市議会議員 戌亥とこの戦争 : Page of Lambda C   作:芝三十郎

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3BK_IF、Page of Lambdaの二次創作。 開戦を煽る扇動を、戌亥は容易く押し返す。自分自身を押し殺すことで。しかし、その言葉はライバルのビアデスをも目覚めさせ、猛烈な反論を招く。投票結果が明かされ、二つの世界は衝突に向かう。


戦争投票

 演壇に向かう戌亥には自信があった。今の彼女にとっては、クレオンの単純な扇動など問題にならない。

 

 家族を亡くした? かわいそうに。本当にかわいそうに。でも、それは私も同じ。そんなことで世界を決めていいはずがない。自分が家族を奪われたって、だから他者からも奪っていいなんて、そんなわけがあるもんか。

 

 登壇した彼女に、満場の目が集中する。反感と疑惑の目。彼女は意に介さない。いま戌亥が気にしているのはビアデスの動向だけだ。鬼は、相変わらず動かず、まったく精彩を欠いている。失意の底にあるようだ。大丈夫。それなら、私に勝てる者はいない。

 

 なぜなら私は、ぜんぶ売り渡す覚悟だから。友達の生きる世界を守るためなら、私は何でもできる。

 

 彼女は静かに、しかし丘の端まで届く声で語り始めた。

 

「議長、発言の機会に感謝します。多くの市民がこの最も重要な問題について意見を述べたいと切望していることは承知しております。この問題は、単に一名の魔物、あるいは幾人かの人間、あるいは一つの市や王国だけに関わるものではありません。

 

 これは最も重大なこと、二つの世界のあり方に関わる議題だからです。私は議員としてではなく、両世界を知る者として、ここに立っています。旧世界で生まれ、新世界で育ち、また再び旧世界を旅した私には、皆さんに伝えるべきことがあります。

 

 私は、皆さんの熟慮の材料として、敢えて本案への疑念や問題点について申し上げます」

 

 裏切り者、という声があがる。黙れ、黙れというヤジを飛ぶ。

 

 戌亥が自らそれを制する前に、風間が木槌を連打した。

 

「静粛に! 静粛に! いま、救い難いほど愚かな声、黙れという声がありました。この場は、法と良心と知識に従う限り、あらゆる発言が許される議場です。諸君には、反対意見にさらに反対する自由があります。

 

 が、しかし、反対意見を封殺する自由は存在しないのであります。この場で唯一の許されざる言葉、それがまさに、黙れの一言なのです」

 

 議長の鬼気迫る熱弁はたちまち丘を制圧した。

 

「実のある反対にも、相手の意見を聞かねばなりますまい。では、戌亥議員!」

 

 戌亥は一瞬の目線だけで風間に感謝を送り、また丘を埋める市民たちに向き直った。丘はやや静まった。しかし、まだ足りないと、戌亥は踏んだ。彼女が勝つためには、必死に傾聴させねばならない。もっと惹きつけねばならない。強烈に。

 

「まず、諸君の疑念にお答えします。本議案が可決されれば、外交委員会は戦争委員会に改組されます。委員である私は、遠征軍の一員たる地位と名誉を授かります。それは、この上ない喜びやと心得ます。

 

 その時は市民集会の信任に答え、仇なす敵ことごとくを打ち滅ぼしてみせましょう。この爪で、敵の心の臓をえぐりましょう。市民諸君がお望みとあらば、敵の首を持ち帰って諸君に捧げましょう」

 

 片腕だけ獣化してみせた迫力と、彼女の眼光と声音に、誰もが息を呑んだ。赤と黄の瞳はそこ知れぬ瞋恚を覗かせていた。それが何に対する怒りなのか、市民たちは疑念に思うこともできなかった。

 

 ほうら、見ろ。この通り。みんな、単純なんや。自分より強い者、優れた者を求めてる。そいつに自分を尊重してほしい。進むべき道を教えてほしい。最初から自分たちがそれを望んでいたかのように、上手に騙してほしがっとる。それが本音や。

 

 ならば、騙してやろう。私が。私自身を火にくべて。私の邪魔する熱情には、水をぶっかけて冷ましてやろう。誰もが、私の言葉しか耳に入らないようにしてやろう。

 

