、腹の底の方の嘔吐感を黙殺する。リゼとアンジュも一言も喋らなかったから、同じようにしているに違いない。戌亥はすぐ前に向き直って歩き出した。
彼女はもう、隣を歩く二人の顔を見ることができなかった。もし見れば、彼女同様の蒼白の顔が目に入るだろう。見れば「どうして」と問い、「なぜ」と責めずにいられる自信が、彼女にはもう無かった。
丘へ続く道の傾斜が急になった頃、まだ燃えている家を発見し、三人は走り寄った。
「た、助けて。俺の家なんだ。家族が中にいるかもしれない」
扉の前で鬼の男がわめき、あたりをゆく市民たちに助けを求めている。そのような家が何軒もあった。攻めてきた兵士たちは丘に戻りながら火を放って行ったのだろう。
幾人かの市民たちがバケツを使って消火を試みている。ブレイズ市には水道が通っているし、水棲の魔物たちが通る水路もある。しかし人数の不足から、火勢に勝ててはいないようだった。
「アンジュはん、錬金術で頼む。リゼはんも、救助を頼みたい。私は妹たちを」
そう言うと、戌亥はすぐに丘の上に向かって駆けだした。後ろからリゼの声がしたが、無視して駆けた。
<ヘルエスタの兵なら、二人に戦わせたらいかん>
自分はいま彼女たちと共にいるのが苦しいのだと、そう認めずにいるための、それが自分への言い訳だった。だから彼女は走って逃げたのだといっていい。友人たちを置き捨て、敵との戦いを求めて。
「おやっさん!?」
辿り着いた丘の上では、十数名もの魔物たちが門を囲んでいた。大半が議員たちなのは、議会に詰めていたからだろう。その中に風間の後ろ姿があった。
共存派の首魁は、戌亥を振り向かなかった。門前に残る人間の兵士たちとにらみ合っているのだ。兵士の数はわずかに数人だけ。残りはもう門を越えて人間界に戻ったのだろう。
戌亥は状況をすっかり理解した。
兵士たちのうち二人がそれぞれ魔物を抱え、その喉に短剣を突きつけている。人質たちの顔は血にまみれて赤黒く、腫れ上がっている。しかし、彼女が見間違えるはずもない。
「バン! ケン!」
返事はない。とうに意識は失っているようだった。だが人質にされているということは、まだ命はあるのだろうと、彼女は瞬時に判断した。
同時に獣化する。麻痺していた怒りの感覚が一挙に戻ってきた。妹たちを抱えている兵士たちを見据え、跳躍せんと腰を低くする。
――殺す
灼熱する意識で、彼女は隙を求めた。迂回するか。何かして意表を突くか。しかし機会は訪れない。彼女を含めた魔物たちも、対峙する兵士たちも無言のまましばしの時間が過ぎる。
――リゼはん、アンジュはんがおったら。
焦燥とともに彼女は思う。リゼなら即断し、適切な指示をくれるだろう。それかリゼが右、戌亥が左と分散して隙を作れるかも。アンジュなら錬金術で敵を攪乱してくれたろう。それとも、誰も思いつかないような解決策を見つけてくれたかもしれない。そして戌亥はただ、真っ先に突破して敵に殺到すればいい。
だがここに二人はいない。置いてきたのは彼女自身だ。三人ならできないことはない。それなのに、捨ててきた。
その時、風が吹いた。海からの強い風が丘を駆けあがり、周囲に咲く花を散らした。花びらが彼女らと兵達の間に舞う。
今か――と彼女が跳躍しようとしたとき、兵達は人質たちを離した。その背を蹴り、彼女たちの方へ押しやる。魔物達の意識がそれたとき、兵達は何かを投げた。黒い球体がいくつも宙を飛ぶ。
「逃げろ!」
仲間たちに叫びながら、彼女は前方に駆けだした。よろけて倒れる妹たちに向けて。二人を掴んで逃げる暇はない。だから抱きしめてかばった。あの黒い玉が炸裂するなら、その炎を自分で受けようとする。
しかし、雄たけびとともに突進してきた風間が、彼女たち姉妹に向かってきた一つの黒弾を殴り飛ばした。弾は跳ね返りながら炸裂し、炎が吸血鬼を包んだ。
「おやっさん!」
他にも数発の弾が彼女たちの左右で炸裂する。花畑は瞬時に火の海に変わる。
その爆風が収まったとき、風間はよろよろと後ろ倒しに倒れた。その向こうに人間の兵達の姿はもうなく、転移門の入口が閉まるところが見えた。
戌亥は声もなく風間にかけよる。もう兵士たちのことはすっかり頭になかった。慌てて抱き起こす。吸血鬼は微かに呻き声をあげている。
だが、戌亥にはそれが分からない。
「ああ、ああ。おやっさん、おやっさん。死んだら、死んだらあかん」
――まただ。家族はいつも死んでしまう。自分が必要としているときに。お母さん、お母さん。
「あたしの親は他におらんのに。ひ、一人にせんといて」
揺すられて、吸血鬼は苦しい息で笑ってみせた。
「へ、へへ。ひひ…‥」
いつものサングラスはいずこかに吹き飛び、眩しそうに眼を細めている。
「死んだかて生き返るわ…そんなん言われたら」
そこまで言って吸血鬼は咳き込んだ。戌亥は風間の全身を見回す余裕ができた。火傷は多くない。玉を弾き返した分だけ、浴びる炎が少なく済んだようだった。
「大丈夫や。日陰で何日か寝とりゃ治る。バンとケンに手当を。そ、それに…街へ戻るんや」
戌亥は顔をあげた。目の前には意識を失って倒れている妹二人。周囲では花畑がまだ燃えている。丘の下をみれば、いつもは白い街の一部が黒く汚れている。炎はもう見えない。煙も上がっていない。アンジュがやってくれたのだろう。
「火事は収まった。人間の兵隊はもうおらん」
しかし風間は苦し気に咳き込みながら否定した。
「ち、違う。始まってしまう。守れ…人間を…」
煤すすけたようにみえる路上や広場。その所々に人垣ができつつある。消火や救助ではない。
戌亥はやっと理解した。消された火とは別の炎が、今まさに熾おころうとしているのだ。彼女の街は火の海になるに違いない。
(次話「わたしが誰であるか」に続く)