市議会議員 戌亥とこの戦争 : Page of Lambda C 作:芝三十郎
市民集会
地面に座る戌亥の目の前を、一匹の蝶がふわりとかすめていった。蜜を探しているのだ。しかしそれは得られない。周囲にあった花畑は、十日も前に燃えてしまった。今はその灰もあらかたは風で吹き散らされているから、転移門を戴くこの丘には、黒く焦げた地面が広がっているばかりだ。その中にぽつぽつと立つ墓石まで、かつての乳白色をすっかり黒ずませてしまった。
蝶は黒ずんだ丘を虚しくさまよい、やがて空へと高く飛び上がった。そのあくまでも力強い羽ばたきに、戌亥は生命の力強さを感じた。しかし彼女の胸には、長年の友ディーナが死んだという知らせが、未だに反響して止まない。
命は生まれ、つながり、あっけなく死んでいく。初めから無かったもののように。彼女は自分の膝に顔をうずめた。
人間の友人であるリゼとアンジュも、どうなったか分からない。混乱に紛れて転移門に飛び込むことはできたらしいが、その後は不明である。
生きているといい。しかし、もし生きていたとしても、二人まだ自分を友だと思ってくれるだろうかと、彼女は考えた。答えは出なかった。蝶はもう、いずこかに去って行ったようだ。
地面を踏む音に、彼女は顔をあげた。
この非常時にも三つ揃えの背広姿でいる、風間の姿があった。いくらか痩せたらしい。額や頬にはまだ火傷の痕跡があった。
「やっぱり、
戌亥はぼんやりと頷き、立ち上がった。
「やっと決まりましたか」
「うん、長かったわ。八百年も前の石碑を読み解いて、やっと分かった。今回の件は市議会の権限を越える。他の島から市民が集まるまで少しは時間が稼げるわ」
それきり、風間は沈黙した。勢い、戌亥は応じざるを得ない。
「…その間にみんな冷静になってくれるかも。いまの市議会に委ねるよりはマシやわ。共存派は声もあげられへん」
風間は頬のかさぶたを指で軽く掻いた。
「それがのう。議長代理はわしになる」
「それは」
戌亥は絶句した。市議会を長年取り仕切ってきた蛇女の議長は、先の襲撃事件で死亡していた。このところ市議会が真っ二つに割れ、収拾がつかずにきた理由の一つである。市議会の議長は、市民集会でも議長を務めるから、後継を決めないわけにはいかない。
戌亥は働かない頭で、物事の良い面を見つけようとする。
「…そら、風間はんやったら、適任でしょうけど」
風間は無表情に頷いた。戌亥が逆接の後に飲み込んだ言葉への同意だった。
「そうや。主戦派の陰謀や。まんまと、やり返されたわ。議長が一方に肩入れはでけへん。ただでさえ声を挙げられんでおる穏健派は、まとめ役をなくす。このままやと…」
今度は風間の方が言葉を飲み込む番だった。恐れるように振り返り、丘の麓を見下ろす。焼け焦げた花畑の向こうに、やはり所々が焼けて黒ずんだブレイズ市が見える。この世界で初めての戦火は、もう消し止められている。
二人は焼け跡の前に点々とつどう市民の群れを見た。演説をし、あるいは聞き、熱心に語り合っている。数百に上る犠牲者たちの埋葬を終えた頃、人間世界との外交か断交かという政治対立も葬り去られた。
街を焼いた火が消えて、なお燃え盛ってやまないのは、踏みにじられた市民たちの心だった。
風間は言葉を続けた。
「…戦争が始まってしまうわ」
いまや魔物たちの怒りの炎は、もう一つの世界を焼き尽くそうとしている。
当初、魔物達を治めたのは盟約を主導した十二名の長老たちだった。時代が下るにつれ、種族の血のつながりは重みを失い、地縁や仕事のつながりの方が大事になると、長老会はその権威をなくした。それでも専制を続けようとした長老たちは、立ち上がった市民たちによって廃された。そして当時に生きていた全ての魔物達が再び盟約の丘に集まり、二度目の市民集会を開いた。その場において、今後は全員の話し合いと投票によって、法と裁判を決することを誓約し、魔物たちはブレイズ市の設置を宣言した。