「市民諸君、私はまず、亡くなった兄弟姉妹のために黙祷を捧げることから、弁論を始めたいと思います。亡き市民たちを思いましょう。私とともに、しばしの黙祷をお願いします」

 

 戌亥の言葉に、壇の近くにいる市民たちが従った。しだいに黙祷は広まり、丘を静寂が満たした。彼女の狙い通りに。

 

 頃や良し、と彼女は観た。さあ、尊重してやろう。さあ、正当化してやろう。受け取るがいい。あんたたちに正義と自己弁護をあげる。

 

「……ありがとうございました。お直りください。市民諸君、命はこの上なく尊い。なんとなれば、命にこそ、あらゆる可能性があるからです。

 

 亡くなった市民たちには長く輝かしい未来がありましたが、彼女はそれを手にすることなく世を去りました。その悲しみ、怒りを覚えるのは、私も一緒です。

 

 しかしまた、市民諸君。私は信じます。もしも命に価値があるとすれば、その重さは、生きているうちに何を得たかではなく、何を与えたかで測られるべきだと。兄弟姉妹たちが一生のうちに与えてくれたもの、残してくれたものを想うべきです。

 

 彼ら彼女らが与えてくれた愛や思い出に目を向けましょう。それらは私たちの中で生き、心を慰め、この世界が生きるに値する場所だと教えてくれます」

 

 戌亥は言葉をきり、市民たちの顔をゆっくりと眺め渡した。傾聴している。響いている。しかし、密かな怒りを感じる。当然だ。次はそれを打ち消してあげる。

 

 亡き家族と、亡き友人と引き換えに。

 

「市民諸君、私はかつて、父を人間に殺されました。旧世界の街で磔にされ、焼き殺されたのです。だから、炎の中に大事な家族を失った皆さん。私は皆さんと同じです。

 

 そして今回、私は大事な友人を失いました。シェケムの港で暮らしていた、ディーナ・パシフィコです。彼女は平和を意味するその姓に相応しく、人間世界と新世界の懸け橋になろうとしていました。そして人間に殺されたのです…」

 

 彼女は市民たちの秘めた怒りの熾火が静まり、理解と共感の湧き水が染み出すのを感じた。まったく狙い通りに。

 

 そう。理解なさい。あたしは、あんたたちと同じ。だから尊重してあげる。あんたたちが密かに秘めて、言えずにいる臆病さに正義を与えてあげる。

 

「……しかし、市民諸君。もし私たちが、彼女の死を理由に、復讐戦に踏み切ったら? 彼女は戦争を残したことになります。二つの世界に平和と思い出ではなく、暴力と死を与えたことになります。

 

 これは私たちの選択です。彼女の生をどう記憶するのか、どう活かすのかは、私たちの投票次第です。私は、彼女が生きた証として、死よりも愛を、暴力よりも思い出を選びたい。その生の中で、たくさんの良きものを与えてくれた友人だったと、彼女をそのように覚えていたいと思うからです。

 

 市民の皆さん。真の敵は、我々の心にあります。怒りと恐れに打ち勝ちましょう。そして人間世界からやってくる避難民たちの収容に力を尽くしましょう。それを終えた後――」

 

 ごめんな、ディーナ。私は死んでしまったあんたの思いよりも、生きている二人を選ぶ。

 

「――忌まわしき転移門を破壊し、人間世界に別れを告げるのです。古き世界との交わりを永久に断つことによって」

 

 静寂と戌亥に支配されていた丘に、無数の動揺と呟きがさざなみのように広がっていく。誰もが耳を疑っている。風間も。議員たちも。彼女は浮かびかける笑みを抑え、表情に真摯さと悲痛だけをあらわした。赤と黄の瞳には、うっすらと涙が潤んでいる。

 

 いま、彼女は全てを支配している。惹きつけ、驚かせ、次は刷り込んでやる。

 

「ええ、そうです。聞き間違いではありません。本当に残念です。しかし戦いも、血も涙も、もうたくさんです。挑むべき世界に対して、私たちはあまりにも小さい。どれほど思っても、どれほど願っても、手に入らないものがあります。私たちは、悲劇をこれで終わりにせねばなりません」

