市議会議員 戌亥とこの戦争 : Page of Lambda C 作:芝三十郎
魔物と人が共存する道を探るため、ケルベロスの戌亥とこはヘルエルタ王国を調査する。
ヘルエスタの皇女リゼは、錬金術師アンジュを徴用し、フジの樹海を探索して家畜どろぼうを見つけようとしていた。
「お待ちください! 危ないですって!」
赤髪の娘はそう言って、前を進む少女を止めようとした。
先を行く銀髪の少女は、小柄な体に似合わぬ速度で道なき森の中を進んでいく。足元はでこぼことした黒い溶岩岩で、あちこちに苔がへばりついている。その滑りやすい足場を革ブーツで踏みしめて、少女の歩みには危なげがない。
速すぎる。何とか追いすがろうと娘が一歩を踏み出すたび、彼女の後ろ頭で束ねられた赤髪が左右に揺れる。しかしこちらはもう息も絶え絶えだ。置いて行かれそうになり、赤髪の娘は慌ててもう一度呼びかけた。
「殿下、リゼ皇女殿下!」
呼ばれた少女が振り向くと、その銀髪が舞った。光の加減によって水色がかったように見える稀な色だ。幼いながらも気品を感じされる顔立ち。しかし野外慣れした健脚は、まだ十歳の子ども、それも姫君とは信じがたいほどだ。
少女は水晶のような声で、子どもじみた文句を言った。
「もう! 体力ないなあ」
「殿下がありすぎるんです!」
赤髪の娘はそう言い返すと、しゃがみ込んで息を整えはじめた。苔の匂いと湿り気で満ちた空気が肺を満たす。背中よりも大きいバックパックを地面に下ろして、何とか言葉を続ける。
「へ、兵隊じゃないんですからね。ついていけませんよ」
少女の方は、唇をとがらせて文句を言う。
「じゃ、いつもの魔法で、ぱっぱっと見つけてよ」
赤髪の娘は思わず顔をあげて言い返した。
「魔法なんて実在しません」
いくらへたばっていても、知識に関わる間違いは訂正せずにいられない娘である。
「私のは錬金術。おとぎ話の迷信みたいに便利じゃないんですよ」
赤髪の娘は錬金術師、正確にはそうなるべく修行中の学生である。白と青を基調にした裾長の上衣は、彼女が通う学院の制服だ。下肢は同色のズボンだが、そちらもゆったりした作りで、お世辞にも屋外向きとはいえない。
対称的に、皇女の方は実用的で動きやすい軽装である。野外向きの長袖のチュニックに厚手のズボンをあわせ、柔らかい牛革の長靴が勇ましい。武装といえば、革の剣帯に細剣を下げ、革製の胸当てと籠手をつけている。貴顕の身分を示すのは翼を基調とする王家の紋章がチュニックに染め抜いてあることと、細剣の流麗な拵えだけ。他はまるきり、騎士に仕えて戦う従士の服装だ。
厳めしい剣帯のあたりに両手をあてても、唇を尖らせて文句をいう少女の様子は、身分よりもその年齢に相応だった。
「あてにしてたのに。民が困ってるんだよ?」
「それは聞きましたけどね」
「手伝うって言ったでしょ!」
「うう…」
錬金術師が拒否しなかったのは確かだ。しかし皇女から直接にお願い、公式には徴用されて、王立学院の学生に断れるものではない。
「やっぱり、衛兵や近衛隊に任せましょうよ。姫様が危ない仕事なんて」
「危ないからやるの! 危険から王土と臣民を守る。だって――」
幼い皇女は苔むす溶岩石の上ですっくと背をそらし、腰に両手をあてて宣言する。
「私は勇者になるんだから!」
勇者――他の国ならば強く勇ましい戦士の形容だが、このヘルエスタ王国においてそれは具体的な人物のことを指す。
「伝説上の建国王ですか。火山の噴火を止めてみせたっていう」
