市議会議員 戌亥とこの戦争 : Page of Lambda C 作:芝三十郎
丘に続く坂道で、鎮火した家々の漆喰壁のどこかしこも黒ずんでいる。屋根や扉は燃え落ち、荒れ果てた室内が丸見えだ。焼け焦げた床には赤黒の染みがある。
路上には家具やら何やら、色々なものが散乱している。リゼはそのうち一つを拾い上げた。片方だけの小さな靴だった。その大きさは彼女の掌の半分もない。彼女は恐れるように靴を家の前に置き直した。
立ち上がって道の先を見る。周辺の市民たちは、同胞の遺体を探し、集め、一先ずは
嘆きの声とともに、また新たな亡骸が広場に運び込まれた。いま並んでいる数だけで、百を下ることはあるまい。原形を留めていないものや、腕や足だけのものがあるから、正確に数えるのは難しいだろう。
消火と救助をはとうに終えていたが、リゼとアンジュは茫然としてそのような景色を眺めるばかりだった。丘の上に戌亥を助けに行くべきだと、頭の一部が告げている。しかし、どうしても足が動かない。心まで鈍くなっているようだった。
市の外縁部や郊外から市民たちが続々と中心部に集まり、救助や手当、片付けの手助けに加わっている。すると、次第に手持ち無沙汰になるものが出てきた。彼ら彼女らはやがて群れをなし、路上で、広場で、声をあげ始めた。
「みんな人間がやったんだ」
「あいつらはケダモノだ」
「簡単に、次々に。楽しんで殺しやがった」
「こんなの―――以来だ」
聞き覚えのある言葉が聞こえた。その言葉は徐々に増えていった。
広場の方でガラスが割れる音が聞こえた。リゼはボンヤリとそちらを見降ろした。
襲撃にも無事だった店や家が襲われていた。声をあらげ、棒を振り回し、家や店の格子窓や扉をたたき割っている。中から路上に引きずり出されたのは人間だ。地獄、いやこのブレイズ市に少数だけ住んでいる人間。主には商人とその家族だ。大勢の魔物達がそのまわりを取り囲んだ。
「お前らが、あいつらを呼び込んだんだろう」
「同じ市民のふりしやがって」
「裏切りもの!」
「裏切りもの!」
人間の商人は地べたに跪き、涙ながらに弁解しようとしている。
――なあ、待ってくれよ。俺のことは知ってるじゃないか。なんで、どうして…
同じような光景がそこかしこで繰り広げられていた。子どもを連れた人間の母親までが通りに引き出され、魔物達に取り囲まれている。
――みんな、聞いておくれよ。あたいらをどうしようっていうんだ。何年も暮らして来たのに。やめて、この子には…
「リ、リゼ。ここにいちゃ駄目だ」
告げた錬金術師の声で、皇女は遂に我に返った。袖を引く友人の手を振り払い、弾かれたように坂を駆け下っていった。彼女が疾走すれば、体力で劣る友人はついてこられるはずもない。
鍛えた俊足は坂道をあっという間に過ぎ、
「やめて!」
そう叫び、今にも人間の商人に殴りかかろうとしていたオークを突き飛ばし、割って入る。両手を広げ、彼女は人と魔物の間に立ちはだかった。
「この人たちは関係ない! 襲ってきた連中は、もう帰りました。どうか、落ち着いて。子どもだっているのに」
彼女よりずっと上背のある魔物たちが気圧されたように動きを止めた。一瞬生まれた沈黙を一つの叫びが破った。
「あいつだ! あの銀髪の女だ」
リゼ自身も、周囲の魔物達も、告発する声の主を見た。前掛けをつけた鬼の姿があった。
「俺は知ってるぞ。その女、前は魔物に化けていた」
彼女が昨日の朝食を買った露店の主だった。あの時のにこやかな態度はもうどこにもない。
「きっとあの殺し屋どもの仲間だ。この女が奴らを呼び込んだんだ!」
全ての瞳が彼女に向き直った。魔物達は拳を握り、転がる石材や燃え残りの木材を拾った。誰かの商売道具だったであろう包丁やナイフを手にした者もいる。あと一声を誰かが発したら、その全てが彼女に殺到するに違いない。
咄嗟に腰の剣に伸びかけた自分の手を止めて、リゼは周囲に視線を走らせた。しかし、直ちに無理を悟った。一人ならともかく、商人一家を連れて逃げる術はない。
ならば戦うか。彼らと。理不尽に多くを奪われた魔物達と。自分も彼ら彼女らに剣を振るえばいいのか。人間を守るために。
窮地にあって逡巡するのは、この旅で初めての経験だった。どんな敵と戦った時より彼女は迷い、そして恐怖していた。自分がここで何をしているのか、それすら分からなくなっている。
魔物達がついに一歩を踏み出そうとした時、土色の突風が広場を襲った。視界が一瞬で失せる。風とともに叩きつける砂に、誰もが目を覆い、悲鳴をあげてしゃがみこんだ。