 

 長年の主張をまったく翻しても、内心に迷いはない。なぜなら彼女は今、政治家だ。言葉は彼女の道具であり、同時に本心でもある。叫びたいほどの激情を、共感と理解を呼ぶ穏やかな修辞に変えて、彼女はさらに惹きつける。尊重する。正当化する。答えを教えてやる。

 

「古い世界に、そこに住まう友人たちに別れを告げる時です。怒りに任せて門を越えてはいけません。必要なのは報復ではなく、自制心です。怒りを克服しましょう。この世界を愛し、家族を愛する市民の皆さん。」

 

 両手を広げて彼女は訴えた。演壇の上から見える空の彼方に、去り行く友人たちの後ろ姿を思った。二人が自分を見る瞳が怖かった。ああ、私は裏切っている。あの二人なら、こんなことは望まない。でも、彼女たちの世界と殺し合うくらいなら、私は、さよならと言おう。

 

「私は戦争の回避を、平和を、そして人間世界との断交を主張します。冷静な投票をお願いします。ありがとうございました」

 

 戌亥はゆっくりと一礼した。耳だけで市民たちの反応を伺う。市民たちのどよめきは、徐々に声音を高めながら、丘全体に広がっていく。

 

「断交だって――」

「戌亥議員が――」

「いや、確かに――」

 

 戌亥はゆっくりと頭をあげる。舞台にも議会にも慣れた彼女の肌感覚はいま、ここに集った数千の魔物たちの空気をはっきりと読み取っていた。主戦一色の雰囲気は完全に崩れた。

 

 彼女が降壇し、ゆっくりと席に戻る間にも、その場その場で賛同の発言をする者が相次いだ。

 

 かねてから戌亥を支持してきた共存派は、彼女への信頼と平和の主旨に心を動かされた。

 

「賛成します。同胞をこれ以上、傷つけない平和を」

「流血を回避するのが最優先や」

 

 以前は彼女に反対してきた主戦派、もとは断交派からも賛同は相次いだ。これまで一貫して旧世界との共存と交流の象徴だった戌亥の転向は、彼ら彼女らを主戦から断交に引き戻した。

 

「人間は信用できないと、そう皆が理解したということだ」

「そうや、今こそ旧世界と決別する時や」

 

 戌亥の主張は、現状より安全で、戦争より穏健な選択だと思われた。しかも、主戦・共存いずれの側からも、彼ら彼女らの本来の主張に合致していると思われた。

 

 席についた戌亥は、成功を確信した。やはり彼女の理解は正しかったのだ。

 

――やれた。押し返せた。二回、見た通り。やっぱり、そうなんや。

 

 戌亥に示唆を与えたのはビアデスとその支持者たちの挙動だった。一度目は、市議会で。かつてビアデスが主張を翻して外交委員会設置を認めた時に。二度目は襲撃の日。戌亥の説得は聞かなかった暴徒たちが、ビアデスの混乱した主張には耳を傾けようとした時に。

 

 ある主張の代表者と見なされている者が、自説とは逆の主張に半歩だけ歩み寄る主張を行った時、両方の支持者をつなぎとめられる――それが戌亥の学びであり、一つ目の賭けだった。

 

 彼女は自席に戻り、もう一つの賭けの結果を確かめようとした。遠目には分からぬ程度に横を向き、ビアデスの方を伺う。鬼に動きはなかった。黙して座っているだけだ。戌亥は安堵し、自分が勝利の階段に足をかけたことを確信した。

 

「ぎ、議長。発言があります。俺に、もう一度。いや、これは質問です」

 

 手を挙げたのはクレオンだった。すかさず議長から指名を受けて、狐顔の獣人はその場で立ちあがる。彼は戌亥の方に向き直り、発言をはじめた。

 

「戌亥議員に聞きたい。あ、いや、質問したい。あなたの意見だと、まだ旧世界にのこる同胞を見捨てるということになるんじゃないか。これまでのあなたの主張とまるで違うんじゃないか」

 