アンジュが言ったのは、ヘルエスタ王国の建国神話である。約千年前に巨山フジダクラーヌが噴火したとき、一人の男が剣と玉を掲げて立ち向かい、自分の命と引き換えに噴火を鎮めたという。その男の子孫が現在の王家だとされている。
つまり、目の前でポーズを決める幼い皇女は勇者の子孫というわけだった。高等教育を受けているアンジュはお伽話を信じてはいないが、目の前の少女にそれを言うほどのひねくれ者でもない。
「勇者だって家畜どろぼうを捕まえたりはしなかったと思いますよ。凶悪な奴だったらどうするんです?」
「魔法でやっつけてくれないの?」
「錬金術は知識と生活のためのものです。攻撃術もありますけど、私は習ってませんよ、そんなの」
少女は明らかにがっかりしたようだった。どうもこの殿下は、自分のことを学生錬金術師ではなく万能の魔法使いだと思い込みたいらしい、とアンジュは怪しんだ。皇女は気を取り直し、修行中の錬金術師を慰めるように言った。
「でも、大丈夫だよ。私が守ってあげるからね。盗賊なんて何人きてもセーバイするんだから」
「そんな無謀な…」
万が一、捕り物になって怪我でもされたら、皇女本人が何と言おうが自分は罪に問われたりするのではないか。そうでないとしても、まだ十歳の子どもが大人と戦って手傷を負うなど、アンジュには想像もしたくなかった。
「そのためにも、まずは犯人の隠れ家を見つけなきゃ」
「そういわれましても。ここ、フジの樹海ですよ? 王都より広いんです。立入禁止だからろくな地図もないし。何か手がかりでも見つからないと――と?」
周囲を見回していた錬金術師の視線が、前方の木に止まる。
「あの木――」
皇女はすかさず腰の剣に手をやったが、同じ木の見ても彼女には何も見つけられなかった。鋭く尋ねる。
「どこ!?」
「あの木ですよ!」
アンジュは疲れを忘れたように駆け出した。見つけた木のそばに着くと、すぐさまその幹をよじ登る。幹の分かれ目に足を落ち着けると、葉っぱを次々に採り、ポケットにしまい始める。
木の根元まで来たリゼが、まだ辺りを警戒しながら尋ねる。
「な、なにしてるの?」
「見てわかりませんか? 集めてるんです」
「カエデの葉っぱ?」
「似てるけど、これミツバハナっていうんです。ほら、葉っぱが三枚でしょ?」
皇女はやっと剣の柄から手を離した。アンジュは何十枚かの選び抜いた葉っぱをポケットに詰め込んでから、やっと降りてきた。
「これ、煎じると薬になって。王都には生えてないんですよ。いやー、来てよかったなあ」
目を輝かせながら葉っぱを次々に見せつける。
「さすが樹海ですよ。ここまで奥にくると植生が――お?」
アンジュはまた別の木を見ていた。リゼには何の変哲もない、ミズナラの木に見える。
「ヒメシジミだ…!」
錬金術師が見つけたのは、その木の枝に留まる紫色の蝶であった。大きさは親指の爪ほど。その蝶が浮かぶように舞った。
アンジュは悲鳴をあげる。そのようなとき、彼女は母親譲りの風変わりな言葉を使う。
「ああ! 待ってや、りん粉。りん粉、取らして。ちょっとだけでええから!」
普通のヘルエスタ語とは少し違う発音と語尾で言いながら、彼女は蝶を追って森の奥へ駆けていった。途中で苔に滑って転びかけるが、構わずまた走る。
リゼは慌てて追いかけた。
「待って! 危ないってば!」
遠ざかる二人の背後で、木の葉の中に潜む一つの影があった。
後ろ姿が十分に遠ざかると、影は地面に飛び降りた。シダの葉を踏んで着地しても無音。そして影は確かな足取りで二人を追い始めた。
