ウマ娘プリティーダービー -PRIDE OF DRAGON- 作:狐火(宇迦之御魂)
スイープトウショウが名立たるライバルたちを制し、宝塚記念のタイトルを勝ち取ってから間もなくしたある日。
チーム《アスケラ》のシーザリオがアメリカンオークス出走の為、アメリカへ渡ったというニュースが流れた。
以前カフェテリアで相席した際にはアメリカ挑戦に不安もある様子だったが、スイープトウショウの宝塚記念に背を押されたのだろうか。
出国前に挨拶をした際、その不安の色はかなり薄れていたようだった。
キングヘイローを帯同し、太平洋を越えた遥か彼方、アメリカはロサンゼルスへとシーザリオは旅立っていった。
それと同時に暦も7月を迎え、トレセン学園は目前に迫る夏合宿とそのニュースで浮足立った空気に満ちていたが。
「先輩、シーザリオと一緒にアメリカ行かなくて大丈夫なんですか……?」
「まだやることがあるからね、キングに任せてしまうのは申し訳ないけど。きっと力になるはずだから」
アスケラトレーナーは未だトレセン学園に残っていた。
チーム《アスケラ》のトレーナールームで、二人のトレーナーがパソコンのキーボードを叩いて大量の資料データや、あるいは書籍類を整理していた。
多くは英語で書かれており、幾つかは日本語で、もしくは訳されたものも見受けられる。
そのどれもがアメリカのレースについて、あるいは海外遠征を行うウマ娘について取り扱ったものだ。
「君から預かった資料は本当に助かった。アメリカ側のウマ娘がどういう戦略を取ってくるか、レース環境についての理解には随分役立ったから」
合同トレーニングを条件に提供した資料、ブレンの両親が長年アメリカや諸外国でレースに挑む中で積み重ねてきた経験と研究の成果を、娘の為になるのであればと提供してもらったものだ。
ウマ娘の肉体にはまだまだ謎が多い。
彼女たちがレースに臨む際のトップスピードは時速70kmにも及ぶ、その速度を人と変わらない二本の脚で実現している。
人間離れした超人的な速度に力、それらを生み出す力の源ははっきりとしていない。
学説によれば、ウマコンドリアというDNAが源泉であるとか、オカルト的な話では別世界に居る存在の魂を引き継いでいるだとか、様々な考察と研究が為されている。
そんな謎深きウマ娘のトレーニングについても、一定のコンセンサスのある内容が基礎にはなっているが、チームによってはその方法が大きく変わるということもある。
それが海をも跨ぐとなれば常識からして変わってしまう部分もある。
敵を知り、己を知れば百戦危うからずとの言葉もあるように、相手ウマ娘についての研究は必須だ。
「ただやっぱり、まだ欲しい。あと一歩、シーザリオを後押しできるものが」
「それで、チーム《シリウス》から昨年のアメリカンオークスの話を聞こうって訳ですか」
「アメリカ側の視点も欲しいけど、先駆者がアメリカで得た経験と反省も知りたいからね」
これまでのトレーナー業の中で培ったノウハウを教える代わりに、現時点で集めたデータや取り寄せた資料の整理を手伝って欲しいと頼まれ、男二人膨大な量の情報に追われていた。
彼らが資料の代わりに見つめるべき担当ウマ娘たちは、まだ日の高いこの時間は校舎の中で学生として勉学に励んでいる最中だ。
彼女たちは日本屈指のアスリート集団の一人であると同時に、まだまだ学ぶべきことが多い子どもでもある。
そんな彼女たちを導くトレーナーは、ウマ娘の抱える課題や悩みに対応できるよう常に学び、知見をアップデートする必要があった。
トレーナー業とはウマ娘の走りをコーチングする指導者であり、多感な時期に過酷なレースへと挑むウマ娘を支え教える教育者だ。
中央トレーナーライセンスが毎年高い倍率で激しい競争になるのは、その志願者の数もさることながら、その試験と課程が難関であるというのも大きい。
スポーツ理論、栄養学、教育学___学ぶべき分野はあまりに広く、深い。
秋川理事長の積極的な設備投資のおかげで、トレセン学園内は空調設備の非常に快適な空間になっていた。
それでも、小暑に入り強まる日差しはじりじりと焼きつくような熱を持ち、そう広くはない部屋をカーテン越しに照りつけていた。
背に感じる夏の暑さを、時折り体を解すのも兼ねて発散させては、また次の資料に手を伸ばす。
「これは……ちょっと古いですね、シンボリルドルフのアメリカ遠征の時のレポートですか……」
「ああ、彼女もアメリカ遠征で辛酸を舐めた身だからね、シーザリオのアメリカ遠征が決まって随分と激励を受けたよ。その時に、力になればとね」
少しの厚みでもって綴じられたその冊子は、手に取ると厚さに比べて妙な重さを感じた。
ここにある資料全てが、これまで日本のレース関係者が海外の壁に挑み、そして破れてきた涙の積み重ねだ。
その重みがわからないトレーナーは、ここには居ない。
「海外遠征におけるウマ娘の故障リスク、シンボリルドルフの事例……」
「いい時間だし、少し休憩しようか。気になるようなら読んでてもらっていいよ、俺は少しチーム《シリウス》に話を聞く日時を相談してくる」
「すみません、ありがとうございます」
ぐっと、一際大きな伸びをしてアスケラトレーナーが立ち上がると、そのまま部屋を後にする。
一人残されたトレーナーの手には『海外遠征におけるウマ娘の故障リスク -シンボリルドルフの事例-』と題された論文のコピー冊子があった。
著者はシンボリルドルフの担当トレーナーのようだった。