 戌亥は微笑を浮かべた。言うてくれる。私がそれに苦悩しなかったと、そう思っているのか。それなら、相手をしてあげる。

 

「市民クレオン、質問ありがとうございます。確かに断腸の思いです。しかし我々ができることには限界があります。全てを救うことはできません。

 

 大きすぎる希望を切り詰めない限り、今持っているものすら、守ることはできないのです」

 

 訴えた戌亥の声音、表情、身振り、その全てが悲痛そのものだった。共感を呼び起こさずにはいられない程に、しかし大げさには見えない程度に。言い終わり、顔の向きをわずかに傾げるだけで、彼女が涙をこらえているのだと、はるか遠くの市民にまで思った。

 

 クレオンもまた。激しやすい男は、その分、感情に弱かった。周囲に満ちる戌亥への共感の雰囲気と、彼自身の中から湧き上がる理解が、扇動者の口を封じて着座させた。

 

 たやすいことだった。円熟の極みに達した彼女の技量と、誰もが認めざるを得ない彼女自身の物語には、今や、それだけの力があった。風間は正しかった。自分は誰であるか。その全てを供物にすれば、意のままにならないものはない。

 

 彼女はただ、その痛みを堪えるだけでよかった。

 

 後は折をみて、風間が採決に持ち込んでくれるはずだと、そう安堵していた時のことである。

 

 立ち上がり、指名も受けないまま壇に向かって歩く青白い体躯が見えた。

 

 戌亥は声をあげそうになった。なぜ。なぜ、今になって。彼を立たせる何か、彼の中に蘇ってしまった幼い日の地獄を振り払うほどの何かが、あったというのか。市民の賛同であるはずがない。自分の演説でもない。だとしたら、いったい何が、あの男に火を灯した。

 

 男は理解を拒むまま、壇上にあがった。やむなく追認するように、風間が指名する。

 

「で、ではビアデス議員」

 

 ビアデスは一瞥も返さない。どころか、市民の方すら見ていない。その目は遠くをみているようだった。空を、海を。あるいはもう失われた何かを。

 

 鬼は言葉を紡ぎ始めた。呆然自失の日々など無かったことのように。

 

「私は…信頼する戌亥議員の意見に、ただ一つを除いて同意する。これ以上の暴力は馬鹿げている。何をしようが、失われた命は帰らない。我々にできるのは、死者の命に意味を与えることだけだ。少しでも有意義な意味を…。彼女は、まったく正しい」

 

 ビアデスは議員席を見た。戌亥を。射抜くように。

 

「ただ一点を除いて」

 

 そして正面に向き直る。彼は初めて市民たちを見た。

 

「弁論に先だって、家族や友人を失った数多くの市民諸君に謝罪する。私がこれから問題にするのは、たった一名の命だけだ。その一名の死者に注目することが、計り知れぬほど多くの命を守ることにつながるからだ。ディーナ・パシフィコのことを考えよう」

 

 その言葉が戌亥の心を射た。お前は友の死さえ売り物にしたのだと、美辞麗句で飾って、結局は彼女の人生の意味を否定したのだと、そう責められているように思えた。鬼は容赦なく続ける。

 

「百年にわたって人間の街シェケムで暮らし、二つの世界の架け橋たらんと健気に努めた彼女のことを考えよう。なぜ彼女が死んだのかを、今一度。

 

 避難してきた者たちに聞くところでは、こうだ。努力して得た船宿に住んでいた彼女は、大通りから目と鼻の先、衛兵所から幾ばくも無いところに居ながら、暴徒に襲撃された。扇動したのはあの忌まわしい、青地に翼の紋章を掲げた兵士たちだ。

 

 その暴徒たちは彼女の家を徹底的に荒らし、あるものを全て持ち去るか破壊するかした。そして倉庫に隠れていた彼女を引きずり出した。おぞましい虐待の後に彼女の命を奪った。そして切り取った頭部を槍の先に掲げて――」

 

「ビアデス議員!」

 

 怒号と共に立ち上がり、戌亥は顔を朱に染めていた。耳も尾もぴんと張っている。

 

「死者を、あたしの友達を侮辱するのは許さんで! その口を閉じろや!」

 

