遅くなりました!インフルには気をつけよう!(n敗)
「───」
毎朝見る夢は暗闇で終わりを告げる。
「───」
暗闇の中では、抱いていた想いも理念も無為に包まれる。思考する為の力は削ぎ落とされて、指先の感覚すら失われていく。
眠りを自覚するような、意識がシャットダウンされる瞬間を味わっているような、現実から夢に夢から現実に世界が切り替わっていく時間のような。
「───」
要は、眠たくなる。
暗い場所に居ると、寝たくなる。
全てを置き去りにして、瞼を閉じたくなる。
そんな暗闇の類似品を、スバルは知っていた。
いや、暗闇に辿り着くまでの過程か、それか暗闇の中で過ごした結末か。どっちにしろソレは、暗闇とは切っても切れない縁がある。
「──だーれだ」
視界が、暗闇に包まれた。もしや、その類似品がスバルを襲いに来たのか、そんな不安が降りかかってくるが、今スバルの視界が暗闇に落ちたのは、ソレとはかけ離れた暖かな柔肌によるものだ。
温かな掌のぬくもり、背後から聞こえる年相応の、羽の生えた愛いらしい声。
おおっと──このまま空へ連れていかれては困るので、両足揃えて小ジャンプで振り返る。
朝から電車に乗り、シャーレの部費で購入した自転車を持ち込んでアビドスを爆走したスバルは、校門前で息を整えていたところで、
「随分と早いお出迎えだな、ホシノ」
「スバルが朝から来てくれるって言うから、おじさん張り切っちゃった」
「張り切り過ぎだよ、ずっと校門で待ってたのか?」
「うへぇ〜…うん、そうだね。スバルが来るの楽しみにしてたし」
「──ほんっとに、可愛い奴めっ!!」
熱が篭もる顔を左右に揺らし、ホシノは後ろ手を組んで後ずさる。その後退を逃さず両脇へと手を差し込むと、天高く持ち上げた。
そのあどけなさに鼻先をむず痒くされた礼に、ホシノへ更なる恥ずかしさを味わせる。
「ほれほれ、寂しかったんだろ〜?」
「えへへ…寂しいって、毎日ちゃんと来てくれてるのに…。シャーレの業務は大変だって聞いてるよ?」
「いーや、俺なら寂しくて原稿用紙100枚分の文句を提出してるぜ。相手の事情なんて知ったこっちゃねぇ」
「そんな事したら嫌われちゃうよ〜。おじさん、もう誰にも離れて欲しくないのに……」
「それなら、ホシノから離れられるのが嫌だって思わせなきゃな。ちなみに俺は、俺から誰が離れていっても孤独死しちゃう」
未だ浮き足立ってるホシノの気持ちを、共感を示して地につける。唐突に飛び立ってしまわないように、地面へ割れ物を置くように、怪我の一つ無いように。
すると、前方からジェラシーの匂いが立ち上ってきた。
目に見える訳では無いが、スバルの背筋を死神が一撫でするのが分かる、こちらを見つめ襲おうとする獣の視線だ。
「ん゛゛!゛!゛」
「おぼぐべちょびばっ──!?!?」
「んッ!んッ゛!」
「ごほっ、げふっ、ちょ。シロコ、ストッップ!!」
柔らかい内臓に響く突進にスバルの胃はシェイクされ、身体に土を纏い校庭を転げまわった。暫くは大人しかったが、その分の貯えられたフラストレーションが解放されたのだ。
お預けされていたお気に入りのおもちゃが他猫に奪われているならば、この簒奪もやむなしといったところか。
「ん……」
「ど、どしたの急に。いつもはこんな感じじゃないだろ……?」
「……怖い夢見たから、寂しくなってつい」
シロコが怯える夢とは、それこそキレたノノミでも出てきたかと顔を青ざめる。実質的なアビドスの立場関係はカーストトップのノノミから始まり、アヤネセリカ、その下に二人が佇んでいるのだ。
おかんむりになったノノミは、アビドスで休養中に二人を病室から追い出す際に一度だけ見た事があるが……それはそれは恐ろしかった。