それから千年ほどは
人間界に居た頃は王侯貴族、新世界に来てからは長老会に苦しめられた魔物たちは、特定の少数者によって支配されることを酷く恐れていたからだ。その恐れを正当化する思想が論じられ、歌われ、やがて出版されて、市の理念となった。統治者と被治者の一致。もう彼らは何者にも膝を屈するつもりはなかった。
彼らがついに屈服したのは、彼ら自身の数の増加に対してである。千年余を経て人口が十万を超えた頃、さすがに限界が来た。人口増大と市の広域化により、市民全員が丘に集って話し合うという、その建前を信じることさえ難しくなった。盟約の丘に集えるのは市の中心部に住んでいる商工業者、それも日々の仕事に汲々としなくてよい富裕者だけになりつつあったのだ。事実上の貴族が誕生しつつあった。
その当然の進行を、千年の間に練り上げられた思想の力が阻んだ。少数者による多数の支配は認められない。もし認めねばならないとすれば、その条件は――という議論の末、
魔物達は既に投票による意思決定に慣れ親しんでいたから、投票によって代表者を選び、議員と呼ばれる彼ら彼女らのみで小さな市民集会を開かせるという新制度は、すんなりと受け入れられた。選挙区割りの決定だけは大揉めに揉めたが、既に有名無実化していた氏族別居住区の境界線をそのまま引き継ぐことで当面の合意が図られた。こうして
それから八百余年。政治制度に対する市民たちの不満は尽きなかったが、現体制を覆そうという動きが起きるほどではなかった。別の島への植民が図られ、生存圏が拡大したことで、全市民の集合がますます非現実的になったという事情もある。大抵の不満は選挙区の調整や立法で解消できる話に留まっていた。離島植民村の人口がブレイズ市本島に比肩するほど大きくなれば別種の問題が生じると予想されていたが、それはまだ先の心配だった。
しかし、いま、かつてない事態が起きた。人間世界から新世界への侵攻。これに報復する出兵の提案。市議会創設時の古い規定によれば、平和と戦争に関する決定の権限まで、市議会は委任されていない。市議会にできるのは当初の政体、
ほとんど放置されていた誓約の丘では、執政府が急募した人員が木を倒し、草を刈り、努めて多くの魔物が集えるよう整備が行われた。得られた丸太は材木にし、海沿いの木場に送られた。開戦が決まれば、直ちに造船が始まる手筈だから、材木はいくらあっても足りないのだ。武具製造の準備も進められ、工房の借り上げと材料の調達交渉が行われている。
港には植民島から代表団が続々と到着している。市内の各氏族区では古い制度の埃が払われ、集会での投票権をもつ選挙人選びの話し合いが進んでいた。
魔物達が住まう新世界。その全てが今、大きく動いている。
そんな中で戌亥は、門の警備が無い日にはほとんど自宅に籠って過ごしている。無論、外交委員会に呼ばれているが、家族を理由に全て欠席していた。彼女の自宅が位置する海沿いまでは、市中央の広場や路上で盛んに行われている中小の集会の声も届かない。
彼女が始終看病をしていることは、なるほど、事実ではある。彼女の二人の妹、バンとケンは、一時は命すら危うかった。
刺し傷や切り傷はなかったが、繰り返し殴打されたらしかった。頬、胸、腕とあちこちの骨が折れていた。特に繰り返し殴られたらしい顔は黒ずんで腫れ、当初は原形が分からぬほどだった。
兵たちが彼女らを殺さなかったのは、二人が子どもに見えるからではない。現に市内では大勢の幼い魔物が虐殺されていた。門番である彼女ら二人は、門を出てきた兵たちと最初に遭遇したはずだ。兵達は帰還時に備え、まず彼女らを人質として確保したのだろうと思われた。