「逃げるんだ!」
人垣の外から聞こえた友人の声に、リゼは即応した。商人一家の手を掴み、引きずるように立たせる。
「こっちへ!」
先頭に立って魔物達をかき分け、砂嵐の中を突破した。
そのまま商人一家を連れて路地に逃げ込んだところで、アンジュと合流できた。錬金術師は言った。
「逃げるんだ。ヘルエスタに戻ろう。転移門へ」
「待って。このままじゃ駄目! 誤解を解かないと」
「何が誤解なもんか」
「ヘルエスタ軍が地獄を襲うなんてありえない。何か理由が――」
「話し合える状況じゃないだろ!」
路地裏で言い争う二人を止めたのは冷静な声だった。
「アンジュはんが正しい」
見れば、すぐそこに戌亥の姿があった。珍しいことに肩で息をしている。
「今しかない。帰るんや、二人とも。その人たちも連れて」
二人、と戌亥は言った。こうなる予感があったから、自分はこの友人のもとに駆け付けることも、帰還を言い出すのも嫌だったのだと、リゼは気が付いた。それでも彼女は抗った。
「とこちゃん、聞いて。あれは、あれは何かの間違い。そんなはずない!」
言い返す戌亥の声は落ち着いていた。
「見たはずや。あいつらはヘルエスタの紋章をつけとった。リゼはんの思いがどうでも、もうこれは収まらん」
獣人の友はもう覚悟を決めたのだと、そうリゼには分かってしまった。それでも分かりたくはなかった。戌亥は言葉を続けた。
「これから何が起こるか、魔物なら誰でも知っとる。まずは噂。次に窓が割られる。住民が集まって、声をあげて。誰もが別の顔になる。大勢が殺されだすんは、もうすぐや。それが赤い冬やと。今度はこの世界で、魔物が人間を」
「来た時の裏道は憶えとるな? みんな救助に行っとるから、今は門のまわりは隙だらけや。あたしがそうさした。でも、じきにみんな気付く。警備がついてまう」
そして二つの世界は閉ざされる。人と魔物のつながりはなくなるのだと、そうリゼは悟った。そして彼女は一人の友人を失う。
「とこちゃん…私たち、友達、でしょう。これからも一緒に」
答える戌亥の声も少しだけ震えていた。
「二人は人間で、リゼはんはヘルエスタの皇女様や。あたしは多分、ずっと迷とった。だから人間界にも行った。今、やっと分かった。世界が分かれるなら、私は魔物や」
「嫌だよ。こんなのは嫌。一緒に旅してきたのに」
「うちらの気持ちなんて意味ないんや! 夢を見るのはやめて、現実を見たほうがええ。目の前の現実を」
遠くから聞こえる怒号は大きさを増した。彼女らを探している。「見つけろ」「殺せ」と声は言っている。
戌亥はリゼから目を離し、アンジュに向けて言った。
「他の人間たちも何とか門へ送り出してみせる。その人らが門を越えた後のこと、できれば頼むわ」
アンジュは固い表情で頷いた。錬金術師はとうに決意を固めていた。
「わかった」
「門を抜けたら、船に乗って待っとれば、すぐ海の上に出る。あの連中に鉢合わすかもしれんから、油断だけはせんで。とにかく――気を付けて」
戌亥はリゼたちの横を通り過ぎた。もう顔も合わせなかった。
「さよなら」
背中を向けたままでそう言うと、獣人の友は地を蹴って駆けだした。その背が見えなくなった後で、彼女のよく通る声が聞こえた。
「向こうや! 追いかけろ!」
群衆の足音が遠ざかるのが分かった。
アンジュがリゼの袖を引いた。リゼは友人たちの指図のまま、歩き出した。
彼女は全く無力だった。泣いて喚けたらどんなに楽だろうと思った。しかし涙は出ない。悲しむ資格すらないからだ。果たせなかった責任の重みが胸を締めつけている。
友情を裏切ったのは、戌亥の方ではない。獣人の友は人間を、二つの世界の共存を信じていた。そして裏切られたのだ。世界に。そして理想を振りかざすばかりの、皇女の無力さにも。それでも泣きも責めもせず、最後まで自分を気遣っていた友の気丈さを、彼女は恨みに思った。
路地の隙間に覗く空に、まだどこかで上がっている煙の色が白く滲んでいた。
戌亥は焦燥に駆られていた。別れた二人を追う群衆は何とか誤魔化したが、助けるべき人間の住人はまだいる。
彼女の選挙区にも、好き好んでブレイズ市の住民になった人族の商人一家がいた。彼女の改選のときは「応援してますよ。投票ができないのが残念です」と言ってくれた。
辿り着いたその家の前にはやはり魔物達が集まっていた。その誰もが戌亥には見知った顔だった。彼女を応援してくれた支持者たち。人間との共存を望んでいる穏健な市民たちだ。ただし、昨日までは。