森は奥に進むほどに暗い。黒い地面は湿気でうっすらと濡れ、その上で木々の根が蛇のようにねじくれている。
日がな一日、皇女と錬金術師は樹海の中を歩き回った。夕暮れが近づいたとき、二人は樹海を流れる川のほとりに腰をおちつけた。
川辺の岩や石がことごとく黒々とした溶岩石である異様さを除けば、それは清流に川魚が遊ぶ美しい川だ。
「いやー、大収穫でした」
アンジュはポケットの一つからオーブを取り出す。小さなティーポットのような透明の器の中で赤い何かが揺らいでいる。
「なあーんにも、見つからなかった!」
文句をいいながら、リゼは集めた枯れ木の枝を足元にまとめ、石で囲っている。樹海で拾える枯れ木は湿って苔が蒸しており、焚火向きでは全くない。
「まあ家畜どろぼうはともかく……」
「そっちが本題だってば!」
聞き流しながら、アンジュはオーブの上についたピンを少しだけひねる。少しだけ口の緩んだオーブを傾けて、赤い砂のようなものを枯れ木に滴らせる。彼女はそれに声をかける。
「燃えよ」
言葉に反応し、枯れ木はたちまち燃え上がって、丁度よい大きさの焚火となった。
「お湯、沸かしますね。お茶っ葉ありますけど、飲みます?」
「むー、貰う」
錬金術師は地面においたバックパックからポットを取り出し、川の水を汲んで火にくべた。
「便利」と、皇女は今日初めてアンジュの術を褒めた。
「オーブがあればどの術師にもできますよ。私でなくても」とアンジュは謙遜する。
それは事実だが、自分にしかできないことがあるという、彼女の自信の表れでもあった。
焚火を見つめながら皇女は、一年ほど前のことを思い出していた。アンジュ以外には他のどの錬金術師もできない、いや、できるとしてもやってくれないであろうことを。
「また、火の竜や巨人を見せてくれる?」
「あとで逮捕されないで済むなら」
皇女と錬金術師は二人して笑った。それは二人が初めて出会った、ということになっている、王宮のパーティーでの出来事だった。アンジュがリゼのためにやってのけた悪戯である。
その後、リゼは貴重な外出の機会のたびにアンジュを訪ねるか、呼びつけるようになった。もっと会う機会を増やしたいと皇女は望んでいる。
「卒業したら宮廷に来るんでしょ?」
「宮廷錬金術師ですか? ならないですよ」アンジュは薪を足しながら答えた。
「首席なのに?」とリゼは驚き、傷ついたような顔をする。
王立学院を卒業して成績上位三名、いわゆる恩賜組となって王宮に出仕するのは、全学生の夢だといっていい。学院は法学、医学と錬金術を教えているが、何を専攻していても宮廷に上がれば将来の栄達は約束されたようなものだ。
アンジュは入学以来ずっと首席で通しており、学院はじまって以来の才女とすらいわれている。ただし、彼女はその才能だけでなく、風変わりな素行でも知られている。
リゼは案ずるように尋ねた。
「じゃあ何をするの、卒業したら」
「穴掘りです」
「あな…なに?」
「実家に帰って、温泉を掘るんですよ」
アンジュは周囲の木々に目をやった。樹海には大樹が少ない。硬い溶岩の地盤に浅く土が乗っているだけの土地だから、根が深く張れないのだ。彼女が見慣れた深い山々の木々とはまるで違う。
「私、山奥の村の出なんです。王都の北の、ドラゴンヘイブンの」
それは王都の北方にある山地の名だ。数千年前には群れなす竜が棲んでいたと伝えられる、深い山と谷が連なりである。
「木こりと炭焼きで食べてきた村なんですけど、オーブが普及してから売れなくなっちゃって。後は、昔からちょっとだけ出る温泉が頼みの綱なんですが、お湯が減ってきてて」