 鬼は答えず、無言で議長を見た。風間は役目に忠実だった。

 

「戌亥議員は直ちに着席を。発言を妨げることはまかりならん。この場では、言葉を遮る権利はありません」

 

「おやっさん、あたしは友達を――」

 

「ええから、座るんや!」

 

 握った拳を震わせながら、戌亥は議長の言葉に従った。

 

 ビアデスは何でもないことのように続けた。

 

「議長、感謝します。そして戌亥議員、あなたには同情に堪えない。

 

 しかし我々は、失われた命の重みをしかと受け止めねばならない。確かに私はディーナ・パシフィコと一面識もない。彼女は殺された。誰の口から語られようと、それは事実だ。

 

 そして彼女と同じように、私も人間世界で殺されかけたことがある。私と彼女の運命を分けたのは、わずかな偶然だけだ。だから私には、会ったこともない彼女が、その理不尽な暴力の時間に感じたことが分かる――友である、あなたよりも。

 

 彼女は助けを求めた。しかし、誰もいなかった。彼女はたった一人で二つの種族、二つの世界のために働き、その全てに裏切られて死んだ。

 

 彼女の名、ディーナとは古い言葉で正しき裁きを意味する。パシフィコは平和の謂いだ。彼女にはどちらも与えられなかった。彼女にできたことがあったか? 何もない。助けを求める先があったか? どこにもない。何かをすべきだったのは誰か? 

 

 それは我々だ。何もしなかった我々だ。

 

 そう。我々も彼女を裏切ったのだ。彼女が人間の街にたった一人で暮らし、危険のうちに置かれていることを承知しながら、何らの保護も与えないという形で。人間と我々は、ともに彼女の死に責任がある。積極的にか消極的にかという、在り方に違いがあるだけだ。我々もまた彼女を殺したのだといっていい」

 

 それは魔物達への弾劾であり、また戌亥への罪の追求でもあった。彼はその罪を理不尽な世界につきつけた。

 

「そして彼女は最後の一人ではない。いま、断交に賛成し、出兵に反対する者は、こう主張している。人間界にいる魔物は、彼女や彼がたまたま居住している国の法律と裁判による保護を受ける権利しかないと言っている。人間界に住む魔物は、新世界に保護を求めるべきではなく、たまたま居住している国の王や貴族から受けるかもしれない、無関心な正義に頼るべきだと言っている。たとえその国が、魔物であるという、ただそれだけの理由で、無辜の市民を保護する責任を果たさないとしても!

 

 私はその無責任を否定する。魔物は、新世界にいても、旧世界にいても、我ら魔物の政府の保護を求める権利がある。なんとなれば、我々魔物の同胞には他に何もないからだ。

 

 人間界ではこのような状態が続いている。ヘルエスタのどの街、オヴィクスのどのオアシスにも、我々が保護せねばならない同胞がいる。諸君は言うだろう。その全員を保護するというのは、とても現実的ではない。

 

 しかし、だからといって見捨てて、何もなかったことにしてよいのか? 何もできないから、何もすべきではないのか? 深刻な議論よりも、諦めと冷笑をもってこの悲劇を扱う方がよいのか?

 

 まるで、ある者の見た目が周りと異なるからといって、それは変えようがないことだから、周りの者たちにずっと笑われても仕方がないというように。ある者が魔物だからといって、財産を盗まれたり、鞭でうたれたり、拷問にかけられたり、その死体まで辱められても、どうしようもないことだから諦めて受け入れろ、というようにだ」

 

 現にそのような目にあった年老いた魔物たち、そしてつい先ごろ、そのような目にあった者たちの瞳に炎が宿った。ビアデスが灯した火。それが広まりつつあることを、戌亥は肌が痛むほどに感じた。

 

 鬼はその火に風を送る。誰も否定できぬ言葉で。それが彼ら彼女らの本来の意見だったと、誰もがそう思わずにはいられない言葉で。

 

「我々は三千年前に誓ったのではないのか。姿形が違っても、互いに哀れを感じる心さえあれば、魂の色や重さに違いはないのだと。私たち新世界の魔物は、自由と秩序が両立し得ることを示した、二つの世界で唯一の共同体だ。理想の社会の姿を信じ、現実のものとしてきたのが私たちだ。

 

 だのに、なぜ我々は同胞に与えられた耐え難い侮辱に対しては、理想に目を瞑って、耐えねばならないのだろうか? 我々は人族に対して、何か並外れたことや、理不尽なことを要求しただろうか? 