アレが夢に出てきたらとなると、スバルでさえ何の理由も無しにノノミへ茶菓子を贈る。
「どんな夢見たんだ、話してみろよ。んで…もしそんなに、夜も眠れねぇ怖ぇ夢なら…今日の夜はアビドスに泊まり込み!」
「──泊まり込み」
「……なんか企んでない?言質取ったからって、何回もおねだりしちゃダメよ?」
「ん、大丈夫。夢も……怖いというか…夢の中で暗い場所に居た。何も聞こえないのに、何も見えないのに…何処か見つめてた」
「──。しっかりと怖いじゃんか、そりゃまた心に不健康な夢見たもんだ」
これはお泊まりが決定したかと、シロコが期待の面持ちが輝いていた。スバルの仕事事情を知っているホシノが、抑止の為に背を摘む。
当然のように女子高生を指先で持ち上げるその指先に摘まれる服が、どうして破けないのかは甚だ疑問ではあるが、駄々っ子の拘束から逃れ頭を捻る。
──多分、悪夢関係なく泊まり込みになる予想なのだから。
「ワクテカしてる所アレだが、どっちにしろアビドスに泊まる予定なんだよ。リンちゃんに許可取り済み」
「ほんと?良かったねシロコちゃん」
「……一番嬉しいの、ホシノ先輩の癖に」
「シーローコーちゃん?」
「ん」
膨らませた頬をホシノに向け抗議の意を示すシロコに、夕焼けの瞳を細めてホシノは恥じらいを隠す。
軽いため息を吐きながらもう片方の紺碧の瞳で、スバルの来訪の真意を探りに見つめる。
「泊まってくれるのは良いんだけど、何か用事でもあるのかな」
「あー、なんつーか、予感?てか、単にホシノ達に会いに行きたかったじゃダメなの?そこんところどーよ」
「…へ〜ぇ?どうしようシロコちゃん、私達口説かれちゃってるよ」
「ん、据え膳」
二人の瞳が幽玄に揺れる。不味ったと気がつく頃には、スバルの親友だった二人は捕食者へと変わっていた。
お生憎様、これから泊まる場所はそんな捕食者の本拠であるのだが、フライングをされてしまうのは困ると目を四方八方に泳がせて、
「ホシノ先輩!シロコ先輩!!」
「アヤネちゃん…?そんなに焦ってどうし──」
「緊急、緊急です!アビドスの備品が盗まれてます!!」
「───」
その場に響く声を待っていた。
ホシノの両目が大きく開かれる、それは盗まれた事への衝撃であり、自身の怠惰の自覚。
以前であれば起きる筈のない盗難という事件。ホシノが目を光らせるアビドスから、盗みを働くなんて不届きは不可能だ。
平和になったからこそか、気の緩みを余裕と捉えるべきか、思考を巡らせ軽いため息を吐く。
「ナ、ナツキさん…ごめんなさい、せっかく来てくれたのに、今から備品を取り戻しに行かないと…──直ぐに取り返します!それまで教室で…!」
「アヤネ───そこは俺を頼れっての。木偶の坊って訳じゃないし、忙しいってならさ」
立てた親指を自分に向けて、アヤネへ目の前にいる労働力をアピールする。
朝に得た予感の正体に、スバルはとっくに備えをしているのだから、ここでその備えを活かせなければ宝の持ち腐れというもの。
しかしまぁ、こちらを射止める視線が先程よりも強くなったのも考慮するべきなのか。
今度は疑いではなく、純粋な心配と不安を抱えたホシノの目線がスバルを射止めていた。
「行こうぜホシノ、盗人ネズミ達が私腹をでっぷり肥やす前に」
「…うん。何を用意してるかは知らないけど…スバルに任せても、いいかな?」
マッピングは完璧、予知の予想は予測通り。
少し困った様な顔で愛想笑いを浮かべるホシノの頭に手を置いて、胸ポケットからいつものようにアロナを取り出す。
「任せとけ!この依頼シャーレ部長として請け合おうじゃねぇか!」
「ん!盗んだ奴らから身ぐるみ剥ごう、素寒貧にして二度とアビドスに足踏み込めないように」
「こわっ」
■
──ひーふーみ、と手持ちの弾丸の数を数える。
当初は物怖じしていた銃器も慣れれば台所での包丁程度、漸く危険物の取扱にも慣れてきたころだ。
慣れた、と言っても文字通り限られた場所で特定の目的の為に使うのであればだが。戦闘中に装填なんてもってのほかなので、実質的にスバルの使える弾丸は掌の上の三発。
一発一発どんぴしゃり、そんな風に歴戦のガンマンなら過不足ないのだろう。
それが出来ないわけでは無いが、最近部費の乱用で懐事情は氷河期に突入している。人助けを理由に無茶を押し通すのも金が必要。
「という訳で、省エネ最速でよろしく頼む」
「言われなくてもコソ泥に手加減する道理は無いわ!」
怒号にも等しいセリカの声が向けられるのは、スバルが突き止めたコソ泥達。
街中の監視カメラの支配権を握るアロナが見つけたのは、報酬を肴にジュースで乾杯を挙げていたヘルメット団だった。
「チクショーッ!なんで見つかったんだよー!!」
「アレが有れば楽勝って話じゃなかったの!?」
「盗む所までは完璧だったろ!文句言うなって!」
いつかどこかで聞いた事のある様な、無味無臭の決まり文句を吐いて逃走する三人組。
やけにゴテゴテとした装備を付けているせいで、その重量に足を引っ張られ息も絶え絶えに。
脱ごうにも脱げない状況で距離はどんどん縮まって───。
「捕まえたっ!!」
「ぎやぁっ!?」
「もう逃がさないわよこの盗っ人共!さっさと私達から盗んだものを返しなさい!さもないと身ぐるみ全部剥ぐわよ!」
「ぐぇーっ……終わった……ゲームオーバーだぁ…」
捕まったにしては随分軽い感じで自身の敗北を告げるヘルメット団、窃盗強奪が日常になればそれこそ、犯罪行為もゲーム感覚なのだろう。
事実キヴォトスでは犯罪に対しての刑罰は軽い、カンナ曰く罪の重さは『殺意』と『目的意識』、彼女らにとって食い扶持を確保する為の犯罪は意識的にバイトと変わりない。
だからこそ不思議なのは、蓄えの少ないアビドスを狙った事と、ホシノの目を掻い潜って盗みを働けたこと。
「───で」
「お前ら、コレ何処で見つけたんだ」
その秘密は、彼女らが身につける重そうな武装。
見覚えがある、いや見覚えしかないその服装と武具はまさしく『アリウス兵』のもの。
「げっ、ナツキ・スバル…。コレかぁ?何が知りてぇんだよ、教えてやんないけど」
「どう見ても高そうだろ?アビドスから盗みを働く奴らが手に入れられる代物な訳が無い。出処を教えてくれないなら……──へい!シロコ!」
「ん、仕置きの時間だよ。盗んだ分、しっかり返済してもらうね」
「ひっ───!?」
血走った目で三人組を見つめるシロコは、目出し帽を被っており、見た目はまるでシリアルキラー。
仕置き棒といわんばかりに銃を手元でバシバシと叩き、盗っ人ネズミ達に恐怖を植え付ける。
恐怖に屈し、渋々と話し始めるその出だしは『ブラックマーケット』。一般生徒には手が出せない違法な品物が、訳あり煮卵的な理由で安く流れてくる市場だ。
ステルス迷彩付きだと謳われ買ってみれば、アビドスでの一度の使用で充電切れ。
その後はうんともすんとも言わない置物に成れ果てて、その始末にも困っていたらしく、
「そんでさぁ、コレ重たい癖にどうやって充電すればいいのかも分かんないのよ。せっかく買ったし使いわましてぇなーって話してたの」
「……なるほどな」
証拠隠滅までこちらに迷惑をかけられると、流石に物申したくなる。
足が付かない様に、闇市場に中古を流したアリウスの武装をこの三人が手にしたと。
「それなのにこの始末、全くツいてねーな今日は!!この装備も没収だし、次の盗みが面倒…」
「そういうのって、まず盗みから足洗う方向で考えるべきじゃないの?お金が欲しいならバイトでもすればいいじゃない」
「んなクソ面倒な事やってられるか、バイト一ヶ月すんのと強盗一時間が同じなんだぞ?」
「────」
ため息もつけないような溜飲がセリカの口から盛れだしそうになる、真っ当に働く選択肢を面倒の一言で片付けられるのならどれ程良いものか。
自分達が決して取らなかった選択肢、それを易々と繰り返すとどうなるか、コレがその良い例なのかもしれない。
人から疎まれる行為を当たり前だと思えてしまうことほど、残酷な事は無いのだから。
「はぁ……とりあえず、盗んだものは返して。アンタらを許すのはそれから」
「返す〜?何寝ぼけてんだ」
「……はぁ?」
「もうとっくに、アタシらの昼飯代と借金返済に消えちまったよ!お前らの貧相な備えじゃ、明日明後日の飯代にもなりやしねぇ!」
「────」
「──スバル」
「うんまぁ、今回はヤッちゃって良いと思う。反省文も書かせよう」
「へ?」
触れてはいけない怒りの琴線、そのラインを大きく飛び越えてしまったヘルメット団達にかける慈悲なし。暴力、略奪、あらゆる悪逆は自分自身の痛みを伴うものの筈が、キヴォトスでは当たり前に行われる。
それは一重に、引き金を引くだけの苦痛を伴わない行為で犯罪を終えてしまえる世界が悪い。
更生とはまず自分を見つめ直すこと、他責が根本にあるようでは、差し伸べる手も豚に真珠。
当初の予定通りに身ぐるみを剥がされていく哀れな犠牲者三人に追悼を送るのであった。
《…相変わらず、ナツキさんの情報収集能力は凄まじいですね。一体どんな手を使って特定を………》
「日々の積み重ねって奴さ、別に一朝一夕でこんな事出来りゃ苦労しねぇ。それに俺にはアロナが居るし」
《でも凄いよね〜、遺産ちゃん込みでもおじさんすら分からない手口で解決しちゃうんだし》
《ナツキさんって、まだまだ秘密を隠してそうですね〜☆》
「最近の世のブームはミステリアス系!秘密が多い男の方がモテる時代なのさ……!ちなみに俺はその最先端を突っ走る男だ」
《……モテ…ふーん…?》
そこはかとない不満を感じつつ、そろそろ処理が終わったかと三人組に目を向ければ、手持ちの品々をシロコに強奪され涙目で地面に転がっていた。
「奪うのなら奪われる覚悟を持たないと」と、弱肉強食因果応報を教えこんだシロコは、迷彩機能を持つ服を手に取って、
「…迷彩……なら夜に銀行に忍び込んで爆弾を仕掛けられるし、事前に仕込みをしてもバレない。逃げてる途中にも行き先を誤魔化せるし……それと夜這いも──よし、これ貰ってもいい?スバル」
「何言ってんの!?銀行強盗とか駄目だから、後年頃の女の子が易々と夜這いとか言っちゃいけません!」
「んー……」
アリウス謹製の真っ白だった上着は煤汚れて、むせ返る火薬の匂いが染み付いている。
キヴォトス基準でもオーバーテクノロジーな科学迷彩、これを修理すれば今後役に立つ場面があるかもしれない。
確か──ミレニアムだったか。
ユウカの所属している学園ならば、再利用も夢では無いと、未来のスケジュールに組み込んでから、とある懸念を抱く。
「────」
あのげに恐ろしき殺戮兵器、市場に流れてはいけない最悪の爆弾が思い当たった。
確率は極わずか、切り札らしき兵器をそうそう手放したりはしないだろうが、ブラックマーケットに流れてきたものを買ったという彼女ら三人組が身に付けている武装は中々に上等な代物だ。
「警戒するのには越したことねぇよな。シロコ、セリカ、先アビドスに帰っといてくんね?後から追いつくからさ。ブラマにちょっとばかし寄り道してくる」
「ブラックマーケットに?」
「その三人みてぇにヤバそうな武器買っちまってる奴が居ないか取り締まってくるよ、まぁ有り得ないとは思うけど」
「ん、分かった。セリカ、その三人頼むね。私はスバルと一緒に行く」
「了解です!…スバルも気をつけなさいよ?アンタすぐ厄介事に首突っ込んで、こっちの心臓が幾つあっても足りないんだから。無駄に声デカくて目立つし」
「無駄!?」
心外そうな顔をするスバルの肩に手を置き「無事に帰ってきなさいよ!」と喝を入れ、縛り上げた三人組を背中に帰宅するセリカ。
あの三人もたっぷりと反省したのならいつかシャーレに来てもらおう、この世は支え合いこそが重要なのだと、窃盗を止める側に回ってもらわなければ。
「……ああいうの、相手してるんだ」
「スバルも大変だね」
歩いてる途中、唐突にシロコからそう言われる。
大変、大変か、急に言われても何が大変なのか理解するのが遅れたが、『ああいうの』という単語で分かった。
「不良生徒の相手か?」
「うん」
「大変ってワケでもない、別に俺がやりたくてやってるだけだし、むこうの方が……俺に振り回されて、それこそ『大変』だろ」
「ん…?やりたくて…って、どうして」
「悪い成功体験つー奴かな。ほら、シロコ達を助けたみたいに…色んな生徒も、何かキッカケが必要なんじゃないかなって」
「なるほど」
素っ気ない返事からは納得の色は見て取れない、自分達に害を成す相手にチャンスを与えてどうするのか、解消されないはてなマークはそのままだ。
「嫌な奴も好きな人も、給食当番は平等にご飯を盛り付けないとって事。依怙贔屓したい気持ちはぐっと抑えて、並盛にしてあげんの」
「なるほど…!!」
といいつつと、小学生の頃は人気者になる為に不平等な盛り付けをした記憶がある。クラスでの立ち位置を良くするには、賄賂という名の大盛り給食が必要だった。
なんて、経験のあるなしに関わらず、平等は大切。ここのところ、不良達や様々な悩みを抱える生徒たちと関わる中でその重要性を知った。
人間、立場と視点は等しく成れないからこそ、言葉という平等を受け取って貰う為に四苦八苦する。
アリウスの兵にすら救いを願う理由も、まだスバルは彼女らの常識や普通を知らないからだ。平等じゃない、何も知らずに罪を問うのは。
「ん…?ん…」
「だったらどうして、並盛にしてあげようと思ったの?嫌な奴に嫌な事されても、並盛にしてあげるの?」
「────鋭い所突く」
「ん!」
「たっしかに、やられっぱなしが嫌ならやり返すってのも一つの手だ。でも……」
「だからってそんな事したら、明日の夢見が悪くなっちまうだろ──?」
■
──喉に、食べ物が流し込まれる。
『────』
固体じゃない、形を保っていない食品だ。携帯食よりも酷い味がして、胃から逆流したものを飲み込んでいる様な感覚に陥る。
『─────ぉぁ』
ラスクやパンを水で浸して、切り刻んで潰して、ペーストにしたものが喉を通り過ぎていく。
咀嚼という過程を通らずに、形を成さないソレらは口内を犯し尽くす。
逃げ場は無い、胃に負荷を掛け喉を蹂躙し、鼻腔までもが吐瀉物と混じりグチャグチャになったモノで埋められる。
鼻と口を潰されれば酸欠だ、今すぐ呼吸をしなければ死んでしまう。
けれど酸素の出入口はこの汚物達で───いや、
『食べて』
手で、覆われていた。
飲み込むしかない、飲み込む以外に選択肢が無い、だから必死に喉を動かそうとしても身体が拒絶する。
拒絶する身体は、ソレらを飲み込む事を許してくれないのに、
『食べて』
言葉を紡ぐ者はただ、食べる事を命じ続ける。
非道に思える行動は罰だったのだろうか。
飲み込まされている人間が何か、こんな拷問染みた所業をされる謂れがあるのか。
それならばまだ良かった、罪を改め贖罪をし、改心をすれば解放されるのだから。
涙を流し許しを乞えば、何か揺らぐものもあったのかもしれない。
『──食べて』
───しかし。
縛り付けた男の前で屈み、食事という名の責め苦を拒否し続ける男の口に手を当てる理由が、優しさであるのならば。
そこに終わりは無い。
愛がその手を離さない、優しさが狂っていく全てを包み込んでいた。
死んで欲しくない、食事をして欲しい、ただそれだけの想いが行動原理であるのならば、冷たい目でこのヘドロの様な食べ物を飲み込ませ続ける行為にも意味がある。
『……偉いね』
数分、数十分、ほんの少しの隙間から入ってくる酸素だけを頼りに、粘液を垂れ流しながら必死に生へ縋り付く。
指に絡みつくペースト状の食事に、活力の無い目で縋って、必死に。
『食事』を強要されていた男は、本来死を望んでいた筈だった。
与えられる食事を拒否し、水分を拒み、すぐにでも死んでこの世から居なくなってしまおうとしていた。
だが朦朧とする意識の中で、男に届くたった一人からの声が男を生かす。
妄執ともいえる生存命令───小鳥遊ホシノは、決してナツキ・スバルを死なせない。ひたすらに愛をこめて、憎悪を込めて、殺意を込めて、ナツキ・スバルに『生存』を続けさせる。
『……』
『生きて』
復讐であり恩讐。執着であり偏愛。
救うべき全てを簒奪されて許せるか?救ってしまったが故に未来を奪って、歪めてねじ曲げて、
『生きて』
アビドスを捨て、過去を捨てて、守るべきものを手放して、何もできなかった自分とはかけ離れた、完璧な人間を啄んだ。
その手足の腱を切り、あまつさえその身を穢していた。
喜ばしい事だ、価値があると信じているものが自分の思い通りになるのは。全てを知った顔をしていたくせに、何もかも足りていない顔をする相手の自覚を引き出すのは楽しい。
『生きて』
──私は託した。
結末を、未来を。小鳥遊ホシノが抱くはずだったアイデンティティを。頼ってしまった、任せてしまった、自分に嘘をついてまでナツキ・スバルを頼った。
そして目の前で、この男が死のうとした瞬間、押さえ付けていたモノは溢れて零れた。
暗い狭い密室で、誰にも見つけられない場所で餌を与え続ける。自害を働こうとした男への罰は、その命を続けさせる事で完結する。
最初は守るつもりだった、全員を救っておいて、あんな目をしながら死に向かうなんて誰もが許さなかった。
今、虚ろな目をしているこの男が、こんなザマになるまでにどれだけの摩耗があったか。
『生きて』
暴れるから手足を縄で縛った。
舌を噛んで死のうとするから布を噛ませた。
頭を壁に叩きつけるのを止めない彼の身動きを封じた。
泣きながら死を乞うても許しはしなかった。
その自傷の理由が誰一人分からずに、ナツキ・スバルは遂に凶行を働く。
最初で最後の、ナツキ・スバルの盛大な自爆は、身を呈したチナツの手によって防がれた。
『───』
『生きて、償って』
虚無に染まった顔を手で持ち上げて、目から流れる体液が触れ合う程に近づける。
壊れたフリをして、いつまでも死のチャンスを待っている目は、どこまでも暗闇の中で輝いていた。
そんな瞳に、いつまでも虜になる。
自分の憎しみを都合よく重ねる。
自分が出来なかったことを成したから。隔離という名目で彼と二人っきりになってからだと良く分かる、ナツキ・スバルはとっても優しくて、純粋に人の願いを叶えようとする頑張り屋の少年、アビドスを救った英雄の姿とは遠くかけ離れた、唯一人の子供。
だから手放さない。もう二度と。
ユメ先輩の時の様な過ちは、もう二度と。
『君の事が理解出来るようになるまで、私が一緒に居るよ』
『だから、ここにいて』
『もう私には君しかいなくて、君にも私しか居ないんだからさ』
『ずっと、ここに』