「それで穴掘り――でも、錬金術で?」
「ぱぱっと穴が掘れる術を作ったんですよ。土と水の錬金術を合わせて」
アンジュは軽く言ったが、それは異常なほどの業績だと、素人の皇女にも分かった。新しい実用的な術の創始など、学院か宮廷の術師団が数年がかりで取り組むべき事業である。
「そっか。じゃあ、帰っちゃうんだ」
「まあ、親も待ってますしね」
「そう――」
親のために、という理由は、皇女には否定できないものだった。しかし、この年上の錬金術師が王都からいなくなることを想像すると、それだけで幼い皇女の瞳は潤んだ。
リゼは顔をそむけ、周囲の木々に目をやる。
そして息を呑んだ。
皇女は弾かれたように立ち上がって剣を抜いた。錬金術師も釣られて立ち上がり、あたふたと皇女の視線の先を見た。
シダの葉の間から、二つの赤い目が彼女たちを見ていた。彼女たちが気づいたと分かったのか、音もなく歩いて現れたのは一体の狼。足元は奇妙にふらついて見える。渇するように口をあけ、舌を出している。
「さ、さがって! だ、大丈夫です。私が――!」
アンジュは上衣のポケットから再びオーブを取り出した。震える手でピンを外してオーブを突き出すと、その周囲の何もない空間に焚火ほどの炎が出現する。オーブを握ったままの手を左右に振ると、炎もやや遅れて追従する。
「ほら、ほら。あっち行けや!」 といって、後ずりしたのはアンジュの方である。狼はまるで怯えず、左右に体を揺らしながら近寄ってくる。
「なんでや!?」
リゼが剣を構え、アンジュを制するように前にでる。
「殿下!? やめ、おやめください」
年下の少女はまるで聞いていないようだった。豪胆にも剣を高々とあげて上段に構える。守りを捨てた無謀に見えて、合理的で勇敢な判断だと、アンジュの知識が教えた。獣は自分より大きな獣を恐れる。次にリゼがすることもアンジュには分かった。
「やああああーッ!」
気合の一声で威嚇して、リゼは今度こそ狼が恐れて逃げると期待した。
しかし狼の反応は彼女たちの期待と予想を完全に裏切った。狼は目を細めて笑った。そして口を利いた。
「ヤワラキャイ」
驚愕する二人に向け、狼は恍惚とした表情で続ける。
「オンナ」
もはや聞き違いではあり得ないと、リゼとアンジュの肌が粟立つ。
「魔物――」
「
種族名まで即座に言い当てたのはアンジュだった。人語を介する獣状の魔物は少なくないが、狼の姿をもつのは数種しかいない。並みの大きさの狼ならば一種に絞れると、そう即断できるほどに彼女は博学かつ聡明だ。
「だ、駄目です。魔物ですよ。ここは、ええと、えっと――」
一人や二人の人間、それも女が戦って勝てる相手ではないと、アンジュの知識が告げていた。かといって名案を思い付くでもない。戦いは彼女の専門からかけ離れている。
一方のリゼは、切っ先をやや下げ、狼の姿をした魔物に話しかけた。
「大丈夫、敵じゃないわ。聞きたいことがあるの。私たちは――」
ほとんどの魔物は人間と同等の知性をもっており、言葉も解す。対等に話し合うことができると、皇女は判断したのだった。
しかし
「ニク」
皇女は一瞬で考えを改め、剣を構えなおす。
「近づけば切る…!」
狼は人間の男のような声でゲラゲラと笑った。そしてわずかに姿勢を低くすると、吠え声とともに跳躍。
リゼの首筋に食いつくように迫る。
皇女は即応し、気合の声をともに剣で狼の頭を薙ぎ払う。刃は毛皮に流され、魔物の肉を断つには至らない。
魔物は跳ね飛ばされたが、巧みに着地。直ちに態勢を立て直すと、リゼに突進する。