今や魔物達は二組に分かれて対峙していた。一方は人族の家族を背にし、もう一方の集団と向かい合っている。
「やめろ、それ以上近づくな」
「そいつらは人族だ!」
「知ってるよ。だから何だっていうんだ!」
「大勢殺されたんだぞ!」
戌亥は意を決して呼びかけた。
「みんな、落ち着くんや」
無数の目が一斉に彼女を見た。喉にこわばりを感じる。あの議会演説の時でさえ、彼女はこれほど緊張したことはない。
「魔物同士で争ってどうするんや。落ち着かないかん。その人たちを酷い目にあわせても、なんにも解決せんで」
彼女の呼びかけに人間の家族を守っていた魔物たちは勢いづいた。
「そうだ」
「議員のいう通りや」
しかし、対する市民たちも声を怒らせた。
「あんたも裏切るのか!?」
「こうなったのも議員のせいじゃないか」
「門さえ壊しておけば!」
戌亥は歯をかみしめた。責任。そこから逃れることはできない。この結果に対する罪。目を背けることは、誰より彼女自身が許せないことだった。
無数の市民たちの目は、しかし、戌亥の後ろに吸われた。市民たちは驚いたようだった。
「ビアデス議員!?」
戌亥も振り向き、彼女の政敵に向けて小声で懇願した。
「聞いてくれ。人間たちが囲まれとる。このままじゃ、きっと殺される。門から逃がしてやらな」
返事はない。ビアデスの表情は幽鬼のように虚ろだった。
「正しいのは、あんたはやった。私は間違っとった。でも、今は一緒に――」
鉄の腕が彼女の肩を叩き、その主は戌亥に代わって市民たちの前に出た。そして鬼は叫んだ。
「み、みんな、止まれ! 人間に近づいちゃ、いけない!」
議場ではついぞ聞いたことのない声音だった。
「ビアデス議員?」
「何故です。あいつらが原因なのに」
「人間をかばうんですか!?」
動揺したのは、戌亥には猛然と反発していた者たちだ。彼女は直感した。彼女の声が届かない者にも、ビアデスの声は届く。彼がいつもの冷静な態度で市民を説得すれば、この暴動は過熱する前に収まるかもしれない。
しかし、ビアデスが続けた言葉は、この場にいる全員の期待を裏切った。
「…駄目だ。行っちゃ駄目なんだ。みんな、殺されてしまう。街の外に早く逃げるんだ」
日頃の冷静さは欠片もなかった。群衆も戌亥も、いま目にしているのがビアデスであることを疑ったほどだ。
鬼は市民たちの肩を掴み、ゆさぶり、一人、また一人と説得して――否、喚き散らしてまわった。
「僕は見たんだ。魔物街は人間でいっぱいだ。何してる。早く逃げるんだ」
市民たちは茫然としてビアデスの狂態を見守った。戌亥も同様である。彼はやがてその場にうずくまり、顔を両手で覆って泣き始めた。
「駄目だ。駄目だよ。集会所はいけない。父さんも、母さんも。僕は逃げて来たんだ。ああ、ああ」
誰もが気勢を削がれ、その場に立ち尽くすばかりだった。
ブレイズ市内に居住していた僅かな人間たちは難を逃れ、その日のうちに人間界へ逃げた。戌亥たち共存派の議員たちが彼らを集め、転移門まで護衛したのである。財産を持ち出させる暇はなかった。
翌朝になってみると、人間が住んでいた家々は荒れ果てていた。残されていた家財のほとんどが略奪され、室内はあちこちが叩き壊されていた。
その夜から、戌亥を始め、戦闘に長けた魔物たち数十名が門の周囲に野宿し、新たな襲撃の警戒にあたった。人間界側の状況はしばらくの間、まったく不明だった。こちらから偵察に出ようという意見も上がったが、あまりにも危険に過ぎるとして、話し合いの中で却下されたからだ。
避難した人間たち、そしてリゼとアンジュの無事を戌亥は祈った。
彼女の懸念はもう一つあった。襲撃者たちは転移門から来た。門に入るまでは、当然、人間界の海を渡ってきたに違いない。
転移門が再び鳴動したのは、その数日後の昼のことである。ブレイズ市側からの開門が必要な、通常の動作だった。数十名の魔物が戦闘態勢で待ち受ける中、慎重に門が開けられた。
中から出てきたのは十数名の魔物たちであった。彼らはヘルエスタ王国の各地から逃げてきたのだと訴えた。ヘルエスタの街や村で次々に魔物が襲われ、家や財産を奪われているという。殺される者も多いと。
彼らは何とか逃げ延び、夜を徹して歩き、シェケム港で人間の船を奪った。船を手に入れるにはそれしかなかったのだと、彼らは港街の様子を口々に語った。
戌亥は不安が的中したことを知った。
船を貸し、両世界を結びつけていた魔物の女。彼女の友、ディーナ・パシフィコが殺されたという知らせだった。
(次話「市民集会」へつづく)