戌亥は彼女らの骨折した部位に添え木をし、高熱が冷ますべく濡らした布を額に置き、幾度も取り替えた。布に含ませた水を唇にあて、意識がないまでも水分を摂らせた。
看病に没頭している間、彼女は家の外の現実から目を背けることができた。代わり、彼女はよく昔を思い出した。かつても同じように、連日連夜の看病をしたことがある。
妹たちの寝台の横で、床に身体をまるめて眠るとき、彼女は遠い過去の夢を見た。
夢の中の彼女は、今の妹たちくらいの幼さだった。寝台に臥しているのは白髪の老女だ。頭に獣の耳はなく、腰に尾はない。ただの人間。忘れもしない、彼女の母親の姿だった。
彼女は市場で買った果物を絞り、その汁を母の口に含ませた。薄い麦粥を作った。母親が彼女にしてくれたように。腕を揉み、足を撫で、姿勢を変えて床ずれを防いだ。布の襁褓を取り換えて洗った。時おり見舞いに来た風間が手伝おうとしたが、彼女は断じて母親を他者に触らせようとはしなかった。
母は弱っている。きっと病気なのだ。また別の病気がうつってしまったら困る。
幼い彼女、そして魔物である彼女にとって、老いという現象は理解の外にあった。よく休めば。栄養をとれば。きっと良くなるに違いない。そう思い、懸命に立ち働いた。
母はそんな彼女を悲しく見つめ、声を殺して泣いてばかりいた。きっと、お腹が痛いのだろう。彼女は撫でてあげた。
ある夕方。差し込む西日を浴びながら、母は彼女に色々なことを告げた。彼女は頭を振って、拒絶しようとした。なおも言いすがる母親から逃げて、彼女は家の外に出た。家の前にぼんやりと座り、太陽が沈むのを見ていた。やがて光は水平線に消えた。星が昇り、流れた。
そこで彼女は目を覚ました。長いまつ毛はまだ濡れていて、瞳の下が腫れぼったく感じた。
「姉ちゃん」
寝台の上を見れば、妹たちは二人とも目を覚ましていた。まだ身体を動かすことはできないが、もう意識は明瞭だと、その瞳が告げていた。
「あんたたち…」
バンが言った。
「ごめんなさい。門を守れなかった」
ケンが言った。
「ごめんなさい。街を守れなかった」
戌亥の胸が詰まった。地獄の門番の仕事。それはただの建前で、その実は子どもでも務まる閑職。そのはずだった。それでも懸命に努める妹たちにとって、それは神聖な義務だったのだ。
思えば、昔の彼女も、選ばれ与えられた公職を懸命に務めているつもりだった。その実は、幼い身で独りになって暮らしに窮し、それなのに風間の世話になることも断った彼女のために、吸血鬼が裏から手を回した結果だったらしい。そう察したのは、成年に達してからだ。
彼女の代から後、幼年者や色々な事情のある者ばかりが門番に当選するようになった。やがて妹たちに役目が巡ってきた時、あのようなことが起こった。幼い彼女たちは、きっと懸命に立ち向かったに違いない。
「ええんや…ええんや。よう、頑張ったな。本当に」
彼女は慎重に、妹たちの額を撫でた。
その瞬間に決意した。
妹たちが守ろうとしたものがある。手放してはならない。彼女らをこのような目に遭わせた、自分の選択がある。目を背けてはならない。
――もう、あたしの気持ちなんて関係ない。逃げたらあかん。この義務と責任から。
植民村から最後の代表団が到着したのは、その翌日だった。
市議会は集会に提出する議案を紙に記し、市内の広場という広場に貼りだした。
ヘルエスタ王国に対する報復攻撃の実施。
そのような場合を想定して存在した制度だが、これまでは災害復旧や疫病対策、害獣討伐の際しか行われたことのない、市民軍の編成。
それを指揮する臨時の役職、
それらを議論し、投票に賭け、両世界の運命を決める
(次話「扇動者」に続く)