リゼは避けなかった。後ろでアンジュが動けずにいるからだ。
頑丈な皮ブーツの蹴りで迎撃する。狼は横に跳んでかわし、距離をはかって皇女の隙を伺う。
長くはアンジュを守っていられない。そう判断し、リゼは構えを上段に変えた。わずか十歳にして、むごいほどの訓練を受けてきた皇女は迷わない。
生を拾えるのは、死ぬ覚悟を決めた者だけ。そう教わってきた。活路があるなら、常に自分の前だ。
リゼは気合の声とともに駆け出す。狼が身構えるよりも早く、一閃。
狼の頭部から血が飛ぶ。だが浅い。
皇女はさらに踏み出し、胴を横薙ぎにする。
切っ先は確かに敵を捉えたが、再び毛皮に流される。打撃は入っても命は断てない。技ではなく、少女の筋力の限界だった。
額から血を流しながら、立ち直った狼が笑う。
「ハ、ハハ、ハ――。ニク、ヲンニャ」
魔物が呂律の回らない口を利くたび、妙な臭いがリゼの鼻をついた。腐敗した桃のような甘ったるい匂い。
「ケェン、イタキ、ニャイ」
狼の言葉だとしても、まともではないとアンジュは思った。身体は硬直しても、彼女の思考は速い。
「そ、そいつ変や。頭、おかしなっとる。待ってや、もしかして――」
その言葉を遮るように
勢いのまま木を垂直に駆け上がると、狼は幹を蹴った。
木が折れる音が響く。狼は跳躍して宙を飛び、反転しながらリゼを飛び越す。
意外な動きに皇女が対応できないうちに、アンジュの傍に着地。さらに跳ねて錬金術師の胴に食いつこうとする。
しかし、その牙が突き立つよりも早く、木々の合間から飛来した石が狼に命中した。
横転する狼に向け、風切り音をあげて、また投石が続けざまに襲う。
胴に、頭にと直撃を受けて、魔物は子犬のような悲鳴をあげた。たまらず身を翻して川に向けて跳び、対岸へ逃げだす。
狼の尾はたちまち森の奥に消えた。
日が傾いた森の奥はほとんど夜のように暗く、その奥はとても見通せない。
あたりは静寂に包まれた。風で揺れる木々の葉ずれの音だけが聞こえる。
アンジュはようやく硬直から解け、その場に崩れ落ちた。リゼは石が飛来した木々の方向を油断なく警戒している。
その警戒を解くように、石が飛来した方向の木陰から声がした。
「大丈夫か? 怪我しとらん?」
女性らしい柔らかな声だった。木陰に人影があらわれる。ローブをまとった人間のようである。
「あんたたち、この辺のもんか。それとも地獄のもんか? 聞きたいことがあるんやけど」
その誰とも知らない声の調子が、アンジュには聞き覚えがあった。不思議と心が落ち着くのを感じながら、錬金術師は言葉を探す。皇女殿下とそのお供だ、と言うわけにもいかない。
「ええ、ええと。王都の学院の学生です」
「学生……さん? じゃあ、魔物じゃないんか?」と言いながら、人影はその姿を明らかにした。
長いローブをまとい、フードを被っているが、声と背格好から若い女だと知れた。リゼはまだ警戒を絶やしていないが、アンジュは安堵を深めて答えた。
「魔物に襲われてたんです。私は人間ですよ!」
「ほな、さっきの言葉は――うわ、しまったな」
謎の女の言葉はヘルエスタ語に近いが、発音や語彙に微妙な違いがあった。それはアンジュがたまに喋る母譲りの訛りに似ていた。現代のヘルエスタ語より古い、よほどの田舎に住む老人でもなければ、めったに使わない言葉である。
錬金術師は意識的に母親の言葉に切り替えようとする。実家に帰れば自然とこの言葉になるのに、わざと喋ろうとすると難しいものだ。
「とにかく、助けてくれてありがとうございます。あなたの言葉、ええと――なんやろ、うちの母親みたいな感じや。あなたもドラゴンヘイブンの人?」
