市議会議員 戌亥とこの戦争 : Page of Lambda C 作:芝三十郎
リゼは、無謀にも戦場へやってきた。自分を説得するために――という予想を完全に裏切られ、戌亥が唖然としているうちに、皇女は旗を素早く置いた。そして突進を開始する。
瞬く間に間合いがつまる。リゼは機敏なステップを踏み、風切り音とともに戌亥に殴りかかってきた。今度は避けた戌亥の目前で、皇女の姿が消える。姿勢を下げての足払い。戌亥は後ろに跳躍してかわした。
着地しざまに、ようやく気付く。リゼは愛用の細剣を使わず、素手で襲ってきた。素早く目をやれば、そもそも無腰だと分かった。旅の間、肌身離さず持っていた伝家の細剣を、今のリゼは下げていない。さりとて、他の武器もない。
騎士の胸甲で身を覆い、戦場に来ていながら。単騎で突撃しながら。その実、リゼは何の武器も身に帯びてはいなかった。
「無茶や! 素手なんて――」
着地しながら、案じるように叫んだ戌亥の顔面を、皇女の頭突きが襲った。さすがに予想外の追い打ちをまともに受けて、また後ろに転倒する。
「こ、このやろ……」
鼻を押さえながら立ち上がった戌亥は、痛みを忘れて息を呑んだ。
両の拳を握って半身に構えた皇女は、目を晴らして泣いていた。隙のない格闘姿勢のまま、戌亥に言う。
「とこちゃん、何しに来たの」
水晶のような声は、ヒビ割れたように掠れている。
「さっき、私の心配した」
戦場の真ん中に生じた空洞で、二人はしばし見つめ合った。
他の魔物たちは気を外され、周囲で唖然と見守っている。騎士たちは遠くへ逃げ散ったようだった。
戌亥は尻もちをついたまま、やっと口を開いた。言いたいことはいくらでもあったが、言葉になったのは酷く場違いな台詞だった。
「……痛いんやけど。何のつもりや」
「ぶっ飛ばしに来たんだから。戦うなんて言って、義務だなんて言う、嘘つきを」
皇女が何を言っているのか分からない。確かなのは、リゼが何一つ変わっていないということだった。周囲を振り回してばかり。いつでも無茶をする。しかし、その実、一番正しいことをする。ならば、今度もそうなのだろうか。戌亥はそれを尋ねたつもりだった。
「剣も持たんと」
「武器なんていらない。そんな顔で戦いに来る奴になんか」
涙に濡れた紫の瞳が、怒りと悲しみに燃えていた。拳は僅かに震えて見える。
「無茶苦茶や。あたしに素手で勝てるって?」
「あの時、とこちゃんは勇者のようだった。まだ覚えてる」
かつて、三人で挑んだ最初の冒険。あの時も、リゼは戌亥にそう言った。獣化した姿で敵を蹴散らし、それを見られてしまったからもう駄目だと決めつけて、リゼ達から逃げ去ろうとした戌亥に。その臆病な心へ向けて。
あの時、本当に強かったのは小さなリゼの方だった。彼女の嘘のない瞳に、踏み出す一歩に、宿る力は勇気だった。それを持つものをこそ、人は勇者という。
その末裔の娘は言った。今回も、迷いも躊躇いもなく。彼女を射抜くように。そして導くように。
「自分を騙したままで、いて欲しくない。世界はきっと、義務とか理屈とか、そんな立派なものだけで動いてるんじゃない。誰かが誰かの手をとった――ただそれだけで、変えられるものがある。私は知ってる。だから、信じるのをやめない。とこちゃんも、覚えているでしょう」
そう言ってリゼは歩み寄り、彼女に手を差し出した。
――ああ、そうや。認めよう。あたしの母さんは不幸だった。人間なのに、獣人の男の手を取ったから。夫を焼き殺され、故郷から逃げ出して。
挙げ句、辿り着いた見知らぬ世界で、なかなか大人にならない娘を何十年も育てて、疲れ切って死んだ。起きられなくなってからは「ごめんね、ごめんね」と、そればかり言っていた。
何もうまくいかない、不幸ばかりの人生だった。
私を授かったせいで。
