ウマ娘プリティーダービー -PRIDE OF DRAGON- 作:狐火(宇迦之御魂)
オーナーの安否が心配でしたが、全人馬無事で何よりでした。
京都11Rのシダーが左前脚破行とのことなので、酷くない故障であればよいのですが。
年々暑さを増していく夏の頃。日本屈指のマンモス校でもあるトレセン学園は、普段の賑わいを失い閑散としていた。
宝塚記念を終えた7月から8月末まで、トレセン学園では学校が保有する海辺近くの施設において夏合宿を実施する。
参加は自由だが、海辺の普段と異なる環境で集中的にトレーニングが行えることや、リフレッシュも兼ねてこの制度を利用するウマ娘とトレーナーは多い。
その為この時期のトレセン学園からはごっそりと人の気配が消えてしまう。
「これだけ人が居ないとなんだか不思議な感じですね」
「ああ、その分普段は人が多くて使い辛かった施設も思う存分使える。もうデビューした子たちに負けないように頑張ろう」
学生としての彼女たちも、この時期は休みに入る。
アスリートとしての資質を何にも縛られる事なく、思う存分に伸ばすことができる。
いつもであれば人の居ない場所は無いトレーニングコースだが、今は両手で数えられる程の人数しか見当たらない。
メイクデビューが近かったり、ブレンのように慣れた環境でトレーニングを行いたい者、サマーシーズンレース挑戦のため最終調整に入っているという者も居るだろう。
誰にしても、自らにとって最も良いと判断したが故の選択には違いない。
コース横に設けられた日除の庇の下で、ブレンが入念なストレッチを行う。
軽い
体が温まり始めれば、合わせて運動の段階も強めていく。
ほぼ人気の無いコースにはブレンの気を散らせる物は無い、安心してトレーニングに望める環境が整っていた。
「トレーナーさん、アップ終わりました!」
「よし、それじゃあプラン通り夏の間は坂路、プール、筋トレをメインで体づくりをしっかりしていこうか」
元気の良い返事を受けて、アップに使ったコースを離れ坂路コースへと移る。
ブレンにとってこの夏は秋、ひいては年内には迎えるメイクデビューに向けた基礎体力を付ける期間になる。
夏合宿の終わった秋からはチーム《アスケラ》との合同トレーニングや、それ以外にも併せ練習、模擬レースといった内容を中心に据える。
ジュニア級のウマ娘は本格化を迎え、トゥインクル・シリーズに挑む肉体を完成に近付ける。
だが本格化を迎えたとしても、ウマ娘の脚は硝子に例えられる繊細さだ。
その耐久値に見合わない負荷を加えるトレーニングを行えば、競走人生どころか命にすら関わりかねない。
併せ練習や模擬レースはウマ娘の闘争本能を刺激し、一人では超えられない限界を超えることもある。
それはつまり大きな成長の機会であると同時に、大きな負荷も掛かっているということだ。
トレーニングの基本は体の成長度と負荷を見極めること、よって夏は秋のトレーニングに耐えられる体を作ることが目的になる。
「坂路を繰り返す! 既定タイムの範囲で回数を繰り返すことを意識するんだ!」
「はい……っ!!」
メガホン越しの指示を受け、絞り出すようにブレンが叫んだ。
心肺に負荷をかける坂路コースを繰り返す、血と酸素を多く送ることはそれだけ高パフォーマンスを維持することに繋がる。
時計を出すにしても、しっかりと血と酸素を回せないことにはパワーを発揮しきれない。
練習相手になる面々に喰らいつけるスタミナとパワー、粘り強さを手に入れて欲しいところだ。
ウマなりに坂路を駆け上がることを何本も繰り返す。
最初はまだ余裕があったブレンも、回数を繰り返す毎に疲労の限界によって既定タイムに近づいていき、やがてタイムを超過する。