「故障か……」
ぼそりと、辟易した声が漏れた。
ウマ娘と故障は切っても切れない物だ。
最高時速70kmを誇る彼女たちの脚は、その力強さと同時に、些細なことで砕けてしまう硝子の脚でもある。
どれだけ気を付けていても、どれだけ調子が良くても、どれだけ輝かしい戦績を歴史に刻みつけていたとしても、硝子にビビが入ることを完全に防ぐことはできない。
それは、レースに絶対はないが、そのウマ娘には絶対があるとまで言わしめた皇帝シンボリルドルフと、彼女を育て上げるような名トレーナーでさえも例外ではない。
史上初の無敗三冠に加え、GⅠ7勝という生きる伝説の皇帝シンボリルドルフ、そんな彼女がアメリカへ挑むと報じられた時、日本のレース界は皆興奮の渦中に飲み込まれた。
かの皇帝シンボリルドルフならば……と、悲願の米GⅠ制覇を誰もが夢に見た。
だがその結果はまさかの、惜敗にもならない着外6着。世間の落胆ぶりは、筆舌に尽くし難い物だった。
加えて、レース後に陣営はウマ娘にとって不治の病である左脚軽靱帯炎の発症を発表。
皇帝の凱旋には程遠い、あまりにも苦い帰国を迎えたのだった。
彼女は今でも生徒会長として後進を導いてはいるが、短いレースローテーションになるトゥインクル・シリーズからは退き、ドリームトロフィーリーグへと移籍し、日本レース界の象徴となっている。
ウマ娘と付かず離れず、死神の様に着いて回る故障。
トレーナーには、その死神からウマ娘を守る役目もある。
逃げ切れるとは限らないが、1日でも長く彼女たちを死神の魔の手から遠ざけること。それはトレーナーにとっての責務だ。
トレーナーの手の内にある冊子には、懸命に死神からの追跡から逃れようとし、そして捕まったウマ娘とトレーナーの記録が記されていた。
故障に至った原因と影響、予防方法の考察、治療における知見など。
その内容は事細かに、未来のウマ娘が同じ思いをしてくれるなという切実な願いと、トゥインクル・シリーズにおける未来が絶たれた事への悔しさに満ちていた。
「最後には祈るしか無いのも、辛いもんだな……」
全てのページを読み終え、冊子を持つ手に力が入る。
レースを走るウマ娘を、トレーナーは全身全霊で支える。
ウマ娘の望みを聞き、夢を叶えるためにトレーニングプランを練り、レースへと送り出す。
それでも、地下バ道でウマ娘をターフへと見送れば、あとはスタンドから祈り応援する以外トレーナーに出来ることは無くなる。
ただ無事に、勝利を掴んで欲しい。それだけを願って。
「随分熱心に読んでたな」
「うおっ、すみません気付かなくて!」
いつの間にか部屋へ戻ってきていたアスケラトレーナーが、コピー冊子を睨み付けるように読んでいたトレーナーに声をかける。
非常に分厚い訳ではないが、詳細に書かれた論文だ。じっくり読んでいるうちにかなりの時間が過ぎていた。
「トレーナーは担当ウマ娘に似るなんて言う人もいるけど、その集中力は確かに似てるな」
「内容が内容だったので、つい力が入ってしまって……」
一度トレーニングコースが被った際のブレンの走りを思い出したのか、周りを一切気にせず自分の世界へと入り込んだトレーナーを見てアスケラトレーナーが失笑する。
「まあ故障は、俺たちトレーナーにとっても一番見たくない物だからな……」
「本当に。自分もシーザリオが無事に帰ってくることを祈ってますよ」
「もちろん、その上で彼女のやりたい事を叶えられるよう全力を尽くすさ」
チーム《シリウス》と情報共有の場を作る算段が整ったのだろう、満足げな表情を浮かべるアスケラトレーナーが宣言する。
彼が席に着き、再び情報を整理し、目標達成の糧へと変え始めた。
キーボードのタイピング音と、捲られるページの音が、ウマ娘を支えるトレーナーの蹄跡を示す。
そんな2種類の音だけが響く部屋に、扉のノック音が足された。
「すみません……トレーナーさん、いらっしゃいますか……?」
「ああ、ブレンか、お疲れ様」
「授業終わったので、呼びに来たんですけれど……」
作業中である様子を認め、室外へ呼び出すことを少し躊躇する。
その様子を見てトレーナーがパソコンの作業状況を保存し、電源を落とす。
「すみません、今日のところはこれで失礼します。データの方は後でメールで送っておきますね」
「ありがとう、助かったよ。担当の子が最優先だ、君たちも頑張って」
「あ、ありがとうございます」
「それでは、お疲れ様でした」
作業を中断させたことを申し訳無さそうにしていたブレンに、アスケラトレーナーがフォローをする。
荷物を片付け、トレーナーがブレンを連れて部屋から出ていく。
廊下には、同じように授業を終えたウマ娘たちがトレーニングに向かうべく、速歩で駆け出していた。
「今日は気温もだいぶ上がって来たから、先にプールトレーニングで、日が落ち始めてからコースに出ようか」
「わかりましたトレーナーさん。水着も持ってきてるので、そのままで大丈夫です」
「準備がいいな、なら人が増える前に始めようか」
ふんすと擬音が付きそうな様子で、学園の指定水着を入れているであろうプールバッグを小脇に抱えたブレンが言う。
梅雨も明け、屋外コースは熱気に包まれている。冷たい屋内プールは大人気になることだろう。
設備利用が争奪戦になる前にと、二人も歩くペースを速めトレーニングへ向かっていった。
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