 

 ただ、安全に生きる権利を。暴力からの保護を。我らが求めるのはそれだけだ。ほんのそれだけの要求に裏付けを与えることが、許されないのだろうか? 我々は虐げられる無力な存在ではないと、そう知らしめるために軍隊を派遣することが、それほどまでに不当なことだろうか? 人間の国がその市民への義務を果たさないときに!

 

 私は政治、法、歴史と理想を代表するこの議会において、新世界三千年の伝統に恐れることなく挑戦する。命に差はなく、平等に守られるべきだという原則、法と力によって市民を保護する義務を、この新世界だけの理想にしてはならない。

 

 市民諸君。私は出兵に賛成する。これは報復だ。しかし、復讐ではない。怒りのためではない。まして侵略ではない。両世界に生きる同胞を守るため、人間たちに教訓を与えるのだ。確かに私たちの力は限られている。何もかもを救うことはできない。かといって、決して仲間を、友人を見捨ててはならない!」

 

 その叫びに貫かれたのは、目の前で家族や友人を殺された者たち。それに恐怖して逃げ出した者たちだ。

 

 彼らは見捨てた。助けに戻れば、彼らもまた殺されていただろう。だから仕方なかったのだと、そう諦めようとしても、見殺しにしたことは変わらない。

 

 彼らの内心の、自分だけが生き残ってしまったという後ろめたさを、ビアデスの言葉の矢が刺した。必死に覆っていた瘡蓋が破れ、熱い血が溢れた。その名前は怒りだった。自分への。そして世界への。

 

 高まる熱の中心に立ち、男は挑戦の声をあげた。

 

「今日このときまで『私は魔物である』という言葉は、旧世界において危険と不安の告白に等しかった。しかし私たちが冷静な復仇を成し遂げ、保護する責任の原則を知らしめたならば、二つの世界は変わり始める。新世界でも旧世界でも、ヘルエスタの平野からオヴィクスの沙漠まで。

 

 そのどこにいようが『私は魔物である』というとき、私たちは屈辱から自由であり、脅威から遠ざけられ、生きていてもいいのだと感じるようになる。

 

 万一、その安全が不当に侵されたときは、自分の骸がどこに横たわっていようが、必ずや復仇を遂げてくれる種族の故国があると、そう信じられる限りは!」

 

 怒りを、拳を、叫びを。誰もが突き上げた。その熱の中で、彼らはいま正義だった。高まる情熱の中心で、ビアデスは声音を一転させた。その年来の主張をも。

 

「諸君、私は断交に反対する。門を破壊するなど、とんでもないことだ。旧世界に住むからといって、友人を、仲間を見捨ててはならない。両世界の交わりを立ってはならない。魔物と人間との間に新しい関係を築くときだ。その第一手が剣に頼ることは悲劇だが、しかしそれを始めたのは我々ではない。彼らに教訓を与えた後にこそ…魔物と人間、その対等の関係を築くことができるのだ」

 

 賛同の声を拍手の中で彼が降壇した時、風間は戌亥に視線を送った。反論を。もう一度押し戻せと、その一瞬の視線は言っていた。

 

 しかし、戌亥はうなだれた。彼女もまた貫かれていた。彼女を刺したのはビアデスの論理ではなく、その奥底の純粋さだった。彼もまた哀しみの中で信じるものがあるのだと分かった。

 

 男はそれを正直に語った。彩り、装いはしても、切々と。その声は彼女への糾弾だった。

 

 お前は売り渡した。家族を、友を。

 

 お前は嘘をついている。市民に。そして自分に。

 

 そしてお前は、大切な友達を捨てた。

 

「次の発言を求めます。次の――おらへんですか。どなたも」

 

 あたしが言いたいことは。本当に言いたいことは――

 

 しかし、二つの背中はもう、空に消えて見えなかった。さよならを告げたのは彼女自身だったから。

 