「既定タイム越えだ! 休憩にするから戻っておいで!」
「は、はいぃ……!」
日陰に入り休憩を始めるブレンに、程よく冷えたスポーツ飲料水が手渡される。
日も高くなってきたことで、暑さは本格的に夏模様だ。
びっしょりとかいた汗が艶のある鹿毛の髪をより濃く見せ、濡羽色にも見えた。
滴る汗はボトルの結露と共に地面に染みを作るが、真夏の暑さにそれらはすぐに乾いていった。
「よく頑張ったなブレン、念の為アイシングを挟んでおこうか」
「えへへ……みんなのレースを見て、僕も頑張らないとって気持ちになって、あと一歩踏み込む元気が湧いてくるっていうか……」
「前向きなのは良いことだよ、この調子で頑張ろうか」
褒められたことで、ブレンの表情が嬉しそうに緩む。
スイープトウショウの宝塚記念、シーザリオの日米オークス制覇、トゥインクル・シリーズで打ち立てられる偉業の連続を見て、ブレンは以前よりも前向きな姿勢を見せていた。
本番への恐怖はまだ消えてはいないものの、挑戦しようとする意思や負けん気のような物は強まっている。
秋のトレーニング、模擬レースの中でこの前向きな姿勢を闘争心の発起に変え、恐怖に打ち勝てるメンタルを身に付けることができれば、メイクデビューへの準備は完璧と言って差し支えないだろう。
少しずつドリンクを流し込むブレンに一声かけてから、トレーナーが薄手のタオルで包んだ氷嚢で脚を冷やす。
タオル越しではあるが、運動後で熱を持った体にはとても冷たく感じたことで小さく高い声が漏れる。
その声にトレーナーが顔を上げれば、ブレンは置いてあったタオルを手に取って、顔に滴る汗を拭い取る。
彼女の白い肌は、ほのかに上気していた。
「かなり長めに叩いたし、もう少し休憩して再開しようか。その後はお昼を食べて、筋トレで終わろう」
「わ、わかりました……」
「うん……? 顔が赤いな、まだ熱が籠ってるなら濡れタオルでも冷却しておこうか」
「あ、いやこれは、だ、大丈夫! 大丈夫です!」
「そう? まあ暑いし、念の為首に巻いて休んでおいて」
クーラーボックスに入った冷水で予備のタオルを濡らし、ブレンの首に巻く。
よく絞って心地よい冷たさだけが残ったタオルが、まだ残る体の熱を吸い取っていた。
時折吹く風も、さらりとした汗と共に篭った熱を攫っていき、その心地よさに目を細める。
「気分が悪くなったりしたらすぐ言って、無理をしなきゃいけない時も来るかもしれないけれど、まだ今じゃない」
「はい、でも本当に今はこう……頑張らないとなって気持ちが大きくて。シーザリオさんのレースももちろんですけど。シーザリオさんの同期のデアリングハートさんも頑張ってるのを見たら、僕も続くんだって思いでいっぱいになったんです」
デアリングハート、間違いなく才能はあるように見えるが、GⅠではいまいち勝ちきれないという印象のウマ娘。
性格としてはかなり強気の、ブレンとは対極に位置するような子だ。
どういう接点なんだろうかという疑問がトレーナーの心中に浮かんでいた。
「なんだか不思議な感じなんですよね、親近感っていうかなんていうか……同じアメリカ出身だからですかね?」
「そういえば彼女もアメリカ出身か、同じ場所に居たっていうならそうかもな」
楽しそうに話していれば、だんだんと汗も落ち着き疲れが抜けてきていた。
ふぅと息を吐き、ブレンが再びコースへと戻る。
疲労を考慮し、既定タイムの幅を修正すれば、もう一度坂路を繰り返し始めた。
「つ、疲れたぁ……お腹の減りも限界です……」
「お疲れ様、お昼休憩にしようか」
坂路ダッシュに、体力のギリギリまで粘ったことで、午前の練習終わりには疲労困憊といった有様だった。