それでも、母さんは自分の人生を生きた。最後に願っていたことは一つだった。私のことだけを。
<あなたも誰かに会える。恋人か、友達か、そのどちらでもないかも。でも、会えばわかる。生きていれば、いつかその時がくる。だから、あなたは一人ではないのよ。私がいなくなっても>
ああ、そうだ。あたしのせいで、母さんはずっと不幸だった。でも、後悔はしていなかった。その手をとったことを。
<その時がきたら、絶対に、ためらっては駄目>
だから、戌亥もその手を掴んだ。小さな手だった。柔らかい手だった。
「かなわんな。リゼはんは、あたしが迷ってる時に、いつでも突っ込んできてくれる。ほんまに無茶苦茶や。生きるっていうのは、それくらいで、ええんかもしれん」
そうや。もう、後のことなんか知らん。だけど私も、後悔なんてするもんか。
私の一生は、ここから始まるんだ。
戌亥は立ち上がり、両腕をリゼの背にまわして抱きしめた。ああ、ああ。リゼは戌亥の胸にすがり、堰を切ったように泣き出した。ああ、ああ。底知れぬ勇気と気高さを秘めながら、それは小さな体だった。
戌亥は、自分が居るべき場所へ帰り着いたのだと悟った。だから、四方に轟く声で叫んだ。心からの声で。
「やめた!」
――リゼはんのように、私もなろう。正直に、真っすぐ向かって、体当たりや。
そう決意をするだけで、とてつもなく、いい気分になれた。
「あたしは、もうやめた! なんもかも、知るもんか。あたしの戦争はこれで終わりや。あたしは、この子と行く」
成り行きを見守っていた魔物たちが騒然とし始める。様々な声があがる。何と言っとるか、ああ、聞く間でもないわ。こっちから教えてやる。
「そうや、裏切りや。やけどな、みんな見たか。この子は命賭けて、あたしを止めにきたぞ。魔物の群れの中に、たった一人で突っ込んできたぞ。そんな友達を裏切れる奴があるか」
そうして、取り囲む魔物たちを鋭い視線が薙ぎ払う。何百いようが、知ったことか。みんな勢いに流され、誰かの言葉に踊らされて、ここまでやってきた者ばかり。ならば全員あわせても、意志の強さはリゼ一人に及ばない。
「この子には手を出すな。文句があんなら、あたしにかかってこい。みんな、まとめて、ぶっ飛ばしてやらぁ!」
誰もが戌亥の強さを知っている。しかし五百の魔物である。動揺しつつも、じりじりと包囲の輪を狭めて来る。
戌亥が獣化しようとした時、リゼが腕の中から抜けた。両腕を広げ、武器がないことを示しながら、よく通る声で呼びかける。
「魔物の皆さん! 私はヘルエスタ王国の第二皇女、リセ・ヘルエスタです。聞いてください。ブレイズ市の市民たちよ!」
その言葉に魔物たちの注目が集まると、リゼは地面に置いていた旗をとり、高々と掲げた。風を孕んで、青天白翼の紋章が広がる。ブレイズ市を攻めてきた軍隊も、同じ旗を掲げていた。
「みなさんの街を襲ったのは、確かにヘルエスタの人間です。しかし、王国軍ではありません。王国に背く反乱軍だったのです。皆さんを騙して、王国を攻めさせるために、彼らはあのようなことをしたのです」
皇女は政治家ではない。演説などしたことがないに違いない。まして魔物たちには誰とも知らない存在である。それでもリゼの輝きは、魔物たちを惹きつけ、言葉に耳を傾けさせたようだった。
戌亥やビアデスのような技巧ではない。クレオンのような激情ではない。率直で、誠実なだけの言葉が、不思議と胸に響くようだった。リゼは更に続けた。
「反乱軍を唆したのは、隣国オヴィクスの預言者です。彼女は、皆さんと私たちの間を裂いて、争わせようとしています。その間に、ヘルエスタの王都を狙って攻めてきています。私たちにヘルエスタ王国に、皆さんへの敵意はありません」
戌亥は、その事実に驚きながらも、周囲に目を走らせた。突然の事実を、誰もが吞み込めたわけはない。どころか、理解できているかも怪しい。今は場の勢いで聞いてはいても、これでは駄目だ――と危ぶんだ。