それは彼女の郷里の名である。アンジュの言葉とおおむね同じ発音で、ローブの女は尋ね返した。
「お母さんも人間?」
「あ、当たり前や!」
そこまで答えて、もう錬金術師は理解した。人間は人間にそんなことを聞かない。
「あなたは―――」
アンジュはほとんど無意識に後ずさりした。
隣にいたリゼは後退しなかったが、わずかに腰を落として尋ねる。
「そのフード、取ってもらってもいいですか」
錬金術師に言われるがまま、女はフードを払った。悔いるような表情と豊かな黒髪があらわになる。その頭部の、左右にではなく、上側から二つの耳が覗いている。人の耳ではない。先ほど追い払った狼の耳に似た耳。それがぴくりと動いた。
「これでええか。見ての通りや――」
リゼとアンジュは息をのみ、獣の耳と端正な女の顔をみつめた。獣人族の一種であるに違いない。
諦めのため息をつきながら、女は何と続けようか迷っているようだった。恥じ入るように顔をそむけつつ、女は言った。
「怖がらんでもええ。あんたたちを傷つけるつもりはないよ。――やっぱり、耳が気になる?」と女が言うと、再び耳が頷くように動いた。
思わず呟いたのはリゼである。
「か、かわいい…」
剣の切っ先を下げ、戦士から少女の表情に戻っている。アンジュも許された思いで言った。
「かわよ…」
意外な反応に、女は戸惑いを見せる。「いや、待って。なんやて」と口にすると、獣の耳も戸惑うようにピクピクと動く。
少なくとも敵ではないと分かり、皇女はいつの間にか剣を収めていた。いまや錬金術師とともに、妙に気合の入った表情で両こぶしを握り締めている。二人して今にも飛び上がりそうな姿勢である。
「な、なに…」
獣の耳をもつ女、戌亥とこはたじろいだ。頬が少し赤い。動揺した彼女のしっぽがローブの裾を払い、無意識にパタパタと揺れて地を打つ。皇女と錬金術師も何かに打たれたように反応した。
「しっぽ?」
「くっ、これは反則や!」
思わず伸ばしたアンジュの手をリゼが止める。しかし彼女もそわそわとしている。
「す、すんまへん。ちょっと動揺してしもて」と、アンジュが謝ったのはどちらに対してか、本人にも分からない。
もはや警戒の雰囲気は消し飛んでいた。獣の耳をもつ女、戌亥は呆れながら言った。
「まあ、ええわ。敵じゃないって分かってもらえたら。聞きたいことがあるんやけど、とりあえず――」
ぐう、とアンジュのお腹が音をたてた。錬金術師はその鮮やかな髪の色に頬を染めた。
「あ、はは。安心したら、なんか」
「昼はいつも食べないって言ったんじゃない」とリゼが言う。
「やっぱ、外を歩いてるとお腹すくもんですね。は、は」
途端、リゼの腹部からも小さな音が聞こえた。笑いを堪える錬金術師を皇女が睨みつけた。
そんな二人の人間の姿が、戌亥の目には少し違った風に映っていた。二人の妹たちが今より幼い頃を思い出していたのだ。よく食べる幼い妹たちのために、彼女は毎日大量に料理を作ったものだった。
「――食べ物はあるんか?」と、本題を脇に置いて戌亥は尋ねる。
「い、一応、お芋くらいなら、少し」と言ってアンジュはバックパックを示した。
「ふうん――」
『子どもがお腹を空かせているのは、世界で一番よくないことだから』。そう言っていたのは、妹たちを迎える前に亡くなった戌亥の母だ。
「――そんなら、食べながら落ち着いて話そか。ちょっと待っとってな」
戌亥はそばの川に目をやると、背負っていた釣り竿を手にとった。
(つづく)