1、2回、粘って耐える程度ならば脚への負担はアイシングやマッサージで補えると判断し、本人のやる気を優先して予定より少し攻めた内容となった午前。
疲労が溜まりブレンはでろりと、溶けたアイスの様にとろけていた。
「トレーニング終わりにそのまま座り込むと後がしんどくなるから、少し歩くよ」
「わかりました〜……」
ベンチに座り込もうとしたところを止められ、クーラーボックスに入ったドリンクボトルを手にしながら2人が歩き出す。
相変わらず学園に人の気配はほぼ無く、閑散とするこの時期を狙って行われるバ場整備や施設点検を行う業者の姿がよく目についた。
彼らもまた昼頃ということもあり、作業車の影などで食事を摂っていた。
「お? 夏合宿の時に生徒さんが居るなんて珍しいな!」
「わひゃあ!? こ、こんにちは……」
「驚かせちまったか! こりゃ悪いな!」
ガテン系らしく、作業員たちが豪快に笑いながら謝意を伝えてくる。
その勢いにブレンは飲まれ気味だ。
「まだデビュー前なので、この夏は使い慣れた施設で基礎固めに努めようと思いまして」
「へえそうか。お嬢ちゃん名前はなんてんだ?」
「ど、ドラゴンブレンド、です……」
「そりゃいい名前だ、練習頑張れよ! お前さんらが怪我しねえようにちゃんと使いやすくしとくからよ!」
「あ、ありがとうございます……頑張ります……!」
終始その勢いに圧倒されながらも、直球に投げられた応援に気分が高揚する。
周りで話を聞いていた他の作業員からも続くように応援の声が飛ぶ。
多くはその場の空気に乗っての言葉かもしれないが、受け取るものにとっては同じ応援の声だった。
「デビューしたらレース見に行くからな! トレーナーさんもしっかり見てやれよ!」
「もちろんです、デビューした際にはぜひ応援してやってください」
楽しげに叫ぶ彼らの声を背に、その場を後にする。
後ろからは、また別の話題で盛り上がる賑やかな声が響いていた。
「びっくりしたぁ……でも、応援されるって嬉しい、ですね……」
「本当にな、でもまだ皆君の走りを見てない。走りを見ればもっと応援してくれる人は増えるはずだよ」
「そうなるように頑張らないと、ですね」
トゥインクル・シリーズにはウマ娘の走りに魅せられた者たちが集まる、そんなファンたちの応援もまたウマ娘の力になる。
ファンを意に介さない孤高のウマ娘も居ないわけではないが、少数派だろう。
彼らも今はまだファンではないが、感じ入る物を走りに見出してくれれば、本当のファンとして応援に訪れてくれる筈だ。
「初めて会った人に応援されるなんて初めてです。あっ、トレーナーさんは別ですよ?」
「今にそんな人たちでいっぱいになるさ、そうさせてみせるのも俺の役目だ」
「なんだか、もっとやる気出てきました。いっぱい食べて午後も頑張るぞ……!」
握り拳を掲げ、やる気に満ちるブレン。
午後のトレーニングに備えるためにもと、意気込みカフェテリアへ歩を進める2人。
カフェテリアに着き『休業中』との掛け看板を目にすることになったが。
「そういえば夏合宿中は営業しないんだった……っ!」
「僕も忘れてた……! うぅ、と、トレーナーさぁん……!」
しっかりと追い込んだブレンの体が、カロリーを、栄養を求めて大きく鳴く。
しかし、空腹の方が勝ったのだろう、ブレンは捨てられた子犬のような目でトレーナーを見上げた。
「とりあえず、今日は近くのご飯屋にでも行こうか!」
すぐさまスマホを取り出し、近くの食事処を探す。
幸いにも都心近辺にあるマンモス校の周辺、飲食店に困る事はなくこの日は事なきを得たのであった。
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