しかし、リゼは言葉に頼る気はなかった。彼女は政治家ではない。
「その証拠を、今お見せします」
そう言うと、旗を左右に振った。
「振り返って! あれを見て!」
人の上に立つことに慣れた皇女の声は、魔物たちをも動かした。誰もが言われるままに振り返り、そして見た。
はるかに去ったはずの騎士たちが静かに戻り、横一線の列を作っている。その中の旗手が旗を振り返す。
すると、騎士たちは一斉に馬を降り、槍を捨てた。剣まで地に放り捨てると、地面に跪く。両手を胸の前で組む軍礼をとった。
意外な出来事の連続に戸惑うばかり魔物たちを、リゼの声が再び打った。迷う心を射抜くように。
「あれが私たちの気持ちです。無益に戦いたくない。同じ国の人間がしたことを、皆さんに謝りたい。私はあの時、ブレイズ市にいました。シェケムのことも知っています。もう十分です。
皆さん、私は戌亥とこの、人間の友人です。私と友達が手をとれるように、二つの世界も手をとりあえると、そう信じていたいんです。そんな我がままを通すために来ました。どうか皆さん、休戦の話し合いに応じてください!」
その言葉に、魔物たちの動揺は度を増した。もはや怒りはなく、迷いと混乱だけがあった。口々に声があがりはじめる。言葉が発せられれば議論をせずにいられないのは、ブレイズ市民の習性のようなものだった。
「ふ、ふざけるな。裏切りを許せるか」
「何のためにここまで来たんだ」
「でも、敵じゃないって……」
「人間の言うことだぞ!」
他を圧する声で叫んだのは、やはりクレオンだった。狐顔の獣人、人間に妻子を殺された男の怒りは、燃え立ってやまないようだった。
「ふ、ふざけるな。戌亥議員が言うのは、子供の理屈だ。泣いてわめく子供の! そんなもの通じるか。もう忘れたのか。みんな殺されたんだぞ。自由な市民に生まれて、あんな死に方をしなきゃいけない理由がたった一つでもあるか!」
その叫びで、議論が罵倒に変わるかと戌亥は案じた。反論するなら今だ。しかし、今の自分、人間に肩入れした立場からの言葉で、みんなを動かせるか――と躊躇った。
彼女が決断するよりも早く、包囲の輪から一頭の魔物が歩み出た。狼の頭部を獣人、ワーウルフである。戌亥が会ったことのない父親の同族だった。
戌亥は、すかさずリゼの前に出た。
「この子には手を出すな。文句があるんなら――」
「いや、俺に文句はない」
ワーウルフは続けた。
「あんたに投票した。俺の代表は、あんただ」
そういうと、ワーウルフは戌亥たちに背を向け、周囲の魔物たちに対峙した。
「人間のことは信じない。国がどうとか、そんなことは分からねえ。でも、友達を裏切るような奴は魔物の風上にもおけねえ。俺は戌亥議員に付くぞ」
その一言が契機になった。次から次と、賛同の声があがり始める。
「うちもや。これ以上、泣いてる子を増やすつもりはないわ」
「儂もじゃ。文句がある奴ぁ、儂を倒してからにせえ」
声をあげた者たちは次々に戌亥とリゼに近寄り、背を向けて守るように囲んだ。
「あんたら……」
戌亥たちを取り囲んで守ろうとする者たちと、それに反発する魔物たちが睨み合いを始める。
感に堪えた戌亥は言葉を探したが、彼女の中の怜悧な政治家である部分が、叫ぶように告げている。均衡が生じつつあると。その時が近づいていると。理の通った、心からの言葉が、全てを動かせる瞬間が。それが出来る者を、彼女は目で追った。
「静まれ、静まれ!」
声をあげたのはビアデスだった。主戦派の旗手にして将軍、かつて家族を虐殺された鬼も、自分と同じことを感じたのだと、戌亥は確信した。
ビアデスは前に歩みでて、それだけで全員の注目を集めると、堂々たる声と身振りで訴え始めた。