 風間は投票の開始を宣言した。執政府の委員たちが用意した投票箱に、市民たちは並ぶ。一つ、また一つと小石をいれていく。その列が果てるまでに何時間もかかった。戌亥たち議員は最後に並び、投票を終えた。

 

 そしてまた、開票に数時間がかかる。市民たちは飽きもせずに、丘で座って待った。その場で食事をとり、世間話をかわすものはいても、誰も帰ろうとはしない。

 

 やがて審判の時がきた。投票の結果は民意の結集にして、それ以上の運命なのだと、そう彼らは信じてきた。だから世界の命運を決するとき、投票ほど相応しい手段はない。

 

 民衆政治の神官として、風間議長は、丘の静寂に向けて神託を投じた。

 

「開票の結果を申し述べます。旧世界への出兵に関するブレイズ市議会提案。賛成三千二百七十一票、反対三千二百六十二票。

 

……以上、九票の差をもって、出兵案は可決されました」

 

 静寂は途端に破られ、丘は騒然とした。

 

 九票差。各部族区の代表たちが合わせて六千五百票余りを投じ、その差がわずか九票。開戦と非戦、どちらの議論に立つものであれ、これほどの僅差を予想した者は誰もいなかった。市民集会の歴史の中で最小の票差だった。

 

「まさか、反対がこれほど」

「これを認めていいのか」

「しかし投票の結果は…」

 

 誰にも動揺があった。怒りの空気に従い、その意志を通した者も。戌亥に従い、勇気をもって反対票を投じた者でさえ、これほどの多数を獲得できると思ってはいなかった。敗北した非戦派たちよりも、むしろ勝利した主戦派たちの方が衝撃を受けている様子だった。

 

 風間は堂々たる声量で告げた。

 

「現時点をもって外交委員会は戦争委員会に改組。戦争委員会は、新世界の代表たる市民集会に付与された権限をもって、速やかに市民軍の編成と司令にあたることとなります。私は議長代理として、市民諸君の冷静なる議論と熟慮に、心からの感謝し、また敬意を捧げるものであります」

 

 こうして二つの世界は衝突の経路に乗った。

 

 

 

 掛け声とともに、船が丘を登っていく。急増された数十隻の櫂船。武装した魔物たちが肩に重さをかけ、地を踏みしめて進む。一歩一歩と目指すのは転移門の丘。汗が土に滴り、船が通り過ぎた後の地面に轍のように残る。それをまた踏んで、後から後から船の行進は続く。

 

「エイ、オウ、エイ、オウ」

 

 門が近づくについて、声は力強さを増す。ついに最初の船が門をくぐる。門が光り、船と魔物たちは門の中に出現した波の中へ消える。一艘、また一艘が門の中に消えるたび、わずかな海水が門から噴出されるのが、彼らが転移した証である。

 

 戌亥が最後の船を仲間とともに担ぎながら、地獄の街を振り返った。市民たちが列をなし、手を振り、歓喜して見送っている。

 

「行くで!」

 

 仲間たちを率い、彼女は転移門をくぐった。

 

――渦潮だ。

 

 景色は一変した。彼女たちは巻き上げる渦潮の中におり、つかんだ船とともに海上に運ばれたのだ。塩水が口に入り、海のにおいが鼻腔に満ちる。

 

 船が波の上に落ち着くと、戌亥たちは船べりを掴んで乗船する。

 

 あたりを見回せば、海上には数十隻の櫂船が群れをなしている。戌亥の船の準備が整うと、ビアデス将軍の号令が響いた。

 

「目指すは、シェケムの港へ。進め」

 

 漕ぎだす船団。その中で誰かが叫んだ。

 

「ディーナ・パシフィコのために!」

 

 オウ、と大勢の声が応え、その名を繰り返す。

 

裁きと平和(ディーナ・パシフィコ)のために!」

 

 彼らの征旅が始まった。裁きと平和を求める数十の櫂船は、波頭を切り裂き、白波を引いて進んだ。

 

 翌朝、シェケムの街は復讐の巷と化した。

 

 

 

(次話「ヘルエスタ侵攻戦」に続く)

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