「いま、私は声を大にして言いたい。私たちは血も涙も、もう十分に流した。もうたくさんだ。これ以上、復讐したいとは思わない」
直ちにクレオンが反論する。
「勝利を諦めるっていうのか」
「それは違う、クレオン。我々は今日、勝つのだ」
ビアデスの返事は、皆を諭すようだった。
「敵を倒して勝利するのではない。自分の中の自身の怒りと戦って、真の勝利を得るんだ。私たちは市民には、理性と自由がある。憎悪の奴隷に身を堕としてはならない。
平和の道は、戦争の道よりも優れている。敵との平和は辛いものだが、それに耐えねばならない。今ほど、私たちの勇気が試された時はなかった」
鬼は、かつて議場で断交と報復を訴えた彼の声が、戦場を征服しつつあった。
「誰が君たちにこれを言うのか? 家族を殺され、そのために生きてきた私がだ。襲撃で家族を失ったクレオン。同じ目にあった諸君。私は、君たちと同じじゃないか。
あの赤い冬、私は誰かに助けてほしかった。目の前で家族を失って、もう殺されてもいいと思った。だが、もっと嫌だったのは、信じていた隣人に裏切られたことだ。誰かたった一人でも手を差し伸べてくれればよかった。たった一人でも、私にも誰かがいてくれたら、こうはならなかった」
鬼は過去と現在のはざまにいた。過去の彼は一人で血にまみれている。現在の彼は、瞳に涙を浮かべながら互いに庇い合う二人の娘を見ていた。
鋼鉄の左手が嗚咽するように鳴った。ビアデスは義手を見て、それを身に着ける前のことを思い出した。幾度も見た悪夢を。
血だまりで目覚めたとき、切られた腕の先端は、布できつく縛られていた。もし出血が続いていれば、彼が目覚めることは決してなかっただろう。家族とともに死んでいたに違いない。
誰かが巻いた布。あの狂乱の中で、人間たちを密かに裏切った誰か。地だまりの中で気絶した幼い鬼に向けて、その声は泣いていたような気がする。許しを乞うていた気がする。それに答えるために、ビアデスは言った。それはもう、心からの言葉だった。
「――敵を倒して帰ったら英雄だ。子孫は誇りに思ってくれるだろう。でも、もし敵を友達に変えて帰ってきたなら、もっと誇りに思ってもらえる。私は死んだ後、ずっと未来になって、そう憶えられていたい」
そう言うと、義手にもっていた戦斧を周囲から見えるように掲げ、そして手放した。斧は音を立てて地に突き立った。
クレオンは、かぶりを振っていった。
「未来なんかない。妻も子も殺されたんだ。人間なんて信じられない……」
そう言いながら、その手にも言葉にも、もう力はなかった。クレオンはビアデスの眼を見て、遂に言った。
「でも、あんたは魔物だ。俺たちの代表だ。それを信じていたい」
そう言うと、クレオンは剣を地面に突き刺した。
「なあ、そうは思わないか、みんな」
すると他の魔物たちも次々に剣を、槌を、槍を次々と地におとした。誰もが、憑き物がおちたような顔だった。
ビアデスも、いやビアデスこそ、何かから解き放たれた心地だった。百年以上ぶりに、本当に自由になれた心地だった。軽やかな心から生じる言葉そのままを、鬼は続けた。
「ありがとう。私達は今、勝利した。敵にではない。この戦争に勝った」
ビアデスは戌亥とリゼを見た。人間の娘も、獣人の娘も、瞳に涙を浮かべている。鬼は微笑した。
「もとが、たった一人のためにでも、と言って始めた戦争だ。ならば、たった二人のために、ここで終わるとしよう。君達二人のために。だから――」
ビアデスは鋼鉄の手を差し伸べた。その視界がにじんだが、彼は気にもしなかった。
「だから、もう泣かなくてもいいんだ」
鬼の記憶の中で、鋼鉄の義手は生身の手に変わった。転んで泣く幼い彼の左手を、誰かがとった。人間の子どもの手。幼い彼の友達の手。友は彼に向けて笑った。
幼い鬼は、やっと泣くのを止めて笑い返した。
(エピローグ「Cross